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 2001/11/29 『百年の孤独』 G・ガルシア・マルケス著 鼓直訳 新潮社

物語自体はさほど難しいものではない。南米のマコンドという架空の村を舞台にホセ・アルカディオ・ブエンディアとウルスラの二人の夫婦に始まる五代のブエンディア一族とマコンド村百年間の歴史を描いたものである。ただ、やたらと同じ名前の人物が登場するのには混乱するかも知れない。男はすべてアウレリャノかアルカディオなのだ。そのうちの一人、アウレリャノ(大佐)が作る魚の金細工が、完成しては鋳直され、またもとの材料になって新しく作られるのを待つように、男たちは何代生まれ変わっても同じ行動をとる。名前が同一なのはそれを象徴しているのである。

原初的な楽園として始まったマコンド村に、分裂の危機を持ち込んだのはジプシーの物売り、メルキアデスだった。それまで、一族の長として有能な働きを見せていたホセ・アルカディオ・ブエンディアだったが、メルキアデスの持ち込む文明の利器(知の世界)に魅せられてしまう。それと対照的にウルスラは、メルキアデスに心を動かされない。大地に根を張ったように一族を切り盛りしていくウルスラにとって、メルキアデスの持ち込む磁石や望遠鏡は単なるがらくたに過ぎない。

ウルスラに限らず、この一族の女たちにとって、世界と自分の間に分裂はなく何が起ころうとも、まったく動じない。それとは裏腹に男たちは、自分と世界とを分離する。男は二種類に分かれる。外部の世界の中に「力」を求めて、外に出ていこうとする者がいる。それは、反政府運動であったり文明の象徴たる鉄道敷設事業であったりするが、世界を変革することで自分の権力欲を充たそうとする動きである。一方で、内部の力に惹かれる男たちがいる。「知は力なり」という言葉通り百科全書的なすべてを理解したいという力、世界を認識する力を得たいと願う者たちである。屋敷の庭にメルキアデスのために建てられた錬金術のための実験工房は彼らのためにある。一族の五代にわたる苛烈ともいうべき試練は、男たちのこの二つの面に渉る悪戦苦闘と、そんなものに見向きもせず、愛を求める女たちとのすれ違いの歴史でもある。

意味という病に冒されてしまった近代以降の人間である我々は、このいかにも神話的な物語の中にも隠された意味を見ないではいられない。物語はメルキアデスから始まる。彼のもたらした知は、それまで有能な働き手であったホセ・アルカディオ・ブエンディアを、単なる夢想家にしてしまう。これは、聖書で、悪魔の変身した蛇にそそのかされ林檎を食べてしまい楽園を追放されるアダムとイブに重なる。また、海の向こうから持ち込まれる近代的な科学技術に翻弄されるマコンド村はスペイン・ポルトガルに侵略される南米諸国を思い出させずにはおかない。さらにバナナ農園を経営するアメリカ人たちは、合衆国の資本家の戯画に見える。この本が発売されるや、南米ではホットドッグのように売れたと言われるのは、誰もが、知っていることを書いていたからであろう。

知を求める男たちが寝食を忘れて解読につとめるのは、メルキアデスの残した羊皮紙に書かれている文章である。一族の最後の男が、解読に成功するが、それは一族とマコンド村の終焉を告げるものであった。ここに至って、マコンド村は世界の寓意であったことに気づく。我々もまた、自然の中で人間という自意識も持たずに過ごしていた至福の時期を過ぎ、錬金術に始まる科学技術を追求した果てに、資本主義の末期的症状としてある環境破壊に病んだ地球の中で喘いでいる。世界の人々は、いまだに愛しあうことができず、相変わらず愚かな争いに明け暮れている。

しかし、この本を現実世界の批判のための寓話として読むことほど不幸で不毛な読み方もまたとないだろう。たとえば、メルキアデスである。どこかで聞いた名だと思いながら、口の中で何度か呟いていると「アルキメデス」が浮かび上がってくる。そのメルキアデスが望遠鏡とレンズを持ち込んだ時の口上がふるっている。「アムステルダムのユダヤ人の新発明」と来た。アムステルダム、ユダヤ人、レンズと来たらスピノザその人ではないか。この種の衒学的な仄めかしや悪戯を一つ一つ取り上げていけばきりがない。おそらく全編に騙し絵のように鏤められた神話、物語、神秘学、魔法、錬金術、哲学関連の知識は数知れない。宝探しでもするように、作者の披露するペダントリーに眩惑されながら物語を楽しむというのも一興かもしれない。あるいは、魔術的リアリズムと称される不可思議でありながら奇妙な現実感を与えてくれる文章詐術に酔うもまた一興。百年の歴史を一気に語り去る速度、女たちの愛憎の強度も他の追随を許さない。奔騰する綺想、めくるめく眩惑の物語的世界をたっぷりと味わいたい。

 2001/11/20 『批評の事情』−不良のための論壇案内− 永江朗 原書房

「不良」という言葉にまず目を引かれた。「非行少年」という言葉が使われだして以来、あまり使われることのない言葉だからだ。どことなくオールドスタイルな響きがある。それにしても、不良が批評なんか読むのだろうか。百歩譲って批評を好んで読む不良がいたとしても「論壇」なんかに興味をもつだろうか。どんな批評について書いているのか、ちょっと読んでみたくなるではないか。

そう思って、この本を手にした人は裏切られる。『批評の事情』は、主に90年代にデビュー、もしくは騒がれた現代日本の若手評論家についての解説書である。その中には、鷲田清一や中島義道のように哲学者という肩書きを持つ人たちもいるように、純然たる評論家ばかりではない。もっとも、評論家という概念自体が曖昧きわまりないものだから、それは仕方がないとしても、問題は、どう考えてみても至極まっとうな人選で、不良らしいこだわりがまったくないことである。

全体を社会・時代・芸術・サブカルチャー・文芸の五つに分け、各ジャンルで活躍する評論家達を総勢44人取り上げている。いわば、批評家を批評するわけで、面白い試みだが、過去に別冊宝島がやった『現代思想・入門』の二番煎じの感は免れない。不良のためのというサブタイトルをわざわざ銘打つなら、それなりの切り口を用意したいところだ。ところが筆者は至って生真面目。宮台真司に対して、反感を感じていたと言いながら、初対面のカジュアルな服装でいっぺんに好感を持ってしまうといった単純さには「おいおい」とつっこみの一つも入れたくなる。

筆者は前書きでこう述べている。「それが評論であるためには、二つの条件を満たしていなければならない、と私は考えます。ひとつは批評性です。『それは何なのか』という問いを持続させつつ、対象を体系の中に位置づけ、それを検証していこうという意志です。その本質に迫ろうという意志です。もうひとつ欠かせないのは文章の芸です。評論もまた文芸のひとつなのですから、読んで面白くなくてはお話になりません。」

批評性についての定義は、あまりにパラノイア的で、筆者の人となりがよく出ている解釈だとは思うものの、そのままは受け取りがたい。文章の芸については、同感である。試みにその二点でこの本を批評するなら、第一の批評性という点では、対象を体系の中に位置づけるのに急で、筆者によって見出された他の評者にはない新しい解釈に乏しい。批評を読む喜びは、そこにあるだろうに。さらには、文章の芸という点だが、この文章には、それほどのものを感じられない。

むしろ、紹介されている評論家諸氏の言葉、文章の引用の方が面白かった。たとえば、斎藤美奈子の『もののけ姫』批判。「文化系の半端なインテリおじさんを喜ばせるアイテム(中尾佐助の針葉樹林文化論、佐々木高明の縄文文化論、網野善彦の日本中世民衆史など)」が、巧みに取り入れられていることが人気の秘密だと論破し、「おやじの妄想を大画面で見るおぞましさ」とまで言い切っている。気に入った人の本を探すためのガイドブックの役割は果たしてくれそうである。

 2001/11/13 『書物について』 清水徹 岩波書店

どんなものにも起源がある。それを知ることもなく、今あるものから恣意的な想像を巡らし、それに立脚して何かを考えることは、ありもしないものを捏造するという点において、ニーチェのいう「遠近法的倒錯」の病を冒すことに他ならない。たとえば、書物というとき、我々は平べったい直方体をしたものを想像してしまうのだが、それが「遠近法的倒錯」の一例である。

『ベンハー』などのローマ史劇を思い出せば分かるとおり、かつて、書物といえば、パピルスを糊でつないで巻物状にしたものを指していた。その蔵書数で有名なアレキサンドリア図書館に収蔵されていた図書は、この巻物だった。外形だけではない。貴重なパピルスに余白を作ることを恐れたこともあり、記述法も今とはちがって、語の切れ目というもののないべた書きで綴られていたと言われている。我々が現在書物と聞いて思い浮かべる、章ごとにまとめられノンブルの打たれた形式は、所謂「小冊子(コデックス)革命」を待って初めて生じたのである。

アレキサンドリア図書館がベルガモンの図書館の隆盛に危機感を覚え、パピルスの輸出を止めたことにより、それに代わる羊皮紙という媒体が一般化したことが、現在の書物の形式を呼び寄せたのは皮肉である。重ねて綴じることのできる紙という物の登場によって、ページ検索の道が開かれ、人は、書物を何かを調べる道具として用いることが可能になった。

副題に「その形而下学と形而上学」とあるとおり、『書物について』は書物の形ばかりを問題にしているわけではない。音声言語中心であったギリシア時代を経て、西欧が文字言語中心社会に変化していく契機として「聖書」が登場する。「聖書」には、この世界を書物として解する叙述が頻出する。ユダヤ人こそは「書物から出てきた種族」と言えるだろう。書物が神を象徴する宗教であったればこそ、グーテンベルグ革命を評してユゴーが言った「これがあれを滅ぼすだろう。書物が建築を滅ぼすだろう。」という『ノートル・ダム・ド・パリ』の言葉が予言めいた響きを持つのである。

建築とはノートルダム大聖堂、そのファサードのアーチに彫られた彫刻は、文字の読めない民衆に神の秘蹟を物語る「石の書物」であった。やがて、大量に印刷されたルター訳聖書の普及はカトリックの世界の牙城を揺るがす宗教革命の嵐を呼び起こした。神の言葉が教会から民衆の手へと移るのと、近代の誕生は機を一にしていた。しかし、大量印刷は書物の質の低下という一面も持っていた。愛書家達は、それに危機感を抱き、その反動が世界を一冊の書物の中に閉じこめたいと願うマラルメのような作家を誕生させることになる。

シャルル・ノディエやノヴァーリス、シュレーゲル兄弟、それにマラルメ達の書物に寄せる絶対的希求の悪戦苦闘についての記述は、世界を一冊の書物の中に閉じこめたいというロマン的発想の強さを物語っている。しかし、頻繁に言及される「バベルの塔」の比喩で明らかなように、それらは如何に彫心鏤骨の作業であったにせよ不可能性を追求する試みとして語られるしかない。

「電子革命」の時代、コンピュータのモニタ上で読まれる本は、ページごとに区切られる書物の形態から逸脱し、パピルスの巻物と同じくスクロールする活字の列を上から下に読んでいく形式に戻ったかのようである。形而下的には紙に印刷された書物という形態は、今しばらく残るだろうが、書物という物の形而上の様態は、大きく変化することになるかも知れない。そういう時代を迎えて、書物という物をあらためて考えてみるには、きわめて時宜を得た書物であると言えるだろう。

 2001/11/10 『崩れた石垣、のぼる鮭たち』 土田英生/作 西川信廣/演出

幕は開いていた。舞台は近未来、とある城下町の城跡を臨む石垣上の料理屋。黒光りのする太い梁が通った古民家風の玄関ホール。天井から吊された提灯をモチーフにした明かりの下にソファがL字型に配置されている。上手玄関脇から階段が二階に続いている。この大道具をどう活かすのか、劇への期待が高まる一瞬である。

異常気象による三年来の雨で、世界は水没しかけており、店は開店休業状態。そんなとき、元中学教師で、今は息子の営むこの店の従業員をしている郁男が、教え子に頼まれ30年ぶりの同窓会を引き受けてしまう。まともな食材もないことから息子は反対するが、久しぶりの宴会に従業員はやる気を出し、同窓会は無事行われることになる。ところが、宴もたけなわの頃、店と対岸を結ぶ橋が流されてしまう。濁流のなか、中洲状態になった店にとり残された登場人物達の見せる行動が劇の眼目である。

同窓会というのは、映画や芝居によく使われる。人と人の織りなすドラマが、時経て変化する面白さが、作家の芝居心をくすぐるのだろう。何かをきっかけに力関係が逆転し、懐かしくも美しい過去の思い出がおぞましい真実の姿を現すだけで、劇は充分にドラマ性を帯びる。表層をなぞっていた会話が、突然肺腑を抉るようなものに変わり、人物達は言葉のバトルロワイヤルを果てしもなく繰り返すことになる。やがて、宴が果てる頃、膿を流しきった後のように晴れやかな気分になり、人々は自分の元いた場所に帰っていく。それは、いわば「死と再生」のための祭儀である。

人物の初期設定と、パニック状態におかれたときの落差が激しいほど面白さは増す。それが、シチュエイションコメディの常識である。その意味では、同窓会に集まった人々の言動はそれぞれの内心は小出しにするものの、今ひとつ盛り上がりに欠ける。同級の仲間を見捨てて逃げるかとどまるかという彼らの過去を反復するかのような葛藤が用意されてはいる。だが、中洲にとり残された仲間を助けに帰るのと、中洲から出ていかないで一緒に残るという設定は似て非なるものがある。似ているのは仲間として運命を共にするという部分だけで、生存に賭けるかあきらめるかという点は大きくちがう。もっとも寡黙だった岩井が熱弁をふるうあたりがクライマックスなのだろうが、共に残ろうという岩井の説得は感傷的に響き説得力を持たない。

その点、従業員達は、何とか危機を回避するために行動しようとする。郁男とも、その息子とも関係を持って平然としているアルバイトの女の子に報われない好意を寄せる青年は、それまでの不作法さをかなぐり捨て濁流に分け入ろうとするなど、大きな変容を見せる。過去に拘泥しながら、結局何もできずに日常に回帰して行く同窓会の面々と比べ、突然の訪問者によって日常性を揺さぶられ、現実の自分の姿を垣間見ることができた郁男達の方に、かえって晴れやかな気分が訪れるのは当然である。

郁男を演じる加藤武や、以前の同僚の稲野和子、それに謎の男を演じる金内喜久夫の三人がいかにも楽しそうに演じているのが印象的。若手や中堅どころも力の入った芝居を見せてくれている。終わってみれば、郁男達が主人公であったことが分かるものの、見ている間は感情移入の相手が見つからずにいらいらする。三年ぶりの晴れ間に姿を見せた川を遡る魚に世界の終わりにあっても残る希望を託したかったようだが、カタルシスが中途半端なのは同窓会に集った人々の描き方による。彼らはあれで救われたのだろうか。作者に聞いてみたい気がする。

 2001/11/04 『ストレイト・ストーリー』 デヴィッド・リンチ監督

星空に浮かんだタイトルが消えると、キャメラは地上を遙か高みから見据える。一面の線条痕が、玉蜀黍畑だと気づくくらい視線が下りてきて、初めて舞台がアメリカ中西部のスモールタウンだと分かる。芝生の上に小さな家の屋根が見える。隣の庭で日光浴をしている女性の横を通り過ぎ、キャメラは、さっきの家の窓に近づく。家の中で、何かが倒れる物音がしたのだ。ここまでワンカット、そのまま窓から中に入ればヒッチコックの『救命艇』だが、まるで、本当の人間であるかのようにキャメラは窓の前で止まる。

倒れていたのはアルヴィン・ストレイト、73歳、腰痛が起きたのだった。その翌日電話があった。口論が原因で長い間音信不通のままになっていた兄が倒れたのだ。主人公は、和解のため兄を訪ねようと思い立つ。しかし、高齢で、目も弱り、免許も車もない。おまけに腰が悪く二本の杖なしには歩けない。彼は自分が乗ることのできるただ一つの乗り物である芝刈り機で530q先の兄の家を訪ねることに決めた。時速8q、世界最低速のロード・ムーヴィーの始まりである。

自作のトレーラーを牽引して蝸牛のように移動する彼の横を通り過ぎていく大型トラックが、旅の苦難を予兆するかのようだ。この旅は、彼が自身に課した試練なのだ。長く生きれば恥も誤りも多い。残された時間で、自分に取り返しのつくことだけは果たしたい、というのが彼の思いだろう。しかし、長く生きることは経験を積むことでもある。行く先々で出会う人々は、彼の語る言葉によって救いを見出して行く。星空の下、焚き火を囲んで彼が語るのは、自分の経験したことばかりだが、聞く人の心にしみる。頑固な老人である彼もまた、人々の温かな心遣いに心を開かれていく。

彼の経験は、まだ若かったアメリカの歴史と重なる。「年をとることで最悪なのは自分の若い頃を覚えていることだ」と若者に答える主人公の言葉は、度重なる戦争で傷を負ったアメリカの内部を照射する。タフに見えてはいるが、彼もアメリカも深い傷を負っているのだ。キャメラは、終始彼に寄り添う。彼が内心を語るときには近くにより、そうでないときは、話し声が聞き取りにくくなるくらいの距離から彼を見ている。まるで、守護天使のように。

エドワード・ホッパーやアンドリュー・ワイエスが描く絵のような詩情に満ちたアメリカの風景が、フィドルとギターの静かな旋律にのって画面いっぱいに広がるとき、アメリカの田舎の持つ素朴で温かな魅力にあらためて感動させられる。やがて、季節は移り、周囲の風景が秋色を増す頃、ようやく兄の家が見えてくる。兄のライルが芝刈り機に目を遣り「あれで来たのか」と言う。その言葉に込められた万感の思いが和解のなされたことを告げる。すべてを見届けて、キャメラは空に帰って行く。見上げる先はいつの間にか満天の星空である。

リチャード・ファーンズワースや、ハリー・ディーン・スタントン、シシー・スペイセクなどの演技はもとより素晴らしいが、それ以外の脇に回った人々の仕種や表情が、とても丁寧にキャメラに収められているのに感心した。映画を見ることの歓びを与えてくれる作品である。

 2001/11/03 『第二幕』 ニール・サイモン自伝2 酒井洋子訳 早川書房

『書いては書き直し』に続く自伝の続編である。前作は、戯曲家としてブロードウェイで成功するまでを、今回は、今や押しも押されもしない人気作家が一人の男性として、最愛の妻を亡くした後、どう生きていったかを描いたものと言えるだろう。そういうと、何だか暗い話に聞こえそうだが、とんでもない。そこは、ニール・サイモン、「これって本当かい?ニール」と、声をかけたくなるほどのウェル・メイド・プレイを地で行く展開は息もつかせない。

それにしても、である。立ち直れないほどのショックを受けた妻の死後一月足らずで、二週間前に会ったばかりの新進女優と結婚してしまう男の神経は、いったいどうなっているんだろう。前妻との間にできた二人の女の子をうまく使い、この顛末を納得させる展開を書く筆の冴えに、超一流の劇作家というものが持つ言葉を操る力を見る思いがする。

二度目の妻マーシャ・メイソンは、名作『グッバイガール』で、リチャード・ドレイファスと組んで息のあった所を見せてくれたあの女優である。この作品からだ。クレジットで流される脚本や原作を一生懸命探すようになったのは。こいつは面白いぞ、ひょっとしたら、と思ってクレジットを見つめていると、決まってニール・サイモンの名前が出てくるのだった。舞台でヒットした物の映画化であることが多かった。若きロバートレッド・フォードとジェイン・フォンダの『はだしで散歩』やジャック・レモン、ウォルター・マッソーのコンビによる『おかしな二人』に腹を抱えて笑った人は多いだろう。

「私の芝居の妙な点は、芝居がおかしいときには本物のコメディであり、芝居がドラマティックなときには、深刻な葛藤に直面する市井の人々を扱っていたということだ。多くの劇評家にとって破天荒かつやや迷惑に思われたのは、私が同一の芝居の中で両方をやってのけようとすることだった。」と、本文にある。ニール・サイモンの劇の魅力はそこにつきると言っていいだろう。大笑いした後にふと忍び寄る真実の苦さや重さ。辛辣なユーモアに包んで描かれる人間の持つ弱さと、それゆえの愛しさ。泣いたり笑ったりして見終わった後、心の中を振り返ると片隅に何かあたたかな物がひとかけら残っているといった感覚こそ、ニールサイモンの芝居を見る歓びである。

人間の心理を的確につかんだ科白が、絶妙の掛け合いで演じられるのが彼の芝居の真骨頂だが、夫婦別れの瀬戸際にマーシャが怒りを込めて語り続ける言葉を聞きながら、「彼女の言葉に迫力があったので芝居に使おうと思った。」という告白には、そこまでやるかと、典型的な芝居バカを見る思いがした。シェイクスピアではないが、プレイ・イズ・シング(芝居こそすべて)という彼の生き方に女性がついていけなくなるのは当然かも知れない。もっとも、この挿話を書く作家の言葉は真摯なもので、別れた妻に寄せる敬愛の念は読者の胸を敲つ。

結局三人の女性と四度結婚し、一人に死に別れ、二人と三回離婚することになるのだが、懲りない人である。今回の本は一番新しい恋人に捧げられている。

 2001/10/30 『郊外へ』 堀江敏幸著 白水社

「郊外」という言葉から、人はどんな場所や風景を想像するだろうか。都会の喧噪から解放された、自然に恵まれた田園のような所を想像する人もいるかも知れない。あるいは、少し交通の便はよくないが、通勤圏には属している都市周縁部のような所を考える人もいるだろう。しかし、ここで「郊外」と呼ばれているのは「郊外」一般ではない。パリ市郊外のことである。著者によると「現在では主としてパリ周辺の区域を指す、『郊外(パンリュー)』というフランス語は、もともとは領主の『布告(パン)』が届く城壁の外『一里(リュー)』ほどの範囲を意味する言葉だった。極端な話、パリの城壁を一歩出れば、遠い近いの差こそあれ、郊外と呼ばれる領域に入ってしまうのである。」

距離の感覚からいえば、紛れもなくパリでありながら、「パリ」ではなく、「郊外」と呼ばれる別の地域に区分されるこの辺りが、著者は妙に気になるらしい。「ときどきふっと魔がさしたようにパリの外へと足が向いて」しまうのだ。花のパリにいながら、堀江氏の関心は、専らこの「壁の外」の景色や人々に向けられている。そして、どうやらそれは彼だけではなく、取り立てて見るものもないこの地域のことを詩に書いたり、写真集にしたり、ルポルタージュしたりする人たちがいるらしいのだ。

その名も『壁の外』という詩集で知られるジャック・レダをはじめ、『パリ郊外』という写真集を作ったロベール・ドワノー、『ロワシー・エクスプレスの乗客』のフランソワ・マスペロなどの本を頼りに、「郊外」という地域の持つ陰影に満ちた表情を素描したこの本を紹介するとしたら、「郊外」に関するエッセー風の語り口で綴られた書評集というあたりに落ち着くのではないだろうか。ふと足を向けた先の郊外で出会った本や、風景が記憶の中から呼び出した本と、今目の前にある「郊外」を摺り合わせることで、そこに浮かび上がってくる想念とでもいうべきものを語ったのが、この本なのだ。

著者や、ここに取り上げられた本の作者たちがそれほどまでに「郊外」にこだわり続ける理由とはいったい何なのだろう。それは一言では言えない。たとえば『パリ郊外』について言えば、「貧しさと生活条件の不合理を押し返すにたる、人々の風通しのいい表情と明るさ」であるだろう。また、『壁の外』で言えば「つまらない感情移入を拒む、関心と無関心のなかほどに位置する歩行者の視線」に耐える「街そのものが彼に見せる突き放した距離感」こそが郊外の秘密なのだ。

しかし、ときおり訪れるのでなく、その中に住んでいる人々の声はまたちがう。パリ北郊外に建つ巨大な低家賃住宅に住む17歳の声を著者の耳は聞き逃さない。セリーヌの書いた「哀れなパリ郊外、みんなが靴底をぬぐい、唾をはき、通り過ぎていくだけの、都市の前に置かれた靴ぬぐい」という文章そのままに、「パリのゴミ箱」扱いをされてきた現実もまた郊外には存在している。フランソワ・ボンが指導した文集『灰色の血』には、そこに生きるしかない若者の怒りの声が溢れている。

郊外の若者たちは一方で激しくパリを憎悪しながら、他方で同じパリに激しく惹かれ続けている。都会の高校生でもなく、田舎の高校生でもない「限りなく中途半端な生粋のパリ郊外人である彼らにしか感じとられない現実こそ、いまやより力強く、より斬新な言葉で伝えられる時を待っているのだ」というあたりに、著者が「郊外」をテーマに選ぶ理由が見え隠れしているのではないだろうか。

 2001/10/27 『ジャズと映画と仲間たち』 和田 誠 /猪腰弘之著 講談社

生まれつき、人をだますのが好きで仕方がない、それも悪意からではなく、座を盛り上げるために次から次へと、果てしもなく嘘を並べ立てる人がいるものだが、そんな人は映画の世界に身を置いたら、ひとかどの人物になれたのではなかろうか。そんなふうに思えてくるほど、映画の世界は作り事に溢れている。一つの場面を、何カ所にも分けて撮影し、あたかも同じ場所であるかのように見せるなどというのは、どうやら日常茶飯らしい。もっとも、一つの場所で撮れたら苦労はないわけで、その撮影場所探しのロケハンのくだりは涙なくして読めない苦労の連続である。

『真夜中まで』という映画を作るまでの、助監督の猪腰による撮影日誌が中心になっているが、それ以外にも、俳優として演技もこなす本物のジャズマンたちの対談やシナリオ、監督その他スタッフたちの談話をまとめた一冊。映画そのものは未見だが、これを読んでから見ると、シナリオのあの部分は、どう撮られているのだろう、苦労して撮ったカットがこれか、などという思いで映画が数倍おもしろくなるだろう。

監督の和田誠は根っからのジャズファンで、ミュージシャン仲間に友人も多い。そして無類の映画好きで、映画に関する本も何冊も書いている。監督としての手腕は、『麻雀放浪記』等の映画で証明済みである。その和田が、何年も前からあたためていた企画で、本格的な役者として認められてから、アクションをやらなくなった真田広之にあてて自ら脚本を書いた、日活無国籍映画の雰囲気を漂わせるジャズとアクション満載の映画と聞いては見ないわけにはいかないだろう。

映画好きの和田のこと、ただのアクション映画にするわけがない。上映時間と劇中の時間が同時進行するというヒッチコックまがいの離れ業をやってみせる。プロット自体は単純で、クラブ出演中のジャズマンが、第一部と二部の間の休憩中にもめ事に巻き込まれ、二部の始まりの時間を気にしながら、悪漢に追われてヒロインと走りまわるというもの。主人公が時間通りに会場に着けるかどうか、観客はリアルタイムの時間進行とともにはらはらドキドキできるという仕掛けである。

もちろん、ジャズに関しては、本職のバンドマンに交じり、みっちり練習を積んだ真田がプロも太鼓判を押す熱演を繰り広げてみせる。劇中には『ラウンド・ミッドナイト』『ソー・ホワット』等の名曲が、ここぞという場面に挿入されている。真田たちが演奏するクラブの名前は「PHANTOM LADIES」。言わずと知れたウィリアム・アイリッシュの『幻の女』である。遊び心に溢れた日本初の本格的なジャズ映画が産声を上げるまでの裏話をじっくり楽しみたい。

 2001/10/21 『不穏の書、断章』 フェルナンド・ペソア著 澤田 直訳編 思潮社

胡蝶になった夢を見ていた荘子は、夢から覚めた後、今いる自分が胡蝶の見ている夢でないといえるかと自問する。『不穏の書』を読んでいると、自分もまた、フェルナンド・ペソアに見られた夢の中で生きているのではないかと思えてくる。『不穏の書』の作者とされるベルナルド・ソアレスの手記に見出される感情や思惟は、それほどまでに自分に近しいものを持っている。もっとも、その「自分」というのが私と等号で結ばれたりはしないのがペソアの世界なのだが。

埴谷雄高は『死靈』の主人公三輪與志に「自同律の不快」という言葉を呟かせている。初めて読んだときには、それが、「自分=自分」であることの居心地の悪さを言っているのだろうという意味は理解できても、実感が伴わなかった。いつの頃からか、それが実感として感じられるようになった。若い頃は、自分というものをプラスティック(可塑的)なものだととらえていたから、日々移ろいゆく自分の変化を「成長」と錯覚することができた。しかし、ある日、それが誤りだと気づいた。確固とした自分などはなく容器としての自分があるだけなのだと。

だから、こうして書いている「私」もまた、自分の中の一人の人格として存在している。こういう風に考える「私」を仮にAと名づけよう。『不穏の書』は、Aについての「本」である。生きていることに特別の意味などないと考えているAにとって、毎日の生活は単調であるが、格別不満というわけでもない。生活を維持する目的で事務的に仕事をし、残りの時間を自分の時間として考え事をしたり書き物をしたりするのに使う。Aにとっては、そちらの世界こそがリアルなのだ。

ソアレスのいるのはポルトガルのリスボン。バイシャ地区(下町)に住み、独身で、貿易会社の会計助手をしている。食事はレストランで済ませ、余暇は手記を書くことに費やしている。書かれる内容は形而上学的な思弁であったり、自分についての省察であったりするが、基本的には「個人における性行、心理、生活、社会における慣習や風俗の描写を通して人間の本性を探る(訳者解題)」モラリストの文章に類する。

ソアレスはペソアが生みだした複数の異名者の一人である。ただ、他の多くの異名者とちがうのは、ソアレスはペソアに近い外見や生活を持っているということだろう。作家の等身大の自画像と考えることもできそうだ。『不穏の書』は、膨大なテクストによって構成されているが、決定稿のないままに遺されている。「作家の複数性」という特質や「断章」という形を取ったテクスト群から分かるのは、ペソアが紛れもなく現代的な作家の資質を持っていることであり、タブッキをはじめ多くの信奉者を生む理由もその辺にあるのだろう。

『不穏の書、断章』と、一冊にまとめられた「断章」もまた、複数の異名者による詩や散文から訳者が編んだものである。選び抜かれた短い言葉の中にも『不穏の書』に共通する色濃い「虚無」と「倦怠」が滲んでいる。自分というものに違和感を感じることのない健康的で実務的な人生を送る人には無縁の書物である。

「私とは、わたしとわたし自身とのあいだのこの間である。」 −フェルナンド・ペソア「断章」より

 2001/10/15 『仕事が人をつくる』 小関智弘著 岩波新書

著者は熟練の旋盤工である。現役を引退した今でも、時々は旋盤の前に立つという。その著者が若い頃背広を誂えようとして採寸してもらっているとき、仕立職人が、「旋盤工をしていらっしゃいますか」と、仕事をずばり言い当てたそうだ。「旋盤工は左肩が下がるんですね。」と、その職人は言ったと、あとがきにある。そこを読んで、はっとした。

亡くなった父も旋盤工であった。そして、やはり左肩が下がっていた。歳をとり、後ろ姿が父にそっくりと言われるようになってから、自分の左肩も下がっているのに気がついた。残念ながら、私自身は旋盤工ではない。後ろ姿を見て育ったのでそうなったのかも知れない。しかし、父の肩は、長年の旋盤の仕事によってつくられたものにちがいない。仕事が父の体まで変えていたのだ。

もちろん、仕事が人をつくるという題名は、そんな体形のことではない。その人が打ち込んできた仕事と、その人の人格形成とは無関係ではあり得ないというような意味でもあろうか。聞き書きの対象になった人は十人。携帯電話の電池ケースで一躍有名になった「深絞り」の技術を開発した岡野さんをはじめ、「空師」というめずらしい肩書きを持つ飯田さんまで、職種は様々である。ちなみに「空師」というのは、高樹の枝下ろしをする人を指していう呼び名である。

「ものづくり」が日本の産業を支えてきたのはよく知られた事実である。それが、いつしか忘れ去られていたのだが、バブルを経過した後、少し復権してきた感がある。情報産業、IT革命などという言葉がマスコミを賑わしている現在だが、やはり、ここにしか日本の生きる道はないのではないか、そんな声が囁かれるようになってきたのだ。痛い目にあって、懲りたというところだろうか。

ここに取り上げられた十人の人たちは、小さな町工場で働く人がほとんどである。その町工場が、資本も人材にも恵まれた大工場にはできない製品を作り出しているのだ。フェラーリ社の精密加工を要するラインに岡山県の従業員250名ほどの会社の機械が選ばれたなどという記述を読むと、さして日本贔屓でないこちらまでうれしくなるのだが、いったい、その秘密はどこにあるのだろう。十人に共通するのは、学歴に頼らず、自分の力を頼りに、人の真似をせず、地道な努力を続けてきた結果、現在があるということだ。では、何故そうできたのだろうか。

その秘密は他でもない。若い頃から現在に至るまで手を働かせ続けているという事実にある。社長という肩書きを持つ今になっても、機械の前から離れられないのは、手と頭との間に幾筋もの道が繋がっていて、頭だけでは仕事ができなくなっているからだ。実は、人間というものは、頭だけで考えているのではない。手足を通しても考えているのだということが、十人の話から分かる。頭の代わりをコンピュータにさせることができても、それだけではいい仕事にならないのは、コンピュータには手がないからだ。熟練工に匹敵するだけの手をコンピュータが持てるようになるまで、町工場の仕事はなくならないだろう。

そしてもう一つ言えるのは、彼らは自分の仕事に誇りを持ち、仕事が好きだということだ。この「好き」という感情は、頭だけでも手だけでも生まれない。手から頭へ、頭から手へという通路の中に生まれてくるのが「感情」なのである。すぐれた芸術家がそうであるように、彼らは町工場の油にまみれながら、日々研鑽を積み、今の自分をつくったのである。「仕事が人をつくる」というのはそういうことであった。頭と手と心をバランスよく育てることは難しい。十人の言葉に魅力があるのは、その難しいことを、仕事をする中で成し遂げてきたからだろう。実に羨ましい限りである。

 2001/10/14 『シェイクスピアを盗め!』 ゲアリー・ブラックウッド著 白水社

時は16世紀、エリザベス朝。イギリスはロンドンの都。テムズ河畔に建てられた塩入れのお化けのようなグローブ座では、座付き作者兼俳優のウィリアム・シェイクスピアの新作狂言「ハムレット」が上演されようとしていた。当時は、戯曲が印刷されればどこの一座が演じるのも自由という時代。そのため人気のある芝居は、なかなか出版されず、台本は一座に大事に保管されていた。コピーが商売のタネにもなれば、原作者を脅かす元凶にもなるのは、いつの時代も同じ。エリザベス朝ロンドンでも人気のある芝居は、いつも盗作者に狙われていたのである。

孤児院育ちの主人公ウィッジは、速記術の発明者であるブライト博士に引き取られ、7年間速記術の習得に励んだ後、14歳の春、フォルコナーという男に連れられ新しい主人サイモン・バスの下で働くことになる。その仕事というのが、速記術を使って、「ハムレット」の台本を書き写すことだった。初めは言われたとおり書き写すウィッジだったが、次第に芝居に夢中になり仕事を忘れてしまう。次の芝居の日、一座の者に見つかったウィッジは役者志望と偽り、一座の仲間に入ることになる。同じ年頃の仲間というものを知らなかったウィッジは、ここで初めて友達や大人の温かい心遣いに触れ、自分に課せられた使命との間で板挟みになる。

蓮實重彦は『小説から遠く離れて』の中で、物語の構造を次のように還元してみせる。どこかに一人の男がいて、誰かから何かを「依頼」されることから物語は始まる。男は発見の旅へと出発する、「宝探し」である。当然、妨害者が現れる。貴重な宝は「権力の譲渡」に関わるものであるため、依頼された冒険はなかなか進展しない。そこに予期せぬ協力者(同性なら分身、異性なら妹に似た血縁者)が現れ、倒錯的な関係を物語に導入しながら様々な妨害を乗り越えていく。

この「依頼と代行」「宝探し」「権力の譲渡」「二重性」という主題を律儀に踏襲しながら物語は進められていく。しかし、それが不思議に心地よいのは何故だろうか。構造は「反復」しつつも、そこに微妙な「差異」があるからだ。安定した物語の構造に揺られながら、作者の工夫を味わう楽しみは物語を味わう王道である。16世紀エリザベス朝ロンドンという都市の闇部の持つ魅力が、汚猥と高潔、伽藍と貧民窟、真と偽等の対立を軸にコントラストも鮮やかに描かれるのがそれだ。

映画『恋に落ちたシェイクスピア』が気に入った人なら、あの衣装や舞台を思い出しながら、二倍楽しめること請け合いである。読んでからビデオで見るというのもいいかも知れない。ヤング・アダルト向けだが、大人が読んでも充分におもしろい。物語の構造が安定し、目的に向けて真っ直ぐに進んで行くからである。主人公を別にすれば登場人物の多くは実在の人である。虚実を綯い交ぜにしながらこれだけの冒険潭を破綻なく纏め上げた作者の筆力は並々ならぬ物がある。

 2001/10/13 『映画そして落語』 森 卓也著 ワイズ出版

前作『映画 この話したっけ』(ワイズ出版)のあとがきでちらっと触れていたので、いつか落語の話が出るかな、と思っていたが、その予感があたった。映画通で、映写技術に詳しく、アニメーションに堪能という著者は、技術的なところでの不手際を嫌う。時には、試写室で、また誌面で、その不備について苦言を呈することもある。あの淀川さんには「あんた、あまり悪いこと書いたらいかんよ」と、やんわりたしなめられたことがあるくらいだ。

人柄というものがある。指摘したってよくならないのは分かっていても放っておけない性格の人なのだろう。前作に収められている「『ニュー・シネマ・パラダイス』における映写室の描き方など」は、その白眉である。運ばれているフィルムの缶の大きさから見て、映写室に一台の映写機しか見あたらない不自然さを指摘しているのだが、映画の世界を描くのなら、そういう点こそしっかり描いて見せてほしいという主張は、よく分かる。世評に高い映画だったらなおさらだ。

映画を愛する人に多いのだが、映画を愛するあまりTVをまったく顧みない人がいる。著者はちがう。山田太一好きは、よく知っていたのだが、この本の中では『ER 緊急救命室』と、グラナダTV制作の二作を取り上げている。『ER』については、今さら言うまでもないが、放映が始まった頃は、そのこみ入った人間関係と、それにも拘わらずテンポよく進んでいく演出に舌を巻いた記憶がある。確かに、映画というだけで、つまらない作品が、その数倍はおもしろいTV作品より評価される世情というものがある。しかし、海外のTVはムービー・フィルムを使って劇場用映画と同じ方法で撮られている。本質的な差はないのだ。

グラナダTVの二作については、その内容が詳しく紹介されている。その内の一本『心理探偵フィッツ』の筋たるや、すごいもので、よくこれがTVで放映されるものだと思うほどだが、一度見てみたいと思った。筆者のブラック・ユーモア好みがよく分かる選択である。木下恵介監督についても、世評とは違う「シニカルな才気」という側面を明るみに出すなど、一筋縄ではいかない評者である。

もう一つの話題である落語は、笑福亭福笑の「憧れの甲子園」という、皮肉というか危険なまでに攻撃的なギャグ満載の落語と桂枝雀論という選択。特に枝雀について、彼の藝の変遷を語る部分は力が入っている。古今亭志ん朝の訃報を聞いたとき、「よもや自殺では」と疑ったほど、噺家の自殺が続いた。人を笑わすことにかける噺家の執念は己の心を食い破ってしまうのだろうか。枝雀の派手な話しぶりは、ちょっと苦手だった。あれが、鬱から逃れようとする必死の藝風だったと知り、辛かった。

専門のアニメーションについては『トムとジェリー』の全作品解説が必読。使われているギャグの解説を読んでいるだけで、目の前に二人の姿が浮かび上がってくる。映画に使われているギャグがその多くをカートゥーンに負っているのがよく分かった。「あとがきに代えて」では、自作、引用を交え多くの警句が書き上げられている。著者の考え方や生き方が自ずと分かるという憎いしかけ。その中から一つ気に入ったのを抜き出して終わることにしよう。

<世の中はこうなって行くだろう>と言うと、そう望んでいるのだと思いこむ人が実に多い。とんでもない。深く絶望しているだけです。

 2001/10/7 『朗読者』 ベルンハルト・シュリンク著 松永美穂訳 新潮社

ヘッセやマンの作品に顕著であるが、少年が人生の上で経験を積み、やがては大人になって行くまでを描いた「人格形成小説(ビルドゥンクスロマン)」という文学的伝統がドイツにはある。『朗読者』もまた、その構成を借りている。15歳の主人公は気分の悪くなったときに助けてくれた母ほども歳の離れた女性に恋し、関係を持つ。逢う度に彼女は少年に本の朗読をせがみ、いつしかそれが二人の習慣になる。ある日、突然彼女は失踪し、失意の少年は心を開くことをやめ、やがて法学生となる。彼女を再び見たのはナチス時代の罪を裁く裁判の被告席であった。刊行以来5年間で20以上の言語に翻訳され、アメリカでは200万部を越えるベストセラーになったという話題作である。日本でも発売当時、多くの書評に取り上げられたことは記憶に新しい。

ややもすればセンセーショナルな話になるところを抑制の効いた文体と感情に流されない叙述で淡々と進めていくあたり、作者の並々ならぬ力量を窺わせる。ミステリーでデビューした作家らしく巧みに張られた伏線が、平易な文章と相俟って読者を最後まで引っ張って行くところがベストセラーたる所以でもあろうか。主人公を戦後世代にすることで、強制収容所というテーマの重さに引きずられることなく、あくまでも個人の倫理観の問題にとどめたのも法律の世界に身を置く弁護士としての作者の資質から来ているのだろう。

全編を通じて主人公の回想視点で語られている。ハンナとの別れ以来傷を負った彼の思惟と行動は外に対して閉じられたかのように見える。15歳の時の体験に彼は捕らわれ、そこから解放されずに歳をとってしまったもののようだ。彼がそこに固着するのは全幅の信頼と愛を傾けていた存在を去らせたのが自分の不誠実な態度であると感じた事によるが、彼女の秘密を知った後でも彼のとる行動は誠実なものとはいえない。彼にはハンナが理解できないからだ。

ハンナの場合はどうか。未成年を誘惑するような仕種やその後の行動も、文字を知らないことが分かってみれば、蛇に誘惑されて林檎を囓るまでのイブのように無辜で明るい。彼女に翳が差し、暴力的な事態が現れるのはいつも文字が介入してくるときだ。ハンナが彼の前から姿を消すときも、かつて雇われていた会社を辞め収容所の看守になるときも同じである。

文字を知るまで、ハンナにとって世界は理解を越えていた。自分の力ではどうにもならない現実に翻弄されるように生きていたからだ。だからこそ、裁判長に向かって「あなたならどうしましたか」と、問い返せたのだ。文字を知ることで、かつての自分の行為を今の自分の意識で見つめることにより無辜のハンナは消え、年老いて寄る辺のない罪人が生まれたわけである。牢獄のハンナに朗読したテープを送り続けたミヒャエルの行為は、考えようによっては残酷な行為であり、哲学者の父を持つミヒャエルは、ハンナのいる楽園に悪魔が遣わした蛇だったのかも知れない。ハンナは人間として生きることを得ると同時に死ぬことも得た。

知らないで犯した行為を果たして罪と言いうるのか。裁かれるのは、その行為を犯すまでに当事者を追い込んだものの方ではないのか。おそらく、いつの時代にあっても問い続けられるテーマである。ナチスという悪を背負い込んだドイツ。貧困ゆえの無知という事態を引き受けた個人。他者を知ろうとすることもなしに一方的な愛を請う恋人。輻輳した主題を絞り込んだ登場人物を通じて展開して見せた点に巧さが際だつ一編である。
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