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 2003/12/11 憲法前文

新しいTVが届いて、設定をしていると、首相の顔が大写しになった。自衛隊のイラク派遣について基本計画が閣議決定されたことを伝えるニュースの画面だった。はじめての衛星放送の試験映像がケネディ大統領暗殺事件の中継になってしまったことは忘れられない。TVがニュースを運んでくる。何だかそんな気がした。さて、首相は憲法前文を引いて、派遣の意義を説いたという。はて、平和憲法とも呼ばれる日本国憲法のどこにそんな文句があったかと、あらためて読み直してみた。どうやら、首相の目にとまったのは、次のようなところではないだろうか。

 「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。」
(原文は旧仮名)

まことに都合のよい引用に恐れ入る。こうして読むと、憲法はイラク国民のために汗を流せと言っているようにも読めるから皮肉である。もっとも、私は首相の読みとは見解を異にする。二段落目の「いづれの国家も」の国家を、首相は日本ととったのだろうが、これをアメリカととれば、その意味は正反対になろう。国連を無視し、アメリカが単独主義に陥っていることが、イラク国民およびイスラム諸国の抵抗を生んでいるのである。ボタンの掛け違いに気づき、はじめからかけ直すことこそが賢明な対処の仕方である。

引用部分の前にある「諸国民の公正と信義に信頼して」というところを読み飛ばしてはならない。諸国民の中にはイラク国民も当然入っているというのが大方の常識である。いたずらに軍隊を出すことばかりが人道支援ではない。イラクの復興はイラク人民に任せ、日本は日本にできる支援の仕方をするべきである。今一度引く。「日本国民は、(略)、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民にあることを宣言し、この憲法を確定する。」とある。首相にはもう一度、この文を読み直してもらいたいと切に願うものである。

 2003/11/30 自転車に乗って

図書館に返す本があって、出かけなければいけないのだが、日曜日の昼間は駐車場が空いてなくて困ることが多い。下の子が高校に通っていたときに使っていた自転車が母屋の玄関に置いたままだったのを思いだし、運動不足の解消をかねて、ここは一つ自転車で行こうと思いたった。放ったらかしにしていたので、空気も抜けている。空気入れで前後輪に空気を入れて乗ってみた。前輪がぐらぐらする。ナットの弛んでいるのを指で締め、サドルの高さを調節したら出発だ。

日曜日の昼下がり。隣の八百屋が閉まっているせいか、人通りがない。家の前は緩い下り坂である。ブレーキの調子を確かめながらそろりと漕ぎ出した。何といっても久し振りである。ハンドルがふらついてまっすぐ走るのも覚束ない。ブレーキレバーを引くたびに油の切れた機械のような音が静かな通りに響く。今にも降ってきそうな空の下、雨上がりの風がデニムの上衣の裾をめくりあげる。背中には本の入ったデイバッグを背負って、格好だけは一人前だ。

昨日の雨でせっかくきれいに黄葉した銀杏の葉が路上に散り敷かれている。しばらく走ると、少し勘が戻った。ギアを一段上げて力を入れて漕いでみた。湿り気を帯びた風が頬にあたるのが何とも気持ちがいい。風の匂いに、京都にいた頃を思い出した。やはり休日になると、静まりかえった町屋の間を抜けて河原町までの道をたどったものだ。人通りのない街の空気は似ているものなのか。この辺りは戦災を免れたのか昔の街並みをところどころに遺している。それも少しずつ失われていっているのだが。

自動車という箱の中に閉じこもったまま駈け抜けるのとちがって、肌を晒して街を行くといろんなものが見える。自転車に乗って街を移動するのは、かなり歳をとった女性が多いことだとか、郵便ポストが案外片側の通りに偏在していることだとか。空気の入れ方が足らなかったのか、道路の凹凸もよくひろう。視覚障害者用の点字ブロックが、歩道の真ん中を通っているのはいいのだが、細長い突起は、ハンドルに微妙に逆らうものだ。

心配していた通り、雨が当たってきた。図書館に長居は無用と、帰り道を急いだ。この雨にせかされるパセティックな感情も、車に乗っていては味わえないものだ。せつないような、それでいてどことなく被虐趣味をくすぐるような、微妙な感情。帰り道は上り坂。それも中里介山の『大菩薩峠』に登場する「間(あい)の山」節で知られる急坂である。ギアをロウに入れて、ペダルを踏む。顔を上げると、思ったより坂の斜面がなだらかに感じられた。行けるかもしれないと思った。学生時代は坂の上まで一度も自転車から降りずに上ったものだ。

坂を上りきって、息が上がっているのに気がついた。毎日やっていれば、いい有酸素運動だろうな、と思いながら最後の緩い坂を上った。太股のあたりに張りを感じる。母屋の玄関に自転車を返し、世古道に入った。デイバッグを下ろすと、背中にかいた汗の上を風が通り抜けていった。

 2003/7/28 箱庭

尾根を伝う道がそこで三方に分かれる道の角地に、昔は火の見櫓が建っていた。右に道をとれば御成街道。左が旧街道。真ん中の細道は朝熊ヶ岳に抜ける岳道に続いている。ちょうど櫓の下あたりに、間口一間ほどの小さな店があった。濡れ鴉という、この地方独特の黒い塗料を施した外壁にそって、細割にした薪が針金で束ねられて、いくつも積んであった。

まだ、竈で飯を炊いていた頃のことだ。製材所で角材を切り取った残りの不要になった木材が、どういう伝手があったものか不定期にトラックで運び込まれた。それを父が手頃な長さに切り、兄と私が鉈で細く割るのが仕事だった。いつもあるわけではない。足らない分をその店で買い足していたのだろう。裏庭の納屋に幾束か常時積んであった。

土間に平台を置いただけの素朴な店だったが、日用雑貨、什器から掃除道具まで揃わぬものといってなかった。よく買いに行ったのは、子供用の飯茶碗だ。安物ばかりだったからよく割れた。欠けた茶碗はままごと用に下ろした。沓脱石の前に茣蓙を敷いてもらってよく遊んだものだ。地面はひんやりとしていて、夏などは家の中より涼しかった。もっとも、その家と来たところが、夏ともなれば、襖は取り払い、表も裏も開け放して、簾と葦簀を張り巡らした、ほとんど南方系の住居になってしまうのだったが。

独り遊びの好きな子だったようだ。母が仕事先からもらってくる反古紙を綴じた帳面にいつも何か絵を描いていたのを覚えている。兄とは六つ、弟とは四つはなれていた。いっしょに遊ぶようになったのは、もっと大きくなってからのことだ。その頃いちばん好きだったのは箱庭作りだ。木箱に土を入れた上に小枝や苔を置き、金魚鉢の底に入れる水車小屋や橋の瀬戸物を使って小世界を作るのがお気に入りだった。

箱庭以外にも、よく似た遊びが好きだった。菓子箱を舞台状にして、底に遠景を描き、中景に森や野原を、近景に家や人物を描いた厚紙を切り抜いて貼り付けると、ジオラマめいた舞台のできあがりだ。箱庭作りは、心理学の分野でセラピーに使われているそうだ。あの頃自分が作っていた箱庭からは、どんな性格や心理状態が読みとれるのだろう。今となっては、再現しようもないが、ちょっと知ってみたいような気がする。

 2003/3/9 バックヤードビルダー

国道を北上すること60q。ようやくたどり着いた修理工場で待つこと一時間あまり。にこりともしない熟年の修理工は、ファンもサスペンションも見てみたが異音の原因は分からない。一度預かるしかないですね。とぽつりと言った。そうは言われてもこの日は一台で来ているので置いていくわけにもいかない。結局、車から出る異音は解消されることもなく、同じ道を帰ることになった。

初めて買った時には、近くに代理店があったのだが、本社が小型車部門から手を引いたために今では県に一つ残された大型車専用の工場しか修理できなくなってしまった。駐車場がその奥にあることから、家の前の狭い道を通り抜けることができ、なおかつ愛着を持てる物でなければならないというのが我が家で車を買う時の条件である。この条件を満たすことはなかなか簡単ではない。小さいながらも内装は本革、ウッドパネルという英国車ならではの装備が妻のお眼鏡に適ったのも分からないではない。

もっとも、この車、買って何年かするとサスペンションの中のガスが抜けて車体前部が下がってくるという致命的な欠陥を持っていることが分かってきた。車検ごとに自費を投じてガスの再注入が必要とされる。おまけにパワーステアリングの設定がなくハンドルが異様に重い。こういう車に乗り続けるというのは理に適っているとはいえないのだが、ばかな子ほどかわいいという言葉もある。つきあうのに手間暇がかかるほど愛着が増すという事情は猫も車も変わらない。

イギリス車といえば、オイルが漏れたりすることで有名である。伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』に拠れば、オイルの漏れない車を作るくらいは簡単なことだが、そうすると、ドライバーは機械に頼って自分で安全管理をすることを忘れるようになる。機械は万全でないことを分からせるためにわざとオイルが漏れるようにしているのだという。如何にもイギリス人の言いそうなことだ。

英国では休日に裏庭等で機械や家具を修理することを趣味にしている人たちが多い。こういう人のことをバックヤードビルダーというが、趣味が高じてそれが仕事になってしまった人もいる。有名なロータス社がそれである。家の内装から庭作りまで、何でも自分でやることが当たり前になっている国のことだ。馬車の修理もきっと裏庭や納屋でやっていたことだろう。車の修理はその延長にちがいない。オイル漏れは日曜日にすることを作っておくためと見た。

何でも専門家に任せてしまえば、手間もかからず安心だが、それと引き替えに自分ではちょっとした修理もできなくなってしまう。この間亡くなったイヴァン・イリイチがこんなことを言っている。「個人が私的に行為したり、作ったりする能力の衰退、これこそが、商品がますます豊富になるに応じて支払わねばならない代価なのである。」「麻痺を促す豊かさに溺れる状態が、いったん文化の中に浸透すると、そこから『貧困の現代化』がはじまる」と。イギリス人はケチだと言われたりもするが、「麻痺を促す豊さ」に溺れない強靱な文化を保持しているのだとも言えよう。

 2003/3/8 天下一品

大学時代に仲のよかった友人と毎年必ず一度は顔を合わせて飲むことにしている。大阪であったり京都であったりすることが多いのは、大学が京都にあったこともあり、三人が集まるには関西圏が都合が良いからだ。酒を飲むと、最後にはラーメンでも食べていこうかということになる。初めてその店に行ったのは、たしか大阪だった。その頃はまだ、チェーン店も大阪近辺に限られていた。

宮本武蔵がブームだが、下り松の決闘で有名な一乗寺辺りは学生下宿の多い所だ。当時、その一乗寺に夜な夜な屋台のラーメン屋が出没し人気をさらっていたという。「天下一品」という屋号はその時からのものだ。御所近くにある大学に歩いて通える範囲に下宿していた当方は知ることもなかったが、京福電鉄やバスを利用して通学していた友人たちはよく知っていた。あの屋台が今ではチェーン店か、と懐かしがってのこの日の訪問だった。

「こってり味とさっぱり味のどちらにしますか。」と訊かれて、大阪人のこってりというのは、ちょっとと思いながら、さっぱり味にしたのだが、後の二人はこってりの方をたのんでいた。どうやらそちらが本命らしく、さっぱり味も美味いことは美味いのだが、今ひとつこれといった印象を持てなかった。二度目に訪れたのは、嵯峨野にある店で、今度は迷わずこってり味にしたのだった。その時の印象は、こんな美味いラーメンがあったかというものだった。

今でこそ、行列のできるラーメン店が犇めき合い、ラーメン激戦区などという言葉が使われるほど、個性的なラーメン店がしのぎを削る様相を呈しているが、少し前までは、うまいラーメン屋というのはあったにしても、全国的に名を知られ、遠い所から訪ねてくる客で行列ができるなどということはあまりなかった。近頃の騒ぎはテレビの力によるところが大きい。時々見るが、新作ラーメンとやらに挑む店主の姿はまるで新ネタ作りに苦しむタレントである。天下一品のラーメンは十年一日の如く変わらない。こってりとさっぱりの二種類しかない。それが目当ての客ばかりなのだろう。

久しぶりのこってり味は、こんなにどろどろしたスープだったかとあらためて驚いた。スープはまるでポタージュのようで、そこにたっぷりの麺と薄切りのチャーシューが二枚、刻んだ葱とメンマという至ってシンプルなトッピングである。大蒜はお好みで入れるもよし、入れずともよし。日向地鶏からとったスープに入れた数種の野菜がどろどろの正体だが、ぎとぎとのようでいて、不思議なことにこのスープは胃にもたれない。麺に絡んだ様子はクリーム系のパスタのようである。

時折無性に食べたくなるのだが、残念なことに近くに店がない。この日も、車の調子を見てもらいに、県に一箇所しかない代理店を訪れての帰り道、国道沿いの看板を見つけて入ったのだった。結局、車は再検査しなければ直らないということで、骨折り損だったわけだが、もうけたのは草臥れだけではなかった。この味を毎日食べたいかと聞かれると、ちょっと動揺を隠せないが、なくなってしまっては困る種類の味である。まだの人は一度お試しあれ。

 2003/2/12 文具店

もう何年も前に、山根一眞が本で紹介していたシステム手帳がほしくてたまらず、あきれる妻を尻目についに手に入れたものだった。ファイロファクスという名のそれはバイブルサイズの六穴バインダー手帳なのだが、つまるところは手帳である。なぜそこまで思いつめたのかは今となってはよくわからないのだが、とにかくその時は三万数千円もするその手帳がなくては、何もできないというくらい思いつめたのだった。

各種の用途別に替紙(リフィル)が用意されているのが他の手帳にない魅力だった。たとえば、スケジュール表やブックリストは買い足していけるので、リフィルさえ交換すればお気に入りの手帳を毎年使うことができる。外したリフィルを別のファイルに保存すれば、何年にもわたる自分の読書記録が保存されていくわけである。一度気に入った物は、いつまでも同じ物を使っていたいという自分の性向にも合致していた。その後ポケットにも入る薄型の旅行用の物を見つけ、愛用してきた。

ところが、である。ずっと使ってきたブックリスト用のリフィルがついに切れた。間の悪いことに、市にたった一つあった百貨店が潰れてしまい、専門店が入っていた大規模小売店も建て替えのために店を畳んでいる。万年筆のスペアインクも最後の一本を使い切った。国産品なら、どこでも置いているのだが、銘柄を指定すると、専門の文房具店でないと手に入らない。ふだん暮らしていくにはのんびりしていていいのだが、こんな時地方都市は不便だ。

ふと思いついて、二日前に事務用品の卸をやっている店を訪ねてみた。リフィルはなかったが、インクの方は取り寄せてくれるというので、名前を言って注文したのだった。今日は、届いているかと思って帰りに寄ると、ちゃんと届いていた。525円だというので財布から小銭を出して数えたら、2円足りない。大きいお金を出そうとすると、「あるだけで、ええがな。」と言いながら523円をさっさとレジに入れて、「毎度ありがとう。」である。

二日前に寄ったとき、ウィスキーの樽に使われていたオークの木でできたシャープペンシルというのが目についたので、妻の分と二本買った。その時も、二割引にしてくれたのだが、近頃まけてくれる店というのにあまりお目にかからない。別にどこにも安売りということは書いてない。正札通りで買う気でいたのだから、そのまま出したお金を取ればいい。だから、安くなったからうれしいというのとは少しちがう。相手を見て、値を決めるという商売の仕方がうれしいのだ。小さな頃、駄菓子屋で、「はい。これは、いい子だからおまけな」と、肉桂玉(飴)をもらったときのことを思い出した。

商いというものは人と人との間で成り立っている。相手を見て正札で売ろうと、まけようと、それは売る側の勝手である。買う方だって値切るなら値切ればいいし、それでいいなら言い値で買えばいいのだ。少し前まで、この国でも小さな店はそういう売り方をしていた。最近では、どんな物にも値札が付いて、その値で買うのが当たり前になっているが、イスラムの国に行けば、今でも商取引は、その場の交渉次第である。値はあってないようなもの。たった一つのものを買うのも互いの必要度を秤にかけて、妥当な線に落ち着くまで、気長に交渉するのが自然なやり方である。

思えば、切符一枚、ジュース一缶買うにも、一言の言葉のやりとりを惜しむように自動販売機を増殖させてきたのが、ここ何年かのこの国のやり方である。アメリカは行ってないので知らないが、今まで行ったどの国も、喉が渇けば、水であれビールであれ人の手から買うしかなかった。当然そこでは、言葉のやりとりが生まれる。500円のスペアインク一箱である。「すみません。切らしてます。」でも、こちらはあきらめる。それをわざわざ取り寄せるあたりが、ずっとその仕事だけでやってきた店というものなのだろうか。いつまでも続いていてほしい店である。

 2003/1/13 京都

京都に行ってきた。京都の冬の冷え込みは厳しい。が、それだけに「冬の京都」というのは秋と比べて別種の楽しみがある。葉を落とした枝の間に広がる陰鬱な雲の割れ目からさす薄日の下、襟巻きを羽織った和服の女性が狭い路地の間を足早に通り過ぎてゆく。そんなイメージを抱きながら久しぶりに訪れた京都の町は、何の事はない。まだ正月気分が抜けきらないのか、破魔矢を持ったカップルや家族連れでいつもよりにぎわっていた。

湯葉や生麩を使った京料理で昼食を済ませると国立博物館に向かった。毎年成人式の頃に三十三間堂で行われる恒例の「通し矢」の参加者か袴姿の若い人たちが何組も沿道を歩いている。いつもは静かな通りが見物客もあって普段とは打って変わった賑わいを見せている。開催期間中最後の日曜日ということで、目当ての「大レンブラント展」の方も90分待ち。整理券をもらい、別館の常設展を観覧しながら入場時間を待った。国立博物館らしく銅鐸や神獣鏡から丈六の仏像まで、収蔵品には事欠かない。狛犬と獅子の展示説明に、角のある方が狛犬、角のないのが獅子とあった。狛犬と獅子で一対になっているというのは初めて知った。思わぬ収穫である。

特別展の会場は中も満員で、なかなかゆっくり絵を見るどころの騒ぎではない。特に入口付近が混雑するのは、待っている間は一刻でも早く見ようと焦るくせに、一度中に入ってしまうと待たされた分のもとを取ろうとするのか、客がなかなか絵の前から動かないからだ。出口近くに来る頃には流れは落ち着いてくる。やっと見終わって外に出ると、もう夕暮れだった。赤煉瓦の門の向こうに町屋の家並が連なり、雲の割れ目から日が指していた。やっと冬の京らしくなったところで、お茶でも飲もうと河原町に向かった。

京都も来るたびに変わる。鴨川に沿って並ぶ建築が年を追ってけばけばしくなるのには困ったものだ。アルノ川沿いのフィレンツェの街並みはいつ行っても変わらない。だから映画の舞台にもなる。街並みの景観もまた観光資源であることにいつになったら気づくのだろうか。ここもやってなかったらどうしようと危惧しながら来るのだがそれでもいつまでも変わらない店も多い。「築地」の赤い天鵞絨の椅子に腰を下ろし、ミルクティーを啜った。熱い紅茶の上に冷たいホイップクリームが乗った築地のミルクティーは初めて飲んだときには戸惑ったものだ。古びた樫材で囲まれた狭い空間には、昔と変わらぬモノラル録音のクラシックが流れていた。

土産というのでもないが京都によると寄ってみる店を何軒か覗いて歩いた。お気に入りのクラフト店で妻は猫のイアリングを買ってご機嫌である。すっかり暗くなった町を駅に向かった。志津屋のサンドイッチも買い、帰りの切符も買った。家に着くのは九時を回る。前にも一度寄ったことのある焼き鳥屋で軽く一杯やってから帰ることにした。一串150円からだから串二、三本と酒を頼んで千円札一枚でおつりが来る勘定である。仕事帰りか一人客もちらほらいる。自家用車では帰りにちょっと一杯というわけにもいかない。電車も悪くないな、と思うときはこんなときである。車も便利だが、今度京都に来る時もやはり電車にしようと思ったのであった。
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