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沙獏の迷宮 EGYPT

 ASWAN

アブ・シンベル空港で、アスワンに行く飛行機の出るのを待った。土産物店や売店の並んだ小さな空港の待合室はまるで鉄道の駅のようで、それまで厳めしい警備に辟易していたので、心なしか親しみを覚えた。カウンターのある喫茶店で、ノンアルコールビールの缶を見つけた。イスラム教国では、レストランはともかくとして酒類は普通の店で買うことは難しい。キオスクといえば、ビールだが、ないだろうと覚悟していただけにうれしくなってしまった。

気温が高く乾燥しているので、知らぬ間に体内の水分を奪われてしまう。水分補給は欠くことができない。とはいえ、いくらナイル川の水だといっても、ミネラルウォーターばかり飲んでいると、味気ない気がしてくる。たまには味のあるものを飲みたいと思っても、フレッシュジュースは御法度。となると、ファンタかコーラしかないが、後口が甘く、かえってのどが渇く。ノンアルコールであってもビールはビール。後口がさっぱりしているのが何よりだ。一気に飲んだ。

売店のテレビはさっきからアブ・シンベル神殿のビデオをずっと流しっぱなしである。なるほど、うまいところに目をつけたものだ。この国ではビデオを持ち込むと、特別に申請しなければならない。さらに、ビデオカメラによる撮影はスティルカメラの数倍のカメラ券を買わされる。撮影済みのテープをどうぞということか。そう思って、近くに寄って驚いた。説明は日本語である。さっきからの妙に落ち着いた感じは、知らぬ間に耳にしていた、この日本語のせいだったのか。

 アスワンハイダム

アスワン空港からバスでアスワンハイダムに向かった。今でこそ、ダム不要論が騒がれる時世になったが、このダムができた当時は、ダム工事は国威発揚の目玉事業だった。

「エジプトはナイルの賜物」という言葉がある。年に一度、ナイル川の氾濫によって、上流の肥料を含んだ土壌が、下流域のデルタ地帯に運ばれる。水が退いた後、その肥えた土の上に種を蒔くことで作物がよく実ったからだ。

また、ナイル川は遠く南のビクトリア湖を水源に砂漠地帯を流れてくるが、その間は峡谷続きで土地を潤すことはない。現在のカイロの辺りで谷は開け、勢いを失った水は運んできた土を堆積させる。そうしてできたデルタ地帯に、エジプトの人口のほとんどが集中しているのである。

しかし、大河の氾濫は、地味豊富な土地を提供し作物の実りを約束するが、一度得た土地に人間が定住し都市ができるようになると、今度は水害という言葉で非難の対象にされてしまう。さらには、工業化を目指す国家は電力を必要とする。巨大ダムによる水力発電は、その二つをクリアする一石二鳥の妙策と当時多くの国が考えたとしても不思議はない。

対イスラエル戦の緊張の中、米ソ二大国の角逐をうまく利用し、スエズ運河の国営化という伝家の宝刀を抜くことで、欧米を相手に一歩も退かず、ソ連から経済的技術的協力を引き出し、この巨大ダムを完成させたナセル大統領は、当時のアラブ世界にあって一代の英雄といえるだろう。

「為せばなる。為さねばならぬ何事も、ナセルはアラブの大統領。」というのは、子どもの頃よく聞いた地口だ。単なる言葉遊びだと思っていたが、ナセルその人の政治力を誉め讃える意味が込められていたのだと、あらためて気づいた。

核攻撃に際しても、安全策が採られているとムスタファは自慢していたが、それを想定しなければならないほど、軍事的緊張に充ちた事業だったということだろう。軍の管理下にあるため現在でもビデオ撮影は禁止だ。しかし、ダムが問題視されるようになったのは堆積する土砂で、いつかは満杯になってしまう運命にあるからだ。ムスタファにそのことを言うと、
「あと百年は大丈夫。百年先ならもういいでしょう。」
と言い、にやっと笑った。「インシャラー(神の思し召しのままに)」というわけか。


 切りかけのオベリスク

アスワンの町を少し外れたところに、古代の石切り場が残っている。そこに、切りかけのオベリスクが残っているのだそうだ。なんでも、オベリスク(尖塔)というものは、一枚岩で切り出さなければならないのだが、何かのはずみで切り出す途中に罅が入り、そのまま放置されたらしい。作業途中で放り出したので、巨大な石をどうやって古代人が切り出したのか、その方法が分かるという。

石切り場にも、ちゃんとチケット売場がある。その周りには、背が高く膚の色の濃いヌビアの男たちがアフリカの民族楽器を鳴らしながら土産物を売るために待ち構えていた。小屋がけの店には、民族衣装や装身具などが並び、エジプトというよりアフリカ色の強いそれらの品々には興味がそそられたが、一度相手をするとしつこく離れないのが煩わしくて、見て過ぎた。放って置いてくれたら、もっといろいろ買うだろうにと思うのだが。

さて、石の切り出し方だが、まず、石に切り込みを入れ、そこに木のくさびを打つ。そのくさびを水で濡らすことにより、木が膨張する。すると、石が自然に割れるのだそうだ。おまけに切り口は滑らかで凹凸もないらしい。写真の手前が塔の先端にあたる。斜めに罅が入っているのが見えるだろうか。


 下町界隈

町に戻って、昼食のためレストランに入った。クレオパトラという店だった。エジプトといえば、クレオパトラというのは、ギリシア、ローマをはじめとする西欧世界から見たエジプト観の所産であって、こちらでは、女王といえば、ハトシェプスト女王であり、王妃であればネフェルティティや、ネフェルタリの方が有名である。

クレオパトラによってプトレマイオス朝は終わり、その後エジプトはローマ帝国の支配下に入るわけだが、そのプトレマイオス朝にしたところで、アレクサンダーがエジプト征服後に送り込んだ部下によって起てられたものである。エジプト人にとって、クレオパトラはどんな存在なのだろうか。ムスタファに聞いておけばよかった。

スープが、ここでもおいしかった。魚料理がメインということで、白ワインを頼んだ。よく冷えたのをと言ったらアイスバケツに入れて給仕してくれた。テイスティングもきっちりさせるし、グラスが空くと必ず注ぎに来る。イスラムの国だからといって、酒をぞんざいに扱うことはない。レストランというのは、世界のどんなところにあっても一つの規律を持った、小さい国際社会なのだと、あらためて認識した。

観光地ではないので、大型バスを停めておくところがない。食事が終わって店を出てもなかなかバスがやってこない。これ幸いと、近くの店をのぞいてみた。前のカフェでは、やはり暇そうな男たちが水パイプをふかしていた。ヌビアの人は「ジャパニーズ」と、声をかけてくれたりして愛想がいい。挨拶はトルコで覚えた「サラーム・アリクム」でいけるが、水パイプの仕組みを聞くほどには言葉が通じない。向こうは向こうで日本人はめずらしいのだろう。片言でも英語が通じる国なら少しは会話が成立するのだが。


 ナイル川

今日のホテルはナイル川の中洲にある島そのものを敷地にしているというイシス・アイランド。ホテルに行くのには専用の渡し舟を利用する。船が迎えにくるホテルというのは初めてだ。

エジプトにある遺跡は、そのほとんどがナイル川沿いにある。したがって、ナイル川を豪華客船で旅しながら、遺跡の見学をするのが、飛行機のない頃ののんびりした旅行手段であった。その頃のナイル川の船旅を題材にクリスティーが書いたのが『ナイル殺人事件』。ピーター・ユスチノフがポワロに扮した映画を見たことのある人も多いだろう。そのクリスティーが泊まったのが、オールド・カタラクトホテル。川岸の上に今も健在である。

乾ききった灼熱の砂漠地帯から、水鳥の飛び交うナイルの流れの中に入ると、大げさに聞こえるかもしれないが、まるで地獄から天国に来たような気がする。涼しさよりも水面から絶えず蒸発する水蒸気がそう感じさせるのかもしれない。湿度の高い故国の夏を嫌ってわざわざこんな遠くまで来ていながら勝手なものだが、空に浮かぶ雲に慰められている自分を発見した。


 水遊び

船着き場からホテルは目の前だった。日盛りの暑さを避け、昼下がりはホテルで休み、日が落ちた頃ファルーカという帆船でのクルーズを楽しむというのが午後のプラン。島全体がホテルということで、ホテル内に植物園や動物園が作られているらしい。シェスタを楽しむのもよし、散歩を楽しむのもよしという。さすがにリゾートホテルならではの心遣いだ。

妻は少し休みたいというので、一人で、遊歩道を歩いてみた。さすがに一日で最も暑い時間である。庭師も日陰で休んでいた。庭園には、写真の火焔樹のほかにも南国らしい花を咲かせる木々や灌木が敷地の周囲に緑の垣根を作っていた。その向こうは両側ともナイル川である。渡し場の対岸にも小さな桟橋があり、子どもたちが水遊びをする声が川を渡って聞こえてきた。小さい頃の夏休みを思い出した。長い休みを一日中遊びほうけていたものだ。暇はあっても金はない頃のこと、仲間を誘っては川で泳いでいた。誰が一番高い所から飛び込めるか、水の中で息を止めていられるかを競ったりした。子どもの遊ぶ声はいいものだ。こちらまで幸せになる。

プールがあった。なんだか、泳ぎたくなった。部屋に帰り、妻を誘った。水着に着替えて二人でプールに戻った。水はほとんどぬるま湯に近い。客の多いときはちょっとしたバーになるのだろう。水の中にカウンターのある一角が設けられ、そこだけ日陰になっていた。水中の椅子に並んで腰掛けると、水に濡れた体に吹く風が涼しかった。

 ファルーカ

ベッドで少しうとうとしていると、窓の外に日が落ちた。桟橋に下りていくと、もうファルーカが待っていた。風がないので、川の中程まではエンジン付きのボートが曳航をするらしい。さすがに暑かった一日もこの時刻になると少し和らぐ。帆を張るには足りないだろうが川風さえ頬を撫でる。

流れの中程まで来ると、対岸から手作りの小舟に乗った子どもたちが、唄を歌いながら近づいてくる。手にした小さな板切れがオールの代わりだ。ミズスマシのように器用に漕ぐ。エジプトの唄など知らないはずなのに、どこかで聞いたようなメロディーだと思った。リフレインの所まで聴いて思いだした。坂本九がパラダイスキングと歌っていた『悲しき60才(ムスターファ)』だ。エジプトの唄だったとは知らなかった。ムスタファが、「僕の唄です」と、苦笑いしながらつぶやいた。

近くを走る船が帆を揚げだした。白いガラベーヤ姿のヌビアの若者が、服の裾を端折ると、勢いよくロープを引きはじめた。滑車にかかった綱に引かれて帆布が風を受けてふくらんだ。斜めにのびた帆柱の先に星が瞬いていた。隣を行く船から唄が聞こえてきた。そのうち客の合いの手も聞こえ出し、賑やかになってきた。さっきの若者が歌い出した。ちがう唄だが、やはり掛け合いが入る。隣に負けじと、客の方も力が入る。ついには総立ちで踊り出した。向こうの船も踊っている。アフリカらしい単調なリズムの繰り返しが興奮を高めていく。すっかり暗くなった川の上を歌声がいつまでも流れていた。

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