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沙獏の迷宮 EGYPT

 GIZA

空港のドアを開けると、むっとした暑さが体中に纏わりついてきた。すでに夜の10時を回っているというのにこの暑さはどうだろうか。さすがにエジプトは暑い。予備知識として知ってはいたが、これほどまでとは思わなかった。おまけに湿度が高い。ナイル川のデルタ地帯に広がるカイロは、他の砂漠地帯とは気候区分がちがう。夜になればぐんと気温が下がると聞いていたのだが、あれは夏には通用しないらしい。先を危ぶみながらも荷物の積まれるのを確認し、バスに乗った。

今夜の泊まりは、ピラミッドで有名なギザ地区。カイロとは、ナイル川を挟んで対岸に位置している。深夜に近いというのに道路は車で渋滞している。ガイドのムスタファによれば、カイロ市民は夏は仕事以外に外に出かけない。しかし、夜は別だ。店も午前2時や3時まで開いている。それで、多くの市民が街にくり出してくるのだ。そういえば、車線の間に広くとられた緑地に、家族連れが、車座になって何か話している姿が見える。まるでピクニックでもしているかのようだ。

夜のカイロ市街は、ライトアップされたモスクや尖塔が夜空を明るく照らし、幻想的な雰囲気を醸し出す。中心部に近づくにつれ、道路は高架となり、眼下に広がるビル街のネオンや看板は不夜城の様相を呈している。新しく作られた大きなモスクの窓からもれた光が、暗闇に凝然として立つラムセス二世の顔をぼんやりと浮かび上がらせている。下町の道路に面した店のショウウインドウには煌々と灯りがともり、買い物客は道路にまで溢れだしている。猥雑さと信仰心の、現代と古代のなんという混交。長い飛行機の旅による疲れも忘れ、はじめての街の見せる相貌にただただ見入るばかりだった。

 ダフシュール

早い朝食の後ホテルを出て、まずダフシュールに向かう。ホテルを出てすぐ、道の向こうにギザのピラミッドが朝靄の中に青く巨大な影を浮かべていた。町中を少し離れると、道はどこまでも真っ直ぐに続く一本道となり、両側には幹の下部を白く塗った並木がつづく。夜間の街路灯とてない田舎道のことである。木を白く塗るのはガードレール代わりである。ライトが反射して道の所在を明らかにしてくれるのだ。

並木の向こうには棗椰子の林が、そのまた向こうには玉蜀黍の畑が広がっている。道沿いに掘られた用水路から延びる細い水路が畑の中に水を送り込んでいる。この水の届く範囲は砂糖黍や玉蜀黍の畑が広がっている。しかし、その先に段丘状に広がり白茶けた光を反射するのは砂漠の丘陵だ。ここにあるのはすべて人工の緑である。ナイルから引かれた水路の切れ目が即ち畑と砂漠との境界なのだ。

朝のうちはまだ人も動いている。日干し煉瓦で作られた家と土塀で囲まれた庭の中には、山羊や驢馬、鶏が放し飼いにされ、小さな男の子と女の子が遊んでいた。母親は洗濯物を干すのに忙しい。何枚ものガラベーヤが、手摺りや物干しのロープにぶら下がっていた。運河にかかる橋のたもとにダフシュールという字が書かれた標識が見えてきた。バスはそこを右に折れ、小さな村の中を通っていく。メインストリートには人が集まり朝のにぎわいを見せていた。鍛冶屋は仄暗い家の中で火をおこし、アエーシという独特の丸形パンを焼くパン屋は、すでに店の前にパンを並べていた。男たちは小さなカフェの椅子に腰を下ろし、黒いチャドルを来た女はさっきからパンの焼き上がるのを待っている。

毎日の生活の営みが、誰の目からも隠されることなく、手にとるようにわかる。彼らの屈託のない笑い顔は、自分たちの住んでいる世界を熟知している自信から来るのだろう。たかが一週間の旅でさえ、替えの電池やその他自分には理解不能な機器を持たずにはいられない現代人である我が身が情けなくなるのはこんな時だ。バスの横を砂糖黍の束を背中一杯に乗せて驢馬が歩いていく。働き者の驢馬は従順であるためか、ややもすれば愚鈍な動物のようにとられがちだが、闇夜でも背中で眠ってしまった主人を乗せて、ちゃんと自分の家に戻ることのできる賢い動物であるという。何事もその外見から判断するのはまちがいのもとである。

 赤のピラミッド

銃を持った白い制服の警官が、チケット売場を警備していた。このピラミッドは中に入ることができるのだが、カメラで撮影する者はここでカメラ券というものを買わねばならない。一つのピラミッドにつき5エジプトポンド(約150円)である。チケット売場を抜けると、バスは山の方に向けてつけられた道を上っていった。周りは褐色の砂ばかり、砂漠地帯に入ったのだ。

ダフシュールには二つのピラミッドがある。北の方にあるのは、赤っぽい石が使われているので「赤のピラミッド」と呼ばれている。クフ王の父にあたるスネフル王が作ったとされている。断面が二等辺三角形の真正ピラミッドとしては最古のものとして知られているが、傾斜角が43度と、なだらかなのは、屈折ピラミッドの失敗から学び、安定を求めたものといわれている。砂を握り、地面にさらさらとこぼしたときにできる砂山の角度と同じだともいわれる。

はじめて間近で見るピラミッドは、本当に一木一草何もない砂漠の上に青い空を背に聳え立っていた。とてつもない大きさである。一つ一つの石の大きさを見れば、これを作る労力の莫大であることは誰の目にも明らかだ。しかし、今もって、何のためにピラミッドが造られたのかは謎とされている。近くで見ると稜線がギザギザになっているのが分かるが、昔はその上にきれいな石を置き、滑らかな平面で化粧されていた。今も入り口近くに一部当時の化粧石が残っているのを見ることができる。

ムスタファが言う。「今日はピラミッドの中に二度入るが、もしどちらか一つにするなら、ギザのほうにする方がいい。赤のピラミッドはかなりきつい」と。そうは言われても、せっかくの機会である。見ることができるならどちらも入りたいのが人情。見たところ、さほど大変にも思えない。勢い込んで入り口に向かう石の上に足をかけた。ピラミッドの外壁を30mほど登ると、入り口が見える。かなり狭い。それに天井が低い。足下が悪いので、木の板に桟を打ったものが斜めに下に向かって延びている。頭をぶつけないように、中腰のまま60m、真っ暗な坂道を降りるのは、確かにきつかった。途中、下から登ってくる人とすれ違いながら手探りで進むうちに汗びっしょりになってしまった。何があるというわけではない。ピラミッドの内部にかなり天井の高い宙空の部屋がある。そこから、木製の階段を上ったところが玄室で、そこに石棺が置かれているばかりだ。映画のように華麗な壁画や彫刻を期待すると裏切られる。ただ、切妻型の高い天井を持つ重力軽減室が、石の塊の中にぽっかり空いている不思議な感じだけは、強い印象を残す。

帰り道も辛い。入り口から外に出たとき、一瞬にして汗が引いていく爽やかさだけが救いである。その後の下りの石段は膝が笑った。筋肉痛で腿が上がらなくなるのは、まだ先のことである。

 屈折ピラミッド

赤のピラミッドから2kmほど離れたところに奇妙な形のピラミッドがある。高さ105mのちょうど半分くらいのところで角度が変わっているので「屈折ピラミッド」と呼ばれている。こんな形になってしまったには諸説があるが、最も妥当と考えられるのは、下部の傾斜角度のままで最後まで積み上げていくと、上部の石の重さで基底部が持ちこたえられないことが、これ以前のピラミッドが崩れてしまったことで分かったため、途中から角度を変えたというものである。ちなみに下部は52度、上部は43度であるが、このピラミッドは崩れることなく現在にまで至っている。

 メンフィス

バスはマリオデーヤ運河を今度は右手に見ながら、サッカーラ街道を北に上った。運河には、所々塵芥が山のように固めて積み上げられている。ゴミ収集車など来るはずもないから、ナイルの増水に任せて海に運ばせるつもりだろうか。ダムができてからはそれもままならないだろう。妙に気になる光景だった。

橋に来たところで、今度は橋を渡り右に道をとった。古代エジプト古王朝時代には首都として栄えたメンフィスだが、今は廃墟を残すのみで、近くには小さな村が点在するばかり。その一つミト・ラヒーナ村にアラバスター製のスフィンクスと横たわるラムセス二世の像がある。ぬかるんだ空き地にバスは止まった。

ここでもカメラ券を買って、検問所というのが一番似合いそうな入り口で、荷物のチェックを受け、中に入った。空港以来何度もの身体検査で、もう慣れっこになっているが、テロの警戒なのか、カメラの検査なのかよく分からないところがある。チケットを持たずに写真を撮ると、カメラを没収されたりするというから、カメラ券を買わせるための厳重警戒のような気もしてくる。5ポンドくらいの金額は別にかまわないのだが、銃をちらつかされて金を払わされるのは威しにあっているようでおもしろくない。軍事警察国家というものが持つ人権を尊重しない体質に触れ、国民の権利の制限に躍起になっている政府のやり口を思い出し、有事立法が完成したら、日本もこのようになるのかと暗澹たる思いがしたことであった。

 アラバスター製のスフィンクス

スフィンクスといえば、ギザのそれが有名だが、鼻が欠け、顎鬚は落ち、見る影もない形になっているのは誰でも知っている。ここは、雪花石膏で作られた保存状態の良いスフィンクスがあることで知られている。

入口を入ってしばらく歩いた広場の真中にそれはあった。獅子の胴体に王の顔に似せて作られた頭部が乗せられている。端正な顔立ちはラムセス二世の像に似ていた。

広場の周囲にはラムセス二世の像、その他の遺跡が残されている。遺跡の裏に回ると象形文字(ヒエログリフ)で書かれた碑文や、長円形の枠の中に王の名を記したカルトゥーシュを読むことができる。ヒエログリフが読めなくても心配することはない。広場を警備している遺跡ポリスが手招きして説明してくれる。もっとも単に親切心でやっているわけではない。当然、バクシーシ(喜捨)が目当てである。調子に乗って説明を聞いていたら、幾許かの金は渡さねばならない。アラビア語では、はいは「アイワ」、いいえは「ラー」と言う。必要のないサービスには、きっぱりと「ラー」と言うに限る。日本語や英語では聞かぬ振りをしていつまでも食い下がる。「ラー」、これが一番である。

 ラムセス二世像

入口を入ってすぐの右側に建物がある。中に入ると二階への階段がある。下に横たわっているのが全長15mというラムセス二世の巨像だ。あまり大きいので、下で見ていても全貌がつかめない。二階回廊をぐるっと一回りして初めて分かる。足のところで折れて倒れたのだろう。左足を前に出していることから、王の生前の像であることが分かる。ちなみに来世の姿を表す場合、ツタンカーメン像のように胸の前で両手を組む形となる。

一階にいる妻の写真を撮ろうとしたら、写真に写っているターバン姿の男が、ちゃっかり妻の横に入ってポーズをとった。意外だったのは、ガイドブックに書かれているほどしつこくバクシーシを要求したりはしないことだ。こちらを向いてにっこりするので、こちらも笑顔を返した。「分からないやつだな」と思われたかもしれない。しかし、勝手に入ってこられて、そのたび喜捨していてはたまったものではない。その後、よく見ていると、ムスタファが、前もって、こういう男達に金を渡しているのを何度も見た。

イスラム教には信仰の五つの柱というものがある。その五つ目が「喜捨」で、裕福なものは、年収の2.5パーセントを貧しいものたちに寄付しなければならないというものである。エジプトでは国家試験を通った正規のガイドは超エリートである。ムスタファに、「いつも渡しているあれは喜捨ですか」と聞いたら、「仕事がうまくいくようにしているだけです」と、答えた。彼らが、しつこくしない理由がそれを聞いてわかった。国情や信仰は違っても、「何とかの沙汰も金次第」という諺は通用するものであるらしい。

 サッカーラ

椰子の林が続く向こうにうっすらと階段状のピラミッドが見えてきた。サッカーラには、エジプトで初めてピラミッドを作ったとされるジェセル王の階段ピラミッドがある。バスは運河沿いの道を今度は左に折れ、田舎道を走っていく。棗椰子の林が切れるのと、砂漠の丘陵が現れるのがいかにも唐突である。急な坂道を登る右の車窓からは緑地が一望できる。逆に左の窓には、褐色の石と砂でできた砂漠の光景が見える。

 ジェセル王のピラミッドコンプレックス

やはり検問所めいた入口でチェックを受け、カメラ券を呈示しつつ中に入る。中とはいっても、巨大な壁が立ち塞がる周壁の外側である。普通、ピラミッドといえば、石でできた四角錐の例の形を思い浮かべるだろう。ところが、本来、ピラミッドというのは、単独に建てられたのではない。ピラミッドを中心として、神殿や葬祭殿それに王のミイラを作る際に取り出した内蔵を収めた小ピラミッドなどの多くの建築同時に建てられたのである。それらをピラミッドコンプレックス(複合建築)という。

写真で、黒く見えている通路を抜けると、パピルスの茎を束ねてできた形を模した巨大な柱の連なる柱廊に出る。石造建築ができるまでは、パピルスや木を使った木造の神殿が建てられていたらしく、内部の扉は石でできていて、開閉などできるはずのない大きさであるにもかかわらず、木製の扉の時に使われていたヒンジをそのまま石で模刻しているなど、初期の神殿建築の様子が窺われる興味深いつくりであった。

 階段ピラミッド

柱廊を通り抜けると、祭壇の向こうに階段ピラミッドが現れる。と、同時にどこからともなく駱駝や驢馬に乗った男たちが寄ってきて、さかんに勧誘をはじめる。こう数が多くては、ムスタファの例の手も使えず、ただただ、「ラー」を言い続けるしかない。駱駝に乗るには注意が必要で、はじめに料金を定めても、降りるときに別に料金を請求されることがある。というのも、一度乗ったが最後、駱駝からはひとりで降りることができないからだ。結局法外な値段を要求されることになりかねない。アラビア語で言い合いの一つもできるならともかく、そうでなければ、信用できるガイドに交渉してもらうのが無難だろう。

階段ピラミッドの高さは約60mと、やや小ぶりな感じを受ける。もともとは、基底部の上に、もう一段をのせた形で作られたものが、王の偉大さを表すためか、より太陽に近い高さを求め、次第に上へ上へと積み重ねられ、現在の形ができたようだ。裏側に回ると、大きな石で密閉されたセルタブと呼ばれる小部屋があり、内部が覗けるように覗き穴がつけられている。覗き穴からはジェセル王の像が見えるが、これは複製。本物はカイロの考古学博物館に展示されているそうだ。

 カーペットスクール

サッカーラ街道を走っていると、「カーペットスクール」という看板を立てた建物が目につく。スクールといっても、学校ではなく、観光客用の実演をして見せるだけだが、トルコ、ペルシャと並んでエジプトも絨毯産業は盛んであり、ツアーには必ず組み込まれている。小さい手を持つ少年や少女のみが扱える細かな文様を織る作業を見学した後、二階に案内される。二階は展示スペースで壁一面に絨毯が展示されている。トルコのそれと見比べると、一歩譲るという感じがしたが、エジプト独特の絵柄にはおもしろいものがあるのも確かで、夜の女神が太陽を飲み込む図柄がいたく気に入った妻は、説明を聞きに向こうに行ってしまった。

帰ってきた妻は、聞いてきたばかりの説明を意気揚揚と教えてくれるのだが、神話の話より、また、現地人と間違えられたといって笑った。話によると、まず「エジプト人か」と聞かれ、日本人だと答えると、説明してくれた人は日本にも行ったことがある絨毯のデザイナーとかで、
「あなたは美しい。お世辞じゃない。わたし、見たことしか言わない。」と言ったらしい。おまけに32歳くらいだろうと言われたそれがよほどうれしかったのか、妻は終始上機嫌であった。トルコでは、もう少しで何十万もする絨毯を買いそうになったので心配していたのだが、今回は絨毯から話がそれてよかった。上手の手から水が漏れるというか、口のうまいのもよしあしである。

 昼食ヴァイキング

サッカーラからギザに戻る途中のレストランで昼食をとった。ヴァイキング形式で、色とりどりに盛り付けられた皿から自由に食べたいものをとるのだ。好きなものが食べられて、それはそれでいいのだが、実は困ったことがある。エジプトでは、生水、水道水は勿論のこと、生野菜やカットフルーツも食べない方がいいと言われているのだ。どうも、水に問題があるらしく、包丁を洗った時の水が付いているから生野菜やフルーツまでがその対象になる。そうなると、煮込んだものや焼いたものが中心になるので、ヴァイキングといっても、自然と食べられるものが決まってくる。

胡瓜もトマトも西瓜もだめ、というわけで、タヒーナという胡麻ペーストをつけたアエーシという丸いパン、それにインゲン豆やヒヨコ豆、レンズ豆を煮込んだもの、コフタという棒状のミートボール、それにチキンのカバブあたりが定番になる。豆料理はあっさりした味でくせがない。コフタはちょっと塩辛い。魚のフライは食べやすいが肉料理は油がちょっとしつこく感じた。

飲み物は、ビールが15ポンド程度だから日本で飲むのとあまり変わらない。ステラというビールを頼んだがあっさりした味で飲みやすかった。アルコール分も4.5で、昼飲むにはいいだろう。同じステラにもアルコールの高い輸出用があり、こちらは夜向きかもしれない。他にサッカーラというビールもある。こちらは、濃厚な味で、黒ビールなどの好きな人にはこちらがお勧めである。

すでに40度は軽く超えている暑さの中、砂漠の中を歩いてきたので、ビールはうまかった。水は、バスの中で1.5リットルが1ドルで買えるのだが、外に持って出ると、すぐにぬるま湯状態になってしまう。それでも、飲まないでいると、唇がすぐにかさかさになる。日本にいるときのように汗が皮膚の上に長く残らないので、汗をかいていることすら気がつかないのだ。

 ギザ

朝、出発したホテルをの前を通り過ぎたあたりで、Uターンをすると、右側に見える坂道をバスはゆっくりと登っていった。かなり高い丘の上でバスを降りると、目の前にカイロの町が広がっていた。振り返った先には、途方もなく大きな三角形の壁が立ち塞がっていた。

 クフ王のピラミッド

ギザの第一ピラミッドと呼ばれるクフ王のピラミッドは、本当は146mだったが、頭頂部がなくなっているために現在では137mとなっている。鉄の棒のようなものが頂上に立っているが、これはもともとの高さを表すものであって避雷針ではない。表面はごつごつした階段状になっているが完成当時は化粧用の岩で覆われていたといわれている。ここに来るまでは、歩いて登れそうな気がしていたが、一つ一つの石の高さが半端ではない。おまけに上のほうは風がきつく吹き飛ばされた人もあると聞く。写真右側の中ほどに開いているのが、本来の入口である。今の入口は盗掘用に開けられたものを使っている。昼を過ぎ、暑さがピークを迎えたのか、砂漠地帯特有の気候のせいか、サングラスをしていても、熱風が目の前に渦巻いている気がしてくるほどだ。水気というものがないサウナの中を長時間歩いているようで、信じられない暑さである。

 カフラー王のピラミッド

カフラー王のピラミッドは、三つ並んだギザの三大ピラミッドの真中のピラミッドで、高さは143m、頂上近くに化粧岩が残っているのが特徴で、最も美しいピラミッドだといわれている。ここも中に入ることができる。入口で10ポンドのカメラ券を見せて中へ。通常の2倍の金額だがフラッシュはだめということでデジカメだけを持って入る。赤のピラミッドに比べると、背をかがめている時間は短く、玄室に向かう羨道も割合広くゆったりとしていた。王の棺を収めた石棺が残る内部の部屋には、ここを発見したベルゾーニというイタリア人の名が壁に書かれていた。

外に出ると、あれだけ暑かった外気が涼しく感じられるほど内部は蒸し暑い。けれど、かいていた汗が引いてしまうのもあっという間で、それと同時にあの熱気が舞い戻ってくる。しつこく言い寄ってきていた何頭もの駱駝が何に驚いたのか、さっと向こうに逃げていった。向こうから遺跡ポリスが車でやってきたのだ。罵りあうような大きな声が飛び交う。どうせ、警察が行ってしまえば、また丘から降りてくるだけのことだろう。

 スフィンクス

エジプトと聞いて、たいていの人がまず思い浮かべるのが、ギザのピラミッドと、スフィンクスである。我々もその例にもれない。こちらに来るまで、写真で見ていた時は、ピラミッドのすぐ前にスフィンクスがいるような気がしていた。ところが、ギザの三つのピラミッドが一望できるパノラマポイントまで行ってみても三大ピラミッドが見えるばかりでスフィンクスのスの字も見えない。いったいスフィンクスはどこに行ってしまったのだろうかと狐につままれたような気がしていた。実は、スフィンクスは第二ピラミッドの裏にあり、しかも回りを濠のようなもので囲まれた少し低い位置にうずくまっているのだった。全長は57mだが、高さは20m。これでは高いピラミッドの陰に入ってしまって見えなかったのも当然である。ぐるっと反対側に回って、初めてその姿が見えてきた。後ろに見えるのが第二ピラミッドである。

スフィンクスの顔が陰になっていることからも分かるように頭部は東を向いている。その南側にカフラー王のピラミッドまで参道が伸びているのが見える。手前には河岸神殿が残り、一帯はピラミッドコンプレックスを構成している。アラブ人の侵入時に鼻が削られてしまったスフィンクスの顔は、カフラー王がモデルであったという説もある。顎鬚は、頭部の重さを支える役目を果たしていたのだが、現在は大英博物館に所蔵されているという。返還交渉がなされていると聞くが、いつかはエジプトに返還される日が来るのだろうか。もっとも、イギリスが、それを返すなら、フランスはコンコルド広場にあるオベリスクを、イタリアはスペイン広場にあるオベリスクを返さなければイギリスは承知しまい。それを考えると、返還の先行きは暗い。一度も他国によって征服されたことがない民族は、非征服民の鬱屈について無知である。自国文化を象徴する芸術品が他国の広場に戦勝記念の形で飾られていることについて立場を替えて考えてみる想像力がほしいものだ。

 パピルス

スフィンクスを見た後、パピルスを扱う店に寄った。かやつり草を巨大にしたようなパピルスの茎の部分を水に浸し、表皮を剥ぎとる。それをプレスにかけ、水分を抜いたものを縦横に重ねて並べることで紙状のものを作る。出来上がったものは水に濡れても丈夫で、ものを書き記すには重宝なものであった。英語のpaperの語源でもある。今では、観光用の土産になってしまったが中国で紙が発明されるまで、パピルスはエジプトの輸出品として無敵だった。今回の旅行でも、土産にはパピルスをと考えていた。

一度ホテルに帰り、シャワーを浴びてさっぱりした後、ピラミッドの見えるレストランで、シーフードのフライ料理を食べた。オニオンスープの塩味が程よくて美味しかった。ビールはステラの輸出用で、アルコール度数が高い分、味がしっかりしていた。デザートは丸のままの林檎。マナー通り、フォークとナイフで食べたのだが、品種改良以前の林檎の味を思い出した。それでも生の果物というのはうれしかった。

 音と光のショー

その後、歩いて「音と光のショー」を見物に出かけた。スフィンクスとピラミッドを見下ろす丘の上に椅子が並べられ、そこからライトアップされたスフィンクスが物語る古代エジプトの歴史を各所に配置されたスピーカーから聞こえてくる音響効果で聞かせるというものである。最前列で見ることができたのだが、さすがに日が暮れると、風も涼しくなり、しだいに暮れてゆく砂漠の夕景は目を楽しませてくれた。ただ、小一時間に及ぶショーの構成はやや単調で盛り上がりに欠け、終わりごろには飽きてくる。レーザー光線やライトアップの色の変化はあるのだが、実際に動くものが一つもない一時間というのは少々無理がある。有能なディレクターでも採用して、もう一回企画を練り直す必要があろう。ツアーのオプションでは4900円となっているが、その値打ちはない。ガイドブックによれば現地での料金は50ポンド程度(約1600円)。日本でも映画が一本見られる値段である。やはり高いと思う。

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