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 2001/05/24 雨季

雨季が来た。毎日雨が降り続く。仕事に通う片側三車線の国道は時速80qくらいの速さで車が流れている。舗装の具合が悪いのか、アスファルトの上にわずかな轍ができていて、それに水がたまるのだろう。前の車の後輪が巻き上げる水のせいで前が見えない。市街地を走っている時は気づかなかった雨の量だ。比喩でなく、まるで水のトンネルの中を走っているような気がしてくる。

一昔前、国産のタイヤメーカーがショーン・コネリーを起用したCFがあった。MGだかトライアンフだかのフルオープンのスポーツカーに乗ったショーン・コネリーが、雨の中を走る映像だった。カヌーで使うスカートのようにドライバーの周りだけをシート状の物で覆っているだけで、屋根は空いたままだ。粋だなあとは思ったが、あれで運転できるのだろうかと、不思議だったのを覚えている。

ある時、本を読んでいて、偶然そのわけが分かった。同じ雨といっても、ロンドンで降る雨と東京で降る雨は、水滴の直径がちがうというのだ。英国の雨粒は、日本でいえば霧程度の大きさに過ぎない。だから、彼らは雨の中、傘もささず、コートの襟を立てただけで悠然と歩いていられるのである。もっとも、英国紳士の象徴のような細巻きの傘は、一度広げると専門家に巻いてもらわねばならないらしいから、その煩雑さも傘をささない理由の一つと考えられないわけでもないのだが。

海岸沿いに延びる国道を信号で右折すると、一本道が真っ直ぐ海に向かい、灰色の空の下に海の在処を示すような松林の影が横にのびている。道の両側には緑の稲穂が広がる。どこまでも続く平坦な水田風景の中に、頭に小さな傘をつけた人の姿が影絵のように浮かび上がった。映画で見たヴェトナムの農村風景を思い出す。梅雨時のこの国はまさに熱帯のアジアそのものである。

 2001/05/21 何でも十円

たまった書類をファイルするための透明なファイルがいっぱいになったので、新しいものを買いに行った。原料の石油価格の高騰が響いているわけでもないだろうが、思ったより高い。同僚が話していた百円均一ショップに行ってみることを思いついた。

文具の棚を物色してみると、あるある。各サイズすべて百円で、機能的には問題のない商品が揃っている。少々見かけが安っぽいのはこの際がまんすることにしよう。次々と増える書類をファイルしていくには、安価なものに限る。前の店では、この十倍以上の価格がついていたのだ。

家に帰り、たしかめてみると、思った通り韓国製である。特別な思い入れのあるものを別にすれば、身の回りに近隣諸国の製品が増えていることにあらためて気づいた。国産のブランドを頼りに高価なものを売るやり方が、通用するような世の中ではなくなってきているらしい。

昔、「何でも十円」という看板を掲げた屋台が町内を回っていた。亀の子束子や、衣紋掛け、孫の手といった日用品の値段が、どれでも皆十円というのが「売り」であった。今とちがって、何かが入り用になっても、手近なところに店はなく、車もなかった。何かの用があって町に出かけるまで、不自由を忍ぶしかなかった田舎の人には、「何でも十円」は有り難い行商であったろう。

今の「百均」は、それを思い出す。たいした物がほしいわけではない。毎日の用さえ足せばそれですむものを、宣伝費用や、デザイン料を上乗せした高価な商品ばかりを買わそうとする小売店のやり方に、納得がいかないだけだ。かゆいところに手が届くというのが「何でも十円」や「百均」の生きる道であろう。

人件費の高さゆえに値を下げることができず、国産品が売れ残ることには、心が痛まないでもない。クリアファイルを例にとれば、改良の余地はある。背表紙の厚さが難である。ファイルは必然的に増える。となれば、同容量で薄いものがほしいのが人情というもの。少々高くても、そういう商品が開発されれば、人によってはそちらを買うだろう。

国産品が生き残るには、そうした企業努力が必要なのではないだろうか。使う人の身になって、使いやすい物を作る、この国は、かつて、そういうものを作り出してきたのではなかったか。今一度、ものづくりの原点に立ち戻ってみる必要があるのかも知れない。

 2001/05/20 『運動靴と赤い金魚

映画は、女の子用の古ぼけた靴を修理する靴屋の手元から始まる。主人公の少年は、お使いを頼まれ、八百屋でジャガイモを選ぶうち、その靴をなくしてしまう。妹は、兄に「明日どうやって学校に行けばいいの」と聞く。兄妹の家は貧しく、靴の替えなどないからだ。新しい靴を買って、と言えない兄妹は、一足の靴を二人で履いて学校に行くことにする。

妹が先にぶかぶかの靴を履いて学校に行く。学校が終わると、街角で待つ兄のもとへ走って帰る。スリッパを履いて待っていた兄は急いで靴を履き、自分の学校に走る。当然遅刻である。しかし、それでも、毎日二人は走り続ける。正直者の父は休日も仕事を探して働こうとするが、手間賃をもらって帰る途中自転車で事故を起こし怪我をしてしまう。

そんなある日のこと、少年の学校で市のマラソン大会が発表された。なんと三等の副賞は運動靴である。少年は、妹に靴をあげるために出場する。ところが、一生懸命走った結果は皮肉なことに一等だった。待っていた妹は、兄の様子から駄目だったことを知り、家の中に入っていってしまう。

しかし、カメラはその前に、家路を急ぐ父の自転車に積まれた買い物の荷の中に赤い靴をとらえている。そんなことを知らない少年は、一人、庭の池に傷ついた足をつける。カメラは水中から少年の足を撮り続ける。その足のまわりに何匹もの赤い金魚が、少年を讃えるように、慰めるように寄り集まってくる。

このラストシーンが秀逸である。少年の報いられぬ努力は物言わぬ金魚の動きによって贖われる。スクリーンの外にいる観客は、ちょうど、水面によって少年の世界と隔てられている金魚と重なる。観客は金魚の姿を借りて少年の足の傷を癒すように撫でるのである。

少年とその妹が走り抜ける小路の情景が美しい。道の真ん中を溝が流れ、狭い空き地では子どもたちが大勢で遊んでいる。カメラは、どこまでも子どもたちの視線でそれらを見つめ続ける。見ているうちに子どもだった頃の自分に戻っていた。ラストシーンの切なさは、かつては自分にもあったものが今では永遠に失われたことに対する愛惜によるのかも知れない。(1997年イラン映画)

 2001/05/16 自然食

妻が台所で呼ぶので行くと、仕事が待っていた。蓮根を下ろせと言うのである。我が家では、おろしは男の仕事になっている。それだけに下ろし金にはちょっとうるさい。セラミック製が出回ったときにはすぐに購入したが、繊維がつぶれるのか、やけに水分が出るのが気になった。今は、昔風の銅製の下ろし金を使っている。目立ての角度が一つ一つ微妙にちがうので、真っ直ぐ野菜を下ろしても次々と下の歯に当たっていくのがよく分かる。心地よい抵抗感があるのだ。

下ろし終えた蓮根に軽く塩をして、手鞠麩くらいの大きさに丸めたものを油で揚げる。見た目は素朴な仕上がりだが、口に入れたとき、むっちりとした歯触りが何とも言えず食欲をそそる。塩以外何の味付けもしていないのにいい味が出ている。素材の持ち味を活かすという点では、この料理がいちばんだろう。我が家では「蓮根ボール」と呼んでいる。

揚げたてをつまみながら、
「これこそ自然食というものだね。」と言うと、
「当たり前じゃない。だって、これはH旅館で教わったんだから。」と、妻が言った。H旅館は、この町ではちょっと知られた自然食レストランで、菜食主義者が安心して泊まれる宿でもある。妻が、友人の勧めで食事をしたとき、吸い物の実として使われていたのだそうだ。

何を隠そう我が家も一時、完全なヴェジタリアンだったことがある。ご飯は玄米にごま塩、副食は根菜類中心といった食事が毎日続いた。当然それまでのメニュウが使えなくなるので、妻としては毎日の献立に苦労したにちがいない。H旅館に行ったのもそういう事情があってのことだろう。子どもに弁当がいるようになり、冷えた玄米が食べにくいことから中断し、今に至っている。

玄米正食には陰陽五行説に基づく理論があり、人間の心理、生理を食との関係から捉えようとしていた。食べ物には陰性の食べ物と陽性の食べ物があり、そのバランスをとって食べることが大事、というのが基本の考え方である。大雑把に分けると、肉類は陽性、野菜も根菜類は陽性だが、葉菜類は陰性、穀類はどちらにも偏ることのない食物ということになる。

この考え方でいくと、たとえば、焼き魚に筆生姜が付いているのも陰陽のバランスをとるためということになる。ふだん何気なく食べていた日常の惣菜類が、新鮮な角度から見られ、とてもおもしろかった。玄米こそ食べなくなったが、圧力釜は重宝しているし、調味料を吟味するようになったのは、その頃からである。

「どうだ、下ろし方がいいから、今日の蓮根ボールのうまいこと。」というと、
「あら、今日の蓮根が新鮮だったのよ。」と、切り返された。どうも最近の妻は極陽性である。陰陽五行説によれば、「陽極まって陰となる」という。すこし生野菜を食べた方がいいかも知れない。

 2001/05/13 韓国冷麺

二日続きの上天気である。冷たいものが食べたくなった。妻が、韓国冷麺が食べたいというので、去年の今頃、看板に「韓国冷麺始めました」とあった店を訪ねることにした。車で数分のところにある店は開いていたが、表にはまだ、看板が出てなかった。昼から焼き肉を食べるほど、気合いは入っていない。車から降りて、聞きにいった妻が手招きをした。どうやらやっているらしい。

小さな店で、窓際には四人掛けの卓子が二つ。土間をはさんで向かいに襖の入った小部屋があるが、そこもよく入って卓子三つくらいのものだろう。夫婦二人でやっているらしい。先客が食べ終わって出ていくと、客は二人だけになったが、すぐに学生が二人入ってきた。
「ランチ二つ」という注文に、亭主が
「今日は日曜なのでランチはできません」と、ぶっきらぼうに答えた。客は一瞬困ったようだったが、今更帰るわけにも行かず、焼き肉を注文したようだった。

冷麺が運ばれてきた。氷をのせた腰の強い麺の上に白菜のキムチと大根のナムル、トマトと林檎の薄切り数枚。それにやはり薄く切った茹で卵が乗り、そぼろ肉と松の実が上からかけてあった。よく冷えたスープとともにかき混ぜて麺をすすると、舌の上でキムチの辛さとナムルの甘酸っぱさが程良く混じり合い、何とも言えぬ味が広がった。

「美味いな」というと、一人韓国まで出かけ、本場の冷麺を食べてきた妻も、「美味しい」と顔をほころばせた。盛岡冷麺によく似ているが、辛さの切れが一段と冴えるようだ。韓国冷麺をはじめて知ったのは、亡くなった伊丹十三の『女たちよ』の中。二日酔いの朝に食べたくなるという触れ込みが気に入った。ただ、いくら食べたくても、その頃は韓国冷麺を食べさせる店などなかった。

美味いものを食べているときは、ふだんは饒舌な二人とも寡黙になる。麺をすする音だけが聞こえる食卓に、女将さんの息をはずませた声が響いてきた。
「ごめんな。日曜はランチができんで。その代わりロース、いいところにしといたでな。ほんとにごめんな。」
そう言いながら、持ってきたタン塩の美味い食べ方を懇切丁寧に教えているのだった。

長男が一人暮らしをしている近くにこんな店があったらいいのに、と思いながら顔を上げると、妻もやっぱり微笑んでいた。たしかに美味しい冷麺だったが、人柄が味に出ているのだろう。辛さの中にも後をひくものがあった。また来ようと思った。ここなら車を置いて歩いてきたら飲むことができる。一杯やりながら食べたいものがまだまだたくさんあった。

 2001/05/12 

堤防の階段を上りつめると、急に海が開けた。風のない午前の海は陽を受けてきらきらと小さな波を浮かべていた。海は久しぶりだった。東の方に湾曲して延びる入り江の向こうに青い島影が見える。もうずいぶん前のことだが、その向こうにあるはずの小さな島に住んでいたことがある。

周囲四キロの小島で、海はどこにいても目に入ってくる。一時も自分が海の中にいることを忘れさせてはくれない。時化の日など、窓から海を見ていると、沖の方から押し寄せてくる波に飲み込まれてしまいそうな気がしたものだった。

霧が島をすっぽりと包んでしまう日には、燈台に続く山道を歩いていても、すぐ下に広がっているはずの海さえ見えない。まるで、空の上に浮かんでいるような不思議な感覚に襲われそうになるのだった。乳白色の壁を通して聞こえてくる霧笛だけが外界の存在を唯一伝えてくれていた。

あの圧倒的な海と比べると、今目の前に横たわっている海は、空と陸によって抱かれて、眠っているようにすら感じられる。堤防に沿って続く松並木がとぎれる辺りが入り江の西の外れ。こんもりした森は鎮守様でもあるのだろうか。その前には波除けの堤が突きだしている。

「われは海の子、白波のさわぐ磯部の松原に」と、歌い出したくなるような典型的な白砂青松の海の景色である。もっとも、幾本かの松は立ち枯れ、砂浜には、もう船が上がることもないからか、一面に草が生え、ところどころに浜昼顔の花が顔をのぞかせている。

かつては地引き網を引く勇壮な声が、聞こえてきたであろう海辺の家々は、低い屋根の下に鈍色の瓦を載せた長い庇を張り出し、庭にひときわ濃い影を落としていた。雄鶏が時をつくるほかに音らしい音もなく、静まり返っている。時が止まったような風景の中、堤防に腰を下ろし、いつまでも海を見ていた。菜の花に似た薄紫の花が、時折吹く風に揺れるほかは動くものとてなかった。

 2001/05/11 醤油

家に帰ると宅配便が届いていた。箱の見慣れた形と大きさから醤油が届いたのだと分かった。我が家の醤油は、十数年以上も昔から、ずっとこうして毎年、一升瓶で半ダースずつ送ってもらっている。箱を開けると、めずらしく手作りのパンフレットが入っていた。

手作り醤油と田舎味噌、それともろみの紹介だったが、いちばん下に次のような文が添えられていた。「これらの商品は店頭販売も致しておりますが、手作り醤油に限りましては製造数に、限りがございますので店頭販売いたしておりませんが、もしお客様が当店にお立ち寄りの際に、店員にお声をかけて頂きましたら蔵よりお持ち致します。」

へえ、そうだったのか、と驚いた。今までそれと知らずにずいぶん値打ちものを欲しいだけ送ってもらっていたのだ。それというのも、何かで知って手に入れたのではなかったからだ。古い町並みが好きで、子どもたちがまだ小さかった頃、よく家族で出かけていた。この醤油に出会ったのもそんな旅の途中だった。

ある時、岡山県にある、弁柄で有名な町に立ち寄った。観光地然としていなくて、昔ながらの街並みが続く通りを歩いていると、一軒の店の前に焼き物でできた醤油樽が並んでいるのを見つけた。民芸に目がない頃だったので、その樽目当てで、土産にするには少々かさばるのを承知で買い求めたのだった。ところが、一度使ってみると、もうほかの醤油に代えることはできなくなってしまった。それほどおいしかったのだ。

日本料理が、その繊細な美意識を誇りながら、国際的な料理になれないのは、醤油というソースが、すべての味の決め手になっているからだ、という話をどこかで読んだ。あまりに万能な調味料を持つゆえに多彩なソースを産み出すことができなかったというのである。

それまで、毎日使ってはいたものの、醤油などどこのものでも大して違いはないと高をくくっていたのだが、この醤油が残り少なくなってくると危機感に襲われた。焼き物の樽には、醸造元の名前こそあるものの、住所も電話番号も書いてなかったからだ。

何軒かに電話した後で、やっとお目当ての醤油工場につながった。いきさつを話し、送ってくれる訳にはいかないものかと聞くと、「お送りしましょう」と、あたたかい返事を頂いた。宅配便が軌道に乗りだした頃であったのも幸いしたのだろう。以後、我が家の醤油はこれだけである。

ラベル一枚貼られていない、実にシンプルな醤油瓶だが、この箱が届くと、ほっとする。これで、少なくとも一年間は、安心して食卓に着けるからだ。しかし、不安がないわけではない。新しもの好きの国民性の所為か、店でも物でもそうだが、気に入って長い間なじんできたものが、いつの間にか姿を消しつつある。この醤油工場を支える皆さんの息の長い活躍を切に祈る次第である。

 2001/05/09 公園

隣町の公園に行った。野外コンサート用のステージの前に、広い芝生が広がっている。それを囲むようになだらかなスロープが迫り上がり、アリーナの観客席状の空間を構成している。大きく枝を広げた楠が、少し間をあけて植えられていた。銀灰色をした若葉が木の上半分を明るく見せている。

雨があがったばかりで、水をたっぷり吸った広い芝生からあがる湿気は耐え難いほど蒸し暑く、時折薄日が射す以外は、空は灰色の雲の層に覆われている。平日の午前の公園に人影はなく、管理の行き届いた芝や植木ばかりが目についた。

人のいない静まり返った公園を眺めていると、ふいに既視感に似た感情に襲われた。本当に見たのではなかった。映画の中で見たのだ。ミケランジェロ・アントニオーニ監督の『欲望』という映画だ。デヴィッド・ヘミングス扮する写真家が主人公だった。どこといって変わったところのないその公園は不思議に奇妙な印象を見る者に与えた。今から思えば、奇妙な印象を残した理由は、カメラマンの視線を通してとらえられた風景ゆえに、音が消されていたからではなかっただろうか。現実感を喪失した風景は、主人公の心象風景だったのかも知れない。

その後本当に目にしたロンドンの公園では威厳のある老人がベンチに腰を下ろし、ゆったりと新聞を読んでいた。その向こうでは大きな犬に追われた栗鼠が木にかけ登っていた。広い公園の中には、小径が行き交い、まるで、森のように大きな木が至る所に木陰を作っていた。

私の住む町のもう一つの隣町にも整備の行き届いた公園がある。そこもやはり真ん中は、何もないだだっ広い芝生のグランドになっている。どうやら運動することを想定して、広場の中に木を植えることをしないらしい。家族連れが、公園で遊べるのは休日ぐらいのものだろう。ウィークデイの公園はだから、音のない非現実的な公園になる。ちょうど映画の中の風景のように。

公園が、休日の家族連れ専用の施設と化すには、もう一つ理由がある。それは、旧市街には広い土地を確保できないために、郊外に公園を設けるから、車で通うしか利用するすべがないのだ。ちなみに、ロンドンでは、公園を出たところに地下鉄の入り口があった。

誰もが遮二無二働いて現在のこの国を作ってきた。リタイアした老人などいなかったとも言える。みな現役だったのだ。しかし、今は違う。仕事を終えた人々がゆっくり時間を過ごせる余暇ができた。食事の後、気儘に散策したり、木陰で、新聞や雑誌を読んだり、顔なじみと談笑できる公園が歩いていけるところにあれば、どんなにかいいだろう。

経済の成長だけがすべてではない。人が生きていくことにそれなりの敬意を表することのできる社会こそ、成熟した社会といえるのではないだろうか。この平日の午前を何をするでもなく時を逝かせている多くの人たちにとって、この国に生きた意味は何だったのだろうか。人気のない公園で、そんなことを考えていた。

 2001/05/06 キャベツとアンチョビのパスタ

昼近くになった頃、妻に一つ仕事をたのんだ。「いいけど、お昼はお願いね。」と言われて、仕方なく台所に立った。何かを作るといっても、できるものはしれている。冷蔵庫やら棚やらを見て、キャベツとアンチョビのパスタを作ることにした。自分で作るのならいちばん好きな料理を作るのが当たり前だ。簡単にできるから、作り方を紹介しよう。

まず大鍋にたっぷりの水を入れ火にかけた。湯が沸騰するのを待つ間、下準備をする。キャベツは中葉なら二、三枚を適当な大きさに切って水洗いをし、ざるにあけておく。アンチョビは缶入りのものを小さくちぎって、一缶分小皿に出しておく。唐辛子の端を切り、中の種を抜き、料理鋏で一ミリ幅くらいに輪切りをする。

湯が沸騰したら塩を一つかみ入れ、人数分のパスタを用意し、鍋の上で軽く一ひねり。こうすることで、パスタがくっつくのを防ぐ。これはテレビドラマで覚えた。今日はオイル系だから細身のスパゲッティーを使い、きっかり九分間ゆでる。ゆでる時間はパスタの種類によってちがう。パスタの袋に書いてある時間を参考にすること。今日は四人前作ることにした。自分の分だけは二人前だ。

三分前になったら、パスタをゆでている鍋にキャベツを入れる。フライパンを用意し、オリーブオイルをあたため、唐辛子とアンチョビを入れる。このとき、お玉半量くらいの茹で汁を入れ油に馴染ませる。時間になったらパスタとキャベツの湯を切り、フライパンに入れる。先ほどのアンチョビや唐辛子と軽く混ぜ合わせたら火を止め、皿に盛りつける。

ミルで挽いた黒胡椒を皿の上からパスタにかけてできあがり。こう書くと、いかにも簡単なようだが、勘所は妻の助言を得たのは言うまでもない。好みによるが、直前に冷蔵庫で冷やしておいた白ワインをグラスに用意して、一緒にいただくとなお良い。アンチョビの塩辛さが、食欲を刺激するのか二人前なら軽く入ってしまう。どうか、一度お試しあれ。

 2001/05/05 新緑

山はまぶしいほどにあざやかな黄緑色に変わっていた。常緑樹の多い山なのだが、それでも山麓から中腹にかけて、斑に染め分けられていた。久しぶりに降った雨のなごりか、空は晴れているのに水蒸気をふくんでぼんやりとにじんで見える。

いつもは、山についてから小屋で昼食を食べるのだが、連休中どこにも行かず、食事の世話ばかりさせていた妻にも、たまには人並みの気分を味わわせたいと思い、外で食べることにした。小屋からさほど遠くないところに、二、三年前に出来た自然休養型施設がある。温泉も出て宿泊もできるとあって、結構にぎわっているようだ。

連休中いちばんの好天とあって、案の定混んでいた。広い駐車場にようやく一台分空いたスペースに車を滑り込ませると、レストランに向かった。サイクリングやテニス、それにバーベキューの施設もあるからか、小さい子ども連れの客が多かった。二人掛けのテーブルが空いていたので、待たずに座れたのは幸いだった。私たちが席に着いた後は行列が出来ていた。

アーチ状に湾曲した広い窓の、すぐ手前に山の緑が迫っている。芝生の上の四阿でバーベキューを楽しむ人たちの声はここまで届かないが、楽しそうな様子は伝わってくる。妻は川魚のムニエルを私は肉料理を注文した。ポタージュからデザートまでの簡単なコースだったが、主料理に添えられたレンズ豆とオーブンで焼いたトマトに料理長のこだわりを見る思いがした。

レストランに隣接する喫茶室は、床面より一段掘り下げられた隅に暖炉が切られ、リゾートホテルを思わせる造りになっていた。新緑の今は人で溢れているが、秋も深まった頃なら、暖かな火の近くに椅子を寄せて、珈琲でも飲みながら窓の外の葉を落とした木々をゆっくり見ているのもいいだろうと思われた。

小屋の窓を開け、風を入れると、少しよどんだ空気はすぐに抜け、爽やかな初夏の山の気でいっぱいになった。ベランダに降り積もった木の葉を掃き落とし、デッキチェアを持ち出した。疲れたのか、それともワインが今頃まわってきたのか、妻は少しうとうとしはじめた。持ってきた本を開くと、白い紙の上で木漏れ日がちらちらと踊った。遠くで鶯が時折啼くほかは、風と水の音しかしない。静かな山の午後である。

 2001/04/24 外国語放送

職場が変わったために通勤に時間がかかるようになった。朝は少し早く家を出ないといけないが、三車線の国道を走るので、車の流れは市街地を走っていた頃に比べると格段にいい。それでも以前の二倍、車に乗っていることになるので、今まで聴くこともなかったラヂオのスイッチに手が伸びるようになった。

中でもよく聞いているのは、この地方にいる外国人向けに、英語や中国語でニュースや音楽を流している、開局して間もないFM局である。中身が分かるわけではない。英語のニュースなど、内容の半分くらいしか理解できないのが本当のところだ。では、なぜ聞くのか。

かつては比較的落ち着いた放送が聴けたFMでさえ、最近では早口のアナウンサーが増え、必要のないことをくどくど話すのに嫌気がさしていた。英語だと、早くても、そのテンポは自然に耳に入ってくる。それに音楽の紹介も必要最小限の内容しか話さない。そこが気に入っている。

昨日は、用があって、何度も同じ道を走ったのだが、ドナ・サマーのソウルフルな歌声を聞きながら、よく晴れた朝の道を走っていると、アメリカのハイウェイでも走っているような気分になってくる。また、ヴォリュームをいっぱいに上げてサンタナのブラックマジックウーマンを聞きながら、薄暮の道を走っていると、オレンジの光が少しずつ明るさを増して 、道の両側を滑っていくのが妙に心にしみる。まるで、今夜泊まるドライブインでも探しているような雰囲気になってくるのだ。

一昔前にも、この道を何度も走ったことがあるのだけれど、その頃は、こんな気分にならなかった。流れてくる曲と、英語のアナウンスが影響しているのだろう。なんだか、少し得した気分だ。季節の変化とともに、アメリカが別の国に代わるかもしれない。フランス語や、イタリア語の放送も、この時間にやってくれないものだろうかと、虫のいいことを考えている今日この頃である。

 2001/04/16 メルツバッハー・コレクション展

愛知県美術館で開かれているメルツバッハー・コレクション展を見るために、久しぶりに名古屋まで車を走らせた。今週末に始まったばかりなので、もっと混んでいるかと思ったが、以外に閑散としていて、ゆっくり見ることができたのは何よりだった。

会場入り口近くには、日本人の好む印象派の画家たちの絵が揃えられていた。ゴッホやルノワール、それにモディリアーニの作品は、それぞれ一点ずつの展示ではあったが、彼らの円熟期のもので見応えがあった。しかし、青の時代のピカソも含め、どの絵も素晴らしいものの、これらが今回のコレクションの中心ではない。

メルツバッハー夫妻は、色彩の鮮やかな絵の蒐集家として有名だそうで、今回の作品展の主題は「色彩の歓び」と名づけられている。フォービズムや表現主義の絵画中心の個人コレクションという前評判通り、ふだんあまり目にすることができない作家の絵に出会えるのも楽しみのひとつかもしれない。

「青騎士」時代のカンディンスキーの絵が数点並べられていた。抽象に移行する前のものだが、その色の美しさには目を奪われた。しかし、「橋」のグループの絵をはじめとして、あまりにも強烈な色彩の絵がそれぞれ自己主張しているので、長く見ていると、少々息苦しくなる憾みがある。そんなとき、クレーの小品に出会うと、ほっとする。エルンストの前でもそれと同じ感じを受けた。

個人的には、ココシュカが描いた「フィレンツェ」が今回のいちばんのお気に入りということになろうか。アルノ川にかかるポンテベッキオを画面の中心に入れ、少し高い位置から俯瞰でとらえた絵なのだが、なんという色彩だろうか、絵の中から光が溢れてくるようなのだ。光といっても霊的、精神的なものとはちがって、何か魂や感情のように、生気漲る光である。マーラーの死後アルマは、若いココシュカと愛し合うことになるが、その理由が少し分かったような気がした。

帰りの車の中で、見てきたばかりの絵のことを考えていた。窓の外では春霞に煙る山の稜線が青灰色の階調を奏でていた。風のないあたたかな日曜日。長閑な春の日和である。表現主義絵画の強烈な色彩は、このあくまでもおだやかな光景の中に同化しかけていた私の自意識にかすかな異化作用をもたらしたようだ。風景の優しさもまたひとつの陥穽なのかもしれないなどと、ふと思ったりした。

 2001/04/14 「用の美

「芸術新潮」が普段使いの器の特集をやっている。その中の骨董店主四人の対談を読んでいて成る程と思うことが多かった。たとえば、鎌倉時代を代表する運慶快慶などの彫刻をミケランジェロの彫刻と比べつつも、どちらかといえばあまり評価しないで、鎌倉以前の仏教彫刻の方を買うという話などがそうだ。

骨董店主によれば、鎌倉以前の仏像には、信仰に用いるための、「用の美」がある。それに比べると、運慶らの彫刻には作者が自分を出しているのが見え、それが興趣をそぐという。「用の美」というのは民芸運動の提唱者として知られる柳宗悦の言葉で、道具が本来持つ機能に忠実なものが見せる美しさのことを言ったもので、芸術家を標榜する作家の作品に対比せられている。

作家の個性やオリジナリティーというものが価値を持つという考え方がある。その一方で、すべてのものは先行するスタイルのいい意味での模倣から免れないという考え方がある。それを敷衍すれば、良いものを作るのに、「自分」などというものを出そうなどと考える必要はないという境地に近づくことになろう。作家名がブランドになるのでなく、すぐれた作品のみが存在するのである。

近頃、新しい歴史教科書を作る会による教科書が検定を合格したことがいろいろ話題になっているようだ。おもしろいのは、その中に日本の仏教彫刻をミケランジェロと比べてその素晴らしさを誇る記述があることだ。日本国民のアイデンティティーをそれらの彫刻に見ようとし、その相手にミケランジェロを持ってくるという着想が骨董店主の発言と符合しているのが面白さの第一である。

面白さの第二は、そこまで一致していながら、結論がちがうところだ。かつて新右翼のリーダーとして名を馳せた鈴木邦男氏が「作る会」の教科書について一文を新聞に寄せている。氏は、その中で、かつての日本は韓国や中国から学ぶ謙虚さを持っていたが、日清日露戦争以来それをなくし傲慢になったと言い、さらに言葉を継いで、日本人が誇るべきは謙虚さであり、傲慢さではないとまで言っている。

ここで思い浮かぶのが柳宗悦である。「用の美」を追い求めた柳は多くの日本人とは異なり、焼き物を通じ、朝鮮半島の文化や人々の良き理解者となっていった。ミケランジェロの彫刻の素晴らしさを語るのにイタリア人の優秀さを持ち出す必要はないだろう。李朝白磁の美しさもまた陶工の名を必要としない。見るべき目があれば、国や個人の名をこえて「美」は輝きだすものである。

日本が元気をなくしているといわれて久しい。一部の人にはそれが悔しくてならないのだろう。自国の文化の優秀性を誇ることで、ルサンチマンを晴らそうとしているのかもしれない。しかし、である。「贔屓の引き倒し」ということもある。ここは、鈴木氏もいうように日本人がかつて持っていた謙虚さを思い起こしたい。その謙虚さなくしては、日本文化と言えるようなものが果たして成立したかどうか危ういものがあると思うのだが。如何なものだろうか。

 2001/04/08 物見遊山

大阪のユニヴァーサル・スタジオ・ジャパンが三月末に営業を開始したことは、先行するテーマ・パークの中で一人勝ちを続ける東京ディズニーランドを除く全国の観光地にとって深刻な問題として受けとめられているようだ。

リゾート振興法が成立し、日本各地に娯楽施設が次々と作られたのは、ついこの間のことだった。それがどうだろう、宮崎のシーガイアはすでに営業を停止し、長崎のハウス・テンボス、志摩のスペイン村も集客力の衰えは隠せない。非日常性を売り物にしつつ、恒常的に人を呼ぶことは論理矛盾である。人寄せに次々と新しい設備投資を強いられては、経営的にも苦しかろう。

新興の観光地に比べ、門前町や鳥居前町が有利なのは信仰という動機づけがあるからだ。とはいえ、このご時世である。古くからある観光地もいつまでも昔通りのやり方でやっていけるという保証はない。これといった財源を持たず、観光でもっている町ならなおさらである。

私の住む町でも、地元の企業家の発案で昔ながらの鳥居前町を中心に、古い街並みを再現した街作りがなされてきた。飲食店や土産物店を並べた町内町とも言える区画に合わせるように古くからある本通りも石畳を敷き、通りに面した建物はこの地方独特の切り妻妻入りの屋根に出格子という意匠に揃えた。規模の手頃さと立地条件のよさが幸いして今のところ好評らしい。

所用あって、花見がてらに訪ねてみた。相変わらずにぎやかな通りだが、木の色も新しい昔風の街並みがずらっと並ぶ表通りは作り物めいてどこか空々しい。かえって、一歩道を外れると、昔を思わせる静かな世古が思いがけず姿を現すのがうれしい。細長い世古越しに春霞に煙る山を見ていると、タイム・スリップにも似た感覚に襲われる。

御裳裾川にかかる太鼓橋の上に立つと、花曇りの空に山影は大きく迫り、山桜が裾模様のようにぼんやり浮かんで見えた。左岸には桜並木、右岸には料理旅館や茶寮が昔ながらの佇まいを見せて並んでいる。長い白壁土塀の上に差し掛かる枝から、折からの風に誘われるようにひきもきらず川面に桜が舞い落ちる様は、まるで吹雪のようだ。

紋切り型を絵に描いたような光景の中に立ちながら、これはこれでいいのだと思えてきた。人の営為を余所に、今桜が咲き誇る岸に、秋になれば金色の銀杏並木が姿を現す。なんの設備投資をせずとも、季節が巡れば人はまた立ち戻るにちがいない。物見遊山の楽しみはこうした定型の中にこそあるといえよう。

 2001/04/06 身体の領域

新しい職場に変わって一週間たった。仕事自体は変わらないのに、気候や風景の明るさ、暖かさとはうらはらに、ここ数日浮かぬ気分が続いた。職場の雰囲気は良く、人間関係の変化で気分が沈んでいるのではなさそうだ。

考えられるのは、新しい環境に身体がうまく反応できないことからくる、過度の緊張によるストレスがある。皆それぞれ忙しく立ち働いている。新しく来た者につきっきりで世話をやいている暇などない。だから、仕事をするのに必要なものを手に入れようと思ったら、自分でどこにあるかを探すなり、その度に人に聞くなりしなければならない。これはストレスがたまる。

われわれは日常的に多くの行為を無意識の裡に行っている。角を曲がったり階段を下りたりするのは、われわれの肉体がしているのであり、知性がするのではない。それらは身体の領域に属している。新しい環境に入ると、肉体はそれらのひとつひとつに違和を感じ、われわれに意識の集中を命じる。ふだんは肉体が無意識裡に行っている行為を知性が受け持つのである。

普段通りの仕事をしようと思ったら、身体の助けがない分、知の領域に余分な負担がかかるわけである。ひとつの行為が動作の繰り返しによって習慣化され、身体の領域に移るまで、知の領域の荷重労働は続き、それがわれわれをして疲れさせ気分を落ち込ませるのである。

放っておいてもいつかは体が慣れ、やすやすと物事をこなすようになる。それでも、もっと早く気分を変えたいなら、逆にいつもの何倍か動くことである。身体を使う行為は肉体的な疲労を誘うが、知的疲労にはむしろ効果的だからだ。むろん限度はある。ふだんから働きすぎる人にはこの処方は効き目がない。あまり動かずに物事を処理している人向きの処方であることをお断りしておく。

 2001/04/01 

街並みが急にはなやかになったなと思ったら、しばらく見ないうちに彼方此方に桜が咲き始めていた。桜の開花には低い気温が二、三日続く必要があるという。これは、秋の紅葉も同じだ。温度の急激な変化が開花なり紅葉なりのスイッチを押すメカニズムになっているのだろうか。

それにしても、桜の花には人の心を落ち着かなくさせる働きのようなものがある。「桜の樹の下には屍体が埋まっている」と書いたのは梶井基次郎だった。桜の花の持つ妖しさをうまく言い当てているではないか。もっともこの屍体、美しい女のものと想像してしまうのは、坂口安吾の「桜の森の満開の下」とごっちゃになっているのかもしれない。

ドイツでビアホールに行ったとき、日本人が入ってきたのを見たバンドが即興で「さくらさくら」を演奏してくれたことがあった。いつ頃から日本人といえば桜ということになったのだろうか。

万葉集の中で「花」と歌われているのは梅のことだと聞いたのは大学の教室だったと思う。定家卿の有名な「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」の中に詠まれている花は桜だろう。「浦の苫屋」のさびれた風景と対比するには桜でなければならない。だとすれば、すでにこの時代「花」といえば桜という共通理解があったことになる。

桜で歌詠みということになれば西行を忘れるわけにはいかない。「願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ」と歌われているこの花はもちろん桜である。鎌倉時代には「花」といえば桜に変わっていたのは確かなようだ。その西行が、庵を結んでいた跡が今でも近くの山の中にあるという。西行法師の見た桜が御裳裾川の流れを臨む岸辺に今年も咲く季節になった。
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