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 2001/11/24 「紅葉

足をはこぶたびに落ち葉が足もとでかさこそと音を立てる。春の頃は、みごとな桜のトンネルが頭の上をおおっていたものだが、すっかり葉を落とした枝を通して、路上に日溜まりができていた。なだらかな坂の行く手に、枝先だけ真っ赤に染まった楓の葉のひとむらがまだ黄緑色の葉叢の中に一際あざやかに目に映える。あたたかな秋日和が続くので、久しぶりに散歩に出たのだった。

家を出て十分も歩けば、大鳥居を見下ろす道に出る。鳥居の下を通るのは明治42年に開通した御成街道、別名御幸通りである。道の両側は切り通しになっていて、春には桜、秋には紅葉が美しい。大学駅伝の時には中継のためにやぐらが組まれるから見たことのある向きもあるだろう。切り通しの切れるあたりに古い甍を頂いた門が残る。江戸時代に「講」による旅行が盛んになったが、その世話をした「御師」の家の門を移築したもので、今では神宮文庫の黒門として親しまれている。中学時代には、毎日、この門をくぐって登下校したものだった。

その向かいの丘には博物館や美術館が集まっている。神宮関係の資料を展示する「徴古館」の前にはル・ノートル式に左右対称になった生垣で構成されるフランス庭園が広がり、その周りには様々な樹木が植えられている。この一帯は、閑静な趣を湛えているが、春の花見時分を除けば、訪れる人もまばらで、静かに散策するにはもってこいの場所である。今は紅葉が見頃で、この日は写真愛好家が多数カメラを構えていた。入り口を少し入ったあたりにカナダ楓の大きな木がある。毎年、黄金色に輝く大樹を見るのを楽しみにしているが、今年はまだ少し早いようだ。

丘を下りきったところに書店がある。しばらく行かなかったが、以前は散歩に出ると、よく立ち寄っていた。棚に並んだ新刊書を見るともなしに眺めていると、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』が目にとまった。いつか読もうと思いながら、ついつい先延ばしになっていた本だ。帯に全面改訳、新装決定版とある。ちょうどいい機会と早速買い求めた。本を小脇に抱えて家路をたどるのは楽しい。散歩の帰りというのは、それだけで充足感があるものだが、それにおまけがついたようなものだ。

往きと帰りはいつも別の道をとる。散歩道を挟んで徴古館の反対側に倭建尊が熊襲征伐に向かう際に別れを告げに訪れた叔母の倭姫を祀る神社がある。入り口は大鳥居の側にあるのだが、山を逆に深く掘り進んで下り坂の参道を作り、鍵の手に折れる突き当たりに急階段を設け、社殿をその上に築くという、その距離に比べ、奥行き感を際立たせる卓抜な空間演出はまことに効果的である。この社の興味深いのは、参道の脇道を辿ると、視界が開けたと思う間もなくフランス式庭園を手前に片山東熊設計のルネッサンス風建築「徴古館」が目の前に現れる点である。

ヨーロッパの古い都市には、その真中に大きな教会や市庁舎が他を睥睨するような形で建っていることが多い。教会の尖塔は中心に高く聳え天と結ぶ垂直性を感じさせずにはおかない。建築家槇文彦が『記憶の形象』の中で述べているのは、そうしたヨーロッパの「中心」、「垂直性」という概念と比べた時に明らかになる、日本の「奥」、「水平性」という概念である。迷路のように入り組んだ道の果てに到達するのがクライマックスとは程遠い簡素な社殿であったりするのも、極点ではなくたどり着くまでのプロセスにドラマと儀式性を求める水平的な演出だからである。それが、ここでは、唐突に結びつけられる。西洋に対して遅れを感じていた日本が、追いつくために熱心に西欧化を取り入れていた明治時代の昂揚した気分を思わずにはいられない。

鳥居を一歩くぐると、先ほどまでのヨーロッパ風の木々とは全くちがった樹木が枝を伸ばしていることに気づく。小暗い森を構成しているのは、蝋質の厚手の葉を持つ常緑樹、所謂「照葉樹林」である。両側に聳える崖の上から斜めに射す木漏れ日のほかには明かりというものがない。中尾佐助のいう照葉樹林文化につながるアジアの森は、四季を問わず暗く繁っている。小鳥が鳴き騒ぐ木立の上の方、僅かに日の当たる部分だけ、楓が紅葉しかけている。その色だけがこの神寂びた森にも秋が来ていることをそっと告げているように思えた。

 2001/11/18 STROWBERRY FIELDS FOREVER

机の上に見なれぬ花が硝子の花瓶に挿してあるのが目に止まった。机の上には何も置かない主義で、一日の仕事が終わると同時に机上のすべてを片づけてから帰るのが習慣になっている。誰が持ってきてくれたのかときくと、ひとりの子が「私です」と返事をした。殺風景だと思っていたのだろう。礼を言いがてら、花の名を訊いた。その子は「ストロベリーフィールドです」と、教えてくれた。

赤い球状をした頭状花はまるで苺のようで、その下に細い剣状の葉が4枚ついている。茎は長く延び、ところどころに同じく剣状の葉が対生につき、小さな托葉も見える。それが何本も束ねられた様は、たしかにいちご畑という名にふさわしい。
「ビートルズに『ストロベリーフィールズフォーエバー』という曲があったのを知ってるかい。」
と、言いかけて気がつき、
「お母さんなら知ってるかも」とつけ足した。周りはすでにビートルズを知らない世代ばかりだった。

たしか、あれが初めて自分で買ったレコードだった。『ペニーレイン』とカップリングされたシングル盤は、テープの回転速度を変えたり、逆回しをしたり、という当時としては最先端を行くスタイルを採用したもので、彼らが新しい段階に入ったことを告げる記念碑的な作品だった。そういうと、何だか機械的な音を想像しそうだが、それは違う。

踏切を列車が通り過ぎていくときの音のようなガタゴト音が曲の中に挿入され、妙に懐かしい童心に帰ったような気にさせられる不思議な感じのする曲だった。“STROWBERRY FIELDS”というのは、ジョンが子どもの頃、家のそばにあった孤児院の名前だという。幼い頃両親が離婚し伯母の家で育ったジョンにとって、孤児院に寄せる思いは特別なものがあっただろう。けれど、それを知るまでにイメージができてしまったものだから、いちご畑の中を走り抜けていく貨物列車のイメージからなかなか抜けられない。第一印象というものは、強いものだ。

そのビートルズも老いた。メンバー最年少だったジョージ・ハリスンが末期癌で入院していたことを新聞で知ったのはつい最近のことだ。ポールだけは相変わらず元気なところを見せているが、童顔だったことがかえって歳月を感じさせてしまうのは皮肉である。ジョンが死んでから、早いものでこの12月で21年になる。21世紀に入っても、世界は戦争から離れられない。彼が生きていたら、今の世界を見て何と言っただろうか。

 2001/11/16 ドヴォルザーク 交響曲第9番『新世界より』

誰でも一度は聞いたことがある。耳にすれば「ああ、あの曲か」というメロディーを持つ第二楽章は「家路」という名でも知られている。キャンプの時など、みんなで口ずさんだ人も多いだろう。悪い曲ではない。現に、チェコを旅したとき、バスの中に流れていたこの曲を聴きながら、深いボヘミアの森に包まれていることの喜びが胸の中に湧いてきたことを昨日のことのように覚えている。

ドヴォルザーク52歳の年の作曲によるこの交響曲は、標題にもなっている「新世界」アメリカで初めて触れたスピリチュアルやネイティブ・アメリカンの音楽と故郷ボヘミアに寄せる郷愁が交錯する彼の代表作である。俗に「家路」と呼ばれる第二楽章のメロディーはロングフェローの『ハイアワサの歌』という「インディアン」の英雄を歌った詩に想を得たと言われている。

しかし、どれだけいい曲であっても、毎日定時に有線放送で流されてはたまらない。16日付の朝日新聞の夕刊に拠れば、「防災放送を通じて毎日夕方に流されるクラシック音楽により、静かな生活を求める権利(人格権)を侵害されたとして、愛知県西枇杷島町に住む評論家の呉智英さん(55)が16日、同町に放送の差し止めを求める訴訟を名古屋地裁に起こした」という。

西枇杷島町といえば、東海豪雨で町の9割が浸水被害を受けたところだ。避難勧告が充分に伝わらなかった反省から町内に26基の防災放送塔を設置した。そのうちの2基が呉氏の家から200bの位置にあり、午後6時から1分15秒間放送される(以前は午前7時にも電子音が流されていたが、今は中止)。戦闘的評論で知られる呉氏でなくとも一言いいたい気持ちになるだろう。

町側の言い分は、@機能テストA起床帰宅の合図B住民に安心感を与えるため、というものである。一方呉氏は「テストの必要性は認めるが毎日流す必要はない。行政機関が起床や帰宅を呼びかけるのは余計なお節介だ。静寂を失うことで失うものを考えるべきだ」と主張している。彼の評論は別として、この件についてはまったく同感である。実は、私の住む市でも同じ問題がある。

毎夕5時になると、防災放送がテストのために文部省唱歌の「ふるさと」を流すのだ。以前は昼前に流されていたが、これにはさすがに抗議があったらしく最近では夕方に流されるようになった。時計のない頃ならいざ知らず、行政機関に音楽を流されなくても帰宅の時間くらいは分かる。もっと別の意図があるのだろうと勘ぐりたくもなろう。一つの共同体が、同じ曲で何かをし始めたり、し終えたりするということが根づけば、次の段階にくるものは自ずと知れている。これは、ソフトな思想統制ではないのか。常々そう考えていた。他の市でも同じことが行われているとなると、ますますその疑惑が深まる。

この国が、音に対して鈍感なことは前々から不快に感じていた。不必要な放送が至る所に流されているのは今に始まったことではない。しかし、駅や店なら足を運ばなければ聞かずにすむ。自宅では、そうはいかない。聞きたくもない音を、毎日きまって聞かされる側の苦痛に対して抗議の声をあげた呉氏に支持を表明したいと思う。

 2001/11/15 「大湊

たとえ無料でも見たいと思わぬ映画もある。それとは逆に金を払ってでも見ていたい景色もある。「雲を見ている自由な時間」と言ったのはボードレールだったか。秋はことのほか雲が美しい。この季節なら、一日中見ていても飽きないだろう。

仕事の都合で、ここ二、三日仕事場を離れ、外に出ることが多かった。明るい秋の日和である。街路樹の銀杏も色づき、町は何やら華やいで見える。空には鰯雲が、まだ高い日に裏から照らされ銀の縁取りを光らせている。青灰色の色画紙を切り張りしたような、妙に平べったく見える山に向かって続く道を走っていると、仕事をしていることが何だか嘘のように思えてきてしまうのだった。

そうは言っても、仕事をすっぽかすこともできず、川を渡り終えると国道を下り、造船所のある海沿いの町に車を走らせた。かつてこの辺りは市中深くに入り込んだ勢田川を利用して水運が盛んだった。その船を造っていたことから「大湊」は造船の町として知られていた。それが、造船不況の波をもろに被り、大手の会社に仕事が来なくなった。細々と仕事は続けているものの盛時の面影は今はない。きらきら光る波を背にして幾本もの起重機の影ばかりが凝然と空に屹立していた。

帰りはすっかり日が暮れていた。昔馴染みと会い、知ったあれこれの人の話をする裡に秋の日は釣瓶落としに沈んでいった。明るい日中とちがい、見知らぬ町は灯の消えたようにさみしかった。雨除けに、濡れ烏という独特の黒い塗料を塗った大壁造りの街並みは昼間でさえ暗い。バス一台がすれ違うこともできず、折り返し運転のために空き地を設けているほどの古い町並みは、軒と軒が額を寄せ合うようにして、それが頼りの薄ら明かりの残る空を覆い隠していた。

迷路のなかに迷い込んだように心細い気持ちで車を走らせているうちに往きに渡った橋に出た。川波が立ち騒ぐ向こうに夕映えが消え残っていた。両岸に黒々と続く切り妻の家並みとその間に挟まれた川の風景は、まるで最後の浮世絵師と呼ばれた小林清親の描いた版画を見るようだった。萩原朔太郎の『猫町』ではないが、ふだん見馴れた町も、入り方や時間を違えてみると、全く異なった顔を見せてくれるものだ。小旅行をしたようで何だか得をした気分で家路に着いた。

 2001/11/07 「生活の柄」 

新しく車を買い換えようとしているときなど、町を走っている車の中で、自分の買おうかと考えている車ばかりが眼に着くことがある。ロシア・フォルマリスムのいう「異化作用」が働いているのだ。自分が所有するということを契機に、それまで車一般の中に埋没していた車が、周囲から浮かび上がり意識の前面に押し出されてくる、そういう働きのことである。

近頃目に止まるのは車ではない。気ままな服装をして、しかも働いているようには見えない、どう見ても退職して間もない男達の姿である。老人のようにくすんではいない。ラフではあっても、服装がまだ崩れていない。人に見られることを意識しているのが分かる折り目正しさが漂っているのだ。以前からいたはずなのに気にも止めなかったから見えなかったのが、近頃気になりだしたのは、それだけこちらがそういう人生の段階に近づきつつあるということなのかも知れない。

今朝も一人、雨上がりの朝の道を帽子とウインドブレイカーに身を固めた長身の男が歩いているのを見た。雨に濡れた落ち葉を踏みしめ、颯爽と歩いていた。気ぜわしい出勤時間は、考えようによっては一日の始まる大事な時間でもある。優雅な時間の過ごし方もあるものだとうらやましくなった。おそらく、退職はしたものの、身についた早起きの習慣は変わらず、朝食を済ませた後の時間を運動がてらの散歩に費やしているのだろう。真っ直ぐに伸ばした背の辺りに、衒気が仄見える。この後、どのように日を費やすのか、他人事ながら気になった。

平均寿命が延びた分、定年後の生活が長くなった。無計画に突入してしまえば、無為な時間を浪費するばかりだろう。何もしないというのが積極的に選ばれたのなら、それはそれでいい。しかし、なし崩し的にだらだらとそうなってしまうのだけは避けたい。そこで、考えておかなければならないのが、仕事から解放された後の生活の仕方である。自分に似合う生活の仕方、ライフスタイルなどという言い方はご免被りたい。山之口貘に倣っていえば「生活の柄」だ。
こんな僕の生活の柄が夏向きなのでしょうか
寝たかと思うとまたも冷気にからかわれ
秋は浮浪者のままでは眠れないのです

どうやら、自分の生活の柄は冬向きらしい。あまり、外に出ずに、部屋の中で本を読んだりして過ごすのが性にあっている。仕事に追われる毎日にあっては、たまの休みは本でも読んで、というのが気分転換になるだろうが、毎日が休みとなったらどんなものだろう。たまの休みにする読書以外の気分転換の方法も考えておかなければいけないような気がしてくる。散歩は毎日するだろうから、小さな気分転換にはなるだろうが、大きく気分を変えるというわけにもいくまい。

考えてみると、どうしてもというほどの熱があってはじめたわけでもない仕事だが、意外に自分の大部分を委ねていることが分かってくる。人生の大半を掛けてきたのだから、当たり前といえば当たり前だ。何事にも積極的な人なら、第二の人生とやらを有意義に過ごすのだろうが、ずっと受け身で生きてきたので、今さら積極的には生きられない。残りの人生を掛けるに足るものが、果たして見つかるかどうか、心許ないものがある。浮浪者にとっては秋からの寒さがつらいように、給与生活者にとって、仕事から解放された後の毎日が夏休みという日々もまたつらいものがあるのだ。

 2001/11/05 

雨が降る。肩をぬらした詰め襟が家路を急ぐのを見て、学生時代を思い出した。私が入学したのは、県下一のマンモス中学校であった。教員数も多く、一室に入りきらないので、職員室が二つに分かれていた。教室数も足りず、プレハブ校舎まで使っていたが、二年生の時に分離が知らされ、次の年から私たちは、新設の中学に通うことになった。新しい学校は山の上にあり、以前と比べると通学に時間がかかった。さらに悪いのは、吹きさらしの縄手道で雨に降られると、家に帰る頃には服がびしょ濡れになることだった。

その日も風の強い日だった。傘を忘れたので縄手を避け、回り道にはなるが、軒伝いに歩ける旧街道に向かっていた。竹藪を抜けると、屋根のあるところに出られる。三條小鍛治宗近が刃物を商う店を開いていたことから、今もその辺りを三條前という。その当時既に店は閉じていたが、さすがに堂々とした構えで軒が深い。その軒下で、雨が小降りになるのを待った。何度も軒端から顔を出して空をのぞくのだが、雲は割れず、雨はいっかな止む気配はなかった。

あきらめて走り出そうとした時だった。格子戸の開く音がして、向かいの玄関先で澁蛇の目が開いた。傘の後ろに女物の着物が見えた。道の中程まで来て、少し傘を上げると目が合った。夜目遠目傘のうちとは言うが、子ども心にも美しい人だった。
清玉(せいぎょく)さんとこの坊ですやろ」
凛とした響きの声だった。それが、家の昔の屋号であることは、聞いて知っていた。
「はあ」と、間の抜けた返事をした私に、その人は
「よかったらこれを」
と、言いながら手にしていたもう一本の傘を差しだした。番傘だった。ためらう私の手に傘の柄を握らせると、くるっと踵を返して向かいに戻った。すぼめた傘の雨を切ろうとしてこちらを向いた口許の辺りが少し微笑んでいた。ぺこんとお辞儀をして、私は歩き出した。

家に帰ってその人のことを聞いたが、祖母の答えは要領を得なかった。祖父の羽振りのよかった頃、家に出入りする人は多かったから、その頃の知り合いだろうということだった。その後も雨の日に何度かその家の前は通ったが、格子戸はいつも固く閉じられていて二度と会うこともなかった。あの傘はその後どうしたのだったろう。秋になり、思いがけない雨に降られそうになると、きまって思い出す。屋号を入れた番傘が、まだ玄関先に何本も吊されていた頃の話である。

 2001/10/26 マジック・アワー

このごろの季節、仕事が終わって外に出ると、思いもかけない美しい空の色に出会うことがある。陽は沈んだのに、地平線近くの空は赤みを帯びた紫が残り、眼を上げた先には青い空が光を湛えている。このほんの暫しの時間を「マジック・アワー」という。テレンス・マリック監督の『天国の日々』が、マジック・アワーを多用した映画として有名だが、映画カメラマンで、監督でもあるジャック・カーディフの自伝の題名にもなっているほど、映画の世界では知られた言葉である。昼から夜に変わろうとするひと時、「境界」というものの持つ覚束なさが魔法を呼び起こすのだろうか。

道の向こうに長く延びた土手の上を、ライトをつけた長距離トラックの黒い影が青紫の山影の向こうに走り去る。昼間はけばけばしい色の看板が目立つ国道沿いの風景が、すっかり藍色の滓に泥み、どこか郷愁に充ちたシルエットの下に隠れてしまっている。このままハンドルを握っていれば、エドワード・ホッパーが絵の中に描いた町にたどり着く。そんな錯覚に陥りそうな気さえしてくる。

ラヂオからはカントリー・アンド・ウェスタンが流れている。スティールギターの聞き慣れた音色に鼻の奥がツンとして、あわてて目を擦った。いつもの帰り道に向けてステアリングを切ると、基地に帰投するヘリの夜間照明灯が赤く点滅するのが見えた。爆音に連れ、暗さを増した群青の空にくっきりと黒い機影が浮かび上がる。その下に広がる広大な闇は、基地だ。遠くにちらちら光っているのが管制塔だろうか。急に寒さを感じて、換気口を閉じた。心なしか、鉄と油の匂いがした。

魔法はいつか解けるものだ。マジック・アワーは長くは続かない。道沿いには、昼間の看板に代わり、歓楽をそそるかのようにネオン・ライトが点り出している。行き交う車もどこか気ぜわしく、片側三車線のレーンの交替を繰り返している。いつもと同じ夜が、そこにあった。いつもと同じ道をたどり、帰り着ける家のあることが、悪いものではない。ふと、そんな気がした。

 2001/10/19 アメリカの良心

夕刊を読んでいると、炭疽菌の被害を伝える大見出しが躍る記事の下に、米カリフォルニア州のバークリー市議会が、16日、テロとともに米国政府のアフガニスタン空爆を非難する決議を賛成多数で採択したことが小さく載せられていた。記事は続けて「空爆支持が圧倒的な米国で、地方の議会がこれに明確に反対する姿勢を示した例は少ない。同市議会では当初、『テロリストに対して軍事力によるのでなく、法的措置を通じて正義をもたらすべきだ』という決議案が提出された。しかし、これでは一方的だとしてテロリストの攻撃を非難し犠牲者を追悼する内容も加えた」と伝えている。

直接の標的となった東海岸と、西海岸では同じアメリカであっても、事件に関して温度差があることは現地からの報告を読んで知っていた。しかし、事件後のアメリカの様子が刻々と伝えられるに従って、空爆支持という点では揺るがない世論が形成されているように受けとめていた。だから、記事を読んで、正直驚いた。それと同時に、やはりアメリカは侮れない国だな、という気がした。バークリー市議会の決議は、理性的に考えるなら当然の結論である。とはいえ、あれだけの被害を受けているのだ。いくら離れているにせよ同じ国の地方議会が、この時期、あえてこの決議を採択するということは想像を絶する勇気を必要とするだろう。

事実、この採決をウォールストリート・ジャーナル紙が報じた後、決議を非難する電話や電子メールが、当市議会に殺到しているという。反応は予想されるものであるだけに、市議会の英断が光る。事件が起きた後、世界の主立った国々は、政府の指導者が談話を発表し、アメリカ支持を表明した。それぞれの国の人々が、事態をどう受けとめたかということなど眼中にない「高度」に政治的な判断による態度表明であった。

空爆が開始され、初めて人々はアフガニスタン国民の悲惨さに胸をうたれることになる。国民がこぞって現政権を支持している国など世界中のどこにもない。しかし、国民国家では、平時に個人の意見表明権はあっても、非常時には運命を共にすることを強制される。アフガン国民の悲劇は、先の大戦時における日本国民の悲劇を思い出させずにはおかない。しかし、この国の何処の地方議会が、このような決議を採択できただろうか。否、今後も絶対にできないと断言できる。

テロ当事国の地方議会が、感情に理性を曇らせることなく、このような決議を採択し得たことに対して心から敬意を表明したいと思う。「自由と民主主義の国アメリカ」という言葉を語の真の意味で代表するのは、ブッシュ大統領ではない。カリフォルニア州バークリー市議会とその市民である。

 2001/10/11 秋篠寺

簡単な地図を頼りに西大寺駅の方角に車を進めていたのだが、どこをどうまちがえたのか、狭い道に入り込んでしまい、対向もままならない細道をやっと抜けると、目の前に踏切があった。踏切をこえたら、秋篠寺まではすぐのはずだった。ところが、である。西大寺駅近くの踏切は、所謂「開かずの踏切」だった。市街地ゆえか、駅舎が狭く、線路数も少ないので、次々に入る電車は、踏切のところでいったん停車し、ホームの空くのを待っている。ようやく空いたかと思うと、反対方向から電車が入ってくるので、遮断機が上がってから下りるまでに一台進むのがやっとの有様。踏切の向こうに抜けるまで、十分以上かかった。

気が焦っていたのか、近くにあるはずの寺が見つからない。しばらく行ったところで曲がり角をまちがえたことに気づいた。あやめ池遊園の入り口で折り返し、今度は慎重に標識を見ていると、やっと道が見つかった。待てよ、と思い標識を行き過ぎて反対側から探してもやはりさっきの方向からでは、標識は見えない。これでは、駅の方から来た者は通り過ぎてしまうはずだ。現地の人には当然と思うことも、旅行者にとってはそうでない。親切すぎるくらいの気遣いがほしいものだ。近所の者しか行かないだろうと思われる店の看板などは煩いくらい出ているのに、本当に必要な道路標示や、ランドマークが見つからないのが日本の町だ。残念ながら古都奈良も例外ではない。

やっと駐車場を見つけたが、どうも様子がおかしい。どこにもそれらしい寺が見あたらない。停まっていたバスの運転手に聞いたら、ここは大型バスの駐車場だという。案内によると自家用車の駐車場もあるはずだ。そう言うと、運転手は頭をかきながら、
「わしら、車で行ったことないよってなあ。」
と言って笑った。それもそうだ、と思った。教えられた道は、確かに寺に通じていたが、とても車では行けそうにない畦道の向こうに門が見えていた。再びバスの駐車場に戻って、反対側の道から回っていくと、やっと小さな駐車場が見つかった。

秋篠寺には、前にも来ている。その時は、西大寺駅から歩いてきたのだが、もっと分かりやすかった記憶がある。家が建て込んで、すっかり様子が変わったのかも知れない。門をくぐって、中に入っても、あたりの景色に見覚えがない。まるで狐に化かされたような気さえしてくる。
「前に来たとき、こんなだったか。」と訊いた。妻も
「さあ」と、首をかしげるばかりだ。どうやら、前に来たときは初めに見た門から入ってきたらしい。それにしても、いい雰囲気に苔むした庭にも曖昧な記憶しかないのはどうしたことだろう。朔太郎の『猫町』ではないが、入る方向がちがうと、こんなにも印象が変わるものだろうか。

本堂に入って初めて懐かしいという感じが甦ってきた。堀辰雄が「ミュウズ」と呼んだ技芸天の、心もち首をかしげた様子も昔のままだった。ほんのりと赤みが残る頬に浮かべた微笑みとも言えぬかすかな表情に、先刻までの落ち着かない気分がしずめられていくのが分かった。古びた木のベンチに腰を下ろし、さして広くない堂内をゆっくり眺めた。西日の差し込む入り口近くに技芸天が、その反対側に帝釈天が、正面を向いてすらっとした長身を伸ばして立っている。その真ん中に薬師如来、左右に日光、月光の菩薩像が脇を固めている。技芸天や帝釈天は、もともとインドの神々だったものが、仏教興隆以来、その守護を引き受ける神となったものである。その所為か、所謂仏像とはちがった、異国情緒のようなものが漂い、伸びやかで自由な表現が特徴的である。技芸天の腰をひねったような姿勢と、後の補作による首の傾きが、官能性とも言えるような魅力を高めているのはまちがいのないところだろう。いつ見ても、心惹かれる御姿である。

本堂の周りを歩いてから、もと来た道に出た。木々を洩れてきた陽が苔にあたり、まるで天鵞絨のように柔らかな緑が蔭の中に斑に浮かんでいる。振り仰ぐと、楓の小さな葉が緑の光に透け、その向こうに青空が見えた。
都ほとりの秋篠や
『香の清水』は水錆びてし古き御寺の
頽廃堂の奥ぶかに
技芸天女の御姿の天つ大御身、
玉としにほふおもざしに
美し御国の常世辺ぞ
あくがれ入りし帰るさを、
ふとこそ、荒れし夕庭の朽木の枝に、
   薄田泣菫 『白羊宮』「鶲の歌」より
陽はまだしばらくは沈みそうになかった。名残惜しい気持ちで山門を辞した。

 2001/10/07 大和文華館 

朝からあまりいい天気なので、どこかに行きたくなった。すすきの穂が出始めると、奈良に行ってみたくなるのは、堀辰雄の『大和路』を思い出すからだろうか。妻が前から行きたがっていた大和文華館で、ちょうど「高麗・李朝の美術」展を開催している。それを見がてら、秋篠の技芸天のお顔を久しぶりに拝んで来ようと思い立った。

美術館の駐車場を兼ねる前庭に車は一台しかなく、敷き詰められた砂利が白々とした光をはね返していた。入館料を払い、門を入ると、林の間を抜ける遊歩道が美術館まで続いている。植物園にもなっているのか、小さな札に書かれた木の名は、いずれも名のみ知っているだけで、初めて実物を見る樹木が多い。今は酔芙蓉が見頃で、一つの枝に赤と白の花を咲かせていた。同じ花が白から赤に変わるところから「酔」の名がついたという。

大和文華館は、日本にはめずらしい朝鮮美術の名品を多く所蔵していることで知られている。近い国なのに、主立ったコレクションとしてはここ以外には京都の高麗美術館と東京の国立博物館を数えるくらいしかない。高麗美術館は数年前に訪れたことがある。ちょうど盗難に遭う一年くらい前のことだ。市中にある入り易い美術館だったことが仇となったのだろうが、心ない行為に暗澹とした気分になった。盗難にあった15点の内10点は戻ったが残りは今も失われたままと聞く。おそらく個人のコレクションとして秘蔵されているのだろう。手許に置いて愛玩したくなる気分は分からぬでもないが、我々美術館でしか見ることのかなわぬ者にとっては許し難い行為である。

さて、展覧会だが、妻の好きな李朝白磁では、入ってすぐのところに特別に置かれた「鉄砂青花葡萄文大壺」が、やはり他を圧していた。温かみをおびた地色に葡萄の実を青花、葉を鉄砂で描き上げた模様が鷹揚な筆遣いでのびのびと壺の上半分を覆っている様は、大陸につながる朝鮮半島ならではの趣がある。書斎のライティングデスクの上の妻の韓国土産の香炉が、高麗青磁の写しであるのが「青磁象嵌雲鶴文碗」を見ていてよく分かった。翡翠色の地に白い鶴と雲の象嵌は長寿を象徴する意匠として好まれているようだ。三島手の物では「粉青象嵌蓮池三魚文扁壺」に描かれた魚の絵柄が李朝民画に通じるおおらかさを漂わせて、見る者をくつろがせてくれる。

朝鮮半島の焼き物の魅力の一つは、山峡の湖水を思わせるような深い落ち着きを秘めた高麗青磁の表面の色にある。或いはまた李朝白磁の壺や梅瓶の上にもやもやと浮かぶ雲のような色合いに。いつまで見ていても見飽きることのない膚の上に、ある時は陰刻で、またある時は象嵌で描かれる図柄の精緻さも魅力の一つだ。飾り気のない身近な植物や魚鳥の図柄が選ばれるのも好ましい。それが、時にはユーモラスと言っていいほどの大胆な表現を見せるとき、地色と図柄の幸運な出会いが起きる。ふっくらと張りのある大壺に描かれた草花の茎や葉の描線の緊張感を裡に秘めた流麗さもまた李朝ならではのものである。

李朝とは李氏朝鮮の時代を表す言葉で、主に美術界で使われている。学芸員の話によると、韓国では、「朝鮮時代」という名称を採用しているという。使い慣れた言葉だが、「李朝」という言葉も消えていくことになるかも知れない。それでも、白磁の名品は残る。このような焼き物を残してくれた国の人々に対する尊敬と親愛の情は強まりこそすれ薄れるはずはない。展示品には、他に絵画や彫刻、金工、漆器等があった。新羅時代の「釈迦如来立像」等、胸の中に温かなものが残るいい展覧会であった。
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