ESSAY HOME WORDS REVIEW

>> INDEX
2001/2〜3
2001/4〜5
2001/6〜7
2001/8〜9
2001/10,11
2001/1〜2

  2001/12/31 大晦日

おだやかな年の瀬である。昨日から台所に立ちっぱなしだった妻は、ようやく作り終えたお節の詰まった重箱を昨日帰ってきた長男に持たせると、実家にとどけにいった。二男は友人と近隣の遊園地でカウントダウンを迎えるために駅に向かったところだ。朝、有明の月を見た西の空に薔薇色に縁どられた綿雲が浮かんでいる。年越し参りに繰り出す人たちも今夜中は降られないだろう。

若い頃は、年の瀬が迫ると分けもなしに気分が高揚してきたものだったが、近頃はとんと心が騒がなくなった。大学時代をのぞいて、ずっと故郷の家に暮らし、妻も同郷である。年末の民族大移動を経験したことがないのは、ありがたいようで、少し寂しい気もする。正月買い物に出かけた先で、久しぶりに見知った顔を見かけた。はす向かいの家の長男で、学校時分一つ下にいた。たしか東京に住んでいるはず。年末に帰郷する気分はどんなものだろうか、ちょっとうらやましかった。

ふだんなかなか手を入れることができないでいた家のあちこちの綻びを修繕するのは、いつも歳の暮れになる。大掃除でもないと、気がつかないくらいの小さな箇所だからだ。網戸や窓枠を直しながら、小さい頃を思い出した。父も年末になると、やはり家の手入れをしていた。器用な人だったから、ほとんどのことは自分でやっていた。台所を改造するときも、配管の部品ならどこと、大工や左官が行く店に出向いた。今とちがって、DIYの店などなかったからだ。

小さい頃は自転車のサドルとハンドルの間に子ども用のサドルをつけてもらって、父の腕の間で揺られていった。少し大きくなると後ろの荷台に、大人用の自転車が乗れる頃には自分で漕いで、よくそんな店についていった。川沿いにのびた問屋街は、陸上輸送が中心になったその頃には少しずつ寂れかけていたのだろう。どこもひっそりとして三和土の黴臭いような匂いがした。

家中の掃除を終え、電球も年に一回の取り替えを終えると、家がぱっと明るくなり、子ども心にも気分のあらたまるのを覚えたものだ。注連縄を飾り、鏡餅をおいたら気分はもう正月である。最後の仕上げは銭湯で一年の垢を落とす。近所の人も集まってきて、いつもより一段とにぎやかだった。帰り道、散髪したばかりの頭の後ろがなんだかすうすうして心許ない気がしたものだ。

町内はその頃とほとんど変わらない。銭湯も有り難いことに今でも続いている。床屋にも行った。「よいお年を」という声を背中で聞くと、やはり年の瀬である。もう少しすると、家の前の道を今年も年越し参りの客が歩き始める。その音を聞きながら鰊蕎麦を食べるのが近頃の年越しである。何かと騒がしい年であった。来る年が落ち着いた良い年であることを静かに祈念したいと思う。

 2001/12/19 流行り歌 

西の空に夕映えが消え残っている。高圧線の鉄塔から鉄塔へ幾筋もの電線がゆるやかな弧を描いて弛んでいる。不規則な間隔でテレビアンテナが林立する屋根の下、電照菊のビニールハウスに灯が入り、夜汽車の窓のように長く一列に光り出した。さっきから、繰り返し頭の中に子守歌が流れている。静かに語り聞かせるような旋律。女の人の声だ。誰の声だったろうか。

時折、何の前触れもなく、いつか聴いたことのあるメロディーが頭の中で繰り返し流れているのに気づくことがある。新しい歌でなく、懐かしい曲であることが多い。脈絡のないところは夢に似ている。夢は、言語で構成されていると聞いたことがある。夢のでたらめさは、しりとりのように、同じ音の組み合わせが新たなイメージを呼び起こすのが原因らしい。夢に関しては思い当たる節があるのだが、頭の中に鳴る音楽については、いまだにこれといった心当たりがない。

「あっ、Hush a byeだ。」と、気づいたときには、記憶の扉が開き、ピーター、ポール&マリーの三人の姿が浮かび上がってくる。ギター二本のアンサンブル、女性ボーカルに男声コーラスが絡むモダーンなフォークグループだった。特にシンコペーションを効かせたスリーフィンガーピッキングは、あの頃ギターを始めた人なら誰でも食指を動かせたであろう、お手本のようなギタープレイだった。楽器屋で買った教則本に載っていた「虹と共に消えた恋(Gone The Rainbow)」は、アルペジオで弾けるのでよく練習したものだ。

中学校の修学旅行は東京だった。後楽園球場で野球を見た後、東京タワーに登った。大都会の夜景にはさほど驚かなかったのか、覚えているのは展望台からの夜景ではなく、土産物を売る階に流れていた『虹と共に消えた恋』だった。原詩を読めば分かるはずだが、あの頃流行りの反戦歌で、さみしいメロディーだった。旅の夜ということでセンチになっていたのか、妙に心に残っている。日本語の歌詞で歌えたことも記憶に残っている理由だろう。

思えば、あの頃は、向こうの曲に日本語の歌詞をつけて日本の歌手が歌う、今で言えばカバー曲が、かなり頻繁に発売されていた。まだ、日本製のポピュラーミュージックの需要は少なかったのか、宮川泰や中村八大のようにポップスの書ける作曲家もいたのだが、もっぱら、アメリカンポップスや、サンレモ音楽祭で評判になったカンツォーネ曲などが人気の中心を占めていた。「ザ・ヒット・パレード」のようなTV番組が、あちらの曲に日本語の歌詞をつけて歌うやり方を流行らせる一因になっていたのかもしれない。番組数が限られていたこともあって、誰もが見ていたのだ。

ひるがえって、今はどうか。レコード業界の売り上げやヒットチャートを見る限り、ほぼ日本製の曲で占められている。プロデュースしているのは、往時のポップスをよく知っている層らしく、曲のアレンジが、かつてのヒット曲そっくりで驚かされることも多々ある。間奏だけ聴いていれば、まったく同じ曲に聞こえるものさえある。盗作と言われても仕方がないところだろう。メロディーさえ違っていれば、アレンジは構わないということなのだろうか。ずいぶん人をばかにした話である。

たしかに、ビッグアーティストが現れず、世界的なヒット曲に恵まれないこともある。かつて耳にした曲が新鮮に聞こえるくらいには時代は巡ったのかもしれない。だからといって、新しい革袋に入っているのが古い酒だと知らずに飲まされている今の人たちは、それでいいのだろうか。ほんとうにかつての曲がいいのなら、カバーだとはっきり宣言して歌えばいいのだ。スタンダードというのは、そうして作られるのである。そろそろ、日本のポップスのスタンダードができてもいい頃だろう。突然、ふっと頭の中で鳴る曲の歌詞がいつも英語というのも悪くはないが、もちろん日本語でもいっこうに構わないのである。荒木一郎の曲など、あか抜けていたように思うのだが、どうだろうか。

 2001/12/16 放下 

朝が寒くなった。たまの休みだから、ゆっくり朝寝を楽しみたいと思うのだが、夜明け前になると、猫に起こされる。猫は夜行性動物だから、昼間は放っておかれたらずっと眠っている。問題は夜だ。ほんとうは遊び相手がいればいいのだろうが、一匹だけの飼い猫暮らしである。さみしくなると、起こしにくる。一応は朝ご飯のつもりらしいが、何ほども食べない。かまってほしいだけなのだ。あまやかしたのは私だから、起こされるのは家族の中でも私だけである。

夏などはまだいいが、冬の朝は寒い。寝床が恋しい。それでも起きてしまうのは、猫の相手がいやでないからだろう。猫は、階段の手摺りを掻いて喜びを表している。何かをして相手が喜ぶのを見るのはうれしいものだ。人間同士だと恩義などの感情が絡むのでかえって厄介だが、一方的に庇護者の立場にある場合は、何かをしてやることは相手のためだけでなく自分にとっても気持ちのいいことだ。

よく、子育ての苦労などというが、幸いたいした病いもせずに大きく育ってくれたので、苦労らしきものを感じたことがない。子どものためにすることは、何か見返りを気にすることでないから、親はどんなことでもしてやれて、それが苦にならない。それどころか、実は大きな喜びをもらっていたのだと最近思うようになった。子どもが大きくなると、自然に親離れをして、親がしてやれることが何ほどもなくなってしまう。自分に寄せる関心を相手に向けることで逃れられていた執着心が再び自分に向かってくる。我執というやつだ。

「近代的自我」という概念が発見されて以来、われわれはかつてのように何も考えずに生きるということができなくなってしまった。何も考えていない人間は、時代の潮流に乗って生きているだけだから必然的にエゴイズムの虜になっている。自己実現とやらに拘るのも私利私欲にうつつを抜かすのも我執のなせる技である。自分のことにのみ執していると、顔が卑しくなってくる。かといっていつも人のためにというのも煩わしい。災害時に限ってのボランティアの流行は、この辺の心理から必然的に生まれてきたのではないだろうか。

イスラムの国を旅したとき、「ここでは、貧しい人に施しをするとき、された方でなく、した方が感謝の念を表すのです。」と聞いて、奇異な感を持ったが、説明を聞いて腑に落ちた。施しを積むことがアラーの思し召しにかなうことだからである。来世も神も信じないが、現世だけを考えても、何かのために我を忘れて動くのは悪くない経験である。ただ、自分を去って働くのはよいが、相手が悪いととんでもない悲喜劇になる。そこは、裏切られても苦にならない我が子や飼い猫ぐらいに止めておくのが無難だろう。

 2001/12/11 鱒の鮨

名物にうまい物なしと俗にいうが、うまい物が本当にないわけではない。妻が仕事の帰りに富山名物の鱒鮨を買ってきた。駅弁として有名だが、最近ではデパートの物産展などで買うこともできる。浅い木桶に笹の葉を敷いた上に白飯をのせ、その上に鱒の切り身を並べる。笹でくるんだ上から蓋をして押し寿司にした物である。食べる時は四本の竹を止めたゴム輪をとり、笹の葉の上から刃物をあて、適宜切り分ける。扇形の弧の部分を持ち、笹の葉を剥がしていくと、青笹の濃緑の中から鱒の仄赤い身が現れる。その色合いが目を楽しませるだけではない。一口頬張れば、清涼感のある笹の香りと鱒の野趣溢れる味が押し寿司特有の歯触りとともに一気に口の中に広がる。中川一政画伯の意匠による箱の絵を目にしたら、手にとらずにはいられない一品である。

鱒鮨をはじめて食べたのは、富山でなく京都の下宿だった。大学時代、隣の部屋にいたのが富山の高岡出身で、昼間は大学のバレー部で練習をし、夜講義を受けるという体育会系学生だった。二人っきりの下宿人だったが、ふだんはあまり行き来はなかった。彼が二部生で、私とは生活時間帯がずれていたこともあったが、もともと、独りでいるのが好きだったから、互いに干渉しない相手の方が好都合だったのだ。かといって別段仲が悪いわけでもなかった。気が向くと、いっしょに話したりもした。お互い地方出身者で、話はしやすかった。帰郷すると、土産を買ってきては二人で食べた。鱒の鮨はその時はじめて食べたのだ。京都にも鯖鮨というのがあるが、それよりよっぽどうまかった。一度胃薬を借りに来たことがある。餃子十人前食べたら無料という店で完食したのはいいが、胸がもたれてたまらないというのだ。その時はさすがに、二、三日大蒜臭が部屋から抜けなかった。

下宿は、戻り橋で有名な一条堀川通りに程近い辺りにあった。典型的な京の町屋で、鰻の寝床のように細長い地割をうまく使った造りになっていた。格子戸を開けると、そこは三和土で、手前に上がり框がついた店と呼ばれる部屋がある。大方の来客はここで相手をする。家人はそこを過ぎ、玄関と内を区切る潜り戸を通って、奥に進む。以前は竈があったその辺りが台所。離れと本家は廊下でつながれているが、それらで囲まれたコの字の中に坪庭が設えられている。私たち二人の下宿は離れの二階で、一階は当主の祖母の寝所であった。飯田龍太氏を先生と呼ぶ上品な老婦人だったが、少し前に亡くなられたと聞いた。

私たちの面倒を見てくれていたのは、若い当主のご母堂であった。長髪は認めてくれていたが、髭を伸ばしはじめたときには、少し気になったらしく、私を訪ねてきた友人にそれとなく愚痴ったことがあった。それが耳に入ったからというのでもないが、髭を剃った後幾日かして、急にご馳走にあずかった。いうことを聞いてくれたのが余程うれしかったのだろう。終始ご機嫌で、給仕をしてくれた。その時も隣人は一緒だったわけで、私としてはひょんなことから鱒鮨のお返しができたな、と思っていたのであったが、彼は何故ご馳走されているのか分かっていたのだろうか。鱒の鮨を食べると、西陣織の機の音が聞こえてくる下宿の一室が思い出されてならない。

 2001/12/09 風邪

風が電線を揺する音がする。呼子のようなその音は冬の到来を告げる合図である。朝方、風が雨戸を叩く音で眠りを妨げられ、眠られぬまま寝床の中で肩口からはいる寒気に耐えていたせいか、朝起きたときから鼻の奥の方が痛い。どうやら風邪をひいてしまったようだ。小さい頃から扁桃腺肥大で、風邪をひくとすぐ腫らしてしまう。数年前には、水も飲めなくなるほど腫れたので、緊急入院したくらいだ。咽頭炎は腎炎を併発しやすいため、大事をとったのだったが、幸い経過がよく、その時は一週間ほどで退院できた。

小さい頃は、焼いた塩をハンカチに包んでもらい、首に巻いたりした。まじないなのか、効果のある治療法なのか分からないまま、祖母の言いなりになっていた。婆ちゃん子だったのだ。背中がぞくぞくするときは、真綿を背中に背負いその上からセーターを着せられた。あったかいのはいいのだが、その温かみが子ども心に級友に対してはずかしくって、そんな日は、いつもより小さくなっていたのを覚えている。それでも、学校のある間は無理をしてでも学校に行かされた。「学校に行ったら治る。」というのが祖母の口癖だった。暗示が効いたのか、たしかに学校に行っている間は、なんとかもった。学校のない日には、気がゆるむのか、覿面に風邪をひいた。玄関に近い六畳間に布団を敷いてもらい、一日中そこで寝ていた。

生まれて間もない頃、姉が急病になった。家中の者があわてて右往左往している間に、開け放された窓からはいる風が冷たかったのか、皆が帰ってくると、私が高熱を出してぐったりしていたという。軍医あがりで、その頃近くに開業したばかりの耳鼻咽喉科の医師に診せると、中耳炎と診断された。医師の言うには、
「鼓膜を突き破って溜まった膿を出します。それで、この子が泣いたら助かります。泣かなかったときは覚悟をしてください。」とのことだった。私は大声で泣いたらしい。祖母によく聞かされた。有井先生は命の恩人だと。

命の恩人などという言葉を実感するには小さすぎたが、その後も、毎日学校が終わると、耳を診てもらうために先生の家に通った。尾根筋に面した玄関を入ると、広い畳敷きの待合室があった。窓の下は谷底で、木々の茂みが濃かった。冬の間は火鉢に炭がおこっていて、しんとした部屋で、そこだけ空気があたたまっていた。いつも誰もいない待合室で、奥に向かって「今日は」と声をかけると、「お、みっちゃんか。」と、大柄な先生がのっそりと現れるのだった。

治療というほどのことは何もしない。真鍮製の小さな喇叭管で耳の中をのぞき、消毒をすませると小さくまるめた脱脂綿の玉をガーゼで巻いた物を詰めるだけだ。その間、学校であったことを話したり祖母の具合を聞いたりするのが日課だった。俳句をされる先生は、時折愛用の万年筆で薬包紙に、できたばかりの句を書いて見せてくれることがあった。啄木が好きだという小学生を面白いと思っていたのかも知れない。達筆の字は読めても意味はあまりよく分からなかった。ただ、白い紙に書かれたインクの色の鮮やかさは目に染みた。カルテに記入する独逸語もそうだったが、何だかとてもハイカラでお洒落に見えたのだ。ガスストーブのともる午後の診察室は、その頃自分の周りを取り囲んでいた物とは異なった物で創られている世界のように思えてならなかった。

六畳の部屋と廊下の間には、真ん中に硝子を入れた障子が入っていた。午後の陽が障子に指す頃になると、寝てばかりいるのが退屈になる。障子の桝目を斜めに辿り、辺にあたると反射させて、うまくもとの場所にたどり着くまで何度も桝目を目で辿ったりした。窓越しに人の話し声や物売りの声がよく聞こえてくる。耳をすませるのだが、話の中身までは分からず、ただひとしきりにぎやかな話し声がしては、また静かになるのだった。そのうち知らぬ間に眠ってしまうのが常だった。

風邪をひいた日の食事には、お粥に花鰹と梅干しがついてきた。楽しみにしていたのは、林檎をおろし金ですりおろしたものを布巾で絞り、吸い口で飲ませてもらうことだった。ジュースなどという物が簡単に飲める時代ではなかったので、風邪をひくとねだったものだ。今では、風邪をひいてもそんな楽しみはない。ただただ不快なだけである。時折、先生の家の前を通ることがある。戸を開ければ、受付の窓口から先生の顔がのぞきそうな気がするのだが、今は空き家である。主のいない家が、姿だけかつてのままに残っているのも何だかかえってさみしいものだと通る度に思う。

 2001/12/03 ALL THINGS MAST PASS 

和田誠の『知らない町角』の中に、横尾忠則と出かけたヨーロッパツアーの最中、ビートルズを聴きたいという横尾に「へえ、あのチャラチャラしたバンドがいいの?」と和田が言う場面が出てくる。来日二年前の頃である。アメリカ文化にどっぷり浸かっていた和田の世代には、かえって、受け容れられなかったのかも知れないが、その頃ぼくたちはビートルズに夢中だった。

世代論というものをあまり好まないが、音楽で言うなら、和田誠はフランク・シナトラを、その次の世代、たとえば音楽評論家の萩原健太がそうだが、彼がエルビス・プレスリーを特別視するように、物心ついた頃にラジオから流れていたビートルズが、ぼくらにとっては世代を代表するミュージシャンなのだ。ポータブル電蓄しか持ってなかった頃、ステレオの再生装置を持っている友だちがいて、学校帰りに、よくその家に寄った。シングル盤といったEPのレコードコレクションは、友だちの兄のものだったが、アメリカのポップスが中心だった。映画俳優トロイ・ドナヒューの『パームスプリングスの週末』なんかがお気に入りだったが、そんなとき、『抱きしめたい』を聞いたのだった。良くも悪くもノー天気なアメリカンポップスに飽きが来ていたのだろうか、いっぺんに虜になった。

ジョージ・ハリスンが死んで、彼がジョンやポールの陰に隠れた存在であったかのように書く記事が新聞その他に溢れているが、少なくとも、デビュー当時にそんな受けとめ方はなかった。後に政治的な活動でカリスマ色を強めるジョンと、ポールの確執が明るみに出るようになってから彼らを見ると、後の二人の影が薄く見えるのかも知れないが、初期ビートルズに関する限り、4人は対等だったように思う。

たとえば『イエスタディー』のコード進行とバッハの楽曲の類似などというように、ビートルズの音楽性が云々されることは、以前からもあった。しかし、ヒッピームーブメントが起き、アメリカには稀薄な精神世界をオリエントに求める動きが高まった頃、ビートルズをリードしていたのはジョージだった。ラビ・シャンカールのシタール演奏もジョージがいなければ、我々のところには届かなかったろう。その後、ワールドミュージックなどという言葉で一括りにされる非西洋音楽とポピュラーミュージックの融合は、実はここに兆していた。

リンゴ・スターのカントリー・アンド・ウエスタン好きも含めて、4人の個性がうまく反応しあうことでビートルズは動いていた。『サージェント・ペパーズ』という稀有なLPを創造することが出来たのは、4人組のビートルズが機能していたことを証明する。その後、『レット・イット・ビー』の映画などを見ると、4人の関係が変わってきていることにいやでも気づかされるのだが。

ジョージが死んだことで今さら何かが変わるわけではないのだけれど、彼が象徴していたあの時代が、確実に喪われてしまったという気はする。時折、思い返す。世界と自分との幸福に満ちた一体感、あれはいったい何だったのだろうかと。今となってみれば束の間とも思える至福の時代であったが、その頃アメリカはヴェトナム戦争の最中であった。今また性懲りもなくアメリカはアフガンを攻撃している。しかし、世界にあの頃のような反戦の高まりはなく、我々はばらばらに孤立したままだ。言語や宗教をこえて我々を結びつけてくれる音楽も耳にすることはできない。「ALL THINGS MAST PASS」というジョージのアルバムのタイトルがやけに胸に沁みるのである。
Prev   Top   Next  
Copyright(C)2000-2001.Abraxas.All rights reserved last update 2001.12.31. since 2000.9.10