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 2001/03/27 ノッティングヒルの恋人

地方の町に住んでいると、映画館で見ることができるのは刺激的なアクション、ホラー、特撮といったものか、お子さま向けのアニメに限られる。たまに見たい映画が掛かることがあっても、上映期間が短く、うっかりしていると見逃してしまう。そんなことから映画館に足を運ばなくなって久しい。アカデミー賞をとった「グラディエーター」は珍しく劇場公開中に見た映画だ。

TVで映画を見るのは邪道だという向きもあるが、地方にいるものにとっては、ビデオやCATV等の映画放送は有り難い。「ノッティングヒルの恋人」はケーブルテレビで見た。ヒュー・グラントという役者には若い頃から注目していたのだが、美貌の割には優柔不断な善人という役柄がロマンティックコメディーにぴったりなのか、最近よく起用されている。マッチョでタフというハリウッド活劇のヒーローにはアッパーミドルのインテリ層を演じるのはちょっと苦しい。英国人俳優の領分である。

ヒロインを演じるジュリア・ロバーツは、第二のオードリーという触れ込みで売り出した。この作品も「ローマの休日」を下敷きにして作られている。上層階級に属するものが、下層の者を恋するが互いの階級の差故に結ばれない、あるいは苦難の末に結ばれるという筋立て自体はありふれたものである。

「ローマの休日」では王女と記者だから結ばれようもない。ハリウッドスターとイギリスの下町にある本屋の主人という関係なら、お伽話めいてはいても結婚にこぎ着けることは無理ではない。幕切れ近くの記者会見は完全に「ローマの休日」を意識したもの。考えようによれば、身分の差故に結ばれなかった二人を別世界に生まれ変わらせて、想いを遂げさせたかったのかも知れない。

タイトルバックに映されるジュリア・ロバーツはいかにも銀幕の女王然としている。それに比べ、最後に本屋を訪れるときはいかにもイギリス女性の着そうな地味な服を着て素顔に近いメイクで現れる。彼女の心情の変化が読みとれるところだ。ヒュー・グラント演じる主人公にはそれが読めない。キャスティングの妙味である。

脇役陣がいい味を出している。善良なのに報われない人々。それでいて不幸せには見えない。互いの間に通い合う優しさがこの映画を単なるお伽話にさせず、大人の鑑賞にたえるものにしている。原題は「ノッティングヒル」。このイギリスの下町なくしては作れなかった作品といえよう。

 2001/03/24 「世古

私の住んでいる辺りでは、表通りから枝分かれした細道を「世古」(せこ)と呼び慣わしている。小さい頃は、どこの町でもそういうのだと思っていた。京都に行き、「路地」という呼び名に京の人は特別な思い入れがあるのを知った後、自分も「世古」という呼び方に愛着を感じていることに気づいた。

昔の家の敷地が細長いのは前に述べた。父が建てた家が表通りに面しているので、私の家は、玄関を世古の側に持ってきた。猫を飼いだしてから、誘われるまま世古に面した玄関脇で立っていることが多くなった。よそ見をしているすきに突然走りだしてしまうので、目がはなせないのだ。

それまでは、世古を通る人と話すこともなかったのだが、いい年をした男が猫の傍に突っ立っているのが珍しいのか、通りかかる人が何かと話しかけてくるようになった。「きれいな猫ですね。」とか言われるとお愛想だと分かっていてもうれしくなるのは親ばかだろうか。あんまりいつも一緒にいるので、この前なぞは「過保護な猫ちゃんねえ。」と言われてしまった。

黒澤明の映画「まあだだよ」を見てからというもの、ニケが迷子になるという事態を想像することができない。おそらく自分もあの主人公の老教師と同じ精神状態に陥るだろうと思うと一時も目を放すことができないのだ。

古くからある町だが、何代も続く家はあまりなくて、住む人が変われば次第に疎遠になっていくもの。ニケのおかげで、ご近所の人と話すことが増えたのは、うれしいことだ。しかし、冬には「世古風」というものが吹く。尾根を横様に吹き抜けるこの寒風は身を切るように冷たい。春は花粉が舞い、夏は西日が直接当たる。ニケの相手も楽ではない。

彼岸の頃にはちょうど、世古の向こうに日が落ちていく。家並みの切れた間に日が沈むと、夕焼けが頭上を跨ぎ、東の空まで真っ赤に染めていた。こんなひとときに出会えるのもニケのおかげなのかも知れない。抱き上げていっしょに空を見た。ニケは腕の中で静かにしていた。

 2001/03/20 「彼岸

暑さ寒さも彼岸まで、とはよく言ったものだ。それまでとうって変わったようなここ何日かの暖かさだ。中日なので、ふだんは足を運ぶこともない父の墓に参った。高速道路の工事で、墓の下にあった寺は移転し、ここいら辺りもすっかり様変わりしてしまった。帰り際、いつものように姉の小さな墓石を探す。以前墓を整理したとき道の脇に並ぶ古い墓石群の中に置いたのだ。

「しょう」を抜いたからには既にただの石であり、厳密には墓石ではない。しかし、小さい頃から手を合わせ水をかけてきたのは、この小さな石隗であり、新しい御影石の墓石ではない。幼い頃に死んだ姉の顔を私は知らない。私にとっての姉の記憶は家族がしてくれた話の中にしかない。

祖母に聞いた話だが、私が生まれたばかりの頃のことだ。自分のもらったふかし芋を半分に割って、姉が私の口に入れたらしい。息ができないので苦しんで泣く私の声を聞きつけて祖母が行ってみると、姉は「赤ちゃんにもお芋食べさせてあげようと思ったの」と言ったそうだ。優しくて、賢い子だったらしい。

姉が死んだとき、祖母は私を指して、「この子が生まれずにあの子が生きていてくれた方がよかった」と言ったという。これは母から聞いた。もっとも、その後、姉に代わって祖母の愛を一身に受けて育ったのが私なのだ。

父も姉も、そして祖母も墓の下にいるわけではない。私の記憶の中にいるのだ。墓も位牌も記憶を呼び覚ます契機としてあるのだろう。してみれば、私にとっての姉は、やはりこの小さな石なのかも知れない。そっと水をかけた。いぬのふぐりの花が笑っているように見えた。

 2001/03/16 「油屋

歌舞伎の話が続く。新作の評判を知るために江戸や京、大坂の小屋にかける前に、まず小屋掛けする芝居小屋があった。その小屋の跡を示す「口の芝居跡」という石碑が家から50メートルほど離れたところに立っている。度重なる火災で辺りには昔をしのぶ物は何一つない。

古くから鳥居前町として発展してきた土地である。参拝を名目に、客が精進落としを楽しむための遊里ができていた。我が家にも祖父の代までは「清玉楼」の看板が掛かっていたらしい。狭い間口の割に奥行きのある地割りは街道に面して多くの店を並べる工夫であったと聞く。しかしそれが災いして一軒が火事を出すとひとたまりもなかった。類焼の後、二度再建した祖父も三度目には気力を失ったと幼い頃祖母に聞いた。

私は家から百メートルほど離れた借家で生まれた。裏は急峻な崖のため正面から見ると平屋だが、裏に回ると二階建てという変則的な建物だった。筋向かいは下駄屋で、たたきの向こうに畳敷きの小座敷があり、棚には下駄の台が並び、天井からは色とりどりの鼻緒がぶら下がっていたのを覚えている。

下駄屋の向こうに段々になって広がる草原が小さい頃の私の遊び場だった。もとは油屋という大きな旅館の焼け跡で、再建されぬまま、私の小さい頃は空き地になっていた。日差しが暖かくなると、近くの養老院に住むお年寄りも日向ぼっこに出てきた。茣蓙の上で、よくおままごとの相手をしてくれたものだ。

その油屋で起きた刃傷沙汰を近松半七が戯曲化したのが「伊勢音頭恋寝刃」という狂言で、今でもよく演じられる外題の一つになっている。小さい頃は夏になるとその油屋の焼け跡に臨時に小屋を組み素人歌舞伎が演じられた。父は器用な人で、「伊勢音頭」なら油屋お紺、「伊賀越道中双六」なら十兵衛と、女形から老け役までこなしていた。

空き地の隣にある大林寺に、油屋お紺と情人であった孫福斎両人の比翼塚が今も残る。稀に「伊勢音頭」を演じる役者が、その墓に詣でることもある。実川延若丈が来られたときには大林寺まで出かけたように覚えているが、小さい頃の記憶で確かではない。

 2001/03/12 「歌舞伎

昨夜、TVで久しぶりに歌舞伎を見た。「梅雨小袖昔八丈」通称「髪結新三」だ。顔ぶれが豪華だった。新三に勘九郎。白子屋の娘熊に玉三郎、手代忠七が芝翫。弥太五郎源七が仁左衛門。家主が富十郎。下剃の勝奴が染五郎というのだから勘三郎の十三回忌追善公演ということもあるのだろうが、豪儀なものだ。

黙阿弥の芝居らしく悪党に魅力がある。定九郎ばりの番傘片手の長科白もいいが、土地の顔役である弥太五郎源七相手に切る新三の啖呵に当時の町民は溜飲を下げたにちがいない。とは言っても黙阿弥がこの芝居を書いたのは明治6年。江戸はすでに終わっていたのだ。

樋口覚『日本人の帽子』によれば、その前年までの服装を改め、明治天皇が大礼服に着替え、帽子を手にしている写真が撮られるのが明治6年である。文明開化の大号令の下、上から下まで洋風にかぶれている頃、こんな芝居を書く黙阿弥という人間に興味が湧いたら渡辺保さんの『黙阿弥の明治維新』を読んでください。なるほどと思わされること請け合いです。

それにしても役者の世代交代が進んだことに驚きが隠せない。富十郎や又五郎が元気なのはうれしい限りだが、勘九郎の色悪ぶりも勘三郎譲りで凄みがでてきた。仁左衛門は先代も晩年名優の呼び声が高かったが、私としては当代の口跡と形姿が好きだ。染五郎の勝奴は、TVの役柄と重なる軽さが、演技なのかこの人の地なのか、ちと気になるところである。

地方にいては、なかなか生の芝居見物はできない。機会を見ては観るようにしているが、これだけの顔が揃う舞台にはなかなか出会えない。見ていなくても取られる視聴料が納得のいかないNHKだが、せめて月一回この手の舞台中継をしてくれるなら、納得して払えるかも知れない。

 2001/03/11 「地の霊

家を出て少し歩くと、勾配のきつい坂が私鉄の駅の方に向かっている。坂の両側にかなり広い空き地がある。柵があり、私有地であることを示す標識が以前は立っていたがここ数年見かけない。櫟の木立がまばらに立つ辺りは一面枯れ薄の草原になっている。

家の前を通る旧街道は尾根筋にあたり、馬の背状に両側に下っている。空き地のある辺りは小さい頃はただの谷で、下に降りることもかなわなかった。小学校の頃、当時としては珍しいゴルフ練習場が作られることになり、土地の造成が行われた。工事が休みの日など、潜り込んではインディアンごっこなどをして遊んだ記憶がある。モニュメントヴァレーに似た景観だったのだ。

ゴルフが今ほど大衆化していなかったからか、やがてゴルフ場はつぶれ、芝は荒れた。練習場といっても打ちっ放しではない。小さいながらコースになっていた。起伏のある土地の形そのままにやがてもとの林に戻るかと思われた。

中学校の頃、それまで終着駅だった私鉄の駅から新しい路線が延びることになった。新しい駅と旧街道をつなぐ道が、ゴルフ場跡地を縦断するように造られた。線路のための盛り土と道によって跡地は寸断され、中途半端な空き地が残った。今はその上を高速道路が通り、コンクリートの橋桁が駅への道の両側に聳えている。
「夕方遠くに見える山の上の村/そのこちらの河、影、色あい、霧‥‥/これらのものが、毎日出かけていく/そうして今も出かけていき、これからも出かけていくだろう/その子の部分になった。」                   ウォルト・ホイットマン『草の葉』より
何があったというわけでもない。ありふれた小川や野原や林である。ただ、それはホイットマンの詩のように今も私の一部として残る。記憶に残る風景を呼び起こそうとして、坂道を通るたびに空しく視線を彷徨わせるのだが、度重なる造成工事の所為で、辺りは昔を思い出すよすがもない。

今も新しい道を歩くとき、新しい風景を自分の一部にしようと努めはする。だが、うまくできないでいる。めまぐるしくうつろう世の有様にあきれてか、土地に宿る精霊は子どもの時のようには私に語りかけてこないのだ。

 2001/03/10 「言葉の齢

歯医者に行った。待合室でいつも読む雑誌を手にとると、次のような意味合いの文が目にとまった。「30代以上を対象とした雑誌ですので、文中に理解できない言葉が出てくる場合がありますが、あえて注はつけてありません。ご了承ください」。苦笑を禁じ得なかった。

これは、編集者のユーモアなのだろうか。まさか本気とも思われないが、ひょっとしたら、若い読者からクレームがついたのかも知れない。かくいう自分の文章でも、読めない漢字があるといわれることがある。最近ではつとめてルビを振ることにしているが、あまり多いと煩わしくなる。かといって仮名では意味が通じなくなる場合も多い。

気ままな文だからこちらの勝手にできるわけだが、雑誌となるとそうもいくまい。常連からしてみれば注は、いらざる節介だろうし、年少の読者には注なしでは分かりにくい。結果的には対象年齢をしぼったわけだが、雑誌にはもともとターゲットとする読者層がある。売り上げには響くまい。

言葉は生き物である。生き物ならば年もとろう。さしずめ私なんぞの使っているのはかなりくたびれかけた頃合いの言葉だろうか。いくらか古びては来ているが愛着があって捨てがたい。いっそ、年経たものだけが持つ風合いを手に入れるまで、使い続けていきたいものだ。

 2001/03/09 「春の雪

黄砂が舞ったかと思うと、雪がちらつくという、落ち着かない天気である。仕事場の窓から南の山を見ると、葉を落とした細い枝影に被われた山が墨絵のようにぼんやりと浮かんでいる。雪は小やみなく降り、いつの間にかその山の影さえ見えなくなってしまった。

太平洋側に開けた温暖な土地だから、冬でもめったに雪は降らない。それが、春先には決まって何度か降る。雪を見るといくつになっても心が躍る。鈍色や青灰色のまだらな雲の間に透けて見える青空がいつもより澄んでいるのは思いなしだろうか。

いつもならまだ明るい帰宅時間なのに、すっかり暗い官庁街のビルの窓に灯る明かりさえ、なんだか暖かな色をしている。家路を急ぐ人の影もない通りは、幕が下りた後の舞台の書き割りのようだ。こんな日は一年にそう幾日もない。有り難い贈り物のようなものだ。雪は天からの手紙だといったのは誰だったろうか。礼状代わりにこの文を書いてみた。

 2001/03/04 「春の嵐」

「春の嵐」というのだろうか、昨夜来の雨が朝にはすっかりあがっていた。待ちかねたように雀の鳴き交わす声さえ聞こえてくる。「春暁」を思い出した。「夜来風雨声/花落知多少」という例の詩だ。上から下に読み下していけるので覚えやすいのか、人口に膾炙(かいしゃ)している。

それに比べ、返り点だのレ点だのは、よく工夫したものだとは思うものの覚えるには厄介な代物だった。この間、杉本秀太郎氏の『神遊び』を読んでいて、氏が高橋和巳と同期だったことを知った。和巳の小説を評価しない人でも彼の漢学者としての才能は高く買う人が多い。その和巳が、師の吉川幸次郎氏のあまりの厳しさに涙をためた目で師の顔をにらんだら、師の目にも涙が浮かんでいたという逸話がその中にあった。なるほど師弟とはこういうものかと感動したのだが、学問の世界とは、よく勉強したものにしか開かれないものだな、とつくづく思った。

それにしても、高橋和巳は早く死にすぎた。中国文学者としての将来を惜しむ人ばかりではないだろう。最近には珍しい真摯な人柄というものを感じさせる文士だった。

風蕭々として易水寒し、壮士一度去って復た帰らず。

 2001/02/28 「無用の用」

食卓の上にペーター佐藤のイラストの描かれた見慣れた箱が置いてある。どちらかといえば繊細な顔立ちが特徴的な人物イラストだが、アメリカの子どもの顔もさすがにうまいものだ。でも、きっとアメリカではうけないだろうな、と思いながら箱の中をのぞいた。

いつ頃からだろうか、ドーナツがリング状の揚げ菓子でなくなったのは。この店のドーナツが市場を席巻するまでは、ドーナツといえば真ん中に穴のあいたものだった。それでなくては困る比喩というものもあるのだ。

京都にある予備校で大学進学を目指して毎日講義を聴いていた頃のことだ。谷川という京大の教授が漢文の講座を受け持っていた。その日は荘子の話だった。「無用の用」に話が及んで、教授の持ち出したのがドーナツの穴だった。 

「ドーナツの穴は別になければ困るというものではない。しかし、穴がなければドーナツでなくなってしまう」というのが、「無用の用」の説明に用いられた比喩だった。なるほどうまいことをいうものだ、と感心した。早速荘子の本を買い込んで片端から読んでいった。曲がりくねった木は使い物にならないから伐られずに寿命を全うするなどという話も、ひねくれているとは思うものの妙に気に入った。一つ一つのものの見方が素直でないのだ。

ヒッピームーブメントが世界中をおおっていた。ベトナム戦争が泥沼化し、厭戦気分が当のアメリカを中心に広がりつつあった。髪を伸ばしドロップアウトをするのが当たり前のような感覚でいた。荘子は、その時代の雰囲気にぴったりだった。

しかし、時代は変わっていった。夢から覚めたように、人々は有用さを価値のあるものとする考え方の中に回帰していった。有用な人々が必死に働いたせいで日本も世界もこのように豊かになった、と皮肉でなく言えるとよいのだが。遊びのない歯車がなめらかに動かないように、近頃、世の中の動きは何かと世知辛くなった。

夢から覚めた荘子は、自分もまた蝶の見ている夢ではないのかと思ったそうだ。時折思うことがある。今あるこの世界は、いったい誰に夢見られているのだろうかと。  

 2001/02/25 「花粉」

春が来たかと思わせるような日が二、三日続いたかと思うと、急に冬の戻ったような寒さだ。昨日の雨があがって空には日が射しているが、風が強く、遠出したくなるような日ではない。思い立って散髪することにした。店の戸を開けると、若主人の顔にマスクが見えた。

今年も花粉の飛ぶ季節が来たのだ。かくいう私も、もう何年にもなる。同病相憐れむというところか。花見だ新緑だという季節が来るというのに、外に出るのが怖い。油断して長く外にいると、必ずひどいことになる。この季節は我慢して家の中にいるに限る。

ある年、花粉の飛ぶ季節に出かけたら、山全体に黄色い靄がかかったように見えた。梶井基次郎に『蒼穹』という短編があるが、ちょうどその中に書かれているのと同じだった。
 「三月の半頃私はよく山を蔽った杉林から山火事のような煙が起きるのを見た。それは日のよく当たる風の吹く、ほどよい湿度と温度が幸ひする日、杉林が一斉に飛ばす花粉の煙であった。」
すましたように書いているところを見ると、梶井の時代には花粉症はなかったようだ。戦後の復興期に木材の大量伐採をしたつけが回ってきているというのが定説だが、大気汚染とも関係しているらしい。いずれにせよ人災である。

週末を過ごす丸太小屋も杉林の中にある。建ててすぐの頃一日車を止めておいたら、ボンネットの上が黄色い花粉に被われていて驚いたことがある。長く留守にしておくのは気になるのだが、この季節ばかりはどうしようもない。

たしかプルーストが花粉症だった。彼の場合は余程重症だったらしく、どんな花の花粉もだめで、日本の水中花で心を慰めていたという話をどこかで読んだ記憶がある。内壁をコルク張りにした完全防備の部屋で書いたのが『失われた時を求めて』だった。外に出られないのは不便だが、部屋の中でも退屈はしない。プルーストのように書くのは無理でも読書の楽しみがある。日がな一日書斎の椅子に座って本が読めるのはまんざら捨てたものでもない。

そうはいっても休日以外は仕事で外に出なければならない。数年前に職場の先輩に、花粉症もある年齢になると、ぴたりとおさまるという話を聞いた。早くその年齢にならないかと心待ちにしているのだが、目とはちがってこちらはなかなか老人力がつかないようだ。

 2001/02/22 「歌」

新聞で、童謡を歌う高齢者の記事を見た。出勤前のあわただしい時間の中でちらっと見出しと写真を見ただけなので、くわしいことは知らない。ただ、オルガンを弾く女性の顔が生き生きした美しい表情を見せているのは心に残った。それでいて、いや、それだからこそ傷ましい思いが残ったのだった。

コリン・ウィルソンの『賢者の石』にもあるが、音楽を楽しむ老人は長生きをするらしい。著名な音楽家が長命なこともその根拠に引かれていた。楽器を演奏することは、必然的に手を使うことを意味する。それも高度に訓練された使用だ。年をとれば知的な力が衰えるように一般的には受け止められているが、それは違う。余程高齢になれば別だが、人は年をとるにつれ、判断力や思考力は深まりを見せるものだ。一方で、手指を扱う能力は減衰する。

音楽に限らず芸術は、知的な能力と手指の能力の均衡の上に成り立っている。芸術家は、一般的には日々衰えていく一方の手指の能力を普通の人々の水準をはるかに超えたところで維持しようとつとめる。それが、老化への傾斜を引き留める働きをしているというのがコリン・ウィルソンの論拠だが、ルドルフ・シュタイナーの著作に慣れ親しんだものには、その意味するところは自明である。そのことについては、いつかまた触れることもあるだろう。

今は、音楽の種類についての話に戻ろう。その女性が生き生きと弾く音楽が、なぜ童謡なのか。幼い頃から耳にし、同じ年頃の人たちとともに歌う歌が、唱歌や童謡であることの不幸を、余計なお世話だが、感じてしまったのである。目を世界に転じれば、「ブエナ・ビスタ・ソシアルクラブ」の 活躍にも明らかなように、その地方にはその地方にしかない音楽がある。キューバの困難な生活の中で一度は消えてしまうかに見えた「ソン」が復活したのは、ライ・クーダーの力もあるだろうが、民衆の中に音楽が生きていなければ始まらない話だったろう。

それに比べれば、我が国の民衆の中にどんな音楽が生きているのだろうか。人生の経験を積んだ人々が童謡を歌わねばならないこの国の悲しみが胸に迫る。「刈り干し切り唄」や「南部牛追い唄」の美しい節回しが当たり前のように歌い継がれないのはなぜか。ブッシュ大統領の就任したアメリカでは、今年はカントリーアンドウェスタンが勢いを盛り返すに違いないと言われている。しかし、この国の人々には、歌う歌がない。

司馬遼太郎は明治の政治家に今の政治家にないものを見るという。「国民の歴史」は日本の伝統文化の尊重を言い、今の風潮を憂う。そうだろうか。日本の国などというものは、たかだかここ何年のものだろう。為政者にはもしかしたらあったかも知れないが、山の中で木を伐る人々や、海で漁をする人々にとって、目の前の自然と周りの人々以外の何があったというのだろう。歌に歌いたくなるような日本の国などというものがあったとはとうてい思えない。

人々の目の前にあるのはある時は過酷な、またある時にはやさしい山河を相手にした仕事であり、いとしい人々であったにちがいない。わたしたちに伝わる歌は、それを歌い続けてきた。世界のどこででも、歌はそのようなものとして歌い継がれてきた。人は、自分の人生を託せるものとして歌を歌う。歌うということには、自分の生を意味づける働きがあるのだ。

それなのに、年老い、人生を振り返る時にきた人々がともに歌う歌が、童謡や唱歌であるのは、さみしいではないか。そこにはいちばん大事な時間の記憶が欠け落ちている。それが事実なのだろう。わたしたちの生は人として大切な何かを忘れていたのだ。それが、「国民云々」だとは誰にも言わせない。鴎外が墓碑銘に「石見人森林太郎の墓」としか彫らせなかったその気持ちが分かるような気がする。

ことは歌には限らない。国民国家の成立はあの時代の日本にとって急務であったろうことは分かる。戦後のてんやわんやの中でもう一度足場を見つめ直すという営みが難しかったろうことも理解できる。しかし、いつまでそのてんやわんやを続ければ気が済むのか。経済の成長も下降し、景気の悪さ故か、人々の気は荒み始めている。それにつけ込むような形で、反動的な物言いが巷間に流布し出している。

政治の場では地方の時代がきたというような風も吹き始めてはいるが、それが一過性のものになるか、根づくかは人々の意識によることは言うまでもない。しかし、その意識もまた作られる。口にする歌が教科書に載っていた唱歌や、ラジオから流された歌謡であることに気づいたとき、自分の根が、どこに伸び、どんな水を吸っているのかが分かり、暗澹たる想いに駆られる。一度なくした歌を取り戻すことはできるのだろうか。それはできない相談である。

カントリーアンドウェスタンのルーツはアイルランド古謡だという。アメリカは移民の国である。ブルースは、アフリカから連れてこられた黒人たちによって歌い継がれてきた。ロックは、それらなくして生まれることはなかっただろう。音楽に国境はないが、「国」というものが音楽を作った試しはない。音楽を作るのも歌うのも「人」である。たしかに、今のところ国というものは必要かも知れない。しかし、それで充分というわけではない。歌ぐらい、「国」に頼らないで歌いたい。故郷の山や川に歌はまだ残っている。それを伝えていけるのは、しかし、山でも川でもない。「人」だけなのである。

 2001/02/18 「眼」

年のせいか目が悪くなってきた。そういうと、やはりな、とほくそ笑む御仁もあろうかと思うが、ちがうのだ。老眼ではない。近視の度が年々進んできている。眼鏡の度をきつくすると頭が痛んだり気分が悪くなったりするので、少しゆるい目に合わせてあるのだが、どうやらそれではもう無理らしい。眼科医で診てもらったら、この眼鏡では車の運転をするなといわれてしまった。少し前から、夜間や雨の日には運転するのが億劫になってきていたが、今になってみればよく分かる。

医者の話では大したことはないようだが、酒を飲んだ後など右眼が痛むことがある。もう若くはないのだから無理をするな、と体が教えてくれているのだと思うようにしている。いつまでも元気で若いのがいいような風潮があるが、それは不自然というものだ。ある時期を過ぎれば坂は下るのが自然である。死へのソフトランディングを心がけていきたいものだ。

ものが見えにくいのは不便だが、まんざら悪いことばかりではない。「夜目遠目傘のうち」という言葉があるが、あまりはっきり見えない方が興趣をそそるものもある。反対に、見ないですむなら見ずに過ぎていきたいものもある。けばけばしい看板、電柱、電線の類がそれだ。目のよく見えた頃は、つい遠くのものを見ようとして、それらが目に入るたびに苦々しい思いがしたものだ。昨今では、見えないものを無理に見ようとしなくなったからか、以前ほど気にならなくなった。

赤瀬川源平氏の言う「老人力」とは、こういう類のものであろう。御本人には、美術館のレセプションで話を聞く機会があったが、「老人力」を、老人でも何かができる力だと誤解されていることを嘆いておられた。氏一流のヒューモアなのだが、世間の老人は老け込むことを恐れているから、勝手な解釈がまかり通るのだろう。

目は近くなったが、耳はまだまだ遠くならない。聞きたくもないことばかりが耳に入るのはどうしようもない。「老人力」がつくまで、しばらくは我慢するしかあるまい。
 
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