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 2002/12/22 『塵よりよみがえり』 レイ・ブラッドベリ 中村融訳 河出書房新社

高校時代、SFに詳しい友人がいて、すすめられるままに読み始めた中に、一人毛色の変わった作品を書く作家がいた。その頃のSFといえば、宇宙を舞台にした科学的な未来世界を描いたものが多い中にあって、屋根裏部屋や地下室に棲む人とも幽霊ともつかぬうから族のことをまるで自分の身内のことを話すような親しげな筆致で描いた短編のいくつかは不思議にこちらの胸に響いてきた。それが、SFの抒情詩人と呼ばれたブラッドベリとの最初の出会いだった。

当時はSF作家に分類されていたが、ミステリも書けば、ファンタジーも、ホラーも書けるブラッドベリは、これらの分野の始祖E・A・ポオの衣鉢を継ぐ正真正銘の後継者であるといえるだろう。そうは言っても当然、その持ち味はちがう。ゴシック・ロマンスを脱構築したポオの作品が、「早すぎた埋葬」を通奏低音に持つ死と恐怖の色濃い「グロテスクのアラベスク」だとしたら、同じ怪奇と幻想を描きながらもレイのそれは、朝露を帯びた丘の夜明け前の大気の記憶を憧憬する死から放擲された一族の悲哀に満ちた吐息のような作品群である。

『塵よりよみがえり』は、レイの所謂「エリオット一族」物の集大成で、最初の構想は1945年に始まり、2000年にようやく完結した。その間55年、なんという超大作かと思うだろうが、何のことはない200ページほどのそれもほとんどが短編を集めたものである。次々と湧き出てくるアイデアや饒舌すぎるほどの引用、絢爛たる比喩、奔騰する語りの文体は、長編向きではない。ポオに似て、本質的に短編作家であるレイが、一族の物語を書くために採用した変則的なスタイルは、すでにアンソロジーに収録されたいくつかの短編を、短い、時には散文詩かとも思えるテキストで各篇をつなぎ、序章と最後の一編を添えてまとめたものである。

主人公の少年ティモシーは、魔物や幽霊が棲みつく館の前に捨てられていた館で唯一人の人間である。館には四千年前のファラオの娘のミイラである「ひいが千回つくおばあちゃん」や、眠りを通してあらゆるものの中に心を飛ばすことのできるシシー、それにハロウィンが来るとやってくる緑の翼を生やしたアイナ―おじさんなど、魅力的な人物(魔物)が溢れている。北イリノイの丘の上に立つ古ぼけた館に棲む一族と、ハロウィンの夜に集まってくる世界中に散らばった眷属の、「創世と没落、冒険と災難、愛と悲しみ」を描いたのが、この物語である。

エリオット家の一族は、作者の一族をモデルにしているとあとがきにある。ブラッドベリに色濃い幼年回帰志向がここでも物語の基調となっている。極度に感受性の強い子どもだったろう少年時代のレイが、自分一人が一族の者とは違う存在だと感じていた違和感が、家族や一族を魅惑的な愛すべき魔物として描き出させたのだろう。一族の没落とそれに寄せる作者の愛情は一読後強く胸を打つ。喪われて二度と再び戻らないものながら、自分の中にいつまでも残る原風景を描いた、これは極めて変わった形のしかし哀切な美しさを纏った年代記である。

表紙の絵は故チャールズ・アダムズ。海辺の丘に立つ館に集まって来る魔物たちの絵がブラッドベリの世界と絶妙のコラボレーションをなしている。ただ、タイトルまで控えめにして原画を生かしておきながら、バー・コードで折角の絵を隠しているのが解せない。可惜の憾が残る。

 2002/11/30 『東京の忘れもの』 村木与四郎・村木忍 晶文社

スケッチという技法が好きだ。島崎藤村の『千曲川のスケッチ』や、W・アーヴィングの『スケッチ・ブック』などは、内容よりその題名に惹かれる。丹念に時間をかけ、全体を見据えた上で構築された作品よりも、ふと目にした物をさりげなく書きとめたといったものに心惹かれる。首尾結構が整い、どこにも隙がない完成品は、居ずまいを正して向きあうことを要求されているような気がして億劫だが、スケッチにはそれがない。何気ない線の強弱や色彩の濃淡に作者の息づかいが読みとれるのも楽しいものだ。

『東京の忘れもの』の中には、1950年代の東京の風景が、二人の目と手を通して丹念に記録されている。多くは、ペンや鉛筆によるスケッチに淡彩を施したもので、焦土に建つバラックや、長屋などの木造住宅、横町の盛り場、芸者置屋や鰻屋の店内、張り紙や看板等が、書かれている文字や値段まで克明に写されている。「生活で当たり前に使うものこそ消えていくんです。当たり前のものは誰も残そうとしないから。だから、時間がたてばなくなっていくだろうなと思ったものや風景は、スケッチに残しておかなくちゃと思いました。」与四郎の言葉である。

村木与四郎という名前は、映画好きなら黒澤映画の美術監督として、何度も目にしたことのある名だろう。黒澤明のリアリズムに対するこだわりは夙に有名だが、画家を志したこともある黒澤が美術を重視したのは当然である。「神は細部に宿る」という言葉がある。家の壁板の幅、飲み屋の品書き一つにも時代が出る。村木与四郎が、妻の忍と書き溜めたスケッチは、その初期から最後の作品に至るまで黒澤の映画美術を支えてきた。

それにしても、何とも心に沁みる風景である。焼け跡と言えば、黒澤にとっては関東大震災のそれであり、村木にとっては戦後のそれで、微妙に食い違ったというエピソードが語られているが、焼け跡は別にしても、トタン屋根のバラックや、手押しポンプ。下見張りの板壁に被われた木造家屋の上の物干し台、荷物を運ぶ船を浮かべた川沿いの風景と、東京に限らない戦後まもなくの日本の風景がそこかしこに息づいている。

古い日本映画を見ていて、そこに映し出される日本の町や村の風景の佇まいに胸うたれるような傷みにも似た憧憬を感じてしまうことがある。懐旧の念ではない。画面に映し出される風景の中にある不思議な明るさが心に響くのである。そこでは人と風景が互いに繋がれていて過不足がない。翻って現代はどうか。情報や物は溢れていながら、人々は互いに孤立し、世界とは自分たちの手のとどかないところにあるもののような気がしている。自分と地続きのところにある世界を感じさせる風景は例え貧しくとも底抜けに明るい。長い滑り台に乗っているような今の日本だが底の底まで落ちないと、あの明るさには出会えないのだろうか。

 2002/11/17 『日本人の住まい方を愛しなさい』 山口昌伴 王国社

私事に渉って恐縮だが、我が家は所謂プレハブ工法で建てられ、築20年を越える。この夏、屋根を覆う工法で葺き直したばかりだが、担当者に拠れば、本瓦以外の屋根材は劣化が速く、これでもう大丈夫とは保証しかねるとのことだった。それなら何故本瓦で葺かないのかといえば、高価なことはもちろんだが、屋根勾配の取り方が本瓦とプレハブ建築の多くが採用しているコロニアルベストでは異なっているからだ。つまり、プレハブ建築の屋根は20年しか保たないのだ。

借金をして家を建て、やっとローンが終わったと思ったら、外壁の再塗装、雨樋交換、浴室の改装と何年かごとに百万円単位で出費がかさむことになるのがプレハブの現実である。若気の至りでプレハブ会社を信用したこちらが莫迦だったと言えばそれまでだが、家というものは、いつからそんなにも脆く毀れやすいものになったのだろうか。親の代に在来工法で建てた家は、古びながらも何度もの台風を乗り越えてまだ矍鑠としているというのに。

「日本は近代に入ると、居住様式にしろ台所の型にしろ、『近代化』を目指すことになり、江戸時代後期に完成されていた旧日本型を見捨てることにした。そこで、新日本型を創出しよう、とするんじゃなくて、西洋型を取り込もうという路線をとった。これが誤りだった」と著者は言う。しかし、これは、何も居住様式に限らない。日本が取り入れた西洋式というものの正体は凡そ本当の西洋とは似て非なるものだった。

南欧風や西班牙風のプレハブ建築は外から見れば確かにそれらしく見えるが、壁は木の軸組や軽量鉄骨を間に挟んだ太鼓張りのスカスカで、銘木の表皮を極端に薄く剥いだものを合板に貼りつけただけの板壁は、本物の持つ質感に遠く及ばない。法や政治のあり方から経済活動に至るまでこの似非西洋式がはびこり、本来創られねばならなかった新しい日本の生活様式が等閑に付されてきたことが現在の日本の低迷ぶりを生んだというのは筆者の実感であるが、話を元に戻そう。

著者は台所を基点に定め、日本型の住まいのあり方を探っていく。ネパールやインドに日本型台所の原型を見る著者の提言は、自然と前近代型のものになる。水道の蛇口を流しもとから遠ざけ、いちいち汲み置いた水を使うことで節水を図るという考え方にも見られる、環境やエコロジーを主唱する人たちに特徴的な「反近代」性が現実に説得力を持つかどうかは意見の分かれるところだろう。

それは別として、「仕舞うと見えなくなる=無くなるのをさけるために出しっぱなし。これが日本人の収納特性」だという話は、我が家にもぴったり当てはまる。更には、文末に至るまで態度を明らかにしない日本語構文と料理店の作りを比べて「まず入口があいまいで半身を入れても、出てこられる。内に入っても居すわるかどうかは保留していられる。料理を一品とって酒を一本、それで出てこられる」ところなど「日本の空間の構成は日本語の構文とそっくり同じ」であると指摘するくだりには思わず膝を打った。

そういう時と場と場合の選択の余地が我々日本人にとって精神的なやすらぎをもたらしてきたのだが、いまどきの和風洋式にはそれが無い。日頃使っている日本語構文と住空間の食い違いが現代人のストレスの一因だろうという指摘はすとんと腑に落ちる。建築談義の形をとった日本人論として読んでも、随所に卓見の光る好著である。

 2002/11/5 「古代バクトリア遺宝展」 MIHO MUSEUM

新聞の片隅に載った小さな記事がふと目にとまったのはほかでもない。その展覧会が開かれていたのが前々から一度は行ってみたいと思っていた信楽だったからだ。山間の里はすでに紅葉がはじまっていた。黄や赤に色づく林の中の道を通り抜けて信楽の町に入っていくと、トレードマークの狸の像がどの店の前にも立ち並んでいた。会場となる美術館は市街地を抜け、車でさらに二十分ほど走った山の中にあった。

ルーブル美術館の中に硝子製のピラミッドを造ったことで有名なI・M・ペイが設計した美術館がこんな山の中にひっそりとあるなんて。入場券売場でチケットを買い、展示会場の在処を探していると、本館はトンネルを抜けた向こう側だと聞かされた。吹き抜ける風の挨拶を受けながらトンネルを抜けると、今度は深い谷に懸けられた吊り橋のお出迎えだ。陶淵明の桃源郷をイメージして造られたというだけのことはある。まるで掛け軸の中の世界に迷い込んだようなものだ。

それにしても美術館らしきものはどこにも見あたらない。橋の向こうに見えるのは透明な硝子でできた入母屋造りの建物ばかり。玄関から素通しになった向こう側全面のはめ殺し窓には遠くの山々を借景に絵のような枝振りの木が一本虚空に枝を伸ばしている。狐に抓まれたような気持ちで中に入ると、階段が地下に続いていた。建築規制を逆手にとり、山を削って建物を建て、完成後再び山を埋め戻したものだという。壺中天を地でいくような意匠に眩惑された来館者はすでに建築家の術中にはまっている。

「バクトリアは、現在のタジキスタン、アフガニスタンとウズベキスタンの国境周辺にあたり、古くから地味豊かで黄金の豊富な所として知られ、様々な民族や文化が交錯し」たところと、図録にある。特に紀元前3世紀に独立したバクトリア王国はギリシア人を王に頂き東西文化の混交による独特の美術品が出土している。展示品は黄金の装身具やリュトン(動物の角あるいは頭部を象った杯)をはじめ皿や杯などの食器類、アポロやヘラクレスの彫像とおよそ300点に及ぶ。

学生時代、美術の時間に唐草文様が東西文化の交流を示す徴だと教えられたのを記憶しているが、ロータス・パルメット文やロゼット文などの杯を見ながらそのことを懐かしく思い出した。企画展が開かれている南館には他にも世界最大のガンダーラ仏やエジプトのホルス神像、ササン朝ペルシャの浮彫などが常設展示されている。数は多くないがそれだけに厳選された逸品揃いである。北館で開催中の記念展(中国・朝鮮・日本)にもそれは言える。中国の仏三尊像、李朝白磁や青磁、日本美術では若沖、応挙などの絵画や光悦、乾山をはじめとする茶陶の名品も多い。

山の奥深くに分け入ったところにある地中深くに蔵された建築の中で観る宝物の山、まるで夢のようなひとときを過ごした訳だが、日が経つにつれ、これだけの建築と収蔵品を誇る美術館が忽然と五年前に信楽の山の中に現れたこと自体が不思議に感じられてきた。今では、次に訪れたとき果たして見つけられるのだろうかと、覚束ない心地さえするのである。

 2002/10/26 『ヴェネツィア 水の夢』 和田忠彦 筑摩書房

「イタリア」、「詩人」、「書店」と三つの単語を並べたら誰を連想するだろう。須賀敦子さんを思い浮かべた人が多いのではないだろうか。その須賀さんについても一章で触れられているが、これはまた別の著者の本である。それにしても、『ヴェネツィア 水の夢』という書名は『ミラノ 霧の風景』と、あまりに似ていやしまいか。短文を多く集めたエッセイ集だが、ヴェネツィアについて言及している箇所はほんの少しである。他にもっと内容にあった書名が考えられなかったものだろうか。

著者は、ウンベルト・エーコやイタロ・カルヴィーノの翻訳家として知られている。卒業論文を書くためにイタリアに渡ったのをきっかけに、様々な詩人や作家の知遇を得、カルヴィーノが日本を訪れたとき、そのガイド役をしたり、エーコに招かれて毎年ミラノにあるスフォルツェスコ城近くの自宅を訪れたりするなど、まことに羨ましい体験を持つ。その著者がボローニャをはじめとするイタリアの古い町に住む、詩人や作家を訪問したことを書き綴ったものが中心になっている。

特にこれといったとっておきの話があるのでもない。さすがに、エーコや、カルヴィーノ、アントニオ・タブッキといった著名な作家達については、単なる訪問記ではなく、その作品や人となりについて、作者の近くにいる者にだけ分かるエピソードなどを鏤めて、現地取材でしか伝えられない微妙な匂いのようなものを伝えることに成功している。しかし、登場する多くのイタリアの詩人や作家はイタリア文学に堪能な人でなければほとんど知ることもないだろう。

それだけに、知らない町の古書店で、ふと手にとった詩集の名も知らない詩人の詩句に思いがけない懐かしさを感じたときのような静かな感興が、読後しみじみ込み上がってくる。須賀さんの文章に引かれてウンベルト・サバの詩集を読んだように、この本を読んで登場する詩人や作家の本を手にとる人がきっといるにちがいない。林達夫がルネサンスはじめ西欧文化のチチェローネ(水先案内人)であったように、いつの時代にも我々初心者を導いてくれる人や本が出てくるものだ。

一つだけ誤りを指摘しておく。著者が苦手だというローマについて語る中で、映画『ローマの休日』の監督をビリー・ワイルダーとしている(初版第一刷)が、もちろん、これはウィリアム・ワイラー監督でなければならない。書き下ろしでなければ単行本化する時点で訂正しておくべきところであろう。フェリーニやルキノ・ヴィスコンティについての言及もあり、著者が映画についても関心を持っていることが分かるだけに残念である。

 2002/10/22 『シェイクスピアの文化史』 岩崎宗治 名古屋大学出版局

つい先日、平幹二朗演出、主演による『リア王』を見てきたばかりである。正直なところ、あまりおもしろいとは思えなかった。『リア王』はこんな芝居だったろうかという疑問が残ったくらいだ。面白く感じられないのは演出や役者の技量によるものもあろうが、一つは作品の伝えようとしているものをこちらが理解できていないこともあろう。16世紀、グロ−ブ座の立ち見席の観客なら、きっと、頷いたり腹を抱えたり、涙を流したりしたはずなのだ。

『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』という美麗な本がある。時祷書というのは、カトリック教会公認の典礼書に対して、世俗のキリスト教徒のために作られた祈祷のための本である。この時代、貴族達は競って美しい時祷書を作らせたのだが、16世紀初期のオランダで刷られた<さかさま世界>版画にはその時祷書に描かれた絵柄を逆転させたものが数多く含まれている。16世紀は、時代を担う勢力に揺らぎが生じた時代である。<さかさま世界>版画はそうした価値観の転倒を物語っているのだが、実は『リア王』には、その図柄そっくりの場面が数多く登場するのである。

『リア王』は言うならば「さかさま世界」を劇化したものである。道化の語るのが真実で、王の言葉は狂人の戯言。庶子は讒言が効を奏し権力に上りつめ、本来後を継ぐべき嫡子は癲狂者に身を窶し裸形で荒野を彷徨い歩く。忠義の臣が放擲され、陰謀家ばかりが領内を席巻する。<さかさま世界>版画という視点を導入することで、このあまりにも図式的な反世界がひとつの定式に則っていることが明らかになる。少なくとも同時代の人々は、この倒立した世界をリアルな物として受けとめたであろうことはまちがいない。

同時代に流布した様々な図版や意匠を引きながら、イコノロジーの方法を駆使して著者はシェイクスピア劇を読み解いていく。今までのシェイクスピア劇についての論考では知り得なかった言葉や仕種、衣裳に隠された寓意が、著者の持ち出す貴族のエンブレムや民衆の版画、さらには城郭建築の間取りから明らかになる。テクストだけでは読むことができなかったあてこすりやほのめかしが、その時代特有のコンテクストを知ることによって、まるであぶり出しの技法で書かれた文字が火の上にかざされた時のように劇の前面に浮かび上がってくる。

それは、翻って、シェイクスピア劇から時代を読むことにつながっていく。プロテスタントとカソリックの確執、「囲い込み」によって土地を奪われた農民達の放浪。貴族階級に代わる産業資本主義を支える資本家層の台頭などを、シェイクスピアの芝居から読みとることができるのである。著者のとり上げたテーマは、「家父長制、セクシュアリティ、結婚、社会変動、商業資本主義、王権思想、宗教改革、個人主義の誕生」など多岐に渉る。また、すでに述べた<さかさま世界>ブロードシートをはじめとするカーニバルや魔女などの民衆文化についても深く切り込んでいる。

『ロミオとジュリエット』に代表されるシェイクスピア作品は映画や演劇において今日でも数多上映、上演される。たしかにすぐれた作劇術や人間心理の洞察力において、いつの時代にも通用するのがシェイクスピア劇である。しかし、一度読み誤れば通俗的な恋愛劇や復讐劇とのみ受けとめられる側面も持つ。現今の詰まらぬ芝居を見るくらいなら沙翁の劇を見る方が数層倍面白いのは保証するが、それだけではもったいない。初期近代イングランドというコンテクストの中に置いてみるとき、シェイクスピア劇の面白さは際立つ。図像学的知識を自家薬籠中の物として劇場に赴くとき、日本の地方の劇場はロンドンのグローブ座に変じることだろう。この本を読んでから『リア王』を観れば、感想もまた変わったかもしれないと悔やんでいるところである。

 2002/10/6 『日本仏教曼荼羅』 ベルナール・フランク 仏蘭久淳子訳 藤原書店

ずっと以前のことである。出張でビジネスホテルに泊まった際、生憎手持ちの本がなく、備え付けの和英対訳の仏典を読んで無聊を慰めたことがあった。ところが、これが案に相違して面白く、結局最後まで読み通してしまったのだ。人は何故生きているのか、どう生きていけばいいのかというふだんから漠然と感じていた疑問についての極めて実践的な思索の跡がそこに示されていた。

浄土宗の寺の檀家に育ち、小さい頃から花祭りや百万遍等の行事を通じて親しんできたお寺では、知っての通り「南無阿弥陀仏」と唱える。ひたすら名号を唱え一心に阿弥陀仏を念じることで西方浄土におられる阿弥陀仏の膝元に生まれ変われるという専修念仏の信仰はある意味単純なもので子どもにも理解できるものではあったが、あらためて知った仏陀その人の思考とのあまりのちがいに驚かされた。同時にインドから中国経由で渡来した仏教が、時代や日本の風土の中でいかに形を変えていったのかということにも興味が湧いた。

それ以前から、仏像彫刻に惹かれるものがあり、機会があるごとに奈良や京都に出かけては寺や美術館で仏像を観ることを楽しみにしてきた。寺僧の説教や解説書等を通じて仏像の示す身振りや持ち物の意味がわかってくると、なおいっそう興味が増した。しかし、一口に仏像彫刻といっても、本来インドの神であったが仏教に帰依し、今は仏教の守護神となった天部その他の諸神を含めればその種類は無数といってよい。これらを初心者にもよく分かるように分類整理し解説してくれる書物はないものかと長年探し求めていた。

待つこと久し、ベルナール・フランクの『日本仏教曼荼羅』が出た。図像学(イコノグラフィー)という学問がある。主にキリスト教美術を中心とする美術作品の意味・内容に関する研究・学問を指すが、その研究方法を仏教美術に適用し、日本仏教の多数の神仏像を読み解いたものが、この書物である。特徴的なのは、帝釈天や毘沙門天、妙見菩薩、愛染明王とあまり主役になることの少ない諸尊を詳しく解説することで、曼荼羅の言葉通り数多の神仏が集う仏教世界の多様性が浮き彫りにされていることである。

訳者あとがきでフェルナン・ブローデルとの関係について触れられているが、日本中の寺を歩いて仏像の絵札を探し求める著者の方法は、これまであまり取り上げられることのなかった民衆の生活に目を向けたアナール派の歴史学にも似て、文献だけを資料にした学者の書く物とは一線を画す。日本という国の中に空気のように浸透している仏教のイコンを再発見していく件やギメ美術館所蔵の彫刻が法隆寺の失われた勢至菩薩であることを発見する件など、推理小説を読んでいるような興奮を味あわせてくれる。

序文がまた素晴らしい。長年に渡る論文その他を編集したものであるため、聊か統一感を欠く憾みもある本書に蔵された価値をみごとな手捌きで示してみせるその書き手は誰あろう、あのクロード・レヴィ=ストロースである。「国中を廻り、寺々を探訪し、信者たちに頒布される製造の絵の中に忘れられたシンボルを解明し、哲学と同様に民衆の文献にも関心を持って収集し、フランクは読者を実に興味深い、そして意外性に充ちた知的冒険に引き込んで行く。」この稀に見る碩学に対する敬慕の念に溢れた懇切丁寧な序文を読んだ後では、書評など書けるものではない。本文は愛妻の手になる親しみやすい日本語であることだけ付け加えておく。

 2002/10/5 『寝ながら学べる構造主義』 内田 樹 文藝春秋

新書というものは誰にでも分かるように書かないと売れない種類の本である。こみ入った話は避け、できるだけ平易な言葉で語ろうとする。だから、読みやすいのは当然で、あっという間に読み終えることができる。それだけに読み応えの方はあまり期待できないといったものが多い。ただ、話題が「構造主義」である。どれだけ平易な言葉で語ることができるのだろうか、という興味で読み始めた。結論から言えば、極めて分かりやすい構造主義の解説書でありながら、読み物としての面白さも併せ持った格好の入門書足り得ている。

ただ、現代は「ポスト構造主義の時代」と呼ばれて久しい。なぜ、今頃「構造主義」なのか。それについて内田は、「ポスト構造主義の時代」とは、決して構造主義的な思考方法が廃れてしまった時代ではなく、むしろ構造主義の思考方法が「自明なもの」になり、誰もがその方法を使って考えたり話したりしている時代であるとした上で、そういう「自明なもの」だからこそ研究する意味がある。なぜなら、学術という仕事は「常識として受容されている思考方法や感受性のあり方が、実はある特殊な歴史的起源を有しており、特殊な歴史的状況の中で育まれたものだということを明らかにすることだから」だと言う。

ここを読んで「あれ、どこかできいたような気がするぞ」と気づいた人がいるかもしれない。そう。実は、こういった切り口で、それまで自明と考えられていた物事について、その起源を探り、それらが、自明でなかった時代が巧妙に隠蔽されていたことを暴いていったのがフーコーら構造主義者と呼ばれる人たちだったのである。つまり、内田は構造主義についての解説書を書くのに構造主義的な思考方法を用いることで、その意義を語っているのである。

構造主義とは何か。少し長くなるが内田の言葉を引用する。「私たちは常にある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け容れたものだけを選択的に『見せられ』『感じさせられ』『考えさせられている』。そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもない。」

見事な要約と言えよう。ふだん自分が考えたり、文に書いたりしていたことをこうまで的確に説明されると、何だ自分は構造主義者だったのか、と妙に納得させられてしまう。そうなのだ、意識するにせよ、しないにせよ、私たちはすでに構造主義のただなかにいるのである。なあんだ、そうだったのかと思った人はここで本を閉じてもいい。構造主義についてはこれ以上の解説はない。後は、構造主義的な思考方法を準備した先駆者達、つまり、マルクス、フロイト、ニーチェの果たした役割と、始祖ソシュールに始まる構造主義の「四銃士」達、つまり、フーコー、バルト、クロード・レヴィ=ストロース、そしてラカンの思想の解説にあてられている。

ただ、その解説のために準備された譬えがなかなか秀逸である。映画や能、狂言、童話まで駆使して解きほぐされる構造主義の「四銃士」たちの話はそこだけを読んでもおもしろい。慎重に選び抜かれた引用から、それぞれの著作にあたってみるというのもいいだろう。ラカンだけは、たしかに少し難解だが、それ以外の著者の文章は翻訳でも充分に理解できるはずである。個人的にはフーコーの『監獄の誕生』や『狂気の歴史』を読んだ後の「自明なもの」がぐらぐらと音立てて崩壊してゆくときの感覚が忘れられない。それは今に至ってもずっと続いていて、ものを考えるときの礎石になっている。
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