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 2001/07/18 夏支度

向かいの家の窓に真新しい葦簀がかかった。毎年夏が来るのにはじめて目にしたのには理由がある。この春結婚した息子さんの車を入れるためにブロック塀を壊したので、西日がまともに当たるからだ。妻入りの二階屋根の下には出庇があり、その下は掃き出し窓になっている。窓のこちらは縁側だから、葦簀越しに風だけは入ってくる。風鈴でもつるせば、すっかり夏の気配だ。

旧街道筋だから、昔はみんなよく似た造りの家が並んでいた。今も残る当時の家には、細い格子が軒下から床まで通っている。たとえどれだけ強い西日でも、ある一瞬を除けば、奥の座敷まで陽の射しようがない。それでいて風は、襖障子を取り払った夏座敷の中を通り抜けていく。鰻の寝床めいて続く長い座敷の反対側には縁側があり裏通りに面した板塀との間には狭いながらも庭があったりする。打ち水でもすれば、夏の宵でも涼しい風が通りすぎるというものだ。

軒を連ねた街道沿いの宿命か、火事ともなれば次から次へと火は燃え広がり、世古に出るまで火の手は止まらない。度重なる類焼で、隣近所とも昔の家並みは残っていない。それでも、小さな家ながら、今も母の住む母屋には、東と西に縁側があり、夏ともなれば、開け放して葦簀を立てたものだった。縁側の向こうは裏と呼ばれ、鶏小屋や納屋の間に池や小さな菜園があった。沓脱石から下りた小さな庭が幼い頃の私の遊び場だった。

敷いてもらった茣蓙の上でままごとをしたり、木箱に入れた土の上に箱庭を作ったり、ひとり遊びの好きな子だった。もう少し大きくなると、黒板塀で区切られた裏のまだ向こうにある大裏と呼ばれる空き地に育った団栗の木に登ったり、柿の木の枝でぶらんこをしたりした。昔の屋敷跡には、その他に梅、山桜桃、無花果などの木が植わっており、遊びの途中によくもじいて食べたものだ。

月のいい晩には、開け放した窓から月の光が部屋の中に射し込み、電燈を消しても明るかった。寝るのが惜しくて、いつまでも起きていてはよく叱られた。そんな私たち兄弟を寝かすのに、父はよく話を聞かせてくれた。怪談話が多かったのは季節柄当然だったが、毎日せがまれて、父も困ったのだろう、ある日の話は、いつもと少し違っていた。子ども心にも怖さの種類がちがった気がしたのを覚えている。後年、ラヂオを聴いていて、この話には覚えがあるな、と思い当たった。円生の語る『鰍沢』だった。夏が来ると思い出す話である。

 2001/07/06 ドストエフスキー

朝刊の片隅に、小さく江川卓氏の死亡を告げる記事があった。ロシア文学者で、ドストエフスキーの翻訳者としても知られている。この人の訳で、『カラマーゾフの兄弟』や『悪霊』の世界に触れた人は多いだろう。大学の図書館には、江川訳の全集が全巻揃っていた。ドストエフスキーの翻訳では、他に米川正夫氏の訳業が有名だが、最初に読んだ訳者の文体がこびりついてしまうのか、最後まで、江川訳で押し通した。

中学校時代、窓から銀杏の大樹が見える図書館で、昼休みを過ごすことが多かった。ある日のこと、その頃読みかけていた世界文学全集の一冊をカウンターに持っていくと、係の先生が言った。
「○○君、このごろ読む本の傾向が変わったね。」
驚いた。私の通っていた中学校は県下一のマンモス校で、最も少ない一年生で13クラス、二年生は17クラスもあった。図書館に通う生徒も今と比べればかなり多かった。その中のひとりに過ぎない一生徒の読書傾向を覚えているなんて。

確かに、それまで、ノンフィクションが多かったのに、文学作品を、それもよくは知らないから、全集の第一巻から読み始めていたのだ。同じロシアの作家でも、トルストイの『戦争と平和』はおもしろく読めたのに、ドストエフスキーの『罪と罰』でつまずいた。最初の何頁かを読もうとするのだが、作品世界に入っていけないのだ。こんなことは初めてだった。今から思えば、ラスコーリニコフの懊悩を理解できるほど成長していなかったのだろう。ヘッセの『車輪の下』が愛読書だった頃だ。

大学時代、埴谷雄高を通じて、再びドストエフスキーの世界に出会った。よい水先案内人を得て、キリーロフやアリョーシャという人物を知ることになった。プロテスタント系の大学だったこともあり、イエスや神について議論することもさして奇異なこととも思わなかったのだが、今思えば少し気恥ずかしい。

埴谷や高橋和己がいなくなり、最近ではドストエフスキーの名を聞くこともなくなった。いったい今でもドストエフスキーは読まれているのだろうか。世界苦を一身に引き受けるドストエフスキーの作中人物のような人間が生き難い世界になってきているのだろう。そういう自分も、昨今は、同じロシア文学でもチェーホフの方を好んで読むようになってきているのだが。

 2001/06/29 ジャック・レモン

ジャック・レモンが死んだ。76歳だった。つい最近も長年の相棒ウォルター・マッソーと組んだ映画で、歳はとっても、粋のあったコンビぶりを見せてくれていたものだが。最後は、家族に看取られての死だったという。ハリウッドの役者の最期としては、平穏な部類に属するだろう。

ジョン・フォードとジョン・ウェイン、黒澤明と三船敏郎のように、この監督とこの俳優という組み合わせがある。ジャック・レモンを例に挙げた二人と並べるのはちょっと申し訳ない気がするのだが、ビリー・ワイルダーなくしては、名優ジャック・レモンは存在しなかったのではなかろうか。『アパートの鍵貸します』は、私の好きな映画ベストテンを選ぶときまちがいなく上位に入る一作である。

たしかに映画の出来は、監督や脚本に左右される。しかし、その一方でキャスティングの果たす役割は案外重いのではないだろうか。『お熱いのがお好き』で、トニー・カーティスと共演したジャックレモンを、『アパートの鍵貸します』の主役C・C・バクスターに抜擢したのはワイルダーの慧眼だった。たとえば、この役をトニー・カーティスが演じたと想像してみたらどうだろう。気障な色男のトニー・カーティスには観客は感情移入ができなくなるにちがいない。ジャック・レモンだからこそ、上司の情事のために自分の部屋を貸して出世の糸口にするバクスターの行動が許せるのである。

ある意味で『アパートの鍵貸します』のC・C・バクスターは、会社という組織で働く男の「典型」である。会社で働く限り、出世はしたい。そのためには手段を選ばない。たとえ、それが姑息な手段であっても、成功への階段なら昇ることを躊躇しない。これは、本音だ。だが、それだけにはっきり描けばプロテスタントの倫理観を逆なでするようなところがある。ワイルダーには、こういった毒のようなものがあり、それが魅力でもあるのだが、アカデミーに好かれないのも確かである。それでも、この映画が支持されたのは、ジャックレモンという役者の個性に負うところが大きいと思う。

善良でありながら、どこかに哀感を漂わせ、弱そうなのにいざというときには気骨を見せる。どこにでもいそうな人間でありながら、人生のここ一番というときには勇気を持ち、賢明な選択のできる主人公を演じてジャック・レモンは間断するところがない。のちにシリアスな映画に傾いたのは、この人の裡に秘めたものが外に出たのであろう。それは、それでいいのだが、ジャック・レモンをいちばんよく理解していたのはワイルダーだったのではなかろうか。けち臭さや狡っ辛さが誠実さや勇気と同居する人間存在の愛すべき複雑さを、まるで着慣れたシャツを羽織るような気易さで教えてくれたのは『アパートの鍵貸します』のジャック・レモンだった。謹んで冥福を祈りたいと思う。

 2001/06/27 サンドイッチ

京都に行っていた妻がみやげがわりに志津屋のサンドイッチを買って帰った。自家製のパンにハムやチーズをはさんだシンプルなものだが、京都にいた頃からの好物である。と言うと聞こえがいいが、あの頃は、そう度々は食べられなかった。

初めて食べたのは、中立売の下宿だった。長い髪とギターのせいで、どこも長続きせず、下宿を転々としてた頃、同じゼミの女の子がこの家を紹介してくれたのだった。
「この人、こんな格好をしてますが、中身は私が保証します。」なんて言って。本当はあまり知らなかったくせに、世話好きで、困ってた私を放っておけなかったのだろう。

その下宿にはもうひとり先客がいた。Fは同じ大学の二部生で、昼はバレーの練習をしていた。紹介してくれた女の子はバレー部のマネージャーで、部屋の空いていたのを聞いていたらしい。Fは昼間は留守で、夜は大学に行く。私は、夜中起きて本を読み、気の向いた頃学校に出かけた。襖一枚で仕切っただけの部屋だから、互いの生活時間がずれているのは好都合だった。富山から来ていたFにはよく鱒寿司を食べさせてもらった。

ある日曜日、親戚の結婚式とかで、めずらしく全員が家をあけるので、私が留守番を頼まれた。その駄賃におばさんが買ってきてくれたのが志津屋のサンドイッチだった。国立大学しか駄目だと言っていた親に無理を言って入った私立の大学だったので、生活は切りつめており、食事もたいしたものは食べていなかった。そんなときに食べた志津屋のサンドイッチは、本当においしかった。

それ以来、京都に行くと、買って帰るのが習慣になった。妻はそれを覚えていたのだろう。今では、好きな物が食べられる。うまいパン屋も覚えた。しかし、このサンドイッチだけは特別だ。一口ほおばると、鰻の寝床のような京の町家の風景がよみがえってくる。三和土の匂い、櫺格子の引き戸、坪庭。窓から西陣織の機の音が、一日中聞こえてくる、そんな部屋だった。

 2001/06/20 

酒を飲みながら加川良の歌を聞く会があるんだけど行かないか、と誘われたのは一月前だった。会場になっている居酒屋に着くと、早くから集まった客はすでに気炎を上げていた。本当にこんな所でやるのかなと疑問に思ったけれど、コーナーにはたしかにマイクがセッティングされていた。

生ビールと、料理を注文し、小一時間ほど相席の人と話をしながら食事を楽しんだ。店の奥の方で拍手が起きた。会場が暗くなったのと、歌手が登場するのが同時だった。
「おおきにです。」と、ギターストラップに肩を通しながら歌手は話し出した。「ここで歌うんやと聞かされたときは帰ろか思いました。」客席が湧く。「そちらはよろしいわ。けど、こっちは不愉快です。」どこまで本気なのか、きわどいジョークが続く。調整が終わったのか、やがて、歌い出した。

加川良の歌を初めて聞いたのは、彼が本格的に歌手デビューをした日だったと思う。中津川坂下の椛の湖畔で開かれたフォークジャンボリーの会場だった。すでに一家を為していた高田渡が、
「このごろアメリカから帰ってきて、フォークがどうのこうの言ってる人がいますが、この人は、そんなのとちがって本物です。」と、いうような言葉で紹介したのがシバと加川良だった。その頃、高石ともやがアメリカから帰朝し、ナターシャセブンとして活動を再開していた。アメリカの曲に日本語の歌詞をつけて歌うのはもともと高田渡が始めたスタイルである。ニッティーグリッティーダートバンドを意識した武蔵野たんぽぽ団を率いて活動し始めていた高田にとって、古臭いブルーグラスの曲を今頃取り上げる高石のセンスの古さをからかう気持ちもあったのだろう。

シバのブルースも悪くはなかったのだが、加川良には、初めから風格がそなわっていた。ラングストン・ヒューズの詩『死んだ男のバラッド』に曲をつけたその歌は、会場を圧倒した。まちがってもアメリカになど行けそうにない青年の歌声に、聴衆は貧しい南部の黒人の声を聞いたのである。ああ、高田渡が言いたかったのはこのことかと、その時分かった。まるで私小説作家のように貧しい暮らしをそのまま歌にする彼らには、生活の裏打ちのない歌が認められなかったのだ。

久しぶりに見た加川良は、その頃とあまり変わっていなかった。しかし、歌は変化していた。独りの女の人生をドラマチックに歌い上げるそのスタイルは、曲こそ違え、むしろシャンソンに似ている。妻は、新しい加川良が気に入ったらしく、横でしきりに聞き入っていた。畳の上に置かれた歌手は「初めて靴脱いで歌ってみて、初めはなんかパンツ脱いだみたいで落ち着かんかったんやけど、だんだん気持ち好うなってきました。」と、乗ってきた様子で、名曲『教訓T』まで歌うサービス。客はやんやの大喝采で、最後は手拍子まで出て、やはり宴会のノリになってしまっていた。

客はよく似た年代の人が多かった。「この歌でコーラスになったのは初めて」と、加川も驚いていたが、古くからのファンも多かったようだ。『下宿屋』を聞いていると、学生時代の京都での生活のいろいろが走馬燈のようによみがえってきて目頭が熱くなった。「歌は世につれ、世は歌につれ」というが、歌は世につられることはあっても、世は歌につれて動いたりしないという。それはたしかにそうなのだが、あの時代、もしかしたら歌と共に世界は変わりそうな気がしていた。ギターを抱えて椛の湖畔に行った前年、アメリカではウッドストックが開かれていたのだ。

 2001/06/15 

玄関のドアを開けると、待ちかねたように外に出てくるニケが顔を見せない。先に帰った妻が抱いているのかと思った。知人の通夜があるので、妻はその支度に忙しい。猫の姿はどこにもない。
「ニケは、どこ。」と、聞いた。
「さあ、上で寝てるんじゃない。ねえ、やっぱり上着いるかなあ。」
袖無しの黒いワンピースに黒真珠のネックレスをしながら、妻は後ろを振り返った。
「いいんじゃないか。それで。」
そう返事をしながら階段を上がった。

ニケは二階の妻の机の下にいた。寝ているのか、手を伸ばしても近寄ってこない。頭を撫でて、
「ただいま」と言った。起きてはいるようだったが、眠いのかそのまま動かなかった。通夜に行く妻を送って、帰ってきたときもまだ、そこにいた。

自分一人の夕飯を食べ、お茶を飲み終わっても、まだニケは二階から下りてこない。ふだんなら、どんなに眠いときでも、家族の夕食が始まると、必ず自分も夕飯の催促にやってくるのだ。二階に行くと、さっきと同じところに横になっていた。名前を呼ぶと振り向くが、こちらに来ようとしない。自分がさみしいので、抱き上げて下につれていった。

居間の床に下ろすと、ニケは、二、三歩歩いた。やはりおかしい。後ろ足を庇うように跛をひいている。抱きかかえて足をよく見てみた。左の後肢の毛に少しだが血がついていた。めったに鳴き声など出さないのに、触ると、痛そうに鳴く。怪我をしているのだ。

帰ってきた妻が電話帳で調べるが、こんな時間に開いている獣医はいない。消毒の薬を買いに店を探したが、猫用の物はなかった。思いついて、ネットで調べると、人間用の物でもいいということがわかった。とりあえず、消毒だけして明日まで様子を見ることにした。いつもは、下の二男のベッドで寝るのに、二階の寝椅子の下に潜り込んで出てこない。本能的に身を守っているのだろうか。

眠ろうとするのだが、なかなか眠れない。気になって、寝椅子の下をのぞくと、ニケも眠れないのかじっと、こちらを見ている。うとうとしながら朝を迎えた。仕事を休んで医者につれていこうと思っていたのだが、朝からは少し餌も食べたので、午後から行くことにした。

妻の友人が知っている獣医に電話で予約をしてあった。キャリーには進んで入ったくせに外出に慣れないニケは車の中ではないていやがった。それでも女医さんが優しかったからか、診察は素直にさせた。足を触りながらドクターは言った。
「骨折はしてませんね。何かで足をはさんだのでしょう。これくらいなら抗生物質もいりません。」
不幸中の幸いだった。消毒薬だけもらって、家に帰った。

現金なもので、医者から帰ってきたニケは、ほとんど普通に歩けるようになっていた。昼間は、独りで留守番するニケが自由に行き来できるようにドアは開けたままにし、風で閉まらないようにしてあるのに、何で挟んだのだろう。もしかして、何かのはずみでストッパーが外れたのかも知れない。かわいそうなことをした。私たちが帰ってくるまで、どんなにか心細い思いをしたことだろう。

長いつきあいである。餌の種類なら、見上げた目で、挙げた前足で、何が欲しいのかすぐわかる。遊びたい時も、外に出たい時も分かる。でも、非常事態は、それが効かない。ニケがしゃべれないのがこんなにつらいものだとはじめて知った。それでも、異変に気づくことはできた。ニケは、身を隠すことでそれを教えていたのかも知れない。それが、何より私には耐えられないことだと、彼女は知っていたのだろうか。

 2001/06/14 写真

働きだした頃に勤めていた職場を、用があって訪ねた。予定時刻には少し間があったので、見覚えのある通路をぶらぶら歩いているうちに、薄暗い廊下に幾葉かの写真が展示してあるのを見つけた。カラー写真の列の上、少し黄ばみかけた白黒写真の中に見覚えのある顔が写っていた。

風のある日に撮ったのだろうか、長く伸ばした髪が風を受けて後ろに流れている。顔に髪がかかるのを避けるように少し斜めを向いた顔は、どことなく怒っているような表情を浮かべている。顔の造りはちがっているのに、表情は最近の息子そっくりである。じっと、見ていると、その頃の感情までが思い出されてきて、懐かしい気持ちでいっぱいになった。

「男は四十を過ぎたら自分の顔に責任を持たねばならない。」と言ったのはリンカーンだったろうか。しかし、年相応に責任のとれる顔かと問われると、かなり心許ないものがある。最近は鏡を見るたびに歳をとっていくのを実感する。前髪にも白髪が目立つようになってきていたのに、自分ではいつまでも若い気でいたようだ。若い頃の写真を久しぶりに見て、そこにいるのが自分よりも息子に見えることに愕然とした。写真は正直である。

男の顔は履歴書、とよく言われるが、男に限ることはない。老人の顔には、男女を問わず、その人の生きてきた歴史が刻まれているものだ。不惑の年は過ぎたものの、いまだ自分の顔に自信が持てない。なりたい顔がないわけでもない。死んだ幾人かの詩人の顔に憧れてきた。しかし、鏡の中に見える顔と比べると、面構えという点では、若い頃の写真の方に分がありそうだ。まだまだ修行が足りないというところだろうか。

 2001/06/10 新人

何年かに一度は順番が巡ってくる新人研修の担当がやっと終わった。一週間は後について仕事の様子を見、二週目には自分でやってみるというやり方だ。今年の子は、物わかりがいいのか、あまり質問もしないので、例年に比べて楽だと思いながら一週間が過ぎた。

二週目に入ったので、そろそろ一人でやらせてみようと思い、仕事を任せてみた。新人とは思えないほど落ち着いた仕事ぶりで、これはなかなかやるな、と感心した。ただ、一つだけ気になることがあった。一週間というもの、後について見てきたはずなのに、少し仕事のやり方がちがうのである。確かめると、「この方がいいんじゃないかと思って」という答えだった。

マニュアルというほどのものではないにせよ、どんな仕事にも長い間やってきたやり方というものがある。傍目には、古臭いやり方にうつるかも知れないが、長い間に練り上げられ、最も理にかなった方法になっているのである。面白みはないかわりにまちがいも少ない。まずは、それを身につけてから改変なり何なりを考えるのが道理というものではなかろうか。

創意工夫も大事なことで、その芽を摘んではいけないと思い、従来のやり方の利点や意味を説明した。「なるほど、そうだったんですか」というので分かったものだと思いこんでいた。しばらくして、また同じような仕事をさせてみた。今度は、前とはちがっていた。かといって今までのやり方に戻ったのでもない。また別のやり方を試しているのだ。

「新人類」などという言葉で若い人を形容することは、自分のコミュニケーション能力不足を相手に責任転嫁することだと、ずっと思ってきた。しかし、話している意味内容は理解していると思われるのに、意志が通じないことがあるという事態に直面し、いささかうろたえた。そして、暫くして思いついた。これは理解力の問題ではない。そうではなく、経験や文化、習慣というものに対する敬意というものが喪われていることからきているのだということを。丸山眞男が次のように言っている。
日本人が新しがりなのは、現在手にしているものに含まれている可能性を利用する能力にとぼしいからである。目に見える対象のなかから新たなものを読みとって行く想像力が足りないからである。したがって変化は自発性と自然成長性にとぼしく、つねに上から、もしくは外部から課せられる。     (丸山眞男著 『自己内対話』 みすず書房)
本人の資質の問題というのではない。これは私たちの国民性なのかも知れないということだ。私だって、少し前までは、何か新しい方法はないかと、矢継ぎ早に改変を繰り返してきたのだ。このごろやっと、分かってきたばかりである。より良くすることと新しくすることは同じではない。これを取り違えているのは何も若い人たちばかりではない。新政権を支持する多くの人は立派な大人たちばかりではないか。何かを新しくすれば良くなったように思うのは錯覚に過ぎない。

 2001/06/08 

細かな雨が上がったと思ったら、目の前はすっかり霧に覆われていた。めったにつけることのないフォグランプのスイッチを入れた。ふだんなら目の前に見える山や遠くの町が乳白色の壁の向こうに消え、静まり返ったような景色が目の前にある。

市街地に入るための長い橋に差し掛かった。河口に近いこの辺りでは、堆積した土砂がいくつかの州を作っている。河の表面も霧が覆っているため、どこまでが水で、どこからが空なのか判然としない。乳白色の壁の中程に二つ三つ濃い灰色をした島影が浮かんでいるばかりである。

この橋を通るとき、いつも思い出すのはドイツロマン派の画家、カスパール・ダヴィッド・フリードリッヒの『ドレスデンの大猟場』という絵である。広い画面を上下に二分し、上半分に夕暮れの空を、下半分に水を湛えた湿地の風景を描いたものだ。広い空の下に広がる水と所々に散らばる木を繁らせた砂州が茫漠とした趣を漂わせているのが似通っている。

ところが、この日はベックリンの『死の島』を思い出した。ふだんなら榛の木の茂みは、その樹形まではっきりと見える。糸杉と見まちがうはずもないのだが、霧の帳越しに見る島影は、空と河の境が見えないのもあって、いつもより大きく見えた。しかし、ベックリンの絵は油彩である。色合いもさだかでない薄暮の霧の情景と、どうして結びついたのだろうか。

家に帰ってから、同じドイツの版画家、マックス・クリンゲルに『死の島』をモチーフにした銅版画があったのを思い出した。ベックリンの油彩画でなく、本当はそちらを思い出していたのだ。島の影を見たとき、おそらく初めに『死の島』という言葉が頭に浮かび、その後で作者のベックリンの名が浮かんだのだろう。

夢の脈絡の無さの原因は、その構成が意味を捨象した音声言語による連想で成立しているからだと言われている。思い返してみれば、まことに夢のように覚束ない景色であった。

 2001/06/04 押絵

江戸川乱歩に『押絵と旅する男』という短編がある。注文に合わせて書き飛ばしたような作品も少なくない乱歩の作品の中では、評価の高い一編である。作中人物が押絵の中の世界に入り込んでしまう経緯が語られるのだが奇妙な味わいを持った作品で、澁澤龍彦もこの作品を乱歩の代表作として挙げている。

しかし、現在では、その押絵を見る機会がない。羽子板も押絵の技法を使ってはいるのだろうが、文章に描かれている物とはあまりに違う。これまで、想像は働かせてきたのだが、お目にかかることがなかった。ひょんなことから、その実物を見ることができたのだ。その話をしよう。

隣の町が新しく菖蒲園を作ったというので、日曜日に出かけてみた。残念ながら、少し早すぎたのか、花はまだ少なかった。それでも八つ橋を模した遊歩道を散策しての帰るさ、ふと立ち寄ったのが、産土神を祀った神社である。祭神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)と菅原道真ということで、さても荒ぶる神を並べたものだなと思いながらさして広くもない境内を歩くと、茅葺きの絵馬堂が眼に着いた。

風雨に晒された絵馬のいくつかは、ほとんど顔料も剥げ落ち、見る影もなくなっていたが、中に一枚硝子入りの額に納められた絵馬があった。女と見紛うばかりの若者が薄衣を身に纏い、今しも大男の首をかこうかと剣をかまえた図柄は、倭建(ヤマトタケル)の熊襲征伐の図だろうと思われた。戦勝祈願に奉納したものでもあろうか、それが押絵であった。

熊襲建(クマソタケル)の顔は虫に喰われて無惨な有様になっていたが、その上に覆い被さる形でこちらを向いている倭建の顔は縮緬の白い生地がまだ光沢を残し、妙に艶めかしい感じさえ漂わせていた。布地の質感を活かしながら、中に詰めた綿で柔らかな立体感を出している。半間接光に浮かび上がる白い生地は細部に微妙な影を帯び、今にも動き出しそうな気さえしてくるのだった。

男同士が相争う場面ですらそうなのだから、和服姿の女の人を押絵にしたものならどんなにか生き人形めいたものになるだろう。乱歩や夢野久作が押絵を題材に採った気持ちに初めて得心がいった。保存状態のいい押絵をもっと見てみたくなった。私もまた魅入られたのかも知れない。

 2001/06/02 衣更

最近では、衣更えといっても、今ひとつぴんとこない。みんな適当に暑い日には夏服を着、肌寒い日には冬服を着るようになったからだ。平安の頃は4月1日と10月1日が衣更えの日に決まっていた。現在では、制服に関してのみ6月1日と10月1日が、それにあてられているようだ。

それなら、6月に入れば、学生服が白いシャツになり、町の景色が変わりそうなものだが、特に変わりばえしないのは、ある日を限りに一斉に替えるというところがへり、一定の期間内に替えればいいというところがふえたからだ。6月に入っても寒い日はある。合理的といえば合理的である。

そこまでするならいっそ衣更えの期間を一年中にしたらどうだろう。冬服の期間中にだって暑い日はある。汗を浮かべながら黒い詰め襟服を着せられているのは見ていてもかわいそうだ。ところが、どうもそうはいかない。当事者に聞いたわけではないから勝手な推測になるが、その理由は年間を通じて夏服でも冬服でもいいとなると、制服の意味がなくなるというものではないだろうか。

ユニフォームを着用する職種に共通するのは、個性を前面に出さないということである。警官や消防士が人によって対応がちがっては困るからだ。学生はどうか、考えてみるまでもない。かつては知らず、現在では個性的な考えを持った学生の出現を国や企業は待望している。

めまぐるしく変化していく時代に十分対応し切れてないこの国のことである。中学生や高校生が普通の服を着て学校に登校する日が来るのを期待するのは百年河清を待つに等しいのかも知れない。お仕着せの制服を脱ぐこと能わず、髪を尖らせ、裾を出し、精一杯の自己主張をする高校生を見るたび、「精力善用」という言葉を思い出す。
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