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 2001/05/31 『渡り歩き』 岩田 宏 草思社

あまり世に知られることのない、かといって、稀書という訳でもない、そんな本についての思い出話が大半を占めている。なかでも演劇について触れた文章が多いのだが、残念ながら、ほとんど見たことがない作品ばかりである。そんな中にチェーホフの『かもめ』について触れた一文がある。

劇中劇の中に「人も、ライオンも、鷲も、雷鳥も、角をはやした鹿も‥‥」という科白がある。死に絶えた物を列挙するのに、なぜ、人間の後がライオンで、その次が鷲なのか、そこに何か意味があるのかと問いかけ、その理由を説明しているのは『ハムレット』の中に出てくる二人の従者を主人公にした『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』を書いた作家トム・ストッパードである。

彼によれば、答えはロシア語原文の中にある。「人も、ライオンも」は「リュージ、リヴゥイ」となり、Lの頭韻を踏んでいるのだ。それなのに1996年にトムの翻訳が出るまで、英語でも日本語でも、そのことに注目した翻訳がなかったことを筆者は嘆いている。言葉が粗末にされていると。ちなみにストッパード訳では、次のようになっている。
 Mankind and monkeys, ostriches and partridges.......
ライオンは猿に変わっているが、踏まれた韻から文学青年の客気が伝わってくるようだ。

歯に衣着せぬ舌鋒で、日本の作家についても語っている。曰く、今の文章が駄目なわけではない。川端康成だって『浅草紅団』などは酷い物だ、と。これは、まったく同感である。初めて読んだときは、これが『雪国』の作家の文かと思ったものだ。しかし、なかなか、ここまで言う人は少ない。読後に爽やかなものが残る一冊である。読書好きにお勧めしたい。

 2001/05/27 『西洋の眼 日本の眼』 高階秀爾 青土社

浮世絵と聞いたとき誰のどんな絵を思い出すだろうか。人によってちがうのは当然だが、葛飾北斎の『富岳三十六景』の中の一枚、「神奈川沖浪裏」を知らない人はまずいるまい。画面いっぱいに描かれた白波が今にも彼方に小さく見える富士を飲み込もうとする構図は、中学校の美術の教科書などでお馴染みである。

ところが、それほど有名な絵であるにもかかわらず、この本を読むまで、そこにもう一つ「幻の富士」が描かれていようなどとは夢にも思わなかった。そう言われて、あらためて見てみると、何のことはない。画面中央より少し右に描かれた実在の富士とちょうど向かい合う位置に、今まで気づかなかったのが不思議なくらいにはっきりともう一つの富士が浮かび上がってくる。

地と図の反転で高坏にも少女が向かい合った顔にも見える絵などが有名だが、一度そう思って見てしまうと、今度はもはや何度見てももとの形には見ることのできない種類の絵がある。「浪裏」の第二の富士もそれと同じである。それでは、なぜ今まで誰にも気づかれずにきたのだろうか。

一つは、北斎の技巧があまりにすぐれていたため、この波頭が富士の相似形をなしていることに誰も気づかなかったのだろう。今一つの理由は、相似形と書いたが、正確には相似形ではない。波頭が描き出した富士は、甲州側から見たいわゆる「裏富士」だったからである。

「浪裏」という題名も、そう考えたとき初めて合点がいく。実在の富士は浪の向こうにあるわけで、裏ではない。ここは、浪の裏側、という意味と、「裏富士」の二つを掛けたものと読まねばなるまい。西洋には「騙し絵トロンプルイユ」という種類の絵画があるが、日本の浮世絵にもそれに類した戯れ絵は多い。ただ、そうしたものの多くは、はじめから分かるように描かれている。北斎のこの絵のように代表作中の代表作とも言える作品に、そんな仕掛けがあろうとは誰も思わない。北叟笑んでいる画狂人の顔が見えるようである。

 2001/05/20 『自転車乗りの夢』 佐々木幹郎 五柳書院

懐かしい詩人たちの故郷に、著者は出かけて行く。そこまでなら、誰でもする。人は、誰でも青年時代は詩の一つくらい読んだり書いたりするものだから。かく言う私にしたところで、渋民村や小岩井農場を訪れている。啄木や賢治がいなければ足を向けるはずもないところだ。しかし、前橋には行ったことがない。かねがね訪れたいとは思っていながら、いまだ果たさずにいる。朔太郎は、偏愛の詩人だ。浪人時代、古書店で手に入れた朔太郎の詩集を何度読み返したことだろう。私にとって朔太郎は詩の世界への水先案内人であった。自身が詩人である著者は、手みやげ代わりに自分の気になる一編の詩なり文なりをひっさげて詩人の故郷に向かう。前橋には「自転車日記」を携えていった。不器用な朔太郎が当時としてはハイカラな自転車に挑戦した顛末を綴ったものである。上州は国定忠治の故郷でもある。朔太郎には「忠治の墓」という詩がある。著者は、朔太郎の生家のある前橋市から、忠治の墓のある国定村までの二十キロの距離を移動しながら、未舗装の道を上州名物の空っ風にさらされながらペダルをこぎ続ける朔太郎に思いを馳せる。奇妙な滑稽感と哀憐に満ちた朔太郎像が、そこに現れ出る。「ご飯を食べるときでも食卓のまわりにポロポロと飯粒をこぼすような人だった」朔太郎に対する詩人の愛着が期せずして表されている。ところが、詩の中で歌われている「無用の石」どころか、忠治の墓の周りは記念碑や、子孫の墓で取り巻かれていた。ことさらにさびれた墓のイメージは朔太郎の「虚構」だったことを暴きながら、「無用」のものという一点で通じ合う無宿者と詩人というアナロジーに著者もまた気づく。妻との離婚話の渦中、自転車で往復四十キロの道を行く詩人の悲壮感の裏にある滑稽感に触れながらも、著者の筆は温かである。この本には詩人だけでなく、谷崎や安吾など、著者の愛する作家たちの故郷への旅もまた収められている。齢を重ねるにつれ、文学というものが「無用」の物であるという認識はますます深くなる一方である。しかし、その一方で、「有用」な物のもつ胡散臭さに辟易もしている。たまには、かつて愛した作家たちの一冊を懐に、このような旅をしてみるのもいいかもしれない。鮎川信夫について触れた一編を除き、特に詩や文学に詳しくなくとも充分に楽しむことのできる本である。

 2001/05/06 『水の自然誌』 E・C・ピルー著 古草秀子訳 河出書房新社


田中長野県知事が「脱ダム宣言」をしたことによって大騒ぎになっているが、古くは武田信玄の「霞堤」、加藤清正の「越流堤」と、水の流れを川の中に閉じこめるのでなく、部分的に遊水池に放流する治水方式はむしろこの国では主流だった。曲がることが自然な川の流れを人為的に真っ直ぐに変え、高い堤防で一気に海に流し込む高水式堤防が主流になったのはたかだかここ百年くらいのことに過ぎない。人間の勝手で、自然を作り変えることの傲慢さにやっと気がついただけのことで、むしろ遅きに失したくらいである。さて、ダムも湖も水を貯えているのだから同じようなものだと思っていたが、実は、まったく異なるということをこの本ではじめて知った。「水を充たしたばかりの貯水池は植物遺体を大量に含んでおり、それらを棲み家として、土壌中の水銀を吸収する能力を持つ細菌が急速に増殖する」。細菌によって形を変えられたメチル水銀は食物連鎖の中に入り込み、結果的に魚の体内に取り込まれた時点で生物濃縮の作用により100万倍の濃度になるという。現にカナダではカワカマスを常食していたネイティブアメリカンの中に体内の水銀の量が急激に増加した種族が出た。腐敗した植物質を大量に含む貯水池のもう一つの問題点は、二酸化炭素とメタンを大量に大気中に放出していることである。水力発電用のダムが火力発電機と同量のガスを排出するとしたらこれ以上の皮肉はない。しかし何より驚いたのは、貯えられた水の重量が地殻に影響を与え地震を誘発することや、地軸を傾け、地球の自転速度に影響を与え続けていることである。それらが、今すぐ、地球をどうにかするといっているわけではない。筆者の文章は科学者らしく冷静である。それだけに、ふだんあまりにも意識することのなかった水についての新しい知見はものを見る眼を変えてしまう。雲や雨についての記述も新鮮な指摘にあふれ、ナチュラリストでなくても充分楽しむことができる。是非手にとって読まれることをお勧めする。

 2001/05/03 『裏読み深読み国語辞書』 石山茂利夫著 草思社

辞書というものは、まちがいがないものと思いこんでいた。この本を読むと、それがいかに盲信に近いものであったかがよく分かる。まさに目からうろこが落ちるとはこのことである。今ひとつは、辞書なんてものは、書かれている言葉こそ違え、大きな差はないものと思いこんでいたが、これも大まちがいだった。赤瀬川源平著『新解さんの謎』を読んで、ユニークな辞書もあるものだと驚いていたが、著者によれば、「『新明解国語辞典』は独特な語釈がよく話題にされるが、それを除けばまっとうな辞書である」ということになる。それに比べれば、辞書という時まっ先に思い浮かべる「広辞苑」は意外に足腰の定まらぬ感を受ける。ずっと通してきた表音式仮名遣いによる検索方式を、平成3年になって、現代仮名遣いに変えているのもその一つである。もっとも、広辞苑だけが、他の辞書と異なる検索方式だったというのは、この本を読むまで気がつかなかった。これ以外にも辞書は、その編者によってずいぶん異なる個性を持っている。どの辞書を選べばよいのかを知りたいという読者には、「あとがきに代えて」を先に読むことをお勧めする。著者の丁寧な解説は、辞書の持つ個性を明らかに示してくれている。いろいろ驚かされたが、もっとも驚いたのは、「異字同訓」についての指摘である。たとえば、「あたたかい」「あたためる」を、場合によってどう使い分けるかが例題に出されている。すらすら解けたつもりでいたら、「使い分け症候群」にかかっているのだと宣告されてしまった。実は、どこまでさかのぼってもはっきりした使い分けなどされていないのが本当のところで、事実ほとんどの辞書は「暖」と「温」を併記している。それでは、なぜ、はっきりした使い分けが出来たのかというと、官庁、地方公共団体、教科書会社、日本新聞協会だけが、常用漢字表のルールのもとになっている「『異字同訓』の漢字の用法」の中にある使い分けの実例にならって表記しているからだ。言い換えれば、われわれは伝統的な表記でもないものをこれらの団体による印刷媒体によって、いかにもそうであるかのように思わされてきたことになる。知っていると思うことこそ辞書を引いてみる必要があるのだと、あらためて思い知らされた。

 2001/05/01 『フィロソフィア・ヤポニカ』 中沢新一 集英社

本書で、採り上げられているもう一人の思想家である西田幾多郎については、「近代の超克」論争においていくらかは聞き及んでいたが、田邉元といわれても、名のみ知るだけで、その思想については、ほとんど知らなかったと言ってもいい。この書は、現代にあってはほとんど話題に上ることのない田邉の思想が、いかに現代の課題を克服するに足る思想であるかを、先輩であり競争相手でもあった西田哲学と比較することにより、明らかにしようとする。著者が田邉の思想に見つけたのは、一言で言えば、ハイブリッド性である。現代にあっては、すべてが微細な個に分割されずにはいない。科学一つ例に取ってみても、様々な専門分野に分割され、他領域については門外漢であるのが当たり前である。田邉の哲学では、人間とモノ、量子論の世界が領域を横断して交通する。カントによって開かれたモダン社会は、人間と非人間的なモノを分離する。それによって自然は人間によって操作される存在となった。しかし、それが現在の環境問題を引き起こしているのも確かである。現代社会の抱える難題は、人間を物自体と分離することによりかえって制御不能のハイブリッド体を次々と作り出してしまう、モダンという「制度」から来ている。しかし、田邉が批判した西田哲学も、人間という主体を、対象とされる自然から純粋化し、分離することに異を唱えているという点では、非モダンなのである。中沢は、この二人の哲学的思考を「日本哲学」として取り出してみせる。そこには、西田がややもすれば、日本回帰的な潮流の中に取り込まれることに対する異議申し立てがある。中沢によれば、二人の思想は、西欧対非西欧などという対立とは無縁であり、プレモダン、モダン、ポストモダンという枠組みからも離れている。言うならば「非モダン」なのであって、現代が抱える難題を解く鍵はこの二人のモダンという制度の枠組みから自由な思考を探求することによってのみ得られるという。いかにも難解な田邉の論文を読みほぐしていく中沢の手並みは鮮やかで、もとの思想が本格的なフランス料理なら、中沢の出してくれた皿の上に乗っているのはヌーベルキュィジーヌのような気がしないでもないが、味の良さは保証する。それと思ったより消化もよい。一口賞味されることをお勧めする次第である。

 2001/04/30 『黄金座の物語』 太田和彦 小学館

 ウディ・アレンの「カイロの紫の薔薇」をはじめ、映画好きなら、自分が映画の世界に入っていけたらという想像をしない者はいないだろう。この作品もまた、そうした映画好きの見た長い夢なのかもしれない。役所に勤める私は独身で、趣味はビデオで映画を見ることと居酒屋で一人酒を飲むことぐらい。五月のある日、たまたま渡った橋の向こうに見知らぬ町を見つけ、さびれた映画館に入ると、清水宏監督の『歌女おぼえ書』という聞いたこともない映画がかかっていた。映画に不思議な感動を覚えた私は、映画館を出た足で、近くの「銀月」という居酒屋に入る。カウンターに座っていた笠智衆そっくりの初老の紳士と今見てきた映画の話をするうちにすっかりうちとけてしまい、月に一度はこの町を訪れ、映画を見、居酒屋で飲むのを心待ちにするようになる。紳士には原節子そっくりの娘がいて居酒屋の大将は加藤大介に似ている。私と奇妙な友情で結ばれることになる孤児あがりのキャバレーの用心棒、松永は三船だし、その松永を気にかけるバーのマスターは中村伸郎とくれば、これは作者が、自分好みの各社のスターをキャスティングして作った紙上の映画だと知れる。町の再開発に絡む地回りとの抗争や原節子をめぐる男達の片思いを絡ませながら、月ごとに変わる黄金時代の日本映画を、大将が出す旬の酒肴とともに紹介していくという趣向は気が利いている。19本の最後の映画が『晩春』だと聞けば、話の結末はいわなくても映画好きなら先刻承知だろう。原節子似の娘が結婚するのをきっかけに、黄金町の住人たちは散り散りばらばらになり、私も所帯を持つところで終わっている。昭和初期の日本・映画を懐かしい思いで振り返ることのできる人にお勧めしたい「一本」である。

 2001/04/28 『白山の水 鏡花をめぐる』 川村二郎 講談社

二十一の章それぞれに、「川」や「橋」という標題がつけられている。たとえば、「橋」では、保田與重郎の『日本の橋』を引き合いにしながら、自然と人工、西洋と日本という二項対立の形式を用いて、彼岸と此岸をつなぐ橋の持つ中間的な性質を明らかにしていく。ジンメルを引用した前半の哲学的随想風のスタイルから、後半の文学批評をつなぐのが『日本の橋』の掉尾を飾る熱田の裁断橋である。著者自身の戦時中の回想を交えることで、無理なく金沢に話がつながっていく。そうした上で、鏡花の作品の中で、それらがどのように扱われているかを述べるのだが、浅野川に架かる橋に凭れて眠る男を見守る女という『義血侠血』の天神橋の場にギリシア神話を素材にした泰西名画を想像するなど、イメージの連鎖を多用したスタイルは読んでいて興をそそられる。土地の精霊ゲニウス・ロキについて何度も言及していることからもわかるように、基本的には、鏡花論というより、異様に感応しやすい気質を持った作家であった鏡花を手がかりに、白山女神に始まる神話的世界と、作家の作品世界とを結ぶ地霊、精霊についてのフーガ的な随想と考えた方がいいだろう。各章の終わりがそのまま次章の始まりにつながるように工夫され、金沢から始まって金沢に戻る円環的な構造は、本文にも引用されているホメロスの『オデュッセイア』やウェルギリウスの『アエネイス』さらにはダンテの『神曲』地獄篇を意識したものか。柳田、折口の民俗学の両雄についての言及、ドイツ・ロマン派やメルヒェンについての蘊蓄などをはじめ、引用されている文献、資料は著者独自の趣味性を帯びているものばかりであるのが、読んでいて楽しい。文章は硬質ではあるが洗練されていて読みやすい。個人的には『歌行燈』が『高野聖』とともに鏡花作品中双璧をなすものと思っているが、もしかしたらこれも土地の精霊の働きかけによるのかもしれない。

 2001/04/25 『推理作家の出来るまで』上下巻 都筑道夫 フリースタイル社

都筑道夫という人の書くものを読み出したのはもうずいぶん以前のことになる。大学時代に毎日一冊文庫本を読む友人がいた。友人の読むのは所謂純文学だったが、その真似をして本格推理小説を毎日一冊読み続けたことがある。その頃、謎解き本格推理小説についての評論集『黄色い部屋はいかに改装されたか』を読んだのが初めてだった。表題の二巻は、自伝という形で、著者が推理小説作家になるまでを綴った雑誌連載をまとめたものである。それだけに重複する部分も多々あり、もう少し整理してもよかったのではないかという憾みが残る。久生十蘭を愛する著者にしては、スタイルをどこかに置き忘れてきてしまったのではないか、という素っ気ない文体も気になるところだ。しかし、書かれている事柄については、期待は裏切られなかったと言っておこう。師の正岡容の家を永井荷風が訪ねた日に立ち会った話や、もう一人の師である大坪砂男がスタイルに懲りすぎて書けなくなった逸話など、どれをとってもこの著者でなくては書けなかった話である。著者がエラリー・クィーンの代表作の一つとして挙げている『オランダ靴の秘密』は、大学時代のノートに、真犯人を見破ったことと、その証拠について、わざわざ記録している。犯人を見つけられたのがよほどうれしかったのだろうが、それだけ論理がしっかりしている作品だとも言える。今では、すっかりご無沙汰してしまった推理小説だが、この本を読んで、何度も読める推理小説もあるのだとあらためて気づかされた。インターネット全盛の今では「青空文庫」で『半七捕物帳』も読むことができる。久しぶりに読んでみたくなった。

 2001/04/22 『ヨーロッパT古代』ノーマン・ディヴィス 別宮貞徳訳 共同通信社

ヨーロッパの境界については、諸説がある。何をもってヨーロッパとするのかは一概には決められない。民族によって、あるいは地理的な位置によって、ヨーロッパを定義する様々な説を俎上にのせながら、著者はそのどれもが問題点を含んでいることをあきらかにしていく。まず、この時点で、おおかたの読者は自分が今まで漠然と考えていたヨーロッパというものが如何にいい加減なものであったかを知らされることになる。さらに、著者はヨーロッパのことを大陸から突き出た半島と呼ぶのだが、そう呼ばれてみると、われわれがヨーロッパと感じている地域が相対的に小さく感じられてくるのは不思議である。けれども、なんと多くの民族がこの土地を手に入れるためにはるばると大陸からやってきたことか。また、それはなぜか。ギリシア文明といえば、ヨーロッパの祖のように考えられているが、果たしてそれは正しいのだろうか。現在、ヨーロッパを考えるとき、キリスト教という枠組みを抜きにしては考えられないが、その考え方に本当に正当性があるのか。ローマ帝国の、或いはイスラム教の果たした役割とは。著者の問いかけは、今まで深く考えないままに抱いていた既成概念を揺さぶり続ける。トルコ、スペイン、ハンガリー等の諸都市を訪れ、ヨーロッパの境界について自分なりに関心を持ち続けてきたことが、丁寧な叙述のもと、整理され解説されていくのに知的な興奮を感じずにいられなかった。次巻の刊行が待たれるシリーズである。

 2001/04/09 『論議』 J・L・ボルヘス 牛島信明訳 国書刊行会

ウンベルト・エーコの原作をジャン=ジャック・アノーが監督した映画「薔薇の名前」の中に出てくる盲目の老修道士は、ボルヘスを意識して作り出された人物である。もちろん現実のボルヘスは、同じ図書館長であっても、ホルヘ神父のように教条主義者ではない。「異端思想家バシレイデスの擁護」では、宇宙生成論について、この世界が「本質的に取るに足りないひとつの過程として想像された世界」であるというグノーシス派のきわめて異端的な発想に肩入れしているほどだ。「夢と迷宮」の作家としてつとに有名なボルヘスだが、その博識を縦横に駆使した評論、エッセイにおいても、詩や小説に決してひけを取らない面白さを持っている。その話題は哲学や神学、修辞学、異端思想、神秘主義、それにもちろん文学、と多岐に渡る。ボルヘスの持ち出す話題は、現代の生活においては、あまり重要視されないものばかりかもしれない。「カバラの擁護」しかり、「地獄の継続期間」また、しかり。しかし、どの話題の中にも純粋に思考することの喜びが溢れている。人々が顧みることを忘れた古典主義的作品の意義について擁護の論陣を張る「現実の措定」では、非個性的な文章こそが実際には効果的であるという逆接を極めて説得力のある文章で論じてみせる。ある種の思い込みをくるりと反転させてみたり、見慣れたものに別の面から光を当ててみたりという観念の遊技を好む人にとっては、極め付きのエッセイ集といえるだろう。

 2001/04/04 『ユリシーズの涙』 ロジェ・グルニエ 宮下志朗訳 みすず書房

ユリシーズが誰にも分からぬように乞食に身をやつして故国に戻ったとき、愛犬アルゴスだけは主人を認める。しかし、肥料用の牛糞の中に見捨てられていたシラミだらけの老犬は尾を振るばかりで近づく力さえなくしていた。さしもの英雄ユリシーズもその姿を見て涙したという。書名の由来だが、犬という生き物と人間との関わりの深さを象徴してあまりある。ユリシーズは著者の愛犬の名でもある。その愛犬にまつわる話と、古今東西の文学の中に現れる犬についての逸話が集められた短編集。著者の文学に関する知識は広く、日本に限っても谷崎、漱石はおろか馬琴の『南総里見八犬伝』にまで話は及ぶ。愛犬家もいればそうでない人もいる。文学者としての評価はさておくとして、トーマス・マンの犬に対する無神経さや、R・L・スティーブンソンの驢馬(犬ではない)に対する無慈悲な態度には動物好きでなくても義憤を感じずにいられないだろう。一方、大の犬好きとして知られているフロイトは、晩年顎を癌に冒されていたが、愛犬のチャウチャウ犬ルーンは、その悪臭におびえ部屋の隅にうずくまったままだったという。愛犬によって自分の死期を知らされる思いはいかばかりのものであったろうか。一つ一つの話は単なる逸話にとどまらず、人間と犬についての深い考察が試みられている。犬好きでなくとも楽しめること請け合いである。

 2001/04/02 『キライなことば勢揃い』 高島俊男 文藝春秋

本を読んでいて思い出しておかしくなった。小さい頃、父に映画につれていってもらったことがある。「明治天皇と日露戦争」という映画だった。嵐寛十郎が明治天皇に扮していたのだけは覚えている。二百三高地の戦いの場面だったか、日本軍は苦戦していた。父が、「いいか、白兵戦になったら日本軍は強いからな」と、隣で観ている私に囁いた。白兵戦がチャンバラのように斬り合うことだとはおぼろげながら理解できていたように思う。司馬遼太郎の『坂の上の雲』にもよく似た記述があるそうだ。ところが、である。高島先生によると、もともと、日本人は白兵戦を得意としなかった。日露戦争では大きなロシア兵相手に苦戦したというのが本当のところ。日露戦争以後、西洋の模倣をし白兵戦を重視するようになったが、兵に自信をつけさせるため「日本は昔から白兵戦に強い」と思いこませたというのである。いわれてみれば、織田信長の例を見ても分かるように遠戦主義が日本のお家芸だった。官軍による倒幕にしてからがそうではないか。「目から鱗」というのは、このことだ。ふだんから確かな根拠もなく思いこんでいることを、ひっくり返されるのは気持ちのいいことである。「お言葉ですが」というシリーズの5冊目。気軽に読めて得ることは多い一冊。
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