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 2002/12/31 歳の暮れ

小さい頃、歳の暮れはなぜか気ぜわしかった。貧乏暇なしというが、年末になっても父はずっと仕事に出ていたから、大掃除はいつも押し詰まってからだった。暮れの町を歩いていると、どこからか畳を叩く音がしてきたものだ。近頃では、畳を上げている家を見かけないが、昔は、庭に敷いた茣蓙や筵の上にありったけの家財道具をほうり出して、家中の畳を上げたものだ。そうして、中の埃を出すとともに日にあてて日光消毒をした。床板も全部取り払うと、床下から黴臭い土の匂いが上がってきた。

掃除を終えて敷きなおした床板の上には新聞紙を敷き、蚤取粉を巻いた。大人は、みな頭を日本手拭いで被い、口にはマスクのようなものをしていたように思う。もとあった場所に畳を入れなおすのだが、どれも同じようでいて、実は微妙に大きさが違うのか、一つ間違うとなかなか上手く収まらないのが面白かった。畳だけの座敷はふだんよりやけに広く感じられて気持ちよかった。箪笥やその他の家具を入れても、張り替えられた障子に反射した日の光がいかにも明るく、なんだか何もかもが真新しくなった感じがした。

餅は、親戚が搗いてくれていた。高速道路の工事以来すっかり様変わりしてしまったが、大型店舗のある辺りはかつては見渡すばかりの水田が広がる農村だった。我が家は祖父の代にそこから今住んでいる旧街道に面した場所に店を出して移って来たのだ。親戚は今でもそこにいるが、顔なじみはみな故人となった。

小さい頃は乳母車を押す祖母について在所を訪れた。車には伸し餅と丸餅を入れる木箱がのっていた。搗かれた餅は農家特有の広い土間内に敷かれた茣蓙の上にきれいに並べられていた。丸餅の中にひときわ大きいものが混じっていて、それが鏡餅になった。大きくなってからは自転車の後ろに箱を積んで、一人で出かけた。早いうちに行った年などは、まだ搗きたての餅を重箱に入れてもたせてくれたりした。

大晦日になってから正月飾りを飾るのを「一夜飾りをするものでない」といって母は嫌がった。それで、少し大きくなってからは、父に代わって「笑門」と書かれた真新しい木札と橙、裏白などをつけた注連縄を脚立に乗って玄関の上に飾った。玄関の上の飾りはこの地方では、一年間つけたままにしておく慣わしである。このことは、大学時代に下宿をするまで知らなかった。日本中どこの家でも一年中ついているものだと思い込んでいたのだ。

 2002/11/9 鯛焼き

久しぶりに鯛焼きを食べた。出張から帰ってきた同僚が、まだ職場にいるだろうスタッフの人数を考えながら買ってきてくれた物である。そのうちの一人に数えられていながら「いや僕は、晩酌がまずくなりますから」というのは、ちょっと言えない。左利きの常として、甘い物はどちらかといえば苦手である。それでも、小さい頃は甘い物は大好きだったから、決して嫌いな方ではないのだ。特にまだ温かくて湯気の出ているお菓子というのは、なかなか他にあるものではない。

昔と変わらぬ紙袋から湯気の出ている鯛焼きを取り出すと、香ばしい匂いが立ちのぼった。焼きたてを買ってきたのだというが、型から外した後で、はみ出たバリをきれいに切るものなのに、背鰭と尻尾の間にバリがまだ着いたままで、ずいぶん大きな鯛焼きに見える。一口囓って中のあんこの様子を見ると、小豆の色がわりと薄い。甘みがしつこくないのが今の売りなのかもしれない。

鯛焼きのルーツは、お好み焼きやたこ焼きと同じで「麩の焼き」という茶菓子からはじまったと言われている。利休居士の時代にはクレープのように小麦粉を焼いたものをくるりと巻いて茶席に出したようだ。お好み焼きが、どちらかといえば、お菓子より食事に近い物に変わっていったのに比べると、餡が入った鯛焼きは、ビールのあてにはならず、ずっとお菓子の位置を守っている。それにしては大きくて、一つ食べるとお腹が一杯になるので、お茶うけには向かない。

一銭洋食というのは父に聞いた言葉だが、お好み焼きなどはそう呼ばれていたという。子どもでも小遣い銭で食べられるちょっとした食べ物というポジションを、「麩の焼き」の子孫たちは確保してきた。小学校の頃、鯛焼き屋やお好み焼き屋に入るのは大人になったような気分で何かしら誇らしかったものである。季節によって、鯛焼き屋が主力商品を蕨餅やかき氷をに変えるのも楽しみだった。土間に置かれた一つっきりのテーブルに何人かの仲間と座って、半開きにされたガラス戸の向こうを暖簾越しに眺めるとき、一人前の男になった気分でいた。

久しぶりの鯛焼き一個は、結構食べでがあった。これだけの量の餡を食べることは滅多にない。夕食が遅くなったので、ちょうどよかったのだが、情けないことに胸焼けがした。近頃では、カレーを食べても小豆餡を食べ過ぎても胃薬の世話になる。知人の話では腹筋が緩んで、胃液が逆流するのを止められないからだというが、本当だろうか。ただ、どちらかといえば、カレーも甘いお菓子も子どもの好む物である。酒を飲んで胸焼けをすることがないのは、大人になった証拠なのかもしれない。

 2002/10/12 即席麺 

勤め先の事情で一日休暇をもらえることになった。朝から溜まっていた本を読み、妻が用意していってくれた鶏の笹身と牡蠣フライを温めて食べた。朝食はパンだったので、ご飯はなかった。炊くのも面倒だから缶ビールでも飲んでおけばいいやと思ったが、料理を食べ終わっても物足りない気がする。袋入りの即席麺があったのを思い出して、作って食べた。子どもの頃からある超ロングセラー商品である。

ある時本場の長崎チャンポンを食べて、この味はたしかにあの即席麺に通じるものがあると改めて感じたほど、そのオリジナリティーのある味は変わらない。新しく出てくる商品が「おっ、これはうまいぞ」と思って贔屓にしていると、いつの間にか棚から消えているのに比べ、パッケージデザインが少し変わったぐらいで、黄色い袋の色は変わらず遠くから見てもすぐわかる。考えてみれば、昔から変わらないというのは案外すごいことなのかも知れない。

現代社会にあっては、目にするもの、手に触れるものが怖ろしいほどの速さで移り変わっていく。この間、出先で電話をかけようと公衆電話を探したが、なかなか見つからなかった。昔はもっとあったと思うのだが、誰もが携帯電話を持ち歩くようになってからは姿を見かけなくなってしまった。歳をとって保守的になったからか、気に入ったものや使い慣れた物を手放せなくなっている。それらは、体や気質に密着し、自分の一部とは言わないまでも外延をなしているからだ。

たとえば、匂いや味は記憶と結びついている。他の即席麺を食べても、店のラーメンを食べても、特に何も思い出しはしないが、この麺を食べると、父がまだ生きていた頃の日曜日の食卓を思い出す。おそらく、父が、この麺しか食べなかったのだろう。いつの間にか我が家でラーメンといえばこの麺を指すことになってしまっていた。今のようにうまいラーメンが手軽に食べられなかった頃で、即席麺が出るまでは「広東麺」という乾麺が家で作る中華そばの代名詞であった。

TVでは、市川雷蔵の映画をやっていたのを思い出す。藤村志保がきれいだった。即席麺の香りで思い出されては、スターにとっては有り難迷惑かも知れないが、不思議なことに雷蔵映画なのだ。年譜で調べてみると、その頃雷蔵が亡くなっている。享年37、若すぎる死を惜しまれた名優であった。その後、大学に進学してからも、郷里から箱詰めで送ってもらっていたのだから、その時代のことを思い出してもいいはずなのに、父と雷蔵の映画を思い出すのは何故だろう。

実は、その頃祖母を亡くしている。日曜日の昼に、即席麺を食べるのは、いわば手抜きだ。祖母のいた頃は、母が用事で留守をしたときでも何か出てたはずである。男ばかりが残された日曜の昼食、即席麺ですませておこうということにでもなったのだろう。何故か記憶の中では、いつも雨の降りそうな空模様である。日曜の昼に食べる即席麺というのは、どこかわびしげである。そうした心象が反映しているものでもあろうか。

 2002/9/10 河原 

河川敷がきれいに整備され、新しく植えられた並木の葉もこんもりと繁り、散歩にはお誂え向きだな、と思いながら車を走らせていると、木の根方で何かがきらりと光るのが見えた。真新しい自転車が二台、叢に転がされている。めずらしいこともあるものだと、あたりに目をやると、行儀よく並んだ木々の間に白いシャツを着た二人の高校生が仲良く肩を並べて座っていた。並んだ二人の間にわずかに見える川の流れが清冽に思え、青春映画の一齣を見ているようだった。

曇った空の下を流れる水の色は蒼鉛色、あたりはモノクロームの世界である。何もかもがすっかり昔とは変わってしまっている時代の中にあって、いかにも安っぽい化繊の白いシャツに黒いズボンとスカートがどうしていつまでも制服として残っているのかは不思議だが、そのおかげで川縁に腰掛けている二人の姿は古い映画の中から抜け出してきたようにかえって新鮮に目に映る。

学校帰りだろうか、自転車を漕いでここまで来て、二人並んで川の流れを眺めてるなんぞは、この頃の高校生とも思えない風趣がある。そう考えながら橋のたもとまで走ってきて思い出した。自分も同じ歳頃、よくこの川の河原まで自転車を走らせたことを。もっともいつも一人きりで誰もいない河原を何のあてもなく歩いているばかりだったのだが。

好きになった人にはすでに相手がいて、毎日話はできてもそれは友達としてでしかなく、学校が終われば、顔を見ることすらままならない。胸の奥に燻るものの始末に困って、ひとりになれる場所を求めては自転車を走らせていた。夏も過ぎた河原には、いつも人影はなく、葭や灌木の陰に腰を下ろしてしまえば誰にも見とがめられることはない。そうして空を行く雲や流れる水を見ていると、いつの間にか諦念にも似た感情が心の中を浸し、暮れかけた河原を後にするのであった。

若き日よ、橋を渡りて、
千曲川、汝が水は冷たからむと、
忘るべきは、すべて忘れはてにき。
            津村信夫『千曲川』より

 2002/8/30 「飛蚊症」

眼鏡を変えて遠くまで見えるようになったと喜んでいたのも束の間、しばらくして右眼の前を薄い寒天質の膜のようなものが、眼球の動きに連れて目の前を行ったり来たりするのに気がついた。人間ドックで、右眼だけ再検査の指摘があって、二月程前に検査を受けたばかりだ。その時は両眼とも、ごく一部だが視野欠損があるとかで、脳のCTまで撮ったのだ。結果は、脳に異常はなく生まれつきのものだろうということであったのだが。

大きな病院に行くと一日がかりになる。行きたくはなかったが、夏の強い光の中、車を運転していると、眼のすぐ前をワイパーみたいに動く膜は気になって仕方がない。休みを取って朝から待合室に並んだ。いつもながら、病院は老人でいっぱいだった。その中に混じって、長椅子に座っているだけで意気消沈してくる。名前を呼んでもらうまで一時間。視力検査をして、また外で待つこと半時間。ようやく診察してくれたのは、この前の先生だった。

詳しい症状を話すと、医師はいかにも言い慣れたという口調で言った。
「瞳孔を開く薬を射して検査をしたいんですが、この薬を射すと、四、五時間車の運転ができません。時間を潰してもらうことになりますが、よろしいですか。」
ここまで来て、困りますとも言えない。薬を射してもらって、また外で待った。

自分の眼の中を覗かれるというのは変な気分だ。右上や左下と、医者の言う通りただ眼を動かしていると、なんだかいかにも自分が無力な存在になった気がしてくる。なるほど、こうして医者は権力となり患者はそれに屈するという関係ができあがっていくのか、などと考えていた。
「加齢で、網膜の一部に皺がより、少し剥がれかけているんです。それで、映画のスクリーンに皺がよったみたいに目の前を影が動くんですな。飛蚊症といいますが、ある程度の年齢になると出てきます。病気とは言えませんね。僕ももう出てますよ。」

「まれに網膜穿孔や網膜剥離になる場合もありますから、変化があったらまた来てください。」と少し脅かされて無罪放免となった。病気でないのはよかったが、目の前のもやもやする物とはこれから一生つき合っていかなければならない。そう思うと、自分もさっきまで隣に座っていた老人たちの仲間入りをしたみたいな気持ちになって一段と落ち込んでしまった。

あれから数日たつが、症状に変化はない。「生理的飛蚊症」ということになるのだろう。白い壁や明るい青空を見たときによく出るというが、そんなことはない。いつも出ている。眼を動かさず、じっとひと所を見つめている場合はそれを意識しないだけである。車を運転していると、無意識に眼を動かすらしく、特に気になる。物が見えにくくなるのはそれほど気にならない。見なければいいだけだ。しかし、見たくなくとも見えてしまうというのは困る。

通常は自分が何を見ているかなどと、人は意識をしないものだ。だから平気な顔をして街を歩きながら無意識に眼の端に何かをとらえ、すぐ忘れて次の物に目を移す。それを、右の眼球が動くたびに、半透明の膜状のものが、「あ、おまえは今○○を見ただろう」と、頭のなかに囁くのでは煩わしくて仕方がない。眼球の動きを光の点で表すアイカメラがあるが、いつもあれを装着して歩いたり、運転をしたりしているのと同じで、自分の中に「映倫」がいるようなものである。

これを意識しないでいられるようになるには、どれくらいの時間がかかるのだろう。健康なとき、人は体のことを意識しない。医者は病気ではないと言ったが、そういう意味では、これはかなり重い病気である。それとも、多くの人は気にしないで暮らしているのだろうか。あれから何人かの人に飛蚊症の話をした。「僕も若い頃から飛んでますよ」という人は案外多い。ふだん話に出ないのだから無意識の領域にじっと潜んでいたにちがいない。早くそうなりたいものだ。

 2002/8/28 「雨漏り」

この間の台風以来、ちょっと強く雨が降ると二階の寝室の天井で雨漏りの音がするようになった。家を建てた業者に診てもらったところ屋根に葺いたコロニアルベストの耐用年数が切れ、劣化して割れてきているそうだ。前にも一度雨が漏り、その時はローンがまだ残っていたので、保険がきいたが、すでにローンは払い終わっている。皮肉なことに、その頃から家のあちこちが傷んできたような気がする。

外壁にひび割れが出てきたので、足場まで組んで塗り直したと思ったら、今度は雨樋の金具が壊れ、風が吹くと外れるのではないかというほどに揺れる。また足場を組まなければならない。この足場の金額がばかにならない。安い車なら新車が買える値段だ。風呂場からも水が漏れ、外壁に滲み出てきていた。当時すすめられて買った琺瑯製の浴槽は何ともないのだが、タイルの目地がぼろぼろと剥がれ、そこから水が入っているとのこと。流行りのユニットバスに交換した。新品同様の琺瑯製浴槽は一般廃棄物扱いになるので、引き取るのに別料金がいるという。金槌で叩いても壊れないのが売りだったが、それが仇になったわけで、何とも皮肉ではないか。

この家を建てるとき「家というのは一生物ですから」と、さかんに言われたことを覚えている。二十年で耐用年数が切れる物で作っておいて何が一生物だ。言い忘れたが、設計は自分でしたが建てたのはプレハブ最大手のM社である。当時も今もプレハブの建築会社は、そのカタログに自社製品の耐用年数を明示してはいない。家というものは、そう何度も建て替えるものではない。はじめから二十年で交換が必要な材質で作ってますよと言われたら、誰がプレハブの家を購入するだろう。少々高くても本瓦の家屋を建てるに決まっている。

スクラップアンドビルドという言葉が流行っていた。それが景気を後押ししているようなときはいい。不景気で、給料まで下がろうという時になって、家の建て直しを迫られては泣き面に蜂である。修理修理で金が出ていくのが嫌になって、新しく家を建て直した話はよく聞く。まさかと思っていたが、本当の話だったとは。足場を組まずに屋根を替えようと思うと、そのまますっぽりと新しい屋根をかぶせるのが今のやり方だそうである。それで何年持つのかと聞いたら、やはり十年少しだという。日本の建築会社は、真剣に家を建てる気があるのだろうか。

我が家で最も奇麗に残っているのは玄関の木製扉だが、それには訳がある。家を建てて何年か経った頃のこと。見なれない男の人が玄関の呼び鈴を鳴らした。聞けば、「お宅の扉は塗り直さないとぼろぼろになってしまう。二枚で八千円でやるけどどうか」と言う。たしかに、塗装が剥がれてきていた。騙されたつもりでやってもらった。結果は大満足。扉は見違えるように奇麗になった。

それからも何年か経つ度にその職人さんは家を訪れた。決まって塗装が剥がれた頃に。今年も、もうあの人は来ないのかなあと話をしていると、ひょっこり顔を見せた。「待ってたんですよ」と早速塗り直してもらった。建てたときと同じように奇麗にして一万何千円。少しずつ値が上がるのは仕方がない。朝から一日、うちの家にかかりきりである。仕事がはっきり目に見えるから金を払うことに不信感が入り込む余地がない。「また来てくださいよ」と言って分かれた。

メンテナンスが必要なら、これくらいの気遣いはほしい。渡り職人でも、自分が塗り直した家が何年で修理が必要か把握している。何年たとうが電話一つかけずに、ちゃんと顔を出してくれる。黙々と仕事を進めるその人の横で、当時は保育園に通っていた長男が、何が面白いのか一日中見ていたことを昨日のように覚えている。

腕のいい大工が仕事がなくて困っている横で、大手のプレハブ会社のどこの国の家か分からない建築が、山を切り崩した造成地を埋めていく。たしかに技術は進歩したかも知れない。しかし、相変わらずのコロニアルベストの屋根である。いつまで、安かろう、悪かろうの家づくりを続ければいいのだろう。いろいろな国にも行ったが、これくらい雨の多い国もない。せめて瓦くらい本瓦の家を建てたらどうか。少々割高でも、後から追銭を出さなくてもいい家を欲しがる人は多いだろうに。

 2002/8/27 「うたた寝」

夕食後、子どもは自分の部屋に入り、何かしている様子。妻は二階に上がったきり下りてこない。おおかた、またコンピュータの前だろう。居間のソファを独り占めして横になったら、そのまま寝入ってしまった。突然、ドンという音がしたので、目が覚めた。白いビニール袋が目の前を通り過ぎて窓硝子にぶつかった。と思ったら、今度は逆に息子の部屋の方に走り去った。

音に驚いて、妻も二階から下りてきた。
「どうしたの、何の音。」
「ニケが、」といったまま後が続かない。ニケは、また走ってきて今度は掃き出し窓に飛びついた。
「ああっ、ニケ、かわいそうに。」
妻はあわてて走り寄り、ふうっと怒りの声を上げるニケを抱き寄せると、首に巻きついていたビニール袋を外した。

ニケの興奮はまだ治まらない。毛を逆立てて威嚇する。妻は指にニケの爪がくい込んだらしい。指から血が出ている。消毒薬を探しに妻が立つと、ニケは部屋の隅に入り込んだ。さっきまでニケがいたところが濡れている。怯えて漏らしたらしい。
「洗面所から雑巾を持って来て。水が垂れるくらい濡らして。」
言われたとおり、水を含んだ雑巾を持ってくると、カーペットにたっぷりしみ込ませた。消毒を終えた妻が、今度は乾いた雑巾でとんとんと叩くようにして水を吸い取って行く。丁寧にしないと匂いが残る。ふだんは絶対に失敗しないから、今まで匂いで困ったことはない。

よほど怖かったのだろう。まだ、カーテンの陰に隠れるように隅っこでうずくまっている。その足もとが何か変だ。
「おい、大変だ。けがしてる。」
白い毛が血に染まって赤く見える。
「かわいそうに、今消毒してあげるからね。」
そう言うと妻は以前獣医からもらった消毒薬を湿した脱脂綿を手に持った。

さっきまでおろおろするばかりで何もできなかった。挽回するのは今をおいてない。背中の方から手を伸ばし、そっと抱き上げた。けがしているのは左後ろ肢だ。腹を上にして前足を押さえた。ニケは静かに消毒をさせている。窓硝子を引っ掻いたときに生爪を剥がしたらしい。まだ根の所がつながったままの爪がぶら下がっている。爪とぎで前足の爪は頻繁に剥がれるのを知っているが、後ろ足の場合はどうなのだろう。

消毒を終えたら、ニケはピアノの椅子の下に入っていった。本能だろうか、ふだんはあれほどおなかを見せて甘えるのに、けがしたときは誰からも身を隠そうとする。そうしてじっと体力が回復するのを待っている。その姿は実に孤独で、どこか手の出せない雰囲気がある。

いつも、誰かがニケをかまっている。姿が見えないときはどこかの部屋で寝ている姿を確認することで一家が安定するのだ。ニケに何かがあるとそのバランスが一気に壊れてしまう。ビニール袋を放置したまま寝ていたことで息子は父を責める。いつもは袋で遊ぶので、わざと置いてあったのだ。問題は、ワインを買った店が気を利かせて袋が二重になっていたところにあると妻が言う。そもそも酒なんか飲むからいけないと息子は言うが、それは八つ当たりというものだ。

野鳥が釣り師の放置した天蚕糸を足にからませたり、魚がビニール袋を呑み込んでしまったりして死ぬことがある。そのままでは土に帰らない化学製品は、自然の生き物にとっては理解を超えた存在である。古代から人と生きてきた猫にしても紙袋ならいざ知らず、ビニール袋では歯が立たない。これは歴とした環境問題である。などと息巻いてみても、うたた寝さえしてなければこういう事態は免れたわけで、責任の所在は自分が一番よく知っている。

それにしても、家族みんなが本当に眠ってしまっている夜には、こういう事件は起きたためしがない。彼女は彼女なりに人間の庇護下にあるときとそうでないときを理解して動いているのだろう。「うたた寝」などという中途半端な行為が誤解の原因である。眠っていることがニケにも分かるように寝室に行って眠るという手もあるが、それでは知らぬ間に眠りの縁に運ばれてしまう時のあの快感が得られない。人間の管理できる範囲は限られている。管理が届かないところでは、世界は自然に近い状態にしておくのがいい。やはりビニール袋に退場してもらうことになるだろう。

 2002/7/25 「海水浴

この季節にはめずらしい台風が通り過ぎると、梅雨あけの空に夏が突然やってきた。仕事の行き帰り、毎日通る道ばたの田圃の稲穂の色が目に見えて濃くなった。風が吹くと、大きな手で撫でられてでもいるように、ひとむらの稲穂の上に陰がたまる。どこまでも続く田圃の向こうにはあの頃と変わらぬ海が広がっているはずだった。

小さい頃、夏が来ると近くの海に海水浴に行った。家のある丘を下りたところに、その頃はまだ鉄道が敷かれていた。短い歩廊に滑り込んでくるのは路面電車のような小さな車両だった。夏用の白いサンダルの尾錠を外し、窓に向いて座席に足を乗せると、飴色の木枠と臙脂の座席が陽に灼かれてすでに熱かった。一面の稲穂の緑を切り裂くように、線路はひたすら海に向かってのびていた。リボンの付いた麦藁帽子が飛ばされないようにしっかりと押さえる手の傍らで、つばが風を受けてばたばたと鳴った。

終着駅のがっしりした木製の改札口を抜けると、駅前の通りには二階建ての旅館が両側に建ち並び、店舗になっている一階の店先には土産物の貝細工や、浮き輪、麦藁帽子などがにぎやかに吊され、いかにも海水浴客を歓迎しているように見えた。少し行ったあたりに名物の赤銅色の竈を据えた茶店がある。そこを左に折れると松林に続く細道に出る。砂混じりの白茶けた道の上を潮の匂いが風に乗って運ばれてくる。

海が見えると、足は自然にはやくなり、いつの間にか駆けだしていた。堤防の上に立ってうねる波の押し寄せてくるのを見つめていると、胸の鼓動が大きくなり苦しくなってくるほどだった。目を上げて、遠い水平線の向こうに広がる空を見やり、やっと一息をつく。仕事の休みの取れない父が海に連れてきてくれるのは盆の頃で、海にはいつも土用波が立っていた。

はじめてボートに乗ったのもそんな土用波が立つ頃だった。その日父は少し酔っていたのかもしれない。貸しボートのような贅沢なものに乗ったのは後にも先にもその日限りだった。船の中に私を乗せると、父は、砂浜から海の中へ船を押しだした。あわてて自分も乗り込むとオールを使って沖の方に漕ぎ出したが、いくらも漕がないうちに大波に呑まれ、小舟は砂浜の上に打ち上げられた。覚えているのは波の裏側に入ったときの恐怖感だけである。よほど印象に残ったのだろう。子どもの頃の絵日記ではこの日の分しか覚えていない。

泳いだ後は、駅前の店でかき氷を食べた。「せんじ」といって、透明なシロップをかけたものが好きだった。赤や黄色のものはいかにも子どもっぽく思われたのだ。子ども用でなく、大人用のかき氷を全部食べると、きまって最後には頭の芯がキーンと痛くなってくるのだった。その冷え凍った頭と腹を抱えながら帰りの電車に乗ると、西日のあたる車内の座席のぬくもりが膚にやさしく感じられ、いつの間にか眠り込んでしまうのだった。家にはいつも負ぶわれて帰ったのだろうか。鮮明に覚えている海水浴の記憶の中で、駅から家までの分だけが不思議に抜け落ちているのである。

 2002/6/26 「包丁

食卓に並びはじめた肴をあてに、ひとり晩酌をはじめた私に台所から
「切れ味が悪くなったわ。鰺のたたきを作るとすぐわかるの」
と、妻が声をかけた。この前から話には出ていたが、今日はいい鰺が手に入ったらしい。
「うん。あとで研いでおくよ。」
ひと声かけて、また酒を飲み始めた。

子どもの頃、少年雑誌に柔道マンガが連載されていて、その主人公の大好物が「アジのたたきに紫蘇の葉まぶしたやつ」だった。その頃は、房総の漁村ならではの食べ物かと勝手に思い込んでいたのだが、今では自分の好物になっているからおかしなものだ。我が家では紫蘇の葉はまぶすだけでなく、一枚なりに器に敷いた上に鰺のたたきが乗って供される。

包丁で思い出すのは堀田善衛が『誰も不思議に思わない』で紹介している中野重治の逸話である。用事があって訪れた堀田に中野は「短い原稿を一つ書いてしまうから待っていてくれますか?」といって台所に行き、包丁を研ぎはじめたという。包丁の後は肥後の守を、そして小刀と、、中野は原稿を書く前には家中の刃物を研ぐのである。堀田は、その後ろ姿を見ながら背筋が寒くなったという。

作品に取りかかる前の儀式に、中野重治という人の文筆にかける気迫を見る思いがする。たしかに、刃物を研ぐ行為には、気を鎮め、何か一点に向かって集中する効果がある。集中できないと、うまく研げないのだ。はじめのうちは、力任せにごしごしと包丁を動かすばかりで、仕上がりは芳しくなかった。包丁一つ研ぐにも技術がいる。文章を書くのも同じかも知れない。

水に浸しておいた砥石の粗砥の方を上にして、台の上に置く。包丁の峰と砥石の間に硬貨一枚ほどの隙間をあけ、刃先を向こうにして手前に引く。効率を考えて往復して刃物を動かすのは禁物。必ず手前に引く時にだけ力を入れる。このとき、刃先の全体が均等に砥石と接するようにしなければ、刃先が波打つことになる。漬け物を切って、つながったりするのは、それが原因である。両面を研ぎ終わったら仕上げ砥で、仕上げる。刃先の先にできたバリがここで落とされる。

研ぎ終わった包丁で試しに胡瓜や檸檬を切ってみる。力を入れずとも、勝手に切片が刃物の上にできている。ぞくぞくっとする。文章は、いまだにこうはいかない。いつも、どこか不満が残る。きっと、書く前にいつも家中の刃物を研がないからだ。たとえ短い文章にも、それだけの心構えをしてかかった中野重治という人の凄さがあらためて分かる。それを短い文章で書きとめた堀田善衛という人の観察力にも恐れ入るばかりだ。

 2002/5/26 「行列

行列が嫌いである。若い頃、妻と二人で、明治村に出かけたことがあった。電車を乗り継いで二時間ほどかかって犬山に着いた。明治村に行くには、そこからまだバスに乗らなければならない。バス乗り場について驚いた、先客がまだ来ていないバスを待って行列を作っていたのだ。次のバスはおろか、その次のバスに乗れるかどうかもおぼつかない。なんだか無性に腹立たしくなってきて、あきれる妻をしり目に強引に帰ってきてしまったことがある。

人混みに対して、生理的な嫌悪感があるらしい。人出の多いところに行くのが嫌いで、祭りやイベントはまず出かけない。見たい映画があっても、人の話題になっている間は混むから、次の映画の方に話題が移った頃に出かけるようにしているくらいだ。東京ディズニーランドにも行ったことがないのに、仕事絡みとはいいながら、できてまだ一年ほどしかたたないユニヴァーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)に行くことになろうとは思いもよらなかった。

だだっ広い駐車場で車を降りた。見覚えのある門をくぐって中に入ると、そこはもうハリウッドだった、と書きたいところだが、なんだかどこかで見たような光景だった。雨の少ないスペインやアメリカ西海岸とちがって、日本の場合雨対策は必要悪なのだろうが、大通りの両側に並ぶ店とその上を覆うアーケードのたたずまいがスペイン村に酷似している。キャラクターの気ぐるみのお出迎えもそうだが、パレードもテーマパークといえばつきもののようになっている。もう少し違ったやり方はないものだろうか。TDLのまねをしていればまちがいないというのだろうか。

確かに通りを歩いていると、映画で見たような街並みが続いていて、それはそれで面白い。アトラクションの数や配置は工夫されていて、少し歩くだけで次のところに行けるのもいい。レストランは高いが、ホットドッグスタンドをはじめ、アメリカらしい屋台店が出ていて軽食をとることもできる。問題は行列である。一時間を超える待ち時間はざらで、その間、ただただ、行列を作って待つだけというのは、人をばかにしているとしか思えない。それだけ待って、実際のお楽しみはせいぜい数分間である。

高い金を払って行列をしに来ていると言っても過言ではない。子どもならいざ知らず、いい大人がと思いたいところだが、おとなしく並んでいるのは、ほとんどが大人、それも自分より高齢の人もめずらしくない。だとすれば、大半の人が、この事態をおかしいとは感じておらず、ばかばかしいと感じてしまうこちらが少数者ということになる。

行列は覚悟していたから文庫本をポケットに入れてきていた。E・M・フォスターの評論集である。その中の一編にこういう一節があった。「行列には、寛容の精神が必要です。(略)寛容の精神は、街頭でも会社でも工場でも必要ですし、階級間、人種間、国家間では、とくに必要です。冴えない美徳ではあります。しかし、これには想像力が絶対に必要なのです。たえず、他人の立場に立ってみなければならないのですから。それは精神にとって好ましい訓練になります。(岩波文庫、小野寺健編訳)」

ひそかに恥じた。フォスターは続けて言う。混雑している現代の世界では、多くの人が互いにぶつかり合っている。大部分が知らない人間で、中には嫌いな相手もいる。解決策は二つあるという。一つはナチスのやり方。(このやり方が再び力を得てきているのは移民排斥を訴える右翼政党の台頭を見ても明らかである。)今ひとつはがまんすることである。まちがっても愛そうなどとはしないことだ。人は、自分が直接知っている人しか愛せない。見知らぬ人々を愛そうとしても無理が生じる。寛容の精神でがまんするのである、と。

私は、人混みや行列という事態を嫌悪していると思っていたが、その実、自分の知らない人々を嫌っていたのだ。ナチス風の解決は論外だから、自分の方が世界から退出しようとしていたのである。テーマパークなら行かなければすむが、現実世界となると話は違う。第二の方法を私も選ぶだろう。

そんなわけで、精神の訓練と考え、行列に並んだおかげで、三つものアトラクションを楽しむことができた。待ち時間に自分の精神について意外な発見もすることができたし、有意義な経験であった。もっとも、もう一度行こうと誘われたとき、タイムトラベル用の車で揺さぶられる肉体の訓練はまだしも、ひたすら並び続ける精神の訓練に再び耐え得る自信はまだ持てないでいる。

 2002/5/20 「散髪

以前は水曜日が床屋の休日と決まっていたものだが、最近は月曜日が休日だったりする。そうなると、差し迫った用のある者は、日曜日に行かざるを得なくなるわけで、店は混むことになる。休日にしか行けない我々のような客にとっては、ちょっと困った変更だが、相手にも都合のあることだから仕方がない。朝食後、いつもより早い目に家と目と鼻の先にある店を訪ねた。

床屋が嫌いなわけではないが、髪など放っておいても伸びるのだから、自然に伸びるままにしておければそれでいいと思っている。ところが、生まれついてのくせっ毛で、所謂天然パーマというやつ。短いときは手櫛で収まるのでまことに都合がいいのだが、少し長くなると、髪が波うち、端の方が跳ね上がってくる。それでも放っておくと鉄腕アトムの妹のウランちゃんの頭のようになってしまうので、仕方なく床屋に行く仕儀となる。

60年代なら、そのまま伸ばしておけた。もっと長くなれば、また内向きに巻いてくるから、デューラーの自画像のような髪型になる。世界中にそんな髪をした若者がいっぱいいた頃はそれでよかった。時代は変わり、こちらも歳をとった。髪にも白い物がちらほら目立つようになっては、自然にしているつもりがかえって不自然に見える。歳をとればとるほど、身だしなみに気をつけないとみすぼらしく見えてしまうのだ。

今回、散髪を渋っていたのにはもう一つ理由がある。去年の夏挫折した髭に再挑戦していたからだ。ちょうどいいくらいに伸びて、顎髭など、鏡を見ながら長さを揃えるのに毎日苦心していたのだが、散髪したての髪と、髭はどうにも不釣り合いに見える。なんだかわざとらしく見えるのだ。そこで、思い切って剃ってしまうことになるのだが、髪と髭を同時に切ると、面立ちがまったく変わってしまう。髭を剃り終わり、蒸しタオルで覆われた顔を上げると、鏡に写し出された顔はまるで別人である。なんだか妙に間延びして見える。

落ち着かない気分のまま家に帰り、妻にそのことを言うと、
「それが、あなたの顔なのよ。今までが変だったの。」と、軽くいなされてしまった。それかあらぬか、あれほど髭を剃れと口やかましく言っていた母など、床屋から帰ってから何度も顔を合わせているのに、髭を剃ったことに気づいてもいないらしい。去年の夏など、妻さえ、二、三日してやっと気づいた有様である。

「きっと、いやだから見ないようにしていたから、気づかなかったのよ」と、妻はすまして言ったものだが、いつも一緒に行く美術展や映画の場合はどうなのだろうか。こちらは相手も気に入っているから一緒に見ているものと思い込んでいたが、案外ちがっていたのかもしれない。もっとも、絵画や映画は一度きりだが、つれ合いの顔は毎日見なければならない。こちらは鏡でも見なければ、自分の顔など見ることもないのだから、幻想の自画像を描いて自己満足に耽っているだけかもしれないのだ。

自分だけが自分であると思い込んでいるのは、顔だけではない。日々の生活の中で、自分では理非曲直をわきまえた上で、発言し、行動をしているつもりでも、ちょうどそれは、鏡に写ったときだけ自分の顔を見ているのと同じで、他者の眼はそれ以外の無意識に行動している時も見ている。自分の思っている自分と他者の目に映っている自分との落差は案外大きいのかもしれない。

 2002/4/27 「卯月の頃」  

そう言えば、去年の今ごろもここに来ていたのだった。花粉の飛ぶ時期を避けるため、ずいぶん長い間、小屋を訪ねることができないのは毎年のこと。いつも食事をするベランダが、果たして無事かどうか、来てみるまでは分からないから、昼の用意もせずに来る。幸い何事もなく、ベランダに積もった落ち葉を掃き落とし、小屋の窓を開けて風を入れると、後はたいしてすることもなくなった。

新しい長靴を履いて、道に出た。谷川の向こうに木漏れ日が射し、まだ若い木の葉がそこだけ黄緑に光っている。足下の陽だまりには黄色い蝋質の花弁に日を浴びて金鳳花の花がすらりと立っている。日陰にかたまって咲いているのはムラサキサギゴケの群落だ。

欅の若葉が日を透かしているその間をさっきから鳥の影が行ったり来たりしている。ツィッピ、ツィッピという鳴き声は四十雀だろうか。遠くで鳴いているのは鶯だ。風がないので木の葉のそよぐ音もなく、いい天気が続いているから、水の音もあまりしない。

何をしに来たのでもない。ただ、しばらく見なかったからちょっと様子を見に来ただけのことだ。変わりがなければそれでいい。けれど、小屋に比べ、周りの様子は少し来ない間にずいぶん様変わりしていた。一軒の家が立ち退き、道幅が広げられ、近くに新しい家が建っていた。小屋のある辺りの山道も整備され、なんだか広々として見えた。

自然の中で何にもしないでいようなどと思うのは、街からたまに出かけてくる人間の勝手な思いである。探検でもするならいざ知らず、車でちょっと出かけられるところに人間の手の入っていない自然なんてものはないのだ。それだけに、自分の買った敷地内は草の伸びるまま木の繁るままにしてある。去年見たササユリが今年も同じところに咲くのを見るのは何がなしうれしいものだ。

そんな先住者の気持ちを知ってか知らずか、つい最近近くに立派な小屋を建てた隣人は、来る度に周りの土地に手を入れているようだ。谷川にあった倒木や切り株まで片づけ、川に下りる石段まで作っている。なんだか親水公園みたいで興が醒める。利休居士も「花は野にあるように」と言っているではないか。わざわざ山の中まで来て、人の手業の跡を残すこともあるまいと思うのだが。

 2002/4/21 「LP

急にジェイムス・テイラーが聴きたくなった。本棚の最下段から古いLPレコードを引っ張り出してきて、ターンテーブルにセットする。プレイヤーは最近買い換えたもので、カートリッジを選んだりすることはできない。何の事はない、はじめて買ったころのプレイヤーに戻ったようなものだ。それでも黒い円盤の真中にワーナー・ブラザースのロゴとパームスプリングスの椰子の並木が描かれたレーベルがくるくると回りだすと、なんだかうれしくなった。

スピーカーはHAWK社製のフロアタイプの箱に、三菱の20cmフルレンジを組み込んだ自家製のものだが、アコースティックな音を自然に響かせるのが気に入っている。場所を取るので、押入れの隅に放り込んであったのだが、プレイヤーが復活したときに再登場してもらった。CDの登場とともに、あっという間に消えてしまったLPといっしょに、大きなアンプやチューナーも処分してしまっていたのだが、コンパクトタイプのステレオの音が不満になり、新しいプリメインアンプを買ったあたりから、昔の機器が復活した。

床の絨毯や周りを取り囲む本の所為かややデッドな音だが、少し鼻にかかった歌声が、すぐ傍で歌っているように感じられる。ひなびた土の匂いのする田舎道を、ぶらぶら歩いているような長閑な気分に浸っていると、硝子窓を叩く雨の音さえ、気にならなくなってきた。一曲が三分程度で、片面に数曲という録音は、現在のCDと比べてみると、かなり短く感じる。かけ替えの手間がかかるのが衰退の原因の一つでもあったろう。

何かをしながらBGMとしてかけっぱなしにしておくのなら確かにそうだろう。しかし、安楽椅子に座り、じっくりと聴いていると、ずっと座りっぱなしはかえって疲れる。適度にかけ替えるために席を立つほうがいい。それでなくても、傷のために音が飛ぶと、慌てて針を上げなければならない。アナログであるということは、手間のかかることである。

二枚目にニール・ヤングの『ハーヴェスト』をかけながら、ジャケットの手触りを久しぶりに味わった。クラフト紙の風合いを生かし、いかにも素朴な作りのデザインは、曲のイメージを裏切らない。ポスターや自筆の歌詞カードが折り込み付録のように挿みこまれているのもアルバムを買うときの喜びだった。小倉エージ氏のライナーノーツを読んでいると鼻の奥の方がツーンとしてくる。ライナーノーツ特有の文章というものがあったのだ。

確かに、埃の心配やカートリッジの劣化、交換というコストの心配からは解放された。かなり乱暴な扱いをしてもCDはへこたれない。しかし、その分、値段の割にはつまらないものになってしまった気がする。ジャケットの顔とも言えるカバー写真は小さく、デザイナーも腕の振るいようがないだろう。ビートルズの『サージェント・ペッパーズ』やストーンズの『スティッキー・フィンガーズ』のような遊び心に溢れたアルバムは生まれようがない。

プレイヤーが復活しているということは、LPの復活も企画されているのだろう。CDの牙城は崩れることはないだろうが、管球式のアンプのファンや、アナログ再生にこだわる音楽好きは少なくない。往年のファンに向け、LPでアルバムを作るアーティストはいないものだろうか。盤上に針を落としたとき、かすかに聞こえるノイズに、曲が始まる前の興奮を感じる人士はまだまだ多いと思うのだが。

 2002/4/2 「ならまち

友人の誕生祝いに、久しぶりに帰郷した長男が、すぐにまた下宿に帰るというので、それを送りがてら、奈良に行くことにした。県立美術館で開かれている展覧会を見るという目的もあるのだが、春の奈良の町を歩いてみたくなったのだ。奈良に来ると寄る、いつもの店で昼食をしたためて長男を駅まで送った。これでまたしばらくはお別れである。小さい頃から別れというのが苦手な子だった。駅に向かって歩いていく後姿にも肩のあたりに力が入っているのがこちらに伝わってくる。

美術館を出ても、日はまだ高い。陽気に誘われて、奈良公園の辺りはたくさんの人でにぎわっている。前々から一度行ってみたいと思っていたならまち界隈に足を伸ばしてみようと思った。公園の案内地図で探すと、さほど遠くない。駐車場から車を出すと、猿沢の池に沿って走らせた。

「見わたせば 柳桜をこきまぜて 都ぞ春の 錦なりける」と、古今集にも歌われているが、寧楽の都の桜も今がちょうど見頃、淡い薄紅色の桜花と早緑にけぶるような枝垂れ柳の枝が猿沢の池の水面に映えて、絵に描いたような春景色である。歌があるから美しいと思うのか、この美しい風景があったればこそ、いにしえ人も歌を詠んだのか。たしかなことは、桜の花を美しいと思う感性はどうやら本朝のものらしい。梅にはないあやしさのようなものが桜にはある。

ならまちというのは、もともとは元興寺の境内のあった所である。火事に会い、多くの塔頭が焼けた跡に、人々が家を建てて住み始めたのが今のならまちのはじまりらしい。現在残っている家屋の中には江戸時代のものもあるようだ。どこでも同じだが、建て替えのあるたびに失われていく町並みを守るために、町の人々が立ち上がり、「ならまち」という界隈を残す運動をはじめたのだった。

車は少し離れた駐車場に置き、歩いて行くことにした。商店街を通り抜けると、なんだか自分の背が高くなったような気がした。周りの家々の屋根が低く、全体に小ぶりである。古い町並みに入ったのだ。平入りの家並みには軒瓦が続き、格子が窓を飾っている。鍵の手になった角を折れると、暖簾を吊るした店が目に止まった。昔懐かしい蚊帳を商う店である。暖簾も蚊帳でできている。店の奥には本物の蚊帳が展示されていたが、今では、蚊帳製の暖簾やランチョンマットなどが、主力らしい。売り子もいないひっそりした店内の一室には、店主らしい人が静かに仕事をしていた。

その次に訪れたのは、まちの中心らしい「物語館」という看板のかかった建物だった。アクセサリーや小物が並べられた店の中は、古い民家独特の黒光りした梁を見せる吹き抜けの土間が印象的で、屋根には天窓が切られていた。低い上がり框に腰をおろした。座敷の奥には箱階段が置かれ、そこから二階に上がれるようになっている。昔は見かけたが、今は見ることもなくなった。機能といい意匠といいなかなかの優れものだと思うのだが。

すぐ隣に印度木綿やアンティークを並べた店があった。中庭伝いに飛び石が蔵まで続いている。
「今日は蔵も見てもらえますよ。」と、奥から声がした。改装された蔵はギャラリーになっていて、創作鞄と服の二人展の開催中だった。売約済みの札が目についた。旅先では、つい財布の紐も緩みがちになる。うまいところに目をつけたものだ。

古い町並みを売り物にした観光地では、土産物の類を売る店が軒を並べ、道行く人の目を引くため看板や幟を立てる。それがかえって感興をそぐことが多い。ならまちにも店はあるのだが、商売というよりはギャラリー感覚のようだ。見て気に入ったら買うこともできますよ、といった感じの店が多い。それらの店をポイントとして、点と点をつなぐように線としての町並みを楽しむのが本道。行きずりの細い路地の向こうに切り取られたように満開の桜が顔をのぞかせていたりする。よそ行きでない普段着のよさが、この町の身上だろう。

 2002/3/10 「午睡

せっかくの休みの日なのに、野暮用で朝早くから出かけなければならなかった。早起きしたのがきいてきたのか、それとも昼食時に飲んだワインのせいか、ソファに腰掛けて本を読んでいたら眠くなってきた。クッションを二つ重ね、頭の下に敷き足を椅子の上に乗せると、膝掛けを胸まで引き上げた。目をつむればすぐに眠りに落ちる。実に快適である。

自堕落な生活は、一度深みにはまると、もう抜け出せない。眠くなったときには寝る。したくなければなんにもしない。だから居間でも書斎でも、昼寝用の椅子が置いてある。書斎の椅子はオットマンつきの肘掛け椅子で、背凭れの傾きが調節できる。眠くなれば、ダイヤルを回して背を倒せばよい。居間には、以前カウチが置いてあった。寝ようとすると曲げ木の肘掛けが首に当たって痛いので、近頃では肘掛けのないタイプのソファを使っている。

何もベッドに入って寝ればいいようなものだが、変なものでいざ寝ようとして寝室まで行き、ベッドに入ると目がさめてしまう。睡眠不足というのではない。疲れるほど体を動かしたりもしない。要は、少しばかり、目と頭を休ませればいいだけだ。寝椅子に横たわって目を閉じる。それですむ。

少し前に何かで読んだが、人の睡眠には周期があって7時間くらいで眠くなるのだそうである。だから、昼食後の昼寝は理にかなっているという。スペインのシェスタにはちゃんとわけがあったのだ。昼寝の前にはコーヒーを飲むといいらしい。うそみたいだが、カフェインは飲んですぐにではなく半時間ほど後に効いてくるので、本格的に眠り込まず昼寝ができるというのだ。もうひとつ、起きたら外に出て太陽光線を浴びるのも効果的だ。仕事の効率を上げるための昼寝の薦めである。

若いころは眠るのが惜しかった。昼寝どころではない。たまの休日、一日中家にいると、日が傾きかけると急に落ち着かなくなり、街に飛び出していったものだった。何をしたいというのではない。一日が、何もしないで過ぎてゆく、ただそのことが耐えられなかった。それが、今はどうだ。人と会わない。外にも出ない。遊びもしなければ、仕事もしない。無為に日が過ぎていくことに、何の後悔も愛惜もない。自分の人生というものの値踏みができたということだろうか。

同じ年頃で、自分のためにも人のためにも仕事をし、忙しく毎日を送っている人もいる。それを否定する気は毛頭ない。無論、賛美も羨望もしないが。人それぞれというところか。
昨日またかくてありけり
今日もまたかくてありなむ
この命何を齷齪
明日をのみ思ひわづらふ  (島崎藤村『千曲川旅情のうた』より)
気ままに昼寝のできる境遇を手放す気には、なかなかなれそうにない。

 2002/3/5 「あられ

仕事に区切りがついたので、一息入れようとしたとき、「いかがですか」と、ビニール袋を差し出された。つき合いが悪いようだが、あまり間食をしない方なので、ふだんから菓子の類は丁重にお断りをすることが多い。ところが、袋の中に入っていたのは、最近ではめずらしい自家製のあられであった。「ありがとう」と言いながら、一つつまんだ。口の中に入れると、炒ったばかりのあられの香ばしさが鼻腔を刺戟し、小さい頃のことを思い出した。

子どもの頃のおやつといえば、冬場は、あられが定番だった。隣の八百屋が子ども相手の駄菓子も商っていた。店頭に並んだ「地球瓶」というアルミの蓋付きの四角い硝子瓶の中には色とりどりの飴玉や既製のあられ菓子が入っていた。祭りや遠足でお小遣いをもらったときなど、それらを買うこともあったが、ふだんは自分の家で炒ったあられが何よりのおやつだった。

黴をはやさないためのおまじないでもあったのだろうか「練りわさび」と印刷した絵入りのラベルが貼られた四角い缶の中に霰切りにされた餅がいつも入れてあった。丸い蓋を開け、一つかみほど取り出すと、胡麻炒りより一回りほど大きな「あられ炒り」の中に入れ、網でできた蓋を閉じる。火鉢の灰を掻き立て、炭の火をおこすと、その上にさっきのあられ炒りをかざす。乾燥して固く小さくなっていた餅がすぐにふくれだす。頃合いになると、こまめにあられ炒りをゆする。焦がさない程度にこんがり焼き色がついた方がおいしいのだ。

熱いうちがうまそうなものだが、荒熱をとらないと芯が残る。待ちきれずまだ温かみの残るのをポケットに詰めきれるだけ詰め込んだら、外に飛び出していた。こま回しやら、めんこやらの遊び場に事欠くことはなかった。空き地や廃屋が、まだ町中に残っていた頃だ。遊び相手のいそうなところを探して歩くうちにポケットのあられは減っていった。

小学校の時、あられの好きな男がいた。腎臓が悪くて、好きな醤油あられを親にとめられていた。遠足の日だけ解禁されるのがよっぽどうれしかったのだろう。遠足の日の朝には決まって隣で買った袋入りのあられを手に持って誘いに来た。ふだん学校に行くときには家になんか来ない。顔を出すのは遠足か運動会の日と決まっていた。今でもふだんは顔を見ないのに地区の運動会になると鉄砲を撃ったり、祭りの日には音頭をとったりしている。さすがに家には来なくなったが。

家にいるときは、缶に入れたあられを手探りで食べながら本を読んだ。ときどきは、どんぶりの中に入れたあられに砂糖醤油をからませて食べることもあった。手でつかめないのでスプーンですくって食べた。味は悪くなかったが、何かをしながら食べることができないぶん、不便で面倒くさかった。もしかしたら祖母が好きな食べ方だったのかも知れない。家で炒ったあられを食べなくなってどれくらいたつのだろう。

ひとつだけ味見をするつもりが、いつの間にか色のちがうのを探しては、次々口に放り込んでいた。海辺の町のあられには、海苔の入ったのや、海老の香りのするものが混じっていた。ほんのりと紫蘇の香りのするのもあった。少し細身に仕上げた手際が作った人の様子を想像させる。今時、こんな手作りのあられを作るのは、やはりお年寄りなのだろうか。久しぶりに祖母の皺だらけの手を思い出した。
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