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 2002/9/29 『風景と人間』 アラン・コルバン 小倉孝誠訳 藤原書店

著者はまず風景をこう定義する。「風景とは、必要とあらば感覚的な把握の及ばぬところで空間を読み解き、分析し、それを表象する一つのやり方、そして美的評価に供するために風景を図式化し、様々な意味と情動を付与するひとつのやり方なのです。要するに風景とは解釈であり、空間を見つめる人間と不可分なのです。ですからここで客観性などという概念は放棄しましょう。」

あるフランスの作家は、海に行きながらこう書く。「私はディエップに行ったが、海は見えなかった。」実は、海は見ているのだが、その日の海は穏やかで、彼が絵画を通して知っている怒濤渦巻く海ではなかった。だから彼には「見えなかった」のだ。ある時代や階級、美的規範などのちがいによって風景を読む文化的コードや評価システムがちがう。だから同じ場所に立っても、過去の時代の人と同じ風景が見られるわけではないし、たとえ同じ時代であっても階級や美的規範がちがえば、そこに見えている風景はまったく別のものであるということも生じるわけである。

たとえば、風景は「一連の信仰、科学的確信、美的規範、さらに土地整備の目的などによって構築され」る。西洋の風景の歴史がルネサンスから始まるとされるのは、個人が風景の中から抜け出し、観者的な立場をとってそれらを見ることができるようになったからである。ルネサンスにおける科学の隆盛がそういう視線を準備したといえよう。あるいは政治的な観点から風景が構築されたりもする。「風景画史上の多くの傑作は、自分の領土を測量したいという主君の願いに応えるもの」であったし、17世紀のオランダ海洋画やヴェネティア派の絵には共和国賛美が濃厚である。

美的規範が変化することによって絵画に描かれる風景も変化する。古典主義の時代は明るくのどかな田園が好まれ、ロマン主義は「崇高性」という観念を表す激しい動きのある嵐や暗い洞窟のような画題を好んだ。19世紀末に生じたピクチャレスクという概念は文字通り様々な景色を探し求めることだが、戦争のせいでイタリアへの「グランド・ツアー」ができなくなったイギリス人がイギリス風景に回帰したことから生まれた。これは文学とも連動しラドクリフの書く物などはピクチャレスクな描写に溢れている。当然読書行為も風景を見る視線を決定する。我々が旅先で見る風景は白紙の状態にはなく、すでにテクストの洗礼を受けているのである。

これまでの旅先で見た「風景」、あるいは日常的に見慣れた「風景」が、どのようなプロセスをたどって「風景」として成立していったのかが、著者の分析を通して明らかになる。たとえば、筆者は雲を見ることを殊の外好む者だが、「雲は空のものであるのと同時に天のものでした。――両者の区別が本質的になるのは19世紀末になってからです」などという記述に出会うと、自分の中にある心性は、果たして今日的なものなのか、それとも雲を神性の宿るものとして見た19世紀から何も変わっていないのだろうかなどという自省に思いもかけず誘われたりするのである。

 2002/9/28 ROCK AND ROLL HERO

桑田佳佑がスタジオ出演していたので、めったに見ない音楽番組を子どもの横に座って見た。番組改変期にいつもやるスペシャル番組だが、視聴者が選ぶベスト百曲の中に、桑田の曲が何曲も入っているのでゲストに呼ばれたらしい。歌番組はまず見ない。歌の上手下手はともかく、音楽は感情に働きかけるものなのに、誰からも何も感じられないからだ。こちらの感情が減衰期に入っていることもある。今更ラブソングでもないだろう。

「ROCK AND ROLL HERO」は最新アルバムのタイトル曲だが、往年のロックの乗りで久しぶりに桑田の詩作の才能を味わった。「hold me tight」と発音しているはずなのに、テロップには「アホみたい」と流れている。昔、タモリの深夜番組で英語の歌詞がまったく別の日本語のように聞こえる例を視聴者から募集して聞かせるコーナーがあった。企画があたって「ボキャブラ天国」という番組に昇格したから知ってる人も多いに違いない。あれを意識的にやっているわけで、デビュー当時からこの人には注目していた。

しかし今度の曲は、ちょっと違う。歌われているのは、日本という国だ。いかにも冗談めかしてはいるが、アメリカに追従し続けてきた日本に対する桑田の思いが逆接的な歌詞に込められている。アメリカにはブルース・スプリングスティーンのように国家や政治について歌う歌手がいる。しかし、日本の歌謡界では、詩人の小野十三郎が日本の現代詩について評した「短歌的原罪」という言葉そのままに、歌は花鳥風月か色恋を歌うものと考えられているのか、一時期のフォークソング以外には、あまり国家や政治について歌われることはなかった。

たとえ一時的にせよフォークソングが政治的でありえたのはベトナム戦争当時の反戦運動の盛り上がりがあったからだが、それだけではない。フォークソングの父とも言えるウディ・ガスリーのギターには「このマシンはファシストを殺す」と書かれていたというから、フォークソングを歌うことと国家や政治を変革しようとすることとの関わりはもともと強いものがあったのだ。

サザンオールスターズでブレイクする前の桑田がTVで岡林信康の特集番組に一ファンとして出ていたのを覚えている。フォークの神様と呼ばれた岡林信康も今ではすっかり毒気を抜かれてしまったが、当時は「反体制」のシンボルと目された歌手であった。桑田の音楽的出発点を語る上で見逃せないエピソードである。

「歌は世につれ」という。ストレートに国家や政治を歌って人が感動する時代ではない。「ROCK AND ROLL HERO」も桑田の歌らしくひねりは効いている。しかし、それでも『裏声で歌え君が代』ではないが、今、この時代にあえてこの国について歌っておきたいという思いが歌詞の裏からひしひしと伝わってくる。もちろん、曲もいい。「カラオケで歌う歌がない」と、お嘆きの諸兄に是非お薦めしたい一曲である。

 2002/9/26 『天才建築家ブルネレスキ』 ロス・キング 田辺希久子訳 東京書籍

赤褐色をした甍の波の中に一際高く聳えるサンタ・マリア・デル・フィオーレのクーポラ(円屋根)はフィレンツェの街のランドマークである。ルネッサンスを特集したTV番組やイタリア旅行のパンフレットなどには必ずと言っていいほど登場しているので、フィレンツェを訪ねたことがない人でも一度くらいは目にしているはずだ。しかし、この有名なクーポラがローマのサン・ピエトロ大聖堂のクーポラよりも、イスタンブルのハギヤ・ソフィアよりも大きく、石造のドーム建築としては世界最大であることを何人の人が知っているだろうか。実は私もこの本を読むまで知らなかった。

建物が大きければ造るのに難しさが増すのは道理だろう。13世紀に模型が作られながら15世紀に至ってもいっこうに完成しなかったのは、どうやったらそれ程大きなクーポラを造れるのか誰も分からなかったからだ。問題点はいくつかあった。ミラノにあるドゥオモのようなゴシック建築ではドームの重さを支える方法としてフライング・バットレス【主屋の壁を横から支えるため、バットレスに渡した弓形の梁・飛梁】を採用している。ところが設計者であるフィオラヴァンティをはじめ、イタリア人はフライング・バットレスを「醜悪で野暮ったい非常手段」と考えており、宿敵ミラノの建築を否定するためにもここは飛梁に頼らないでドームを造りたかった。これが第一の関門である。

さらに、建築中のアーチを支えるために使われる迫枠(せりわく)の問題があった。完全な正円形のドームなら「個々の石材やれんがが垂直面でも水平面でもアーチの一部をなすため、隣り合う石材同士が押し合って、しっかり固定される」のだが、サンタ・マリア・デル・フィオーレのドームの断面は正八角形をしていた。これでは八つある頂点で石材に切断面ができることになり、円形ドームのように互いに押し合うことができない。しかし、迫枠を作るためには厖大な木材と費用がかかる。しかも、それだけでなく、完成した後で撤去する作業が最大の難事であった。

1418年、大聖堂造営局はドームの設計コンクールを催す。そこに登場するのがブルネレスキとギベルティという二人の金細工師である。彼らは以前にも聖ジョバンニ洗礼堂扉のブロンズ彫刻コンクールで競い合っている、いわば宿敵同士であった。洗礼堂扉はブルネレスキが共同作業を嫌ったためギベルティに任されることになった。しかし、すでにいくつかのドーム建築を手がけたブルネレスキである。建築にかけては素人のギベルティに今度こそ負ける訳にはいかない。ブルネレスキは迫枠も飛梁も用いない独創的な設計プランを提出する。最終的にはそのプランが採用されるのだが、作業が始まってからも難問続出。ブルネレスキはどうやって解決するのか。

ブルネレスキの時代、キリスト教信者が聖遺物目当ての巡礼に来るばかりで、ローマは荒れ寂れていた。パンテオンのようにキリスト教会に転用された建築を除けば、ローマ時代の遺跡は異教の信仰対象として敵視され見捨てられていた。水道橋さえ当時のローマ市民はその用途を知らず、テベレ川の汚れた水を飲んでいたという。ブルネレスキはドナテッロとともにローマの遺跡を掘り起こし、ギリシア・ローマ時代の建築の比率を研究し、暗号でそれらを書き残している。ことは建築に限らない。当時ローマ時代の古文書が相次いで発見されている。それらは15世紀の芸術家、哲学者、建築家を古代ローマ人と結びつけた。イタリア・ルネッサンスの始まりである。

原題を直訳すると『ブルネレスキのドーム・フィレンツェ大聖堂物語』となる。本来の主人公はブルネレスキではなくドーム(とそれが象徴するルネッサンス)だろう。材料の石がどこで切り出され、どのようにして運ばれたか、石工達の作業はどのようであったのか、その石を使って実際に巨大なドームを創り上げるブルネレスキ達アーティストの仕事ぶりはどうだったかなど、ドーム造りの現場を素材に当時の様子が生き生きと描かれる。聖堂造りの物語を通して何故ルネッサンスがイタリア(フィレンツェ)に起きたのかが見えてくるという、なかなか心憎い仕組みになっている。

 2002/9/16 『壜の中の手記』 ジェラルド・カーシュ 西崎憲他訳 晶文社

屋根裏部屋に忘れられていた古いトランクから出てきたような奇妙に懐かしい匂いが漂う短編集である。舞台は大西洋上の無人島や、アマゾン奥地の流刑地、メキシコの僻村。登場人物は奇形のサーカス芸人、賭博師、詐欺師、骨董商人、武器商人、時計職人。彼等の運命を操るのはサーカス芸人が首から下げる小さな財布(グラウチ・バッグ)、脳味噌の形そっくりの木の実(ティクトク)、彫り物をした指関節の骨、細い三本の首を持つオショショコの壜、機械仕掛けで動く蝋人形、アラビア文字を刻んだ印章つき指輪等々。どれもこれも胡散臭そうな来歴を誇る。

名詞ばかりをやたら並べたには訳がある。これらの埒も他愛もないがらくたの集積に食指が動くかどうか、それがこの短編集を読むための読者資格を問うているからだ。書かれたのが数十年前ということもあるがSFとも怪奇小説ともミステリーともとれるジャンルの作品群を悪意に浸し寓意で染め上げ皮肉を塗したような味とでも言おうか。狂言回しをつとめる木偶の坊の語り手以外どれもこれも見事にねじくれた人物ばかりが活躍する。

手法としては使い古された感のある額縁形式をとることが多く、語り手が出会った奇妙な人物が語る体験談、或は彼が手に入れた珍しい壜やバッグに入った手記を契機として物語は日常から非日常の世界に入っていく。そしてこれもまた常套的な落ちが用意されることにより、読者は日常的な世界に無事に連れ戻される。ポオが書いた通り結末が先に用意され、そこから話を組み立てていった極めて作為的な構成によって成立する予定調和的な作品世界。

どれほど奇妙な話が語られようとも、額縁に守られた世界は根本的には揺るがない。退屈な日常は退屈であるがゆえに安定し快適である。綺譚はすでに過去の物語として閉じられ、日常を脅かしたりはしない。異様な物語はそれに相応しい場所(それはメキシコ高地であったり、アマゾン流域の密林であったりするが)を必要とする。それは、此処ではない何処かである。

肘掛け椅子に座って事件を解決する探偵のように、自分の世界は誰からも侵されることなく、他者の異常な世界に首を突っ込み、束の間の非日常的快楽を味わおうとする読者にはうってつけの作品集である。中では、アンブローズ・ビアスの失踪事件を題材に宮沢賢治の向こうを張る綺想を盛った『壜の中の手記』、ある流刑囚の皮肉な運命の物語『ねじくれた骨』、そして無人島に漂着した四人の人間の悲劇を神話的なまでに乾いた簡潔な筆致で描ききった『豚の島の女王』が心に残る。これらには日常性に首まで浸かった読者の心にも届く一抹の悲哀と苦味がある。

 2002/9/14 『謎解き伴大納言絵巻』 黒田日出男 小学館

ひとりの男が後ろ向きに立っている。衣冠束帯に身を固め、手には笏を持った様子は何やら畏まって見える。いったいこの男は何者なのか。それが、国宝『伴大納言絵巻』にまつわる第一の謎である。さらにそのすぐ近く、清涼伝の広廂(ひろびさし)にいる束帯姿の貴族が第二の謎をよぶ。 二人は同一人物か、それとも別人か。1933年福井利吉郎が言及して以来、何人もの研究者がそれぞれ別の見解を披瀝しながら、この謎はいまだに解明されていない。

おおよそ、絵巻たるもの絵と交互に配置される「詞書」によって群衆はいざ知らず、主たる登場人物なら特定される描き方がなされているのが当然。まして常磐光長作と伝えられるこの絵巻は、応天門に上がる火焔一つとってみても並々ならぬ力量を持つ絵師の手になる作品である。主要な人物が特定できないなどという「謎」がなぜ生じたのだろう。黒田のいう「謎解き」とは、その謎を解こうとするものである。

著者は、「これまでの論では<謎の人物>にこだわるあまり、肝腎の『伴大納言絵巻』の表現や文法・構成の豊かさに迫る努力を怠ってきたようにも思われる」と述べ、『伴大納言絵巻』に関するこれまでの研究のディスクール(言説・議論)の批判的読解を行うとともに、絵巻そのものをテクストとしてディテールを吟味しつつ絵巻物のコードに沿って読み解いていく。

人によっては文法ほど面白くないものはないとも感じるらしいが、文法なくして精緻な読解は不可能である。それは文学に限らない。絵画や音楽のような芸術はもとより、社会的事象を読む際にも不可避である。文法もしくはコードを知ることによって、テクストの意味するものがはじめて明らかになる。適切なコードに拠らなければ世界は不可解な暗号めいた織物でしかない。

一例を挙げよう。右から左に進んでいくという絵巻の文法に則ってはじめて、後ろ向きの男は今どこかから戻る場面であるということが分かるのだ。著者はまた人物の身体的特徴(髭の有無や髷)や衣服、被り物、履き物に至るまで徹底的にディテールを分析する。さらには仕切りのコードとして用いられている霞や門、樹木が画面上で果たす段階的な役割を明らかにした上で、先行する研究者が着目しながらも解決するに至らなかった「欠落する一枚」を復元してみせる。欠けた一片が見つからなかったため絵柄の分からなかったジグソーパズルがその1ピースで完璧な絵に仕上がるように『伴大納言絵巻』の謎は解決される。その推理の鮮やかさ、論理の明快さは名探偵顔負けで、凡百のミステリーの数倍は面白い。「絵巻」に特別な興味関心がなくても構わない。パズル好き、探偵小説ファン、歴史愛好家ならぜひ一読をお薦めする。

 2002/9/3 『吉田健一 友と書物と』 清水徹編 みすず書房

川上弘美が翻訳小説について知りたかったら「訳者あとがきを」読むのが一番という意味のことを書評に書いていたがまったくその通りで清水徹が吉田の『交友録』『書架記』などから十三編を選んで編んだこの本の場合も巻末に附された「時間を注ぐ」という編者の解説を読めば編者の意図も作者についてもよくわかるようになっている。しかしまあそれはそれとして読者は自分の好きな作家の書物を楽しめばいいのだ。

楽しんで読むとは言ったが楽に読むのとは意味がちがい字こそ新字に代えているものの旧仮名遣いで書かれた吉田健一の文章は御世辞にも読みやすいとは言い難いのだがもちろん悪文というのではないのではじめは文の切れ目切れ目で行きつ戻りつを繰り返すが一旦呼吸をのみこめば後は独特の名文を楽しんでいる自分に気づくことになる。

たとえば「ディツキンソンと付き合つてゐると知識階級の人間といふものが実際にゐることが解つた。これは文字通りに知識がある人間、東洋風に言へば識者であつて一般の知的な水準を抜いてゐる以上はこと毎に、或は度重ねて一般に是認されてゐることに反する立場に置かれることは覚悟の前である人間を指す」が現在は「さうすると見せ掛けながら肝心の所で輿論に阿つて大向こうの喝采を博すことを狙う輩が殖え、寧ろその方が知識階級と考えられるに至つてゐる」というような指摘にはたと膝を打つのである。

書物を読む楽しみというのは一口には言えないのであって文章の持つ魅力もあればまた別のものもある。その人でなければ言うことのできない言葉や考え方に触れるというのもその一つで吉田茂を父に持ち母方の祖父は大久保利通の子牧野伸顕という家に生まれ長じて英国留学を果たした健一でなければ語れないこともある。家系を言うのではないが牧野伸顕のような一時代を生きた人物を「友達」と呼べる環境の中で育った吉田には他の者にない何かが育つのも自然だ。

荷風や漱石のような留学経験とも鴎外ともちがって吉田は肩肘も張らずいじけもせずにオックスフォードの碩学達から学んだようで吉田が何ものにも囚われることなく対象を正当に見、平等に対峙する態度はこの国の潮流の中ではいかにも異質に映るが逆に言えばこの国の主流をなす意見は吉田という「メートル原器」の前ではその歪みを露呈してしまうので吉田の書く物を読む時に感じる晴朗さや明晰さ公平さといった感じはついに我々の国が持てないで来たものである。

大衆文学を論じながら「我々は大衆文学と呼ばれてゐる作品を読んで文学の上での正気に返る」と言い「純文学」というジャンルを持つ我が国の倒錯性を暴くのもマルドリュス版「千夜一夜」の中から回教という宗教の持つ「たとへば平等といふことが理想の一種でなくて生活感情になつてこの社会に行き亙つてゐる」といった精神の価値を発見していくのも吉田の中に育った晴朗さや公平さのなせるわざであろうが、これらが「友と書物」を通して作者の中に培われていったとするなら人は何を読み誰を友とするかについて一度真剣に考えてみなければならないのではないか。

 2002/8/29 『日本精神分析』 柄谷行人 文藝春秋

また大仰な題名をつけたものだ。柄谷は自作につけるネーミングに凝るところがある。『日本近代文学の起源』が、日本・近代・文学それぞれの起源を問うていたのと同じように、今回は「日本」の精神分析と「日本精神」の分析をかけているのだそうだ。同じ出版社から出された『<戦前>の思考』の続編と考えればいいだろう。どちらも講演録をもとにして書かれた物だから、著者の考え方や主張がすんなりと耳に届く。ある意味で分かりやすいのだが、一方で、こんなに分かっていいのだろうか、という疑いも生じる。

1994年発行の『<戦前>の思考』のあとがきで、柄谷はこう発言している。「本書において、私は、将来の見通しとか解決案について語っていない。決して『終る』ことのありえない諸条件・諸矛盾を明らかにしようとしただけである。それは解決の提示ではまったくない。しかし、今後においてどのような『解決』(終り)が唱えられようと、それが欺瞞でしかありえないことを示しえたと思う。私は悲観論者ではない。ただ、認識すること以外にオプティミズムはありえないと考えている。」

帝国とネーション、議会制の問題、文字論と、『<戦前>の思考』と『日本精神分析』が採り上げているテーマは基本的に共通している。それらに「市民通貨」という新しいテーマを加え、起承転結よろしく四章仕立てにしたものが後者と考えればよい。しかし、前者が著者あとがきにもあるように解決(終り)のない状況の分析にとどまっていたとすれば、後者は「市民通貨」という新しい概念を切り札に解決策を提示しているものと読める。それはいったいどのような物かを考える前に、他の三つのテーマについて簡単に触れておこう。

まず、柄谷は「現在の資本主義の蓄積運動を放置するならば、環境の悪化による人類の破滅を避けることはできない」という。そして、「経済的に自由にふるまい、そのことが階級対立や諸矛盾をもたらすとき、それを国民の相互扶助的な感情によって越え、議会を通して国家権力によって規制し富を再配分する」という社会民主主義の方法では、資本制=ネーション=ステートの三位一体構造の「内部」から一歩も出られないということを指摘した上で、他の「解決策」を示唆する。それが、ある種の「通貨」を使ったアソシエーションを基盤とする「交換」のシステムである。

次に柄谷は、書名にもなっている「日本精神分析」について触れる。芥川の『神々の微笑』という作品を題材に鮮やかな日本の精神分析をやって見せておきながら、「精神分析的な意味での過去への遡行は、分析されている事柄が変えることができないほどに深遠なものだという考えに到達するものであってはならないということです。つまり、精神分析は治癒を目標とするものであって、治癒をもたらさないような分析は意味がありません」と言いきってしまう。天皇制を例に引きながら、「そんなものは偶然によるもので、たいしたことではないのだと考えるべきだ」とまで。『内省と遡行』という名の著書を持つ批評家の言葉とも思えないこの言葉は柄谷に何が起きたのかという疑念を抱かせるに充分である。

菊池寛の『入れ札』を素材にした第三章でも、柄谷は無記名投票と抽選制を組み合わせた代表選出のシステムを採用することを提案する。議会制民主主義が無記名投票という「入れ札」の方法は採用しながら、アテネ市民が併用していた「籤引き」の方法を採らなかったことの問題点を指摘しつつ、柄谷はいう。「権力を思考する人間性は変わらない」が「ちょっとしたシステムを変えるだけで(人間性は)かなり変わってしまう」。せっかく大量得票を得ても、籤で落ちることがあるなら票の買収や権力への執着を防ぐことができるというのだ。

本書の結論ともいうべき第四章で採り上げるのは、谷崎潤一郎の『小さな王国』という作品である。一人の少年が私的な「通貨」を発行することで共同体の権力を握る話である。柄谷は、市民通貨を現実の社会の中で併用することで、利益追求を目的にしない「交換」が果たされると説く。全経済活動の十分の一を市民通貨が担うようになれば、国家も資本も勝手なことができなくなるという見通しを述べる柄谷は革命成就の暁には「国家の死滅」を説いたレーニンを髣髴させる。

以上、いずれの章にも冗談とも思えない提案、提言が目につく。その説くところは分かるが、「認識すること以外にオプティミズムはありえない」はずではなかったか。これらの提言や運動が実現するという「将来の見通し」は果たしてあるのだろうか。筆者にはこれが、十年前に柄谷が言った「解決案」に見える。「今後においてどのような『解決』(終り)が唱えられようと、それが欺瞞でしかありえない」といった柄谷にこそ、これが欺瞞でないことを今後の著作の中で明らかにしていってほしいと思う。

 2002/8/24 『<呼びかけ>の経験』 澤田 直 人文書院

一時代を画した思想家や作家がいる。それだけに、時代が変われば見向きもされなくなる運命を持つ。当人には何の責任もない。問題の所在は、さかんに持ち上げ、やがて忘れてしまう此方にある。サルトルもその一人である。いや、そう言っては語弊があろう。没後も、数多のテクストが出版され、今でも研究者による研究が続いているのだから。しかし、世間は忘れっぽいものだ。なぜ今、サルトルなのか。その問いに答えようとしてこの本は書かれたとも言える。

実存主義といえば、映画の中で黒いタートルネックを着たオードリー・ヘップバーンが小難しい科白を吐いて見せるほど一世を風靡した思想であった。サルトルは、その思想というか生き方を実践した思想家であり小説の実作者でもあり戯曲家でもあるという今でいうマルチタレントとして世界を席巻していた。「人間とは人間の未来である。」という言葉に象徴される前向きの発言やアンガジュマンとして知られる政治や社会への積極的な参加の表明は、新しい国家社会を創りあげていこうという戦後日本の思想界に強い影響力を持った。

半世紀を過ぎ、最早戦後ではないと言われる日本に限らず、ソヴィエト連邦の崩壊に象徴されるマルクシズムの失敗は世界を新しい段階に移行させた。思想潮流としては、構造主義の出現が「人間の死」を標榜して以来、実存主義はすでに過去の遺物と成り果てたかに見える。かつて、マルクスは「哲学者は世界を解釈する。しかし大事なのは世界を変革することだ」という意味の名言を吐いた。世界は確かになしくずし的に変化したが、マルクスに限らずこの変化をよしとする者はいないだろう。人間は人間の未来のために何を為したのか。その問いに答えられる者はいない。

自由、平等、友愛というのはフランス革命のみならず人類の普遍的な価値観と思われるが、自由であろうとすれば、平等でなくなり、平等であろうとすれば自由でなくなるというディレンマの中で、世界は友愛とは程遠いシステムをつくり上げてしまった。副題に「サルトルのモラル論」とある。今ほど、人間の生き方、倫理観を問われる時代はない。

記号論、構造主義を経過した著者は、「呼びかけ」「贈与」という概念を鍵語に、サルトルをテクストとして読んでいく。特に、『嘔吐』を、ロビンソン・クルーソ−の物語やデカルトの『方法序説』と結び付けて読む方法は、かつてのサルトル論にない新しい読みの試みとして興味深い。ハイデッガーやレヴィナスを引きながら、著者が見つけたサルトルのモラルとは単純化を恐れずに言うなら、「共同体」を超えた未知なる「公共性」に向けて、パロールでなくエクリチュールを武器としつつ読者と作者の共同作業の果てに現出する可能性としてある、とは言えないだろうか。

大文字の世界は、「自分と関わりなく」現実として存在する。しかし、本当に関わりがないのかどうかは疑問だ。世界は可塑的な存在である。我々がどう生きるかによって世界は変わる。変わった挙句が、構造的に何の変化もないということもあるかもしれない。だから何をしても無駄だというのも一つの思想的立場だろう。自分を離れて、遠いところから見るのでなく、世界の中にいて、何かをなし得る存在として自分を実感できる人に読んでほしい。
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