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沙獏の迷宮 EGYPT

 LUXOR 西岸

ホテル出発は午前6時。朝食を摂るにはまだ少し早い時間だ。あたりは薄暗い。昨日来の体調不良は少し回復の兆しがある。まだ胃に違和感を覚えるが、昨日ほどではない。朝食は軽く、フレンチトーストにオムレツ、それにコーヒー。オムレツは目の前で一人分ずつ焼いてもらえる。中に入れる物をオーダーできる仕組みだ。オニオンを頼んだ。ヴァイキング形式の中に注文料理を一つ加えるだけで温かみが増す。焼きたてのオムレツはふわふわしていて胃にやさしく感じられた。

 メムノンの巨像

一日の最初の光が二体の巨人像を仄赤く染めていた。道路脇に広がった空き地に置き忘れられたように何の脈絡もなくそれは座ったままでじっと遠くを見ていた。いつか自分に相応しい場所に安置されるのを待ってでもいるかのように。

かつては、風が吹くと像が歌うと言われた。ローマ支配時代に起きた地震によって罅が入り、石の間に隙間ができた。その所為だろう。昼夜の急激な温度差で軋んだり、隙間を通る風が音を立てたりしたのだ。補修工事の後は歌わなくなったそうだが、それはそれで寂しい気もする。プトレマイオス朝に、ギリシア神殿のメムノンとされたが、アメンホテプ三世の像である。本来は像の後ろに王の葬祭殿があったが、後の王たちが石材として用いたために完全になくなってしまった。栄枯盛衰は世の常だが、荒れ寂れた遺跡の方に心が動くのは「もののあはれ」を感じるからだろうか。

 熱気球

朝の空には熱気球がいくつも浮かんでいた。空から王家の谷を見る人気ツアーだが、ムスタファに言わせると、よく落ちるらしい。しかし、ゆっくり落ちてくるので、たとえ落ちてもけがはないそうだ。

メムノンの巨像を過ぎると、山がぐっと迫ってくる。日干し煉瓦製の家がいくつも固まって山肌に貼りついている。ムスタファが、一つの集落を指さして言った。
「あそこは墓泥棒の村だと言われています。」
今では、まったく別の人たちが住んでいるのに、当人たちはそう言われていることを知っているのだろうか。ただ、村の周囲には、荒れ果てた岩山と砂地が広がっているばかりで、いったい何をして食べていけるのだろうと想像してしまうような土地である。はじめて家を建てた人たちのねらいが「王家の谷」に眠る財宝探しにあったことは充分考えられる。

 ハトシェプスト女王葬祭殿

切り立った岩山を背に見覚えのある建物が小さく見えた。ハトシェプスト女王葬祭殿である。駐車場から葬祭殿までの距離がかなりある。朝早くでよかった。日中なら建物にたどり着くまでにばててしまうだろう。葬祭殿を囲むように右側にも崖が続いている。なるほど、あの位置から銃で狙われたら隠れるところはないだろう。かつて、テロによる銃撃があり邦人の犠牲者が出たのは、この遺跡である。

古王国時代、葬祭殿はピラミッドに付属する建築の一つであった。ナイル川近くの河岸神殿でミイラ化された王の遺体は、参道を通って葬祭殿に運び込まれ、そこで再生復活の儀式が執り行われた。しかし、新王国時代になると、ピラミッドでなく王家の谷が王の墳墓となる。伝統的なピラミッドコンプレックスは解体され、葬祭殿は新たな役割を持つようになる。つまり、王の再生復活を願う宗教的な役割から、王位継承の正当性や王の功績をレリーフに残すという記念碑的な役割を担わされるように変化したのだ。

 壁画

その変化は、この建築にもはっきりと見ることができる。三層のテラスで構成される葬祭殿の第一柱廊を左右に見ながら、花崗岩でできた坂道を上っていくと広い第二テラスに出る。テラスの奥が第二柱廊になっているが、その内部の壁面一杯に描かれた壁画には、ハトシェプスト女王の治世が実に具体的かつ細微に渉って描かれていた。

ラムセス二世とはちがい、壁画は戦いの場面ではなく交易を中心に構成されていた。特にプントという現在のエリトリアに存在したと考えられる謎の国との交易の様子が詳しい。画家を連れていってスケッチさせたものらしく川の中にいる魚は鱗の様子まで詳しく描かれている。また、アフリカらしくキリンやヒヒのような動物や、香木、それに、高床式住居の絵などが淡いながらも美しい色彩で残っていた。

 ハトホル女神

ハトシェプスト女王は、他の王以上に自分の王位の正当性について神経質になっていたはずである。それまで、エジプトの王はすべて男性であったから、女性であるハトシェプストが王位を継ぐについては、批判もあっただろうし、正当性を疑問視する声もあったにちがいない。ハトホル女神礼拝所に残る壁画に、彼女の思いを読みとることができる。古王国時代、王は神の化身とされていたが、新王国の時代には、王の神性は薄れていた。雌牛の神であるハトホル女神の乳を飲んでいる自分の姿を彫らせることで、神が認めた正当な王であることを証明したかったのだろう。

 第三テラス

頬の辺りに僅かながら赤みを残す王の像は、両腕を胸の所で交差している。この建物が「死せる王のための家」であることが分かる。二つ目の坂道を上り、この像に守られた門をくぐると第三のテラスに出ることができる。その奥が背後の岩山を掘って造られた岩窟至聖所になっている。

新王国時代、王の権力基盤は弱まっていた。年少の王では、神官たちの専横を許す心配があった。ハトシェプストは、王の妻ではあったが女性は王になることはできない。義理の息子であった幼少のトトメス三世と結婚し、その摂政となることで実権を握り、最終的に女王の位を得ることができたのである。ただ、壮麗な葬祭殿を見るとき、ハトシェプストの望みが単に国家の安定だけではなかったような気もする。トトメス三世が何故ハトシェプストを憎んだのかは分からないが、義理の母親の並々ならぬ権力欲との間に葛藤がなかったとは考えられない。誰か、この二人の物語を書いてくれないものだろうか。ぜひ読んでみたいものだ。

 王家の谷

古王国時代の王たちの墓であったピラミッドが、ことごとく墓荒らしの犠牲になったことを知る後の王たちは、それを避けるためあえて誰も訪れそうにないところを家臣たちに探らせた。人里こそ離れてはいるがナイル西岸の平凡な砂漠の中にある、現在「王家の谷」と呼ばれる土地が選ばれたのはそうした理由による。また、一説には、谷の上にあるイル・クルン山がピラミッド型をしているため、ラー神を象徴しているからだとも言われている。

しかし、何故それほどまでに墓荒らしを恐れたのだろうか。それは彼らの死生観による。古代エジプト人は、死後肉体は滅びるが、魂は永遠に生き続けると信じていた。しかもその魂は二つに別れ、バーと呼ばれる魂は来世で現世と同じ生活を送る。問題はもう一つのカーと呼ばれる魂である。こちらは墓に住むのだが、昔のことを忘れてしまっている。そのため、自分の肉体をミイラとして残したり、生前の顔を描いた黄金のマスクを被せたのだ。カルトゥーシュに名前を刻むのも忘れないための用心である。墓で生活する魂に生前と同じ生活をさせようとすれば、力のある王の場合、副葬品の質量ともに厖大なものとなろう。王としての実績のない少年王ツタンカーメンの墓から出てきた財宝でさえ、カイロ考古学博物館の二階大半を占めている。ラムセス二世のように有名な王の墓であれば、どれほどの金銀財宝が収蔵されていたか今となっては想像することさえできない。

 アメンホテプ二世の墓

駐車場で車を降りて遊園地にある電車のようなシャトルトレインに乗り換える。広い谷の中に墓は散在するので、主な墓の集まる辺りまではこれで行くのだろう。ここもフラッシュは禁止ということで、はじめから銀塩カメラはロッカーに預けた。中も暗いというので、カメラ券は買わなかった。

入場券を買うと、ここでは三つの墓に入れる。どの墓を選ぶかは自由である。ムスタファが二つ選び、最後の一つは自由に選ぶことになった。まず初めに入ったのが18王朝のアメンホテプ二世の墓である。通路はピラミッドほど狭くも暗くもない。それに、通路の壁の両側には美しい彩色の壁画が残っていた。これならカメラ券を買ってもよかったなと、少し後悔した。

坂道を下ったところで、少し広い部屋に出るが、その途中に深い井戸のような穴が掘られていた。滅多に雨など降らないエジプトだが、万一の時にはここに溜まるように考えられている。永遠に生きるというのが比喩などでないことが実感できた。通路はここで直角に折れ、棺の置かれた部屋に続いている。これは初期の墓の特徴である。周りにカルトゥーシュや人物の絵がレリーフされた石棺が石蓋を少し持ち上げられた形で部屋の中央に置かれていた。周囲の壁や天井にも彩色壁画が残っていた。

 メルエンプタハ王の墓

次に入ったのが第20王朝のメルエンプタハ王の墓。この墓は、王家の墓の発展段階では最後の段階にあたり、傾斜の緩やかな通路が直線的に埋葬室まで続いている。羨道も広く、途中には部屋のように掘り広げられたところもある。昔は、ここを旅する人のホテル代わりに使われたりもしたそうで、今でも客のいないときには係りの人が、昼寝を楽しんだりしているそうだ。たしかに空気はひんやりとして、外とは比べものにならない。玄室も広くこの時代になると、壁も天井も壁画で埋め尽くされるようになる。

 ツタンカーメン王の墓

ツタンカーメン王三番目の棺それほど苦心して隠された王家の谷の墓だったが、王のミイラや副葬品のほとんどは、古代の墓泥棒たちと19世紀にやってきたヨーロッパ人たちによって略奪されてしまっていた。ツタンカーメンの墓が略奪を免れたには訳があった。

それまで、古代エジプトの王たちはアモン・ラー神を最高神とする数多の神々を信仰してきた。早い話が多神教信仰だったのだ。ところが、トトメス三世の後を継いだアメンホテプ四世は、宗教改革を断行するとともに遷都を行い、都をテーベからアケトアテンに移した。これには神官たちの政治力を弱める意図もあったらしい。宗教が経済力を持つと政治に関わるのはどこの国でも同じである。

アメンホテプ四世はアテン神と呼ばれる太陽神だけを信仰し、名もイクナトンと変えた。つまり一神教への改革である。これが後のユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの一神教を生み出す契機となったとも考えられている。しかし、この改革は失敗し、後を継いだ年少の王であるツタンカーメン王により都もテーベに戻されることになる。

ツタンカーメン王は若くして死んだため、自分の墓が間に合わず、神官が自分用に用意した墓に埋葬された。先の王が異端者であったため、歴代の王の系譜から抹消されたことや、近くにあるラムセス六世の墓を造るときの土置き場になってしまったこともあり、ツタンカーメン王の墓は墓泥棒たちの持っていた王家の墓の地図にも書かれていなかった。結果的にはそれがこの少年王の墓を盗掘者から守ることになったのだから皮肉である。

ツタンカーメンの墓は、他の王のものと比べると、呆気ないほど小さい。壁画も色こそよく残っているものの表現は稚拙な感じがする。発見されたときは八重に覆われていた棺だが、現在は硝子で覆われた四番目の棺の中に三番目の棺が展示されている。この部屋のほかにもう一つ部屋があり、発掘当時その中は王が来世で使用するはずの家具や日用品、それに食糧などで埋めつくされていたという。今、空っぽのその部屋は権力を失った王の実態をさらしているようでなんだか哀れであった。日本でも有名になったツタンカーメンの黄金のマスクだが、王のミイラは、その仮面を剥がすときに損傷を受け、現在は展示されていない。

 ラムセス六世の墓

ラムセス6世の墓レリーフツタンカーメンの墓だけは特別料金で、見学を許される三つの墓には入っていない。墓自体の価値から言うなら、最後に訪れたラムセス六世の墓の方がよほど立派だと言えよう。特に羨道の天井に描かれたレリーフは、カーペットスクールで妻が興味を示したものと同じ図柄で、夜の女神が太陽を呑み込むという、古代エジプトの宇宙観を表したものとして興味深いものがあった。

墓を見終わって、休憩所で休んでいると、何人もの人が体のあちこちを手で払っている。小さな虫がいるみたいだ。妻が、「わっ、あなたも。」といって、背中を払ってくれた。蚊よりも小さい黒い羽虫が背中にくっついているらしい。払っても払っても寄ってくる。どうやら白いシャツを着ている人にたかるようだ。他では、こんなことはなかった。ここが「王家の谷」だったことを思い出して薄気味悪くなってきた。墓を発掘した学者が何人も続いて死んだことがあった。ミイラの呪いと騒がれたが、真相は墓穴に閉じこめられていたウィルスが原因だったとされる。何が原因か分かったものではない。水たまりもない砂漠の中のどこからあれだけの虫が発生するのだろう。墓のある場所を離れると、もう寄っては来なかった。ムスタファは刺さないと言ったが、次の日になっても首筋や二の腕を何か所も赤く腫らしている人もいた。

 ルクソール市街(東岸)

ナブル・イン・ニール通りから見たナイル川橋を渡って東岸に戻り、一度ホテルに帰った。シャワーで汗を流した後、街に出て昼食をとった。ヴァイキング形式だったが、中にカレー風味の煮込み料理があり、久しぶりだったのでうれしかった。調子が戻り、白ワインを飲んでいたら、相席した学生二人から
「ワイン飲んでる人、生で見るの初めてです。」と言われてしまった。
「お父さんは飲まないの。」と、聞いたが、考えてみれば昼間からワインを飲んでる日本人がどれくらいいるだろうか。報道カメラマンで、世界中を旅行しているS氏が「ヨーロッパでは普通ですけどね。」と、フォローしてくれたが、ワインは水代わりという感覚はなかなか理解してもらえないようだった。

飛行機の出発まで時間はあるのだが、日盛りの中の観光は避けたいという方針らしく「メルキュール」というナイル川に面したホテルのロビーで時間待ちすることになった。妻は、土産物店を物色し、香水店でかわいい香水瓶を見つけた。「ともだち」を連発する主人は、なかなかの商売人で、中身の香水自体を売りたいらしい。妻は、今使っているのが気に入っているからいらないと言うのだが、同じ匂いを作ってみせると言って聞かない。妻の手をとって匂いを嗅ぐと、早速調合をはじめた。火を近づけて「ノンアルコール」と言う。アルコールで薄めていないと言いたいのだ。
「似ているか」と聞いたら、妻は「うん。似てる、」と答えた。短時間で似た物を作ってみせる腕前は分かったが、何も同じ香りをわざわざ作ってもらう必要はない。瓶を包んでもらって店を出た。

調子が戻ると、ぶらぶらしてみたくなる。妻をホテルに残して街を歩いてみた。海岸通りには並木が影を作って絶好の散歩道だが、はたして誰も歩いていない。河岸に下りてみたが、こちらも人影はない。街の通りも静かで、時折観光用の馬車が通るが、みんな家で休んでいる時刻なんだろう。ルクソール神殿の裏にはスークがあるはずだが、遠くまで歩くほどの元気はまだない。一回りして帰ってきた。

 ルクソール空港

空港の出発ロビー(というかどう見ても待合室だが)で登場時間まで待っていると、係官が手招きをして呼ぶ。ムスタファ達がいないので、勝手に行くのも悪いかと思って無視していると、だんだん険悪な雰囲気になってきた。S氏と「じゃあ、ま、行ってみますか」と言って、金属探知ゲートを通った。今まで、何も問題なく来たのに、S氏が通ろうとすると機械が反応する。時計を外してもだめ、ベルトのバックルだろうと言うので、ベルトを外したが、それでも鳴り続ける。S氏は、
「これ以上は外す物がありませんよ。下着にされてしまう。」と、苦笑い。どうにか通してもらったが、次はこちらの番。やはり同じ。機械は神経質に鳴り続ける。ふと思いついて、片足ずつゲートの中に入れてみた。思った通り、反応する。実はたまたまS氏と同じブランドのウォーキングシューズを履いていた。その靴紐を通す鳩目の金属に反応していたのだ。少し前に「イスラエルに行ったときだったか、靴の金具で引っかかりましたからね」とS氏が話してくれたのを思い出したのだ。ゲートを出てから「きっと呼んでもすぐに来なかったから機械の精度を上げて意地悪したにちがいない」と、二人して大笑いした。カイロ空港では問題なく通過したことは言うまでもない。


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