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沙獏の迷宮 EGYPT
ムハンマド・アリ・モスクから見たイスラム地区

 CAIRO

カイロに帰ってきた第一の印象は、誰もが合言葉のように言う「カイロは涼しい」だった。実際後から教えてもらったのだが、ルクソールの昼間の気温はセ氏53度だったらしい。50度を超えると、ツアー客は聞いただけで気持ちが悪くなるとかで、ガイドは聞かれてもはっきり言わないのだそうだ。夕方ということは差し引いても過ごしやすい。だが、はじめてカイロに到着した時は夜でも暑いと感じたのだから、ここ数日の間に暑さに関する基準が変化したとしか言いようがない。

空港から市街までの景色を初めて明るいうちに見た。今までは夜景ばかり見てきたのだ。この日の夕食は、カイロ市内にある公園内のレストラン。公園というよりは、遊園地と言った方がぴったりくる賑やかな所だった。真中にある池をはさんで屋根の反り返ったチャイニーズレストランやオープンカフェ風のレストランが並ぶ。ご丁寧にも池には白鳥型の足漕ぎボートが浮かんでいた。休日を市街地にある手頃なレジャー施設で過ごそうというのか、家族連れでいっぱいだった。

この日のメインディッシュはカバブ。チキンの串焼きだったが、味つけに工夫がなく単調な感じで今ひとつだった。極めつけはエジプト人の好むデザートいうことで、プディングのようなものだった。挑戦はしてみたもののなんとも甘く半分も食べられなかった。

寝入ったかと思った頃、突然に大音量の音楽が中庭のプールサイドに設けられたステージから響き渡り、午前二時半まで絶えることがなかった。ホテルのロビーにタキシード姿の子どもがいたので、なかなかハイソサエティなホテルだと思っていたが、結婚式だったらしい。しかし、何も夜中に野外でやらなくても、と思った。音は上の方がよく伝わる。七階の部屋だったのがいけなかった。寝不足のまま朝食のために一階に下りた。

昨日のホテルで棗椰子を食べた妻は、「食べないの。美味しいよ」と勧める。乾した果実は甘いので、あまり好きではないのだが、勧められるままに口に入れた。硬いな、と思って歯に力を入れたとたん、嫌な感じがした。前歯の間に大きな物が挟まったような違和感が残った。恐る恐る舌で触ると、歯と歯の間から舌の先が出る。前歯が種に当たって欠けたらしい。背筋の間を冷たいものが走った。前歯である。笑ったら人に分かる。旅はまだ続いている。憂鬱になった。妻は、「そんなに分からない。気にしすぎるとかえっておかしい」と言うが、気にするなと言う方が無理だ。あまり喋らないことにした。


 ガーミア・ムハンマド・アリ

モカッタムの小高い丘の上に城壁が続いていた。十字軍と戦ったアラブの英雄サラディンが築いたシタデルと呼ばれる城塞である。1176年にサラディンが拠点としたが、その後も建設が続けられ、マムルーク朝、オスマン朝を経て、19世紀のムハンマド・アリの時代まで、カイロ支配の中心として機能してきた。

ガーミア・ムハンマド・アリは、その城塞の一角に建っていた。イスタンブルで見たスルタン・アフメット・ジャミィやイエニ・ジャミィを思い出させるオスマン朝様式のモスクである。幾つもの半球形のドームや細長いミナレットで構成されたモスクは、エジプトの他のモスクの中では異質である。それもそのはずで、トルコのモスクを真似てムハンマド・アリが造らせたものである。

 アラバスターのガーミア

中に入ると、また驚かされる。偶像崇拝を禁じたイスラム教ではモスクを飾るのに絵や彫刻を用いることはできない。そのため、幾何学文様を複雑に組み合わせた所謂アラベスクが発達した。今まで見たモスクの中はアラベスクでびっしり埋めつくされていた。ところが、不思議なことにこのモスクにはアラベスクが見あたらないのだ。その代わり雪花石膏独特の肌理が周りの壁を飾っていた。半球状の天蓋部分を見上げると、まるでキリスト教の教会のようなロココ風の飾りで覆われている。ムスタファの話では、雇われた建築家がイタリア人だったそうだ。なるほど、それで分かった。アラベスクで飾ろうにもそのノウハウを持っていなかったのだ。結果的には、ステンドグラスやロココ調ドームに飾られたある意味では華麗なモスクが誕生したわけで、異教徒である我々には格好の目の保養だが、ムスタファに言わせると華美に走りすぎていてエジプト人には評判が悪いという話だ。

 中庭

モスクに入る前には五体を水で洗うことになっている。そのための水の出るキオスクだが、今は止まっている。その後ろにある工事中のような建物は、ルクソール神殿のオベリスクを貰ったお返しにフランス政府が贈った時計塔である。こちらも止まっている。なんでも貰った時から止まっているそうだ。

モスクには肌を露出した服装で入ることはできない。ノースリーブの女性達のためには、体をすっぽり被う緑色のマント状の服を貸してくれる。ちゃんと上着を持っているくせに、それが着てみたくて妻はわざわざ借りて着ていた。誰かが、「どうして緑色なのか」とムスタファに聞いたら、「別に意味はありません」と答えていた。モロッコでは、緑色は預言者ムハンマドの色で、イスラム教徒にとっては特別な色だと聞かされたのだが。同じイスラム教でも、ドームもミナレットもその土地その土地で少しずつちがうように、宗派によって教義もちがうのだろう。

 ハーン・ハリーリ

車が止まったのは、フセイン広場。真正面に大きなモスクが建っていた。ガーミア・ホセインである。広場に面した通りにカフェが二軒並んでいた。二つ目のカフェの所で左に曲がると薄暗く狭い細道が奥の方に続いている。まだ店を開けたばかりなのか、男たちが道端に立って話をしていた。

ここがハーン・ハリーリ。14世紀には市が立っていたというカイロでは有名なバザールである。現在では、土産物を商う店がその大半を占めているらしく、ウインドウや店の前に出した商品陳列台には、ピラミッドや神像の置物、パピルスなどが、どの店にも並んでいた。

両側に並んだ店と店の間を通る道は非常に狭く、真ん中の窪んだ部分を打ち水なのか排水か、水の流れた跡がついていた。多くの店が出せるように一軒一軒の店の敷地は細長く鰻の寝床状に奥にのびている。猫の額ほどの面積だが、ちゃんとした店を持っている店主だからか、客引き行為は少ない。じっくり見て回るには、この方がいいだろう。それでも、客に買う気があると見れば、店の中に招じ入れ熱心に商品をすすめる。買う気がないならあまり熱心に手に取ったり話を聞こうとしないことだ。

骨董品を扱う店は、店内も広く商品もなかなか値打ちのありそうなものが並んでいたが、こういった店は声もかけてこない。おそらく客の様子を見て、商売相手ではないのが分かるのだろう。一軒の店で、エジプト綿でできたショールを見つけた。草木染めのような渋い色でいながら光沢がある。手に持ってみると生地に腰もある。妻が気に入った様子を見ていたのか、店主が奥から出てきた。いよいよ値段の交渉である。

値段といっても正札がついているわけではない。こちらを見て適当な値を言うだけだ。向こうから、「値段を言え」と言ってくる場合も多い。イスラムの商売の面白いところだ。売り手と買い手が合意したところで正しい値がつくのである。こちらの言い値が安ければ相手は価格を上げてくる。それが高いと思えば、もっと安い値を言う。そのうち妥当な値がつくのが道理だ。折り合いがつかなければ、商談不成立。別の商人や客を探すしかない。

妻に「いくらなら買う気がある」と聞くと「千円なら」という。5ドルから始めた。一応は不服そうにしてみせるが、こちらの付けた値に満足している様子が見え見えである。もっと安い値をつけてもよかったが、こちらは商売しているのではない。納得できる値ならそれでいいのだ。しかし、金払いが良さそうだと見たのか、「何枚買うか」とか、「これもどうだ」とか言いながら、他の物まで出してくる。「それならいらない」と言って外に出ようとしたら、引き留める。「もういらない」というこちらを引き留めるために、結局、ピアスと小さなピラミッドをおまけにつけて5ドルで商談成立。

 ガラベーヤ

ムイッズ通り曲がりくねった細道を通り抜けると、車も通る広い道に出る。店はあるが、ちょっと雰囲気がちがう。もう一度左に折れて、ハーン・ハリーリを囲むもう一方の道に出ることにした。ムスキ通りと呼ばれるその道の方が最初の道より広く、人通りも多かった。衣料や香辛料など、土産物以外の普通の商品も並んでいて、現地の人がたくさん買い物をしていた。バザールの入口を離れれば離れるほど、土地の人の数が増え、日用品を商う店が増えるのは、どこの国でも同じだ。軽食を売る屋台なども出て、ちょっとした縁日の雰囲気が楽しい。

探していたのは、現地の人が着ているガラベーヤという長衣だった。立襟で長袖、足首までの長さ、色は茶かオリーブというのがねらいだが、なかなか気に入った物に出会えない。店頭に吊されているのは、みな、刺繍や模様があって、こちらの人の着ている物とはちがう。明らかに土産用だ。衣料品を扱う店で注文通りの物を見つけたが、ドルは使用できないと言う。観光客相手はしないらしく素っ気無い応対だ。エジプトポンドは再両替ができないため、最終日ともなれば持ち合わせが少ない。残念ながらあきらめた。バスに戻る時間の直前になってやっと薄茶のガラベーヤを見つけた。色、形とサイズはぴったりだが、布地が気に入らない。見るからに安物のガラベーヤに高い値をつけるので、「高すぎる」と言って店を出た。案の定追いかけてきた。「いくらなら買う」と聞くので、半値を言った。「それでいい」というので買ったが、時間があれば、もう少しいい物がほしかった。もっとも、空港や旅行社などで働く人はスーツ姿だったし、行く先々の町や村で会った人はみな粗末なガラベーヤを着ていた。上質のエジプト綿や麻でできた物がほしかったのだが、仲見世や新京極でいい着物を探すようなものだから無理な相談なのかもしれない。

ナイル川に浮かぶ船の上で、イタリアンの昼食を食べた。久しぶりのパスタとピザと聞いて、小躍りしたのだったが、パスタは茹で過ぎ、ピザは塩辛かった。オニオンスープはいい味だったが、中に入っていたパンが折角のスープを吸い込んで皿いっぱいに広がっていた。ワインはオベリスクという銘柄の白、よく冷やされていて美味しかった。日本なら冷やしすぎだと感じる程度が、ちょうどいい。真昼のナイル川はまぶしいくらい光っていた。遠くから何かが少しずつ固まってこちらの方に流れてくる。一面の緑の中に薄紫の花が見える。ウォーターヒヤシンス、日本ではホテイアオイと呼ばれる植物だ。そういえば、ダフシュール近くの運河によく浮かんでいた。何日かかってここまでたどり着いたのだろう。数日前に訪れた村が、なんだか急に懐かしくなってきた。

 エジプト考古学博物館

今回の旅行、最後の見学地はツタンカーメン王の墓から見つかった黄金のマスクが展示されていることでも有名なエジプト考古学博物館である。正面玄関前には池があり、上下エジプトを象徴するパピルスと蓮が池を埋めつくしていた。通常の二倍の時間を取ってあるそうで、解説をしてくれるムスタファにも気合が入っていた。

 書記座像

玄関を入ってすぐの入口ホールに立つと、考古学博物館が見わたせる。中央部を吹き抜けにした二階建てで、一階が古王国時代からグレコローマン時代まで、二階がツタンカーメン王の墓からの発掘品やパピルス、棺を中心に展示している。意外に小ぢんまりした雰囲気だが、部屋数は百室以上。通路まで展示物が陳列され、見所は多い。

まず、左側の古王国時代の展示から見ていった。サッカーラのピラミッドコンプレックスで、覗き穴から覗いたジェセル王の座像だが、本物はここにあった。解説がなければ分からない展示物の中にも、いくつか見覚えのある像が混じっている。たとえば、この書記座像だ。中学時代か、美術の教科書ででも見たのだろう、確かに記憶に残っている。壁画や浮き彫りに描かれたエジプト人の類型化した横顔とは違う、妙に存在感のあるその表情が印象に残っていた。当時、書記という職業はステイタスが高く、貴人などが自分の肖像を残す際に書記の像の形で残すことが多かったと言われている。胡座をかいたその姿は仏像にも似た安定感があり、見事に残る彩色とも相俟ってモデルになった人物の精神性までうかがわせる。今ひとつ、すぐ近くにある「村長の像」と呼ばれるカー・アベルの像も傑作である。意志の強さを表す厳しい表情をした男が今にも歩き出しそうな立像は力強い存在感を際立たせている。

 イクナトン像

異端の王として知られるイクナトン王とその家族の像を集めた3号室は王の遷都した土地の名からアマルナ美術と呼ばれる独特の表現を誇る作品群を展示している。端正ではあるが他の王たちと比べると極端に細長い顔と誇張された腹部を持つ王の像は、4点展示されているが、どれも同じ特徴を持っている。憂いに満ちた王の表情だが、同時に意志の強さも秘め、王妃であるネフェルティティの頭部の像と共通する美しさを感じさせる。ネフェルティティの頭像もまた、美術の教科書で見て、その美しさを記憶していた。残念ながら彩色を施された像は、ヨーロッパに持ち出され、エジプトに残されたものは石像だが、気品に満ちた表情は威厳を感じさせ、この二人の精神性の高さを証明している。王女達の頭部も展示されているが、どれも所謂鉢が張った形が強調され、この一族の持つ価値観の在処が示されているように感じた。

 ミイラ展示室

二階に上がる階段を上った先がミイラ展示室である。ラムセス二世を中心に11体のミイラが展示されている。別料金ながらカメラは禁止で、入口のロッカーに入れてから入る。内部は照明も落としてあり、独特の雰囲気が漂っている。包帯で巻かれた体から頭部や手足は露出しているものが多く、その表情まではっきり見える。誰が誰とは言わないが、生前を忍ばせる端正な表情のミイラもあれば、こう言っては何だが、卑俗な感じのものもある。自分が死んでから死に顔をじろじろ好奇な目に晒されるのはたまったものではない。マスクを剥がすために焼かれ、ここには展示されていないツタンカーメン王は、かえって安眠できるのではないか。生前その権力をほしいままにした王たちの皮肉な運命に少し同情した。

 黄金のマスク

正面入口から見て最奥部にあたる3号室が黄金のマスクを展示する宝石の部屋。中は、冷房が効いていて涼しく、照明は部分照明で展示品にだけ光があたるように配置されていた。有名な黄金のマスクは部屋の中央にあり、いつも人だかりがしていて、なかなか真正面の位置に回れない。純金にラピスラズリその他の宝石を象嵌したマスクはたとえようもなく豪華で見る者を魅了する。それでいて、若くして亡くなった王の表情には幼さを感じさせるものがあり、そのアンバランスさがこのマスクの魅力だろう。

他にこの部屋の中には、黄金のネックレスやその他の装飾品とともにミイラが入っていた黄金の棺が展示されていた。実績のなかった年少の王でこれだけ贅をつくした棺に何重にも守られていたのだ。ラムセス二世やトトメス三世の場合、どれだけの美術品が収蔵されていたことか。今更ながら墓荒らしに腹が立ってきた。

 黄金の厨子

ツタンカーメンが日本に来たのはいつだったか忘れたが、評判になったことは覚えている。王家の谷で墓を見たときは、その小ささに驚いたものだが、博物館に展示されている発掘品の内容をつぶさに見ていくと、いったいどこにこれだけのものが収蔵されていたのだろうかと唖然としてしまう。

ミイラ展示室から黄金のマスクを展示した特別室に至るL字型の通路すべてがツタンカーメン王の墓からの発掘品で埋めつくされているのだ。発見されたとき、ツタンカーメンの棺は八重に覆われていた。外側にあるのは黄金で塗装された木箱のようなもので、その中にまた黄金の厨子が入るという入れ子状態になっていたと言われる。特別室の中にある黄金の棺と今も墓の中にある三番目と四番目の棺を除く他の棺が特別室前の通路に展示されていた。どれも精緻な浮き彫りが施された金工品の趣を湛えていた。特に手を広げた女官たちが四辺を守る黄金の厨子は見事なデザインであった。

 ウシャプティ

その他に、ミイラの内蔵を入れたカノプス容器やそれを入れた厨子、アヌビス神の厨子、ツタンカーメンその人を模した番人の像、それに黄金の玉座や寝台など、どれもこれも黄金づくめの品々ばかり。そんな中にあって、印象的なのは、当時王のミイラと一緒に埋葬された花束が、色褪せながらも残っていることや、王の代わりになって神から命じられた仕事をするためのウシャプティと呼ばれるたくさんの小さな像である。死んだ後も墓の中にあって生き続けるというエジプト人の死生観が奇妙なリアリティを持って迫ってくるものがあった。

午後の大半を博物館の中で過ごすというのは、なかなか疲れるものだ。解説が一応終わり、自由時間になったが、もう一度自分で歩いて見て回る気にはなれなかった。それに何より喉が渇いた。喫茶店があるとムスタファが教えてくれたのでついていった。コーラを飲みながらムスタファが話し出した。
「今、エジプトでは、モスクの中などにアラビア語で、『コーラやマクドナルドを買うな』という張り紙がしてあります。僕も友達といるときはコーラは飲みません。シュウェッブスにしたりします。9月11日以来、アメリカ製品のボイコットが激しくなりました。」
やはりイスラム教の国では、アメリカは嫌われている。ムスタファは積極的なボイコット派ではなさそうだったが、周囲にはそういう若者が多いらしい。確かに最近のアメリカのヒステリックな態度は少々常軌を逸している。アメリカ製品のボイコットくらいでどうなるものでもないだろうが、ムスリムでなくても気持ちは分かる。しかし、酒も飲まない人たちだ。何もわざわざコーラを買って飲まなくても、という気もしないでもない。

 ディナークルーズ

最後の夜は、ナイル川に浮かぶ船の上でベリーダンスのショーを見ながらのナイトクルーズである。高橋さんが
「正装をお持ちの方は正装で。そうでない方はどんな服装でも」
と、めずらしく服装について言及した。それなら、というので買ったばかりのガラベーヤを着ていくことにした。妻は、ワンピースにこちらで買ったショールとカルトゥーシュにヒエログリフで自分の名前を彫ってもらった金のペンダントを着けて行くことにした。ロビーに下りていくと、例の学生達に「カンフーの達人みたいですね」と冷やかされた。鳩料理を御一緒したMさんは、あわてて部屋に戻り、自分も午前中着ていたガラベーヤに着替えて出てきてくれた。

岸壁には古代エジプトのガレー船を模した派手な船がすでに待っていた。豪華な門の前には古代エジプトの扮装をしたヌビア人が威儀を正して出迎えてくれた。船に入ると、広い船室の中は、たしかにふだんよりあらたまった服装をした人たちで一杯だった。飲み物を注文してから料理を取りに席を離れた。また、ヴァイキングである。いろいろ並ぶと、あれもこれもと目移りがして、結局毎日よく似たものを食べることになる。最後になって気づいたのだが、選ぶ品数を減らし、決してそれ以外の物を食べないようにすれば、ヴァイキングが続いてもへっちゃらだろう。次回は別の物を食べればいいのだ。

懐かしいポップミュージックを演奏していたバンドが、民族音楽調の演奏を始めたと思ったらベリーダンスが始まった。少し見て、だめだと思った。モロッコでベリーダンスを見てからというもの、イスタンブルで見ても、カイロで見てもいっこうに感動しない。客に媚びた踊りは本当のベリーダンスからは遠い。そのうち、客をステージにあげていっしょに踊り出した。客は結構喜んでいる。ショーだと思うことにした。

甲板に出た。カイロタワーや超豪華ホテルの並んだウォーターフロントの夜景はこれまでに見たカイロの夜景とはまたちがった都会的なものだった。妻と二人並んだ写真をS氏に撮ってもらった。プロのカメラマンにただで撮らせたわけだ。ちょっと申し訳ない気がした。カイロの夜で始まった今回の旅だったが、終わりもまたカイロの夜である。涼しい川風を求めて人々がまた繰り出してきていた。南の地方では見られなかったカップルの姿も見える。ここだけ見ていれば、ニューヨークや東京となんら変わらない。

しかし、この広い国の中でこうした生活ができる人々はほんの一握りである。圧倒的に多数の人々が昔から変わることのない暮らしを営んでいる。車の溢れるカイロも現実だが、驢馬の背に揺られて家路を辿る村もまた現実である。ビルの谷間から車を走らせれば小一時間で棗椰子の広がる砂糖黍畑に出る。そしてその向こうはどこまでも果てしなく続く砂漠。夜を焦がす摩天楼のすぐ向こうにあるはずの月の砂漠を思いながら、この国の不思議さは蜃気楼のようでとらえようがないと感じはじめていた。

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