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 2001/09/20 IMAGINE

新聞によると、米国最大のラジオネット「クリア・チャンネル・ラジオ」は、テロの事件後、約150曲の放送自粛曲のリストを作ったという。PPMの『悲しみのジェットプレイン』などは分かるものの、ジョン・レノンの『イマジン』や、サイモンとガーファンクルの『明日に架ける橋』が入っているのには驚いた。テロの被害者の心情を逆撫でしないようにという配慮らしいが、違和感が残った。

あらためて、『イマジン』を聴きながら、歌詞をよく読んでみた。問題は、どうやら次のような部分にあるようだ。

想像してごらん天国なんてないんだと‥‥
想像してごらん国境なんてないんだと‥‥
そんなに難しいことじゃない
殺したり死んだりする理由もなく
宗教さえもない
実は、ジョンは好きなのだが、『イマジン』は今ひとつ人が言うほどいい曲だとは思わなかった。歌詞が説教調で、しかも空想的すぎると思ったのだ。ヨーコと行動をともにするようになってからのジョンは、何か人が変わったように思えたこともある。しかし、放送禁止ではないにせよ、自粛曲のリストに入るとなると、この曲の持つ意味を考え直さなくてはならないだろう。

ほとんどの人が宗教など本気で信じていないこの国に長く暮らしていると、「想像してごらん」と言われても、天国なんてはじめからあるなんて思っていないのだし、国境さえ海の向こうの話だった。ジョンの言おうとしていることは、戦後の日本人にはあまりにも違和感がなさ過ぎたのだ。われわれが住んでいるのは、どこか空想的な社会だった。戦争は既に遠くの出来事でしかなかった。

イギリスはアイルランドとの間に、絶え間ない緊張を強いられていた。アメリカはヴェトナム戦争を戦っていた。世界は常に、宗教とイデオロギーの対立の中で殺し合いを続けていたのだ。ジョンの発する「Imagine」は、切なる祈りの言葉だったのだろう。「imagine」には、思い込むという意味もある。和訳の優しさを剥がしてしまえば、「思い込め、国境などないのだと」というメッセージが浮かび上がってくる。今のアメリカには到底受け容れることのできない言葉だろう。

けれども、アメリカが、そして、世界がこのメッセージを本当に受けとめていたなら、このような惨劇は存在しなかったはずだ。あまりにも無防備でストレートなメッセージが、かえって夢物語のようにとらえられてしまっていたのは、決して私に限ってのことではないだろう。ジョンは、本気だったのかも知れない。音楽が世界を変えることもあるかもしれないと、本気で信じていたあの頃の空気を、彼もまた呼吸していたのだ。

一時の興奮状態が冷めて、世界はアメリカも含め、平常時の思考力を取り戻しはじめたようだ。声としては小さいようだが、テロに対する報復という方法への躊躇や批判が、アメリカ本国でも起きてきている。放送自粛のリストも、聴取者からの批判の声もあり、廃棄されたと聞く。今こそ、ジョンの祈りの声を真摯に聴くときではないだろうか。

僕を空想家だと思うかも知れない
だけど僕ひとりじゃないはずさ
いつの日か きみも僕らに加われば
この世界はひとつに結ばれるんだ (山本安見訳)

 2001/09/16 本屋

日曜の朝は、珈琲を飲みながら、新聞の書評欄を読むのを楽しみにしている。「朝日」に、高田渡の写真が出ていたので何かと思って読んでみると、本屋通いの好きな著名人への同行取材の企画だった。京都にいた頃、三条の本屋で何度か見かけたことがある。三条なら、イノダにも木曜社にも近い。一杯の珈琲でねばりながら、買った詩集でも読むのだろうと思って見ていた。

私はといえば、その頃、休みの日には一日中京都の町中を歩いていた。下宿から東に行くと御所に出る。京都では、南北に通る道を行くことを下る、上るというが、広い御所の中を歩いて丸太町通りまで出ると、寺町通りを真っ直ぐに下るのが好きだった。古道具屋や、本屋、古書店をひやかして歩くのに、ちょうどいい道筋だったからだ。そういえば米軍の放出品を売る店もあった。そこで買ったカーキのズック鞄を肩からかけて歩いていたのだ。

中でも二条寺町にある三月書房がお気に入りで、よく顔を出した。店主の吸うパイプ煙草の煙のにおいが漂う狭い店の中には、他の書店にはない本が揃っていた。桃源社から出ていた小栗虫太郎の本をまとめて注文したのもここだった。古本屋でなく、新刊の本を売る店が、自分の好みの品揃えで店を経営していけるなんて知らなかったから、個性的な本が並ぶ、煙草臭い本屋は印象的だった。三月書房から、四条河原町にあった京都書院のイシズミ店まで、本屋のはしごをして、また歩いて下宿に戻るのが私の休日の過ごし方だった。

近頃は、とんと本屋に足が向かなくなった。昔からあった本屋がどんどん潰れ、郊外型の大型書店が増えていることも関係している。本屋が散歩の途中に立ち寄るところではなくなってしまった。車で乗り付ける倉庫のような広い店内は落ち着かないし、品揃えにも個性がなく、マンガ、雑誌の類が大きな顔をしているのも気に入らない。そんなわけで、近頃では、欲しい本は注文するか、図書館で借りることにしているが、好きな本屋がないわけでもない。

毎夏、大学時代の友人と旧交を暖める会を持っているが、今年は大阪の難波で会うことにした。居酒屋で飲んだ後、金竜でラーメンを食べ、喫茶店にでも行くかということになった。前に一度来たときに寄った本屋が近くにあったのを思いだして、ちょっと寄ってもいいかと二人に訊いた。三人とも文学部だ。「ああ、そうしよう」ということで店に入った。

大きな書店だが、入った階に文学書が並んでいる。天井までぎっしり並んだ書架は階段を使わないと上の本は取れない仕組みだ。前に見た、『黒死館殺人事件』の復刻版は、まだそこにあった。他にも、随分昔に出た本が、いまだに書架を飾っているのがうれしい。売れることが店に置く本を選ぶ際の第一条件になっていないのだ。他にも、この店で気に入っていることがある。机と椅子を並べたコーナーがあり、座って本が読めるところだ。立ち読みは疲れる。海外には、こうした店も少なくないというが、本好きにはありがたい。

ジュンク堂ほど大きくなくていい。小さな店が、それぞれ得意の分野の本を受け持って、顧客のニーズにあった品揃えをしてくれたら、本屋離れはくい止められると思うのだが。無理な相談であることは百も承知である。せめては長生きをして、時代の風向きが変わるのを待つとしよう。たとえ、そんな時代が来ることは、またとないにしても。

 2001/09/12 銭湯

しっかりしているようでも、今年八十になる母は、少しずつ物忘れが進んでいる。温水器から出るお湯の栓を閉め忘れたらしく、お湯が一日中出ていて今夜はもう湯が出ない。仕方がないので、銭湯に行くことになった。母はすっかりしょげているが、何、たまには銭湯もいいものだ。突発的な出来事を厭うようになるのは老化の始まりだという。ルーティーンワークから外れるのを喜ぶうちはまだ大丈夫、と自分を励まして銭湯の用意をした。

小さいながら昔町で、近所に内風呂を持っている家は少なかったから、自分で家を建てるまで、ずっと銭湯通いだった。近くに二軒あった銭湯も今では一軒になってしまったが、通い慣れた泉軒湯の方は今でも営業中である。引き戸を開けると、番台には誰もいなかった。服を脱いで、ロッカーに入れても、まだ来ない。風呂銭は後で払うことにして、中に入った。

先客が一人いて、躰を洗っていた。四本ある蛍光灯のうち二本しか点いていないので、以前より暗く感じた。これも経費の節約だろうか。夕食後の男湯に二人しかいないのでは仕方がないかと考えながら、洗い桶で湯をかぶり、湯船に浸かった。さすがに広々として気持ちがいい。しばらくすると、以前見たことがある客が入ってきた。郊外のショッピングセンターで和服を売っている人だ。先客とは顔なじみらしく、躰を洗いながら二人は話をはじめた。

「いやあ、びっくりしましたね。ビルの解体を見ているようでした。」
先客が言った。昨日のアメリカのテロ事件のことだ。ハイジャックされたジェット機が世界貿易センタービルに激突したのだ。まったく、CNNの映像は、映画でも見ているように奇妙に非現実的だった。コピー機のCFに、壊される摩天楼を高速度撮影でとらえた作品があったが、あれを思い出した。何度も繰り返し映されることで、かえって作り物めいていくのは何故なんだろうか。

シャワーを浴びていて突然思い出した。初めて女の子に好きだと言った雨の日も、ここで髪を洗っていたのだ。親友と一緒に告白し、その子は親友の方を選んだのだった。狭い家では一人感傷に耽ることもままならなかった。いつも誘い合ってくる銭湯に、一人で来て、座ったままずっとシャワーを浴びていた。どれだけそうしていたのだろうか。髪にあたる湯の音が、雨の音と重なって耳についていつまでも離れなかった。

躰を洗い終わり、もう一度湯船に身を浸すと、湯から出た。脱衣場には誰もいなかった。久しぶりに乗った体重計の針は、とんでもない数字のところで止まった。鏡に映っているのは、まちがいなく自分のはずなのに、見知らぬ他人のような気がしてならない。脱衣場の景色は、映画のポスターが少なくなったのを除けば、昔と何も変わっていない。変わったのはこちらだ。あわてて服を着た。

外に出ると、虫が鳴いていた。秋祭りの練習だろうか。どこかで太鼓の音がする。台風の去った空には雲一つなく冴え渡っている。こんなに静かな夜が、どこか不自然な気がしてならない。この空の向こうには、アメリカの朝が続いているのだ。かけ違えたボタンは、容易にかけ直すこともできず、世界はまだいびつな姿を見せたままだ。いつか、ずっと後になって、あの頃は、まだ平和だったなあなどと、思い返すことにならなければよいのだが。

 2001/08/29 蝉の声

空はすっかり秋の装いをしていた。ちぎった綿のような雲やすじ雲が、高い空を覆うようにこちらまで広がっていた。山へ行くのは本当に久しぶりだった。暑さの厳しい頃は、車で外に出るのも億劫で、家に閉じこもっていたし、少し涼しくなると台風が来た。山に造った小屋は、日本でも雨がよく降る地域にある。二、三年前の台風では、前の川岸がごっそり抉られたこともある。台風の後は、どうなっているのか気になるのだ。

ベランダに落ちた木の枝や葉を掃き終わると、小屋はすっかりもとの佇まいを取り戻した。どうやら今回の台風はたいしたことがなかったようだ。山を背にしているので、風はあまり気にならない。それより、雨量が多いと土砂崩れを心配しなければならない。今回は、台風までに雨が降り続いていなかったのが幸いしたようだ。

扉を開けると、ツンと黴臭い匂いが鼻をついた。部屋中の窓を開けて風を通し、ベランダにデッキチェアを持ち出した。読みかけの本を取りだしてページを繰る私の隣で、妻は、ノートパソコンをいじっている。便利になったものだ。梢の高みでは、先ほどから蝉が鳴いている。にぎやかな鳴き声は、どうやらミンミン蝉らしい。日が翳ると、交替するようにつくつく法師が鳴き出した。

家にいると、朝早くから、隣のTVの音が部屋の中に入ってくる。高齢で耳が遠く、冷房は体に悪いとかで、窓を開けているので、軒を接した隣では音の防ぎようがない。仕方なくこちらが窓を閉めてもまだ聞こえてくる。今年の夏、蝉の声を聞くのは本当に久しぶりだ。

車で一時間走ったぐらいでは、朝夕を別にすれば山といっても涼しさはさほど変わらない。けれど、この蝉の声だけは贅沢かも知れない。日本に帰ってきて思うのは、不必要な音が絶え間なく流れていることだ。どこにいっても音楽が流れて、放送が入る。聞きたくもないものを聞かされるのはこたえる。いつから我々は音に関してこんなに鈍感になってしまったのだろう。蜩の声を聞くために山まで来なければならないのはちょっと哀しい。

 2001/08/26 郵便受け

前々から錆びついていた郵便受けがついにこわれてしまった。雨晒しだから錆びてくるのは仕方がない。錆止め剤が塗布してあっても、蓋をとめるビスの所には水が溜まる。毎日郵便と新聞が来る度に開け閉めしているのだ。その部分がいちばん弱ってくるのも道理である。

幸い、この間、神戸に行った際、東急ハンズで次の郵便受けは見つけてある。郵便受けくらい、どこにでもあると思われるかも知れない。少し説明しておこう。我が家の前は少し坂になっている。道路から玄関まで来るには三段の階段を家の壁に沿って上がらねばならない。郵便配達や新聞配達の人は、たいていモペットに乗っている。その度、車を降りてもらうのは気の毒だ。そこで、道路沿いに蒲鉾型の郵便受けを置くことにした。アメリカ映画でよく見る例のMAIL BOXである。

最初のは、当時アメリカに住んでいた友人が送ってくれた。スタンドは、その頃は現役の旋盤工だった父の手作りである。ところが、電気工事に来ていた高所作業車が、無理に狭い道を行こうとして車体の一部を郵便受けに接触して壊してしまった。問題は、いくら探しても同じ物が店になかったということだ。工事会社も恐縮し、よく似た日本製の物を探してきてくれた。不満ではあったが、無い物ねだりをしても始まらないので、我慢してそれを使っていたという訳である。

前に使っていた物と寸分違わないその郵便受けを東急ハンズで見つけたときはうれしかった。ところが、展示してあったのは黒くペイントしてあり、前に使っていた未塗装の物は品切れだった。「お取り寄せしますか」と訊かれたので、旅行者であることを告げると、無料で自宅に届けてくれるということだった。このサービスには感激した。しばらくして、荷物は届いたが、毀れる前に捨てるのも忍びないので、今日まで使っていたのだった。

ブリキ板を曲げて作った何の変哲もない郵便受けだが、何年経っても形が変わらないところが気に入っている。使い慣れた物には愛着が出てくる。いつでも同じ物がストックされていると思うだけで心が穏やかになる。こういう消費者もいることを日本のメーカーはもっと知っておいていい。舶来かぶれで言うのではない。国産品は、次々型が変わり、使い慣れた物を手に入れる方が難しい。何でも新しければいいというものではないのだ。

 2001/08/21 台風の目

窓の外で風の音がする。シャッターがたてる音に強い雨が打ちつける音が混じる。久しぶりに台風が上陸したのだ。大型で強い勢力の台風ということで、某TV局は、一日中台風情報を流しっ放しである。高校野球の決勝が流れたので時間を持て余しているのではないかと、つい勘ぐりたくなるほどだ。刻々と知らされる情報で我が家が予想される進路の真ん中にあることが分かるのは有り難いようなそうでないような不思議な気持ちだ。

実は、かつて「台風の目」なるものをこの目で見たことがある。1959年9月26日に東海地方を直撃した伊勢湾台風の時である。なぜか台風というのは夜になると上陸するようで、その日も早くから帰ってきた父が、戸締まりをし終わった後、夜半になって、風と雨が激しくなってきた。玄関の引き戸がめりめりと音を立ててしなうのを、太い角材をしんばり棒にして、父と兄が真剣な顔で押さえていた。片方を引き戸の鍵の辺りに、もう片方の端を上がり框につけているのだが、強い風が来ると抑えていなければ持ち上げられてしまうのだ。

「いいか、万が一この戸が破られたら、すぐに反対側の戸を蹴破って開けるんだぞ。ぼやぼやしてると、逃げ場を失った風が屋根を吹き飛ばしてしまうからな。」
父が、兄と私にそう言った。高台にあって、水の心配などしたことがない家の玄関は、10pくらい水がついていた。まだ小さかった私は、蒲鉾板に釘を打って蝋燭をつけた灯りをその水に浮かせて遊んでいたような記憶がある。

突然風が止んだ。「目に入ったな」と、父が言った。父の後ろについておそるおそる外に出ると、人通りの絶えた通りには折れた木の枝や、板などが散らばっていた。停電で光をなくした町の上には、それまでの風雨が嘘のように星が光っていた。父に促されて家に入った。しばらくすると、猛烈な風が今度は裏の方から吹いてきた。裏は雨戸の上から何枚もの板を打ちつけてある。それが効いたのか、音はするが玄関ほどはしなわない。

いつの間に眠ってしまったのか、雨戸の節穴から朝の光が斜めに部屋の中に入ってきた。一条の光の中にほこりが舞っているのは子ども心にも平和な光景だった。外は台風一過の上天気だった。父は、もう何やら外で働いていた。
「おう、起きたか。そこのトタンを拾ってこい。」
言われた通りトタンを引きずって裏に行くと、納屋のトタン屋根がすっかり飛ばされていた。言われるままに、そこいらに落ちているトタンを拾って裏庭に運んだ。

父の手伝いで初めて屋根に登った。顔見知りの人に声をかけられるのが何だか誇らしかった。あらためて、周りの家を見ると、どこも酷くやられていた。前の山に建つ家の多くは瓦屋根を飛ばされていた。窓を破るのが遅れたからだろうか。すっかりできあがった屋根を見ながら、少し気になったことがある。前は、たしか錆が浮いていたトタン屋根が妙に新しくなっていたのだ。台風が来ると思い出す。今は亡き父の思い出である。

 2001/08/11 蚊帳 

蚊帳が売れているそうだ。もうとっくに消えてしまった道具の中に入っていると思っていたのだが。アフリカなどに送られているのは分かる。これはまだ現役として働ける道具だからだ。国内で売れている理由として、あまり好きな言葉ではないが「癒し」効果があるのだそうだ。何でも気儘にできる国にいて、なにが「癒し」かと思ってしまうのだが、いわれてみると首肯けないこともない。

前にも一度書いたことがあるかと思うが、大学時代の友人と年に一度、夏に会うことにしている。大阪の友人の家に泊めてもらうとき、必ず夜には蚊帳を吊ってもらっていた。こちらは懐かしくてはしゃいだ気分になるのだが、友人にとっては日常生活の一部らしい。淡々と吊り手に蚊帳を止めていく手を休めもしない。

夜には、網戸もせず、窓を開け放して寝るので蚊帳は必需品らしい。窓を開けて寝るというだけで、どんなところか察しがつこうというものだ。周りは田圃、裏には山が迫っている。アスファルトに囲まれた我が家では、夜になっても暑熱が引かない。それが、田圃を渡ってくる風は何とも涼しく、そのままで眠ってしまっては風邪を引いてしまいそうなほどだ。蚊帳は、風を通すものの必要以上には通さず、温度だけを下げ、膚に直接当たる風を遮ってくれる。すこぶるいい加減である。

なに、少し前までは、我が家にもあった。蛍を捕まえてきては蚊帳の中に放し、その光が蚊帳の緑色に染まるのを見て子ども心に美しいと思ったのを覚えている。夏も終わりになると、その頃はまだ近くを流れていた小川に蚊帳を洗いに出かけたものだ。父と兄が畳んだ蚊帳を何度も水に浸し、一夏の汚れをすすいでいる間、首まで小川に浸かり水遊びに興じていた。

かやつり草という植物がある。断面が三角形をした茎がめずらしく、直立した茎の上にまるで線香花火のように枝分かれしていく穂の形がおもしろくて、すぐに名前を覚えてしまった。両端を残し、三稜形をした茎を裂くと蚊帳のようになるところからその名がついたと聞いた。蚊帳そのものが消えてしまっては、この草も「名もない野花」の仲間入りかと、人知れず気を揉んでいたが、どうやら取り越し苦労になりそうな気配である。
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