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 2001/07/22 『戦場の一年』 エミリオ・ルッス 白水社

これは小説ではない。著者自らが従軍した兵役の一年間の記録を綴ったものである。第一次世界大戦下、イタリア北部国境の高原地帯でオーストリア軍と対峙する位置に掘られた塹壕の中で、著者は将校として何度もの戦いに参加する。およそ勝てる見込みのない戦いばかりが続く最前線にあっては、誰もが少しずつ正気を逸していく。無能な上官。反乱を企てる兵士たち。コニャックの瓶を片時も手から放せない将校たち。そんな中で、「わたし」だけは、事態を客観的に観察することができる。リキュールを飲まず、珈琲と水だけを飲んでいるからかもしれない。

ついさっきまで話していた同僚が、ちょっとした不注意やつまらぬ勇気を誇示した結果、敵の銃弾に当たって死んでしまう。はじめから生還の見込みのないでたらめな命令で出撃し、著者の目の前で死んでゆく仲間の将校。死は、唐突に来もするし、筋書き通りに来たりもする。チョコレートが大量に支給されたら、明日は戦いがあるのだ。コニャックで頭を痺れさせておかなければ続けることができない戦争。本当の戦争はきっとこういうものなのだろう。滑稽で、しかもグロテスクだ。

大岡昇平の『俘虜記』を思わせる場面にも出会う。ある日、相手に気づかれることなく敵軍の様子が覗ける場所を発見した「わたし」は、そこでひとりの青年将校を照準の中にとらえることに成功する。しかし、相手のたばこの煙を見ているうちに自分もたばこが吸いたくなったその一瞬、それまでは敵としてしか見てこなかった相手の中に「人間」を発見した「わたし」はついに引き金を引くことができない。

声高に反戦を主張するのでも、戦争の悲惨さを訴えようとするのでもない。「わたし」は何者をも代表しようとはしない。著者は言う、「わたしは自分の目で見たもの、そしてわたしの心に強く残ったことしか書かなかった」と。次々と死んでいく仲間たちの中で著者ひとりが生き延びたのは、ひとえに、戦争の中で自分をなくさなかったことにつきる。ここに見られるのは、きわめて真摯に戦争という異常事態の中を「正気に」生きぬいた男の生の軌跡である。

著者のエミリオ・ルッスは、反ファシストの闘士であり、逮捕、脱走の後レジスタンス運動を経過し、上、下院議員を経て大臣に至る著名な政治家である。世に政治家にしてすぐれた文筆家もいないではない。しかし、著者のような目で、戦争というものの姿を見つめ、このような文章で書くことのできた政治家を寡聞にして知らない。

 2001/07/21 『英語で日本語を考える』 片岡義男 フリースタイル

1997年に筑摩書房から出版された同じ著者による『日本語の外へ』を読んだとき、強い衝撃を受けたことが忘れられない。日本人が日本語で考えたことをそのままうまく英語に移し替えることができれば、たとえ生まれはちがっても、アメリカ人と日本人の間には相互理解が成り立つものだと、至極当然のようにそれまで受けとめていたことが一気に打ち砕かれてしまったからだ。

ふだん何気なく使う日本語の言い回しをランダムに百通り取り出し、それを英語で書き表すにはどうすればよいかを実例を挙げて説明していくという今回の本も、ハンディサイズで、まるで和文英訳の参考書のような体裁になっているその見てくれとはちがって、最後まで読むと著者の意図するところがはっきり分かる。もちろん、和文英訳や、英文和訳の参考書としても役に立つことはいうまでもない。

百通りの英文を和訳した後に見えてくるものは、日本語と英語の間にある根本的なちがいである。日本語でものをとらえ、それを言い表そうとするとき、すべては名詞としてとらえられ、そう表現される。ものごとは、ことそこに至るまでの主体の意志や行動を覆い隠し、いつの間にかそうなっていたというふうに表現される。英語の場合は、全く逆に、主体の意志を担う動詞が、最終的には名詞となるような言葉であってもその中に形を明確に残している、と著者はあとがきで述べている。

それだけなら、ことは単なる文化のちがいということですますこともできそうに見える。ところが、そうはいかない。ものごとがいつの間にかそうなっているという形でいつも表現されることになれてしまうと、主体にとっての責任というものが明確にならないという事態が起きてくる。「責任とはなになのか、そのこと自体がそもそも理解できなくなる構造と性能を、日本語はその特徴のひとつとして内蔵している。」とまで、言われればことの重大さが分かろうというものである。

国際的な場で日本を代表する人々の言動の不明確さが取り沙汰されるたびに感じていた疑問がひとつの解答を得た。日本語で考えることが、知らず知らず、主体の意志を稀薄に、責任を不明確にしてしまっていたのだ、と。だからといって、日本語で考えることを停止するなどということができるわけもないし、するべきでもない。ただ、いろいろなときに、このことを英語で言うとしたらと、考えてみることで、主体の意志や責任の所在が幾分かでも明確になるとしたら、日本語で言う際の言い回しも変わってくるのではなかろうか。

ひとつ気になったのは、文中で「お待ちどうさま」という日本語の表記がなされていることだ。ここは、「待ち遠しい」から来ているのだから仮名で表記するなら「お待ちどおさま」でなくてはいけない。著者も前書きでこう書いているではないか。「英語能力の習得に向けて勉強していくとき、すべての基本となるべき最重要なものは、日本語の能力だ。およそなにを理解するにしても、その理解は、自分の日本語能力によって培われた頭の中でなされるのだから」と。(初版第一刷による)

 2001/07/15 『熊の敷石』 堀江敏幸 講談社

堀江敏幸の本を手にするのは、ひそやかな愉楽である。誰かの家を訪ねるとき、列車を下りたときから、その人の住む世界に入っていくような心の高ぶりを感じるものだが、ちょうどそれに似た静かな興奮の予感のようなものが、本を手にしたときから胸の奥に立ち上がってくるのを覚える。久しぶりに会う友人が話す言葉の一言も聞き漏らさないよう、私は部屋の窓を閉め、外の音が入ってこないようにして、彼の口が開くのを待つのだ。

書名にもなっている「熊の敷石」は、著者自身を思わせる日本人青年が、しばらく会ってなかった友人のヤンを訪ねてノルマンディーの小村を訪れるところから始まる。内省的な主人公にとって、自分の考えを人との会話の中に出すことは限られる。ましてや外国語を使ってというハンディがあってはなおさらのこと。しかし、ヤンとの間には「なんとなく」心を許せる関係が続いている。それが、互いの間にある距離感を読み誤らせるのか、ユダヤ人であるヤンの記憶の中に「私」は踏み込んでしまう。友達面をして、語りたくないことまで語らせ、かえって相手の傷を深くさせている自分を、ラ・フォンテーヌの『寓話』の中にある、顔に止まった蠅をつぶすために重い敷石を投げて、かえって友人を殺してしまう熊の中に発見する自己省察の目は鋭い。

「エセ−」とは、「試考」「試論」の意味である。モンテーニュに始まるこのジャンルは、自分の身のまわりの小さなことから、自分では何も見つけられない事がらにまで判断力を適用する試みのためにある。堀江氏は、自分の作品がエッセイと小説の中間のようなものと解されていると、別のところで述べているが、彼の作品は、この国では随筆のようにとらえられがちな「エッセイ」より、語の本来の意味である「エセー」そのものではないのだろうか。

ただ、その文体は、かつてはあったようでいて、本当はどこにもなかった種類の小説の文体を持つ。選り抜かれた言葉が、それでいて彫琢されたというでもなく、自然な息づかいで、できる限り嘘を言わないように注意深く語りかけてくる。現今、「小説」という名で売られている数多の作品を読んでも、このリアリティーに比肩するものに出会うことはない。

著者自らの手になる装幀はエルヴェ・ギベール撮影の写真を無地の白い表紙にのせたもの。翻訳書を思わせる瀟洒な趣が本を手にとるときの歓びを倍加させる。他に、「砂売りが通る」「城址にて」の二篇を含む。

 2001/07/14 『歌舞伎』 河竹登志夫 東京大学出版会

羽左衛門が死んだ。若い頃は、取り方の役者が組んだ戸板の上で見得を切ったなり、横様に倒れ込んでぴくりともしないほどの動きを見せる役者だったが、晩年は「助六」の髭の意休や、「白浪五人男」の日本駄右衛門など、若手の芝居を後ろで支える役回りが多かった。こうした役者がしっかりしていないと芝居が締まらない。歌右衛門に続き、大事な役所を受け持つ重鎮をまたひとり歌舞伎界は喪った。

さて、そうは言いながらも着実に若手が育ち、古典芸能の中ではめずらしく裾野に広がりを持つ歌舞伎の魅力については、これまでもいろいろな人が語ってきた。その中で今年出たばかりのこの本は極めつけといえる。海外で受ける演目が「忠臣蔵」「俊寛」の二作品であることから、歌舞伎の魅力を、見かけの華やかさではなく、そのドラマ性にあると喝破する冒頭の一文もそうだが、海外における歌舞伎上演や歌舞伎研究に詳しく、「比較」作業を通して歌舞伎に迫る点が従来の歌舞伎論に比して新鮮である。

「忠臣蔵」や「俊寛」は義太夫物といわれ、本来は人形浄瑠璃のために書かれた作品である。言葉に基づいたドラマ性が強いこれらの作品に西洋の観客が惹かれるのは理解できる。しかし一方で、歌舞伎には名もない市井の生活者を主人公とし、実際に起こった日常的な事件を題材にした生世話物と呼ばれる作品群がある。近松の心中物に始まり、盗人、殺人者といったアウトローを好んで描く南北、黙阿弥の世界に至るこの系譜こそ、歌舞伎のもう一つの側面を担うものである。

芸術の様式には二つの系列がある。演劇でいえば、ギリシャ悲劇に始まる「三一致の法則」に従って、合理的な本当らしさを追求し、ドラマ本位のセリフ劇たらんとする古典主義系の演劇がその一つ。もう一方は、コメディア・デラルテやシェイクスピア劇などの自由奔放で融通無碍、スペクタクルを好みシアトリカルなバロック系演劇である。著者は、歌舞伎を「バロックの典型」と見る。

中世における「能」の古典主義的世界から近世の歌舞伎のバロック的世界への変化がイエズス会の教会演劇に発するという丸谷才一の指摘をかつて読んだことがあるが、この本を読むと、それが作家の突拍子もない仮説とは思えなくなる。広い世界的な視野から歌舞伎を見るという視点はこれまでの歌舞伎論にない普遍的な歌舞伎解釈が持てるということでもある。

シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」と「妹背山女庭訓」のプロットの類似をあげながら、終始意志的に行動するロミオたちと、親の言葉や主命に従順に従う妹背山の登場人物たちのちがいを、それぞれの背負った世界観に見、「妹背山」を「諒解と諦観の悲劇」とするその歌舞伎観は封建主義的秩序の持つ非人間性を突いて鮮やかである。

阿国歌舞伎から若衆歌舞伎、そして野郎歌舞伎へと、歌舞伎は為政者の弾圧を受けながらもその都度生き延びてきた。弾圧を受けるということは、それだけ力があるということである。「菅原伝授手習鑑」の武部源蔵が、主君のため幼い寺子を手に掛けるとき言う有名な台詞、「せまじきものは宮仕え」が、明治以来、終戦まで「お宮仕えはここじゃわい」と、全く逆の意味を持つセリフに替えられていたという事実は、権力が歌舞伎の持つ潜在的驚異をよく知っていたことを物語っている。「忠臣蔵」や「寺子屋」が忠義や武士道の賛美を歌っているように見えながら、実はそれらのために泣く庶民の心を描いてきたことを最も理解していたのは権力の側だったのかもしれない。

しかし、戦乱の世も過去となった文化文政期になると、南北描く「四谷怪談」のような怪奇残酷な世界が現れてくるのは、いつに変わらぬこの国の無宗教、現世享楽の世界観ゆえであろうか。著者は、それらを現代に似た生命の尊さを忘れた泰平の世の産物であるという。現実世界の殺人はいただけないが、劇の中なら、どれだけ怪奇であり、残虐であってもいっこうに構わない、と私は思う。問題は想像力の方が、現実に追いつかないことの方にあるのではないか。

著者は黙阿弥の曾孫にあたる。歌舞伎をよく知る人、あまり知らない人のどちらにも読んでほしい。入門書扱いするにはもったいないけれど、歌舞伎の世界を知るためには上質のガイドブックとなる本である。

 2001/07/12 『火山に恋して』 スーザン・ソンタグ みすず書房

『反解釈』、『隠喩としての病い』の著者スーザン・ソンタグの書く小説とはどんなものか、という興味から読み始めた読者は、一読後、みごとに裏切られることになるだろう。『火山に恋して』は、多彩な登場人物に彩られた華麗な歴史絵巻に仕上がっている。

舞台は18世紀ナポリ。主な登場人物は火山研究家にして著名な美術品蒐集家でもある英国公使ハミルトン卿(カヴァリエーレ)。その妻キャサリン。二度目の妻エマとトラファルガー海戦の「英雄」ネルソン提督。この四人に、『ヴァテック』の著者であり、フォントヒル・アベーの主、ウィリアム・ベックフォード、詩人ゲーテなどの有名人が登場人物として絡むという、典型的な娯楽小説になっている。

作家は、カヴァリエーレが公使として仕えるナポリ公国の宮廷生活の細々とした出来事を、まるで風俗史を繙くように、想像力を働かせた叙述を交えながら具体的かつ微細に描いてゆく。粗野なナポリ王を厭うキャサリンは、公使の従弟であるベックフォードとの間に、宮廷生活に明け暮れる夫との間にはない親密な関係を持つようになる。しかし、それもベックフォードの帰国によって終わり、失意のキャサリンは早逝する。喪失感に苦しみながらも、公使は新しく目の前に現れたエマの美貌と才気を愛するようになり、やがて妻に迎える。しかし、エマは、救国の英雄である提督との愛に溺れていく。妻の不義に気づきながらも、公使はそれをとがめず、父のように接する。大国の争いに翻弄される小国の政治史を背景に上流貴族の私生活を冷静な筆致で描いた作品である。

所々に挿入される批評家ソンタグの穿った解釈は楽しめるのだが、物語自体はよくある三角関係のドラマの範疇を一歩も出ない。鍵を握るカヴァリエーレの心理描写が今ひとつ精彩を欠くように感じられてならないが、歴史小説ならこんなもんかという思いもある。こちらの勝手な思い込みが裏切られたからといって作家を責めるのは酷というもの。むしろ、ピラネージ、ウォルポール、ベックフォードといった人物をそれこそ蒐集して、物語に点綴してくれたソンタグの審美眼の確かさを誉めるべきだろう。そういう意味では楽しめる小説であった。(富山太佳夫訳)

 2001/07/09 「貨物船とヴァイオリン」 ラウル・デュフィ展

たとえば、美術館で開催されているフランス近代絵画展に行くとする。綺羅星の如く並ぶ有名な画家の大作、力作がこれでもか、これでもかとひた押しに迫ってくる。そんな中で、まるで、厳めしい顔をした大人たちの集まる会合の中に幼な子が紛れ込んだような無邪気な明るさを漂わせているデュフィの絵の前に立つと、壁の一角がそこだけ切り取られて、絵の保護のために幾分か暗くされている館内に外気と外光が一挙に流れ込んでくるような気がすることはないだろうか。

ラウル・デュフィは、20世紀前半、つまり印象派やキュビスムに代表されるフランス絵画の黄金期に位置する画家である。今回の展覧会でも、それは充分に感得される。特に初期の作品『レスタックの木々』には、紛れもなくセザンヌの色調や筆触を容易に見てとることができる。同時に、その空間構成は、同じ宿に投宿し、画行を共にしたブラックのキュビスムにも限りなく近い。しかし、デュフィの本領はどうやらそういう画壇の潮流とは無縁のところにあるようだ。

デュフィは、よく「色彩の魔術師」と呼ばれる。たしかに、『赤いヴァイオリン』に描かれたヴァイオリンの色合いのみごとさを目にするとそう呼びたくなる気持ちも分かる。油彩画の武器とも言える塗り重ねによる発色をあえて捨てたかのように、白く下塗りしただけのキャンバスに太い絵筆を数回往復させただけのきわめてあっさりした筆遣いであるのに、何とも言えず美しいその赤。海辺の町ル・アーブルに生まれた画家が描く空と海の青の多彩さ。晩年、繰り返し描くことになる代表作『黒い貨物船』に不吉な影を落とす黒色等、デュフィの絵を見る歓びの一つはその色彩にあるのは言うまでもない。

しかし、その一方で、よく言われるデュフィの絵と音楽の関係に目を留めてみると、絵の中から聞こえてくる音楽は決して色彩の饗宴からばかり来ているのではないことに気づかざるを得ない。『赤いヴァイオリン』に戻れば、黒い描線が軽やかに描く楽器のフォルムと、赤い色面がうまく重ならないかすかなズレの中に、それはある。まるで遁走曲のように、色が輪郭線を追い、描線が踊るように身をかわす。その弾むような動きの中にこそ「音楽」が息づいていたのだ。

輪郭線は、本来 色面の差異によって生じるものであるのに、デュフィにあっては、黒い描線が描く輪郭と色面は、必ずしも一致しない。『アトリエ』で描かれる、室内の壁面に外部の建築や空が侵入してくるのは、その前兆である。その時点では、まだ、色彩と輪郭は重なっている。ところが、ある時期から、デュフィの絵は、描線による輪郭の存在を無視するように、ある時は縦に、またあるときは横に、色面によって三分割されるようになる。晩年の『黒い貨物船』になると、それは、もっと自在な形、たとえば台形状になって、画面の中心部に割り込んでくる。

バッハへのオマージュとされる『ヴァイオリンのある静物』で、花模様の中に浮かび上がるヴァイオリンが白い矩形の光を浴びているのと対比的に、『黒い貨物船』の連作で、船は黒い影の中に閉じこめられているように見える。それは、まるで穏やかな調べで始まった曲の中に、突然新たに荒々しい不吉な主題が響く曲のようだ。黒い矩形の奏でる音は、たしかに「死」を象徴しているように聞こえなくもない。しかし、その楽章が終わった後には、サン=タドレスの穏やかな街並みや海水浴客、エビを捕る漁師という平穏な主題がまた現れるのである。貨物船が象徴する「死」の影にばかり拘泥するのは、デュフィという類い稀な音楽を楽しむには、よい聴き方とは言えないだろう。

 2001/07/01 『作画汗まみれ』 大塚康生 徳間書店

映画というのは、一秒間に24コマの画像が映写されることで、止まった写真が動いて見えるような仕組みになっているのは知っていた。けれども、一般的なアニメーション作品は2コマ撮りといって、一秒間に流れる24枚の画像のうち、二枚を一画像で処理していることを、この本ではじめて知った。さらに、3コマ撮りといって、24枚中3枚にあたる部分を一画像で処理する方法を採用し、テレビアニメに先鞭をつけたのが、手塚治虫の虫プロダクションであったということも。

小学生の頃、学校から映画につれていってもらう映画鑑賞会のような行事があった。「文部省推薦」というコピーが必ず入った、ひたすら真面目で暗い映画が多かったのだが、中には、『白蛇伝』のように、子どもを魅惑する映画に出会うこともあった。大塚氏は、その頃から日本のアニメーション制作に携わる日本動画界の草分け的存在であり、今や押しも押されもしない宮崎駿や高畑勲と何本も仕事を共にしてきた僚友でもある。

手塚治虫が、マンガ家として成功しながらも、最後までアニメーションにこだわった事実は有名である。『鉄腕アトム』のテレビアニメ化は、商業主義との妥協の産物であり、セル画を省略したり(3コマ撮り)静止したり(止め)するという方法を多用することで週一回放映という事態を乗り切った不本意なものであった。一方で、それが、商売として成り立つアニメというものを多方面に認識させ、今日のアニメ隆盛の引き金になったことは皮肉である。

大塚氏は手塚の天才を認めながらも、手塚が一方で理想のアニメに憧れながら、それを成し遂げることが出来なかったのは、商業主義の所為でなく、彼がアニメ制作について無知だったからだという意外な事実を語っている。絵を動かすということは、考えているほど簡単なことではない。日本の動画制作の創生期を担った東映動画部スタッフの技術や努力をその目で見てきた氏の体験に即した叙述は説得力を持っている。

今や、アニメーションは日本が世界に対して発信することの出来る数少ない文化の一つである。しかし、果たしてその質が、それに見合うだけのものを持っているかといえば、この本を読んだ後では疑問が残る。「ジャパニメーション」と呼ばれる一群の作品の魅力の一部である限りなく実写に近い画面効果が、本来絵を「動かして見せる」アニメーションの代替物だとすれば、それは、アニメーションの語義である生気・活力からかえって遠ざかることになるのではないだろうか。

 2001/06/25 『大いなる西部劇』 逢坂剛×川本三郎 新書館

この本は亡き瀬戸川猛資氏に捧げられている。両氏と瀬戸川氏は、西部劇の話をし出したらとまらないという共通点を持っていた。某新聞の書評委員会の忘年会で顔を合わした三人は、二次会でも延々と西部劇の話をし続けた。時にはこの本の装幀を担当している和田誠氏もまじえて。

ところが、その折の話は録音されておらず、本になることもなかった。もったいない話である。この二人に瀬戸川氏が加わっていれば、対談はもっと深まりと広がりを見せたであろうことはまずまちがいない。それは誰より両氏がいちばんよく知っている。この対談が瀬戸川氏の思い出から始まるにはそれだけの意味がある。対談中頻繁に瀬戸川氏の名前が出るのは、西部劇に対する氏の視点を両氏が尊重し、愛しているからである。この対談は、いうならば、今は亡き友人も交えた鼎談になっているのだ。

彼らよりかなり後に生まれた私は、ここで語られている西部劇のほとんどを劇場で見たことがない。その多くを吹き替え番のテレビで見ていることになる。劇場で見た最初の西部劇はグレン・フォードとヘンリー・フォンダが年老いたカウボーイに扮した映画だったが、何かの映画と二本立て上映されていたのだろう、題名さえ覚えていない。それでも好きか嫌いかと聞かれれば、西部劇は好きだ。取り上げられている作品も有名なものはほとんど見ている。

西部劇の魅力とはいったい何だろうか。瀬戸川氏は「一対一の正々堂々たる決闘にある」という。川本氏は「ヒーローがたった一人で敵と戦う個人性」をあげる。しかし、それらは、西部劇に限ったことではない。孤独なヒーローが最強の敵を相手に戦うというのは古今東西、どんな物語にだって当てはまる筋立てではないか。だからこそ、黒澤の『七人の侍』や『用心棒』が、西部劇にリメイクされるのである。

答えは単純かもしれないが「場所」ではないのだろうか。『シェーン』の雪をかぶった山の見えるワイオミングでも、ジョン・フォードが『駅馬車』のロケ地に選んだモニュメントバレーの見えるアリゾナの砂漠でもいい。荒々しさとともにまだ拓かれていない土地の持つみずみずしさが、それらの土地にはある。歴史を誇るヨーロッパにはない若さがそこには息づいていた。

土地に対する剥き出しの欲望や、それを手にするための力と力のぶつかり合い、名誉をかけた果たし合いなど、西部劇を構成する物語の構造はシンプルである。物語の始まりは神話だというが、西部という未開の土地はそういう意味で神話の舞台に最適であった。そういえば、茫漠たる大平原や砂漠を疾駆するのは、下半身は馬、上半身は人のケンタウロスそのものではなかったか。

 2001/06/24 『文学が好き』 荒川洋治 旬報社

文章を書いているとき、表したいことがらにふさわしい言葉が見あたらない。そんなことは誰にもあるだろう。私なら、自分が言葉を知らないからだと思い、くやしいがそれ以上は踏み込まない。著者は詩人である。表したいことがらにぴったりの言葉がないことにこだわってしまうのも当然かもしれない。たとえば、批評の「批」は「うつ」(なぐる、せめる)が原義だそうだが、詩人はもう少し柔らかみのある漢字がもう一つあると、自分の求めるニュアンスに近づくという。なるほど、と思う。

しかし、そんな詩人が、同業者である詩人についてコメントするときは、かなり「批」に近い言葉遣いになる。茨木のり子の詩集『倚りかからず』は、刊行当時新聞等に盛んに取り上げられたのを覚えている。表題となった詩を一読し、痩せて強張ったうるおいのない詩だと感じたのだったが、著者は「いい詩集」であるという。どこが「いい詩集」なのか、誤解のないように次に原文を引く。

読めばすぐに意味が伝わり、たちどころに「倫理的な効果」をあげてしまう自分の詩のしくみに、著者は「倚りかか」ろうとする。だから読み終えたときに奇妙な味わいが残る。(中略)傷がないので、きれいだ。まっすぐだ。「いい詩集」である。著者はこの「いい詩集」からこれからも脱却することはないだろう。なぜならこの詩人は社会に文句をつけても、自分とたたかうことはしないのだから。この倫理的な閉塞感がこの詩集の個性である。(いつまでも「いい詩集」)

ここだけ引くといかにも辛辣だが、この文章の前に著者は詩の持つ良さをいくつも述べている。曰く「わかりやすく厳正な日本語、ふくよかなユーモア」と。それだけに後半の「批」がなおいっそうの力を持つ。

ちなみに著者は別の章で、書き方、主に書くときの気持ちのもちかたをジャンル別に整理してくれている。それによると、詩については、「自分の中にある『権力』をゼロにする。言葉をも追い払う気持ちで書き、死後に託す。生きている人の評価に耳を貸してはならない」ということになる。なるほど、とあらためて思う。では、評論の場合はどうか。「誰もが考えもしない視点を持ち出し、『問い』を突き出す」と書いている。書くときの著者の姿勢は一貫している。

文体は簡潔にして明瞭。文が短いのに、スピードを感じさせない。句点と句点の間に思考がゆっくりと流れていくような気配が伝わってくる。同じ詩人である長田弘氏の文章に似た、じっくり読みたくなる気持ちにさせる何かがある。それは「書くときの気持ち」だと思う。文章の中にではなく、背後に、確かにそれがある。手元に置いておき、折にふれて読んでみたい、そんな本である。

 2001/06/18 『文学は別解で行こう』 鹿島 茂 白水社

前書きがいい。鹿島氏が高校生時代、数学の教師が難問をさらりと解いた後、「別解で行こう」と言いながら、様々な解法で解き終わり、「多く解けばいいものじゃなくて、別解に挑戦した方が上達は早いんだよ。」と結語したという話である。爾来鹿島氏の頭から「どんなものにも別解というものはある」ということが離れなくなったという。

最近、フランス文学は流行らないのだそうだ。文学ばかりではない。レンタルビデオ店でフランス映画を借りると店員から「それフランス語でしょう。おもしろいんですか」と逆に訊ねられる始末である。フランスの強いのはサッカーばかりになってしまったのだろうか。

一昔前、文学と言えばフランス文学という時代があった。ラディゲ、ジッド、コクトーといった名前が文学者ばかりでなく、普通の学生の口から出たものであった。さすがに鹿島氏、そんな文学者ばかりでなく、ジュール・ヴェルヌやルブランを俎上にのせ、別解でもって料理して行くところなど、かゆいところに手がとどく塩梅である。一例を紹介しよう。

『八十日間世界一周』は普通、旅行小説だと思われている。しかし、氏はこれに疑義を唱える。「貨物船が地球を一周したとしても、それを旅行したとは言わない。」旅行というのは、「血肉を具えた人間が自らの意志に基づいて旅をした場合」をいうのだと。それなら、主人公フィリアス・フォッグは何なのかというと、それは『信用』だというのだ。主人公にはベアリング兄弟銀行に二万ポンドの預金がある。彼はそれを賭けて旅に出る。途中の街に到着するのが遅れたり、早くなったりする度に株式市場での賭券の値が上下する。旅行しているのは他でもないペーパーマネーとしての信用である、というのが氏の見つけてきた別解である。なかなかスリリングな解釈ではないか。

話はこれだけで終わらない。フィリアス・フォッグという名前は「イギリス(フォッグはイギリスを象徴する霧)を愛せ(フィルはラテン語で愛する)」という意味にもとれ、従僕のパスパルトゥー(合い鍵、万能薬の意)と共に行動する時、「フランスがイギリスという友人を信じてこれと結びつけば、こわいものなし」というメッセージを帯びるという驚くべき解釈が生じる。時は普仏戦争敗北の二年後、親英感情はかつてない高まりを見せていたはず。充分考えられる暗号である。

デカダンスの聖書、ユイスマンスの『さかしま』についての考察や、ボヘミアンの伝説『ラ・ボエーム』についての蘊蓄も楽しく読ませてもらったが、ジャン・コクトーがシュルレアリストたちのいじめにあった話は初耳であった。フランス文学に心躍らせたことがある人には是非お薦めしたい一冊。

 2001/06/17 『映画とは何か』 加藤幹郎 みすず書房

映画について書かれた本には、大きく分けて二種類ある。一つは、映画が好きで、映画について語りたいという思いにあふれたものである。今ひとつは、映画をテクストとして読み、分析し、批評しようというものである。もちろん、その二つを兼ねたものもあろうが、力点の置かれ方は、対象に対する眼差しの温度差で分かる。前者は熱く、後者は冷たい。この本は後者に属する。

全体は二部構成で、前半は映画の文法についての講義。ヒッチコックやフリッツ・ラングの作品をもとに、記号学を駆使して対象を分析していく手際があざやかである。後半は、「列車映画」の歴史やD・W・グリフィス、黒人劇場専用映画についての詳細な研究報告という態をなしている。

「『サイコ』では不吉なことは二度くり返される。」それが、奇妙な既視感となって観客にやがて襲ってくる恐怖を予兆させている、と著者はいう。たとえば、大金を持ち逃げすることになるヒロインの勤めるオフィスの壁に不動産屋には似つかわしくない荒野の写真がかかっているが、十数時間後、ヒロインは、写真によく似た荒野を車で走っている。また、あまりにも有名なシャワーシーンと、その後に続くナイフを何度も振り下ろすシーンが、モーテル到着前に、しのつく雨の中で車のワイパーが弧を描く運動とダブルイメージになっている点などが著者が示す例である。ヒッチコック自身が自作を語った『映画術』にもこの部分に関しての言及はない。「批評家は主題やストーリーにしか興味を待たない(前掲書)」ことを嘆いていた監督が知ったら喜んだろう、精緻な分析である。

記号学を援用したフリッツ・ラングの亡命時代の作品の分析も興味深いものがあるが、後半のD・W・グリフィスを素材にした「アメリカ映画のトポグラフィ」は、映画黎明期のアメリカにおいて、グリフィスの果たした役割を知る上で貴重な研究である。それはまた、映画というものが、演劇的なものから解放され、いかに映画自身になっていったかを知るための里程表にもなっている。

あとがきによれば、本書は、講演用の原稿を改稿して「ハリウッド映画とは何か」という総題の下に『みすず』に長期連載したものであるという。亡命ユダヤ人作家フリッツ・ラング、黒人劇場専用映画、また、グリフィスの初期インディアン映画など、並べてみても分かるように従来のハリウッド映画論とは異質な視点から考察されているのが分かる。それまでの映画論が看過してきた「透明な命題がいかに可視化可能な命題であるかを検証しようとする」著者の目論見は、かなりの部分で成功していると思われる。眼差しはクールだが、語り口は熱いのである。

 2001/06/09 『回送電車』 堀江敏幸 中央公論新社

読みたい本があると、手帳のブックリスト欄に、これだけは怠ることなくメモしておくのだが、ここ一、二週間ほどそこに書き入れる本に出会わない。たまたまなのだろうが、新聞の書評欄にも広告欄にも、メモを取りたくなるような本がみつからない。こんな時は図書館の新刊コーナーに足を運ぶことにしている。この本もそこで見つけた。

作者の名前はよく知っている。『おぱらばん』で三島賞をとる前から、やはり新聞の書評で見つけ、気になっていた作家である。田中小実昌氏だったかが、歳をとると小説が読めなくなるという意味のことを書いていたが、それは本当で、ここ数年、小説を読むことが億劫でならない。食指は動くのだが、手にするだけでまた書棚に戻すことが続いている。

この本は、新聞や雑誌社に求められて書いた短いエッセイを集めたものである。若い人なのだが、文章が端正で、浮き足だったところがなく、落ち着いた筆致が何より好ましい。多くは、身辺の細々とした話題や文学作品についての記述で占められている。繊細な感受性を感じさせる素材の選び方には、線の細さを感じるものの、押しつけがましさのない叙述に近頃あまりお目にかからない「品の良さ」を見つけ、うれしくなった。

「回送電車」という題名の由来が巻頭に置かれた文章で説明されている。作者は、自分の書くものの位置づけの「曖昧さ」、と言って悪ければ、「ハイブリッド性」との共通点を回送電車という存在に感じると言う。それは、『梗概について』という一章の中で語られる「階段の踊り場」に寄せる愛着とも重なる。安定した場所に自分を置くことを忌避する作者自身の文学的立場を物語るものだ。

とはいえ、それはあくまでも文学的な位相の問題であり、生活者としての堀江氏は、むしろ保守的な生活感覚を保持し続ける。珈琲挽きや頭痛薬、ペーパーナイフなどに寄せる思いを綴った短文はよく似た気質を持つものにとっては他人事ではない。かく言う私もそうだが、コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』を経由してヘルマン・ヘッセ受容に至る経緯を綴った一文に若い自分を見出す読者も少なくないだろう。何度読んでも打ちとけにくい作家がいる一方で一度読んだだけで気質が密着して離れ難くなる作家もいる。読後、『熊の敷石』をリストに書き入れたのは言うまでもない。

 2001/06/03 『森の仕事と木遣り唄』 山村基毅 晶文社

実は木遣りというものを直に何度か聞いたことがある。家の前の道を車で十分ほど行ったところにある神社には、古来より二十年に一度社殿を建て替える風習がある。祭りらしい祭りのない市だからか「お木曳き」と呼ばれるその行事は多くの人で賑わう。御樋代木を載せた車の上で、法被姿の男が一人音頭をとると、車を引いているほかの男達がそれに唱和する。それが木遣りだった。その日のために何日も前から準備をして臨んでいるのだろうが、今まで聞いたどの木遣りにも心を動かされたことがない。ふだんは別の仕事をしている者が、節回しだけはまちがえずに歌ったところで、心に響くものになりえないのは当たり前で、こちらが無い物ねだりをしているのである。

ところが、日本中の山に分け入って、古老たちから、昔の木遣り唄を聞いて回った人がいる。木の伐採現場を実際に訪れたり炭焼き窯体験をしてみたりしながら、筆者は昔の暮らしぶりや、今の生活について山の仕事に携わる人々の話をじっくりと聞く。そうしながら口の重い山の男達の口から今はもう歌われなくなった作業歌を聞き出していく。

森林の荒廃が叫ばれて久しい。安い輸入材に押されて労働意欲を失い、放置された山が増えたからだ。しかし、それは林業だけの問題ではない。山仕事に限らず、個人の技量によって成立する仕事というものがかつてはあった。機械化や産業のシステム化が、そうした仕事を誰にでも代替可能な労働というものに変化させた。仕事の喜びの替わりに報酬の多寡が置き換わった。作業現場から歌が消えたのはその頃である。

木遣りには祝儀用の側面がある。鳶たちが歌う木遣りはお馴染みだが、冒頭の神事で歌われる木遣りも同じだろう。筆者は木遣りには祈りが込められているという。共に仕事をする仲間とのつながりや、それらを恵む自然そのものとつながろうとする祈りである。歌を奪われてしまった労働の現場にもう一度歌を回復させたいと願う筆者の思いにも熱い祈りが込められているようだ。
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