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2002/2/21 「子捕り」
舞台の背景に描かれたような夕暮れの空の色である。寒さの厳しかった頃と比べればどことなく優しげに滲んだ色合いが春の到来を告げているかのようだ。坂を上りつめたところで、お寺の裏の林の向こうに日が落ちた。葉をすっかり落とした小枝の一本一本が真っ赤な夕焼けを背にして黒々と浮かんでいる。どうしてだか日暮れ時には昔のことを思い出すものだ。
放課後、友だちと遊び回っていても、この時間になると家に帰るのを思い出すのだった。黄昏時には「子捕り」が出る、と囁かれていた。日暮れになってもいつまでも遊び回っている子を捕まえては、サーカスに売り飛ばす輩のことを、この辺では「子捕り」と呼んでいたのだ。年に一度の大祭の頃には、町の広場にサーカスが来る。ジンタのリズムには心ひかれるものの、『天然の美』や『サーカスの歌』が流れてくるスピーカの音はもの悲しく、子ども心にもサーカス暮らしの侘びしさが偲ばれるのだった。
ある年、めずらしく大がかりなサーカスのテントが広場に張られた。父に連れられて入った天幕の中では、一人の少女が仰向けに寝て上に上げた足の上で樽を転がしていた。白いメリヤス地の長靴下が少し皺になりたるんでいたのが妙にさびしく見えた。きっとあの娘もさらわれてきたのだろう、と勝手に思い込んでいたからだ。そんな境遇の少女の演技に拍手を送る観客達に義憤を感じながらも、次々と繰り広げられる妙技にいつの間にか、自分も手を叩いていたのだった。
その後、サーカス団を取材したドキュメント番組を見て、彼らが家族親族の集団であったことを知り、積年の憂鬱から解放されたのだったが、同時に裏切られた思いも湧いたのは皮肉だった。あの少女もきっと団長の娘だったにちがいない。浮き草暮らしの生活に精一杯の同情を寄せた幼心をどうしてくれるんだ、といいたい気持ちだった。まったく罪な話を信じさせられたものだ。情報網も交通手段も限られていた頃の話である。
ちんどん屋のクラリネットに誘われてどこまでもついていって日が暮れかけ、知らない町で心細くなった経験がある。町に灯りというものがなかった頃だ。日の落ちた通りは人通りもまばらで、見知らぬ世界のように見えた。家々は黒い影となり、ただ小さなオレンジ色の灯りが窓にともるばかり。人々は自分の住む世界に帰り着き、自分一人がはぐれているような心細さを感じた。「子捕り」に捕らえられるのはそんな瞬間だったのかもしれない。
町はすっかり明るくなり、塾帰りの子どもたちが夜の町をうろついてもだれも不思議に思わなくなった。コンビニの店頭の明るい照明の溜まる辺りに群れる子どもたちには、かつての不安な思いは無縁だろう。しかし、「子捕り」の出没しない町は果たして魅力的なのだろうか。軒下をかすめて飛ぶ蝙蝠の姿を見なくなって久しい。ファンタジーが映画や書物の中にだけ生き残っているのだとしたら、子どもたちの魂はどこで成長していけるのだろう。今の子も、果たして夕暮れ時に何かを感じているのだろうか。一度聞いてみたいものだ。
2002/2/11 「渡船場で」
対岸の街で開催されている展覧会に行くのに、湾岸に沿って延びた道路をぐるっと回っていくのも藝がないと思い、ここはひとつ船に乗ろうと思いついた。船が出るのは車で二十分ほど行った海辺の市である。一つ前の船に乗るつもりだったが、既に乗船は終わっていた。フェリーは車の積み降ろしの時間がいることを忘れていたのだ。三連休の初日でもあり、フェリー乗り場は賑わっていた。階上の待合室で次の船を待つことにした。
乗船券を売るカウンターに凭れてパンフレットを眺めていると、聞き覚えのある声がした。振り返ると昔馴染みの変わらない顔が微笑んでいた。隣には、二人が一緒になる前から知っている夫人の顔があった。
「お久しぶり。二十年ぶりかしら。」
それくらいはたつのかもしれない。短く切った髪は昔のままだが、目の辺りに疲れが隠せない。
「今は何をしてるの。」
夫人の言葉に曖昧な相槌を打つと、知人の方に向き直り当たり障りのない挨拶代わりの言葉をかけた。県の文学新人賞を取った若手俳人で評価も高かったのだが、その後ちょっとした筆禍に遭い、腐っていた頃に会ったきりだった。
「相変わらずですよ。前と同じところにいます。」
仕事のことを聞いたつもりではなかったのだが、そのまま会話を続けた。年をとったせいか、ずいぶん落ち着いた話しぶりである。以前は、もっと覇気に満ちた元気のいい声だったが。
なんとなく書いていることについての話はしづらく、取り留めもないことを話しているのが気詰まりになりかけた頃、妻が化粧室から戻ってきた。妻も二人とは顔なじみである。また、挨拶が交わされたところで、話がとぎれた。「それでは」とそれをしおに分かれた。同じ船に乗ったはずだが、船の中では顔を見なかった。
薄曇りの空の下で、鈍色の波はアールヌーボーの硝子器にあるような細かな皺を浮かべていた。時折雲が割れると、水平線近くに真っ白な光が線条に浮かび上がる。雲の割れ目から放射状に幾筋もの光が海に射し、神秘的な光景が現れるのだった。しかし、それも束の間、厚い雲の下に差し掛かると、波は鉛色の粘土のようにうねるばかりである。
「ほら、島が見えてきたわ。」
妻が指さした向こうに、二十年前と少しも変わらぬ島影が見えた。この島にいる頃、妻とも、さっきの二人とも知り合ったのだった。
「なんだか、ちっとも懐かしい気がしないな。」とつぶやくと、それを聞いた妻は、
「あら、私は懐かしいわ。」と、明るい声で言った。「ねえ、神社はどの辺りだったかしら。」
「山の中腹の辺りじゃなかったか。」そう言いながら島に目を遣った。ほんとうに何も変わらない。
「あったわ、鳥居が。ほら下から一センチほどのところ。」妻のはしゃいだ声が耳元でした。
一艘の釣り船が波に飲まれるように揺れながら漂っていた。遠くにいると波などほとんどないように見えたのに近づくと今にも沈みそうなほど大きく揺れている。それでいて、しぶとくその場に留まっている。人の営みの何と過酷なことか。海鳥が海面すれすれに弧を描いて翔け去った。
サッカーのワールドカップが近づいている。日韓共同開催ということもあり、サッカーファンならずとも関心が高まるのは無理からぬことである。全日本の監督がフランス人のトルシエ氏であるのもサッカーの国際性を感じさせて楽しい。一方、統率者としての監督と一選手の意志との葛藤という構図は、国籍を問わず共通する問題であるらしい。中田の去就からも目が離せないところだ。
さて、サッカーに関して面白い記事を見つけた。カメルーンのユニフォームがわざと破れやすい生地で作られているというものだ。激しいブロックの最中、相手のユニフォームをつかんで引っ張るのは当然のことのように行われている。その際、すぐに破れれば、相手の意図に関わらず自分の動きは自由に行える。万一最悪の場合でも反則が観衆の目に晒されることになるだろう。
なかなか面白い考え方である。その頑丈な作りで有名なラグビーに使われるジャージと比べると、二つの兄弟とも言えるスポーツの持つ個性のちがいが明らかになる。ラグビーの選手たちはいわば重装備した武力国家であり、カメルーンのサッカー選手は軽装備で、国際的な団体による監視を信頼している国家のようなものである。
戦後の日本は、まさにカメルーンのユニフォーム型の国家であった。各国選手のフェアプレイの精神を信じ、裸で試合に臨んでいるようなものであった。それが少しずつ生地を厚くして行き、今では普通の国家並みの強い生地のユニフォームが着たくてたまらなくなっている。すでにロッカールームには未使用の真新しいユニフォームが積まれている。後は着る機会を待つばかりという状態である。
隣国のチームが、世界最強の生地でできたユニフォームを着て、示威行為でもするように相手構わず試合に出かけるのも気になる。最近の闘いぶりを見ると一人勝ちに味をしめてずいぶんラフプレイが目立つのが他国の批判を浴びている。このような状況下であれば、かえって破れやすいユニフォームを着ることの価値が新鮮に目に映る。ラフプレイにラフプレイで対抗するのではなく、観衆の目と審判のジャッジを信頼して、破れやすいユニフォームで戦うカメルーンを応援したくなってくるではないか。
2002/1/26 「ニケ」
窓の外は雨。風呂場の中は静かで、犬走りを叩く雨の音がひとしきりひびくようだ。ここしばらく寒い日が続く。一番風呂は少し肌を刺すきらいがあるが、しばらくじっとしているとやがてなごむ。少しずつ手足を伸ばしていく。手に触れる湯の熱さが気にならなくなった頃、気ままに手が動かせるようになる。掌ですくった湯で顔をひとぬぐいするとやっと人心地がつく。冬の日の入浴は何より幸福感を実感させてくれる。案外形而下的なことに喜びを感じるものだな、と可笑しくなった。
と、雨の音に混じって、猫の鳴き声がする。ニャ、という短い鳴き声は、それだけで分かってもらえるという安心感が込められている。硝子の向こうに白い影が映っている。ニケだ。折戸になったガラス戸を少し開けると、ニケが顔を出した。前足を扉にかけて立ち上がり、浴槽の中の私を不思議そうに見つめる。ふだんはアンバーがかった目が大きく見開かれた瞳で真っ黒に見えている。好奇心でいっぱいの時のニケの眼だ。
犬とちがって、一般に長毛種の猫は水が苦手である。毎朝、私が起きるのを待って、新聞受けまで行くのを楽しみにしているニケも、雨の日には、玄関から外に出ようとしない。全身を被う長い被毛は足裏の肉球をくるむように伸びている。タフタと呼ばれるその毛を濡らすのがいやなのか、雨の当たった煉瓦の部分には足を出そうとはしないのだ。
ところが、今夜は様子がちがった。少し開けた透き間からそろりそろりと、足を入れ、ついには浴槽の縁に前足をかけお湯のそばで鼻をくんくんさせている。「おいおい、お風呂に入りたいのか、ニケ。」そう声をかけると、小首をかしげるような仕種を見せる。よほど抱っこして一緒に入ろうかと思ったがやめておいた。透き間から入ってくる冷たい風で、洗い場に出るには寒い。子どもが大きくなってからは風呂場で話す相手もいなかった。ニケを相手に、しばらく会話を楽しむのも悪くはない。
思えば、ニケが我が家に来た日にもこうして風呂に入れてやった。フェルト状の毛に自分の糞がついてお世辞にも美しいとは言えない様子で現れたのだったが、不思議に汚いとは思えず、腕に抱いていた。おびえて風呂場でも逃げ回り、はては糞までもらしたニケだったが、ドライヤーで乾かすときには私の膝の上から離れなかった。あれで、家の子になることが決まったようなものだ。からまった長い毛を、指でほぐし、どうしてもほどけない毛は鋏で切った。ブラシをかけ、鼻のまわりにこびりついた垢を爪でこそげ落とした。膝にのせても重さを感じさせないほど小さかった。
しばらくすると、ニケは洗面所にもどった。足拭きマットの上でじっとこちらを見ている。扉を閉めるのもかわいそうで、開けたまま体と髪を洗った。少し寒かった。その間ニケはずっと同じ格好でこちらを見ていた。トルコのヴァン湖という湖で見つかったターキッシュ・ヴァンという種類は猫にはめずらしく湖で泳いでいるところを発見されたという。写真で見る限り、ニケとよく似ている。もしかしたら、幾分かはその遺伝子がニケにも流れているのかもしれない。夏になったら、ぬるい湯で試してみようかと考えている。
反対側の車線から黒塗りの大きな車が走ってきた。額縁が飛び出たようなラジエターグリルの特徴のある形は三菱自動車が作っていた高級車のデボネアだ。子どもの頃でさえ、あまり見かけなかった車なのに、いまだに走っているとは思わなかった。生産中止されてからずいぶんたっていて部品の調達も難しいだろうに、好きなんだなあ、となんだか楽しくなった。バックミラー越しに遠離っていく車影を追いながら、車好き少年だった頃の自分を思いだした。
テレビの時代が始まっていた。テストパターンだけが延々流されていた時期を過ぎ、朝から夜まで通して番組を提供し始めていた。とはいえ放送局自作の番組数は限られていたから、海外の人気番組の吹き替え版も多かった。ただ、『名犬ラッシー』等ゴールデンアワーに流される番組は家庭向けの臭いがして夢中にはなれなかった。大人が帰ってくるまでの時間帯に流されていた『ちびっ子ギャング』シリーズは、等身大の子どもが出ていてお気に入りの一つだった。その中で見た一編に「ソープボックス・レース」を描いたものがあった。
呼び名は後に知ったのだが、ソープボックス(石鹸箱)レースというのは、木箱の廃材等を利用して作った子ども用の自動車で行う競争のことである。もちろん動力はないので、長い坂道を使ってダウンヒルを行う。子ども用とはいえ、ハンドルもついて操縦することができる。凧揚げにこま回し、よくって模型飛行機を飛ばすくらいがせいぜいの頃、海の向こうの同年齢の子は車を遊び道具にしている。そのカルチャーショックは大きかった。奇麗に塗装されたボディーまでは無理にしても、車に乗って坂を下りる真似くらいはできそうな気がした。
車輪は納屋にあった乳母車から外した物を使うことにして、飯炊きの薪用に積み上げてあった板きれの中から大きいのを選んでシャーシにした。竹藪から適当な竹を切ってきて車軸を通すパイプにした。鍬の柄に使う棒を車軸にし、車輪を着けると、ゴーカートのような物ができた。ブレーキは薄い板の先に釘を何本か打ちつけ、踏むとしなって地面に刺さるようにした。困ったのはハンドルだった。難しい機巧はつかえない。竹の真ん中を針金で固定し、両端を直接動かすことにした。ボディーまでは手が回らなかったが、気分はレーサーだった。
家の前の坂道で試走してみたら、走る走る。近くの腕白どもがよってきて、どうやって作ったかと聞くから作り方を教えてやった。乳母車の上だけ外したのやら、三輪車を改造したのやら、とにかく集まったので、競争することにした。家の前の道では狭いので表通りに出た。少し行くと、お誂え向きの坂道がある。当時は自家用車のある家は少なく、道は人と自転車のためにあった。人通りが切れた頃を見計らってスタートラインに並んだ。
最初は快適だった。耳のそばで風を切る音がした。しだいにスピードが出てきた。試しにブレーキを踏むと、舗装路で擦れて釘の先から火花が散った。「危ないぞ」という大人の怒鳴り声がしたのはそのすぐ後だ。バスの来る時間を確かめておかなかったのは失敗だった。坂道を上がってきたバスがすぐそこに迫っていた。あわてて竹のハンドルを切ると、スピードが出ていた愛車は、たまらず道端の電信柱に激突してしまった。近所の人が集まってきて、叱られたのは言うまでもない。
現役のF1レーサーも小さい頃はカート競技で腕を磨いた経験を持つ人が多い。そのゴーカートも元はといえば、ソープボックス・レースが始まりである。梯子型のフレームに芝刈り機用にエンジンを搭載したものがゴーカートと名づけられ普及したのだ。日本のスモールタウンには芝生のある家はなく芝刈り機のエンジンも手に入らなかった。壊れた試作車は哀れ薪にされて竈の灰となった。かくてレーサー志望も「一炊の夢」と消えたのである。
2002/1/13 「自転車」
電話が鳴った。受話器を取ると長男の聞き覚えのある声がした。通学に使っている原付がパンクしたらしい。もともと中古で、かなりがたがきている。いっそのこと買い換えようかという相談だった。ついては自転車にしようかと考えているというのである。寮から息子の通う学校までは、坂を下り、また坂を上らなければいけない。それを考えて、免許を取らせたのだったが、ロッカー荒らしにあってキーを盗られ、キーボックスを替えるなどトラブル続きに嫌気がさしているのだろう。
とりあえずパンクの修理をさせることにして電話を切った。原付とはいえ、駅前の修理工場まで乗らずに引いていくのは自転車の比ではない。ふだんの便利さが、故障の時に裏目に出るのは原付に限ったことではない。現代的な生活をしているものにとって、電気なり、石油なりの動力源が絶たれたらたちまち機能麻痺に陥ってしまう。それに比べると、機能がシンプルなものほど、故障からの立ち直りが速い。「自転車か。しばらく乗ってないな」と、懐かしくなった。
はじめて自転車を買ってもらったのは小学校の頃だった。名古屋で自転車屋を営んでいる祖母の親戚に子ども用の手頃なものをと頼んであった。貨車に乗って運ばれてきた緑色に塗られた自転車は「男乗り」だった。その頃の流行りの自転車は男女兼用で、女の子が前から足を入れやすいようにハンドルとサドルを結ぶ位置より少し下がった位置にフレームがついていた。今から思えば、旧式になり売れ残っていた物を送ってきたのかもしれない。それでも、当時はうれしくて、友だちと一緒に乗り回していたものだ。
家の前の世古を奥に行ったところに「ちょたやん」という小父さんがいた。「長太」か「長太郎」がなまったのだろう。店を開いているようでもなかったが、近くの人は、自転車が故障したり補助輪を着けたり外したりする際には、いつもそこに頼んだ。パンク修理の際、バケツに入れた水の中でチューブから出てくる空気の泡を探すときのチューブをしごく手際や、鑢で削った後に塗るゴム糊を缶の口を開けて出すときの仕種が決まっていてかっこよかった。
中学三年生になって、初めて10段変速のスポーツ車を買ってもらった。ドロップハンドルに巻くテープは気に入ったものを自転車屋で買ってきて自分で巻いた。その頃ちょたやんは引退していて、新しい店は自分で探した。若い店主は気さくな人で、生意気盛りの中学生の話にもいやな顔一つせず付き合ってくれた。アメリカ映画で見たフロントキャリアーや、フランス製のショートフェンダーなど、小遣いを貯めては注文して自分だけの自転車を作っていくのが楽しかった。
大学時代は、別の自転車に乗っていたが、地元に帰り勤めるようになったときは、またその自転車を使った。子どもができ、病院に連れていくときなどに必要ということでやむなく車の免許を取ったのだが、そんなことでもなければ、今でもあの自転車に乗っていたかもしれない。車に乗るようになってからもずっと実家の玄関の隅に置いてあったのだが、子どもの自転車が二台になってからはさすがに邪魔になり、処分してしまった。
長男も親に言われて車の免許だけはとったものの、いまだに乗る気配がない。原付が壊れたから車にとでも言うなら分かるのだが、自転車に乗り換えようかというのだから、何のために苦労してとった免許やら。もっとも、車に乗ったら乗ったで事故の心配をしなければならない。町名の下に大字がつくような町である。のんびりと自転車で通うのも悪くないかもしれない。第一、パンクの際に引いて帰るのが軽くていい。今度帰ってきたら、パンク修理の方法でも教えてやるとするか。
2002/1/3 「初夢」
こんな夢を見た。京都の南座から八坂神社の方に一筋か二筋行ったあたりらしい。狭い小路の薄暗さに覚えがある。ちょうど一力茶屋のある辺りに家が建っているのだが、壁の色があの弁殻色でなくみょうに白い。そればかりではない。壁と壁の間に太い柱や筋交いが縦や斜めに通っているのが見える。通りの向こうにも同じ造りの家が並んでいるから変だと思った。一階部分より二階が張り出したこんな家は京都にはない。イギリスのハーフティンバー様式なのだ。
あたりはどんどん暗くなり、まわりはすっかり闇に包まれてしまった。蛇行しながら道だけがぼんやりと丘の方に続いている。丘の上には太い枝を水平に伸ばした巨木が黒々とした影を作っていた。麓の村には明かりがちらちらと動き人々が呼び交わす声が聞こえてくる。ああ、きつねを狩っているのだなと思った。
村に入っていくと、異様に大きく感じられる建物が目の前にあった。人通りはなく大きな扉は固く閉じられ、もう何年も営業をしていない劇場のようだった。高い屋根近くの窓に妙にけばけばしい広告文字が見えている。通りが狭く、張り出した二階三階の部分が空を覆うのでまるで大きな部屋の中を歩いているみたいだと思っていると、いつの間にか小さな子どもたちが走りまわる厨房にいた。円い窓が両側についた扉を開けると、大きな屋根は続いていたが、左手に壁はなく水平線で空と水面が区切られていた。手は水を掻き平底船に乗って波の上を進んでいるのだった。
何かの倒れる音で目を覚ましたが、しばらくは半覚半睡のまま不思議な余韻に浸されていた。今日は三日。夜というよりは朝方だが、一月二日の夜に見た夢を初夢という説に従うならこれが初夢ということになる。日本海に大雪を降らせている寒波の所為で肩口が寒かったから水の夢を見たのかもしれない。薄暗い情景は、今読んでいるエドワード・ラザフォードの『ロンドン』の影響だろう。太古から現代までのロンドンの歴史を書いたこの大冊の上巻がやっと終わろうとしているところで、物語は佳境に入ってきている。
日がな一日本を読み続けていれば、夢に出るのは不思議でも何でもない。もっとたくさんの情景を見ているはずだが、すぐに書きとめておかなかったので、窓からはいる光の中に四散してしまった。学生時代、枕許に紙と鉛筆を置いて寝る男がいた。「夢を見たら、自分で自分の首を持ち上げるようにして目を覚まし、見たばかりの夢を書きつけるのだ」とその男はいった。後にH氏賞と高見順賞をとった。気持ちよく夢を見続けているようでは、たいしたものは書けないということである。 |
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