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 2008/5/24 『神経内科医の文学診断』 岩田 誠 白水社

近頃、何でもない漢字が突然書けなくなったり、しゃべっている途中でろれつがうまく回らなくなり、俗に言う「かんで」しまうことがふえた。人の名前が出て こないことは、ずっと前から少しずつ徴候として出てきてるので、加齢によるボケの始まりだろう、と軽く考えていたのだが…。

岩田誠氏の『神経内科医の文学診断』という新著を読んでいて、少し不安になってきた。谷崎潤一郎の「鍵」についてふれた一章の中に、失名辞失語の症例が出 てくるからだ。文章そのものの主題は失語症についてではなく、ババンスキー反射という、「大脳皮質運動野から脊髄の下方に至る随意運動の経路、すなわち維 体路のどこかが破壊された」場合に起こる足趾の反り返り運動についてである。

谷崎の「鍵」の中に、足の裏を擦りあげるバハンスキー反射を調べる医師の行為が実に精密に書かれていることに神経内科医である著者が驚いているという内容 である。それ以上に驚かされるのは、同じく維体路障害の診断に用いられる挙睾筋反射の記述である。睾丸の根元の両側の皮膚を擦ることで睾丸を吊っている筋 肉の反射を見る、というものだが、「右の睾丸はゆっくりと鮑が蠢くように上り下りの運動をするが、左の睾丸はあまり運動する様子がなかった」という記述 は、文学作品の中で書かれた挙睾筋反射の最も正確な描写だろうと著者は言う。

著者はこれが、谷崎自身が自分が診断されたときの経験をそのまま書いたものだと推理する。その根拠は、維体路障害診断で必ず行われる腹壁反射についてふれ ていないからというものだ。座位で行える挙睾筋反射の診断とちがい、腹壁反射は仰臥位で行われるのが普通で、谷崎自身は見ることができなかったから書けな かったのだという診断である。

谷崎の文学が、これほどまでに科学に忠実であったのかというのが、驚きの一つである。しかし、個人的にはその後の谷崎の病歴の方が気になった。谷崎は『高 血圧症の思ひ出』の中で、失名辞失語の経験についてふれているのだが、人名だけでなく犬の名前や魚の名前も出てこなくなったらしい。一過性ではあるが漢字 や仮名も読めなくなったこともあるという。

著者によれば、これらは脳虚血症状が生じていたことによる。「頭頂・側頭葉を中心とする大脳半球後方の白質には、かなり高度の変化が生じていたのではなかろうか」というのがその診断である。

素人には、ボケの始まりくらいにしか思えない失名辞失語の症例も、専門医となると脳のどの部位に変化が起きているのかまで分かるらしい。著者は、谷崎は適 切な治療を受けていなかったのではないかと推測している。物忘れくらいと思って放置しておくのは考えものかもしれない。一度脳のCTスキャンを受けてみる 必要があるのではないか。そういえば、同僚が脳ドックに申し込んでいた。その時は、何を大げさな、と笑ったのだが、笑い話ではすませられなくなってきた。

本自体は、専門的な知識をひけらかすのではなく、文学に堪能なドクターの文学エッセイといったおもむきで、実に読みやすく、また採り上げられた作品、作家も洋の東西を問わず、選び抜かれたものばかりで、著者の文学的センスがなかなかのものであることを窺わせる。

健康な人なら気楽に読めるにちがいない。また評者のように自身の健康を診断してみようかという向きにも、案外役に立つのではなかろうか。著者は須賀敦子さんの愛読者。須賀さんの本の好きな人には、お馴染みの作家や作品が並んでいるので、一読をお薦めする。

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 2008/5/17 『族長の秋他6篇』 G・ガルシア=マルケス

「週末にハゲタカどもが大統領府のバルコニーに押しかけて、窓という窓の金網をくちばしで食いやぶり、内部によどんでいた空気を翼でひっ掻きまわしたおかげである。全都の市民は月曜日の朝、図体のばかでかい死びとと朽ち果てた栄華の腐れた臭いを運ぶ、生暖かい穏やかな風によって、何百年にもわたる惰眠から目が覚めた。」

カリブ海に面した諸国で出版される本には「独裁者もの」というジャンルがあるそうだ。実在の独裁者の逸話そのものが破天荒なものらしいが、ヨーロッパその他の国ではあり得ないことがほんとうに起こり得るのが、ラテン・アメリカ諸国なのだ。ルポルタージュ作家だったマルケスは、周到な用意をしてこの作品に取りかかっている。

主人公の独裁者である大統領その人のエピソードには、作家が収集した実在の独裁者たちの信じられないような行跡が集約されているらしい。国営の宝くじでいつも自分たちが利益を得るように、当たり籤の球(それだけが冷やされている)をひいた二千人もの少年たちが要塞の中庭に閉じ込められていたり、一番信頼していた将軍を丸焼きにして食卓の上にのせたり、という如何にもマルケスらしい駄法螺めいた逸話の数々も、ひょっとしたら実際にあったことなのかもしれないという、うすら寒い疑惑がつきまとう。

米英の傀儡政権としてたまたま大統領になった娼婦の息子が、権力者でいるために周囲の簒奪者を次々と屠り、その挙げ句が水占いによって百年以上も権力者の位置に縛りつけられるという、悲喜劇めいた物語である。象の足跡を思わせる巨大な足と、同じくヘルニアのため肥大化した睾丸の持ち主という主人公の姿は戯画化されてはいるが、神話的な聖痕を思わせる。

物語の主題は「孤独」。王にも似た権力を持ちながら、その育ち故に外国から来る賓客たちと同席させられない母親を別の屋敷に住まわせ、自分が時折そこを訪れるという暮らしぶり。叛乱を恐れるあまり自分の軍隊の火薬に砂を、銃には空砲をつめ、寝るときは、自分で三重の錠前に三重の鍵をかけるという徹底した用心ぶり。愛した女はそのあまりの乱脈な生活を疎まれ、訓練された六十匹の犬に我が子と同時に喰い殺されるという有り様。

最も悲惨なのは、彼の周りには真実というものがないということだ。彼が権力の座にいることで、甘い汁を吸える部下たちは、彼の命令を待たずに勝手にものごとを進めていく。その結果、彼の周りには塀が建てられ、醜悪な現実や不都合な真実は見えないようになっている。老いた大統領は、通学途中の女子高生に声をかけて淫らな行為をくり返すのを愉しみにしていたが、それさえも親たちの苦情で部下が動き、娼婦に変装させていたことが分かる。

まるで螺旋階段を一階上るたびに階下の光景をのぞき見るように、何度も何度も同じ光景がくり返し想起される。階級章のない麻の軍服を着て、片方だけ金の拍車のついた長靴を履き、右腕を枕代わりに俯せになった死体。物語は荒れさびれた大統領府の情景から始まり、大統領の最期の場面で終わる。その死体を廻って一人の男の波乱に満ちた生涯が描かれるのだが、腐敗、乱脈を極めるその一生が、極めて倍率の高いレンズによって拡大されたものであって、その拡大鏡をはずしてみたとき、どこにもいる愚かなそれ故にひときわ悲しい人間の姿が見える。

会話も地の文も改行なし。われわれという無名者の語りによって始められた語りは、いつの間にか、次々と主人公やその母にとってかわられ、視点人物を特定することは難しい。ヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』のように登場人物が替わるたびに話者が交代する「意識の流れ」の手法ともちがって、変幻自在の文体は、『百年の孤独』のそれとはまたひと味も二味もちがう。しかし、読み終わって本を置くまで、そんなことは気にならなかった。事あるごとに具体的な数字を挙げて実在感を増そうとする工夫や、五感を総動員して具体的なイメージを織り上げる饒舌なスタイルは健在である。

他に『百年の孤独』の文体から自由になるための文体練習のように書かれた六篇の短篇を含む。童話めいた、この数編の方を好む読者も多いだろう。評者もかつてはそうだった。しかし、マルケスの長編の魅力に一度はまると、その読後の多幸感は短篇の比ではない。是非『族長の秋』の圧倒的な迫力に触れていただきたいと思う。

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 2008/5/4 『蝶々は誰からの手紙』 丸谷才一 マガジンハウス

丸谷才一は、イギリス書評のスタイルを日本に初めてひろめた功績者である。それでは、イギリス書評というのはいったいどういうものかというのは、『ロンドンで本を読む』の書評ですでに書いてしまっているのでここには書かない。まあ、とにかく日本のものに比べて長いというのがあげられる。書評そのものが評論になっている例もあるくらいだ。

それと、もう一つ言えるのは、藝がなければいけないということ。本の中身を上手に解説してみせるだけでなく、書評そのものについて、うーん、上手いなあ、と唸らせることが出来なくてはいけない。もうこの辺で、たいていの日本の書評は失格だろう。評者も読んでいて、唯一例外と言えるのは、毎日新聞の『今週の本棚』くらい。これは、丸谷の企画で生まれたのだからあたりまえだ。その経緯についても、ちゃんと巻頭で述べている。

そうそう、言い忘れたが、この本は丸谷才一自身の書評集である。中心になっているのは、先に触れた毎日新聞の書評だが、それ以外にも専門の英文学(特にジョイス)や、王朝文学、俳句などが俎上に上っている。さらには、自分が見つけてきた若い才能や慧眼の士の作品についての書評がある。向井敏の書評のところで触れているように、隠れた才能を見つけ出す力も書評家には必要なのだ。

それでは、丸谷才一の書評というのは、どういう仕組みになっているか。まずは、単刀直入。「始まり」でズバリと核心をつく。
「モーパッサンの短編小説の結末のつけ方は、どうも評判が悪い。どんでん返しがあざといと嫌はれる。しかし何しろ短いのだから、始まり、中、終りのうち、始まりと中だけがおもしろいのでは困る。終りの所で花やかな藝を見せなくちやならない。どうすればいいか。」

モーパッサンについての書評ではない。実は、これ『ナボコフ短篇全集』についての書評なのだ。ナボコフは短篇の結末において、モーパッサンとは違って、「意外なエンディングで粋にしゃれのめしながら、一種の幸福感を加える、という手を発明した」とつなぎ、その手の込んだややこしい幸福感について内容を詳しく紹介しながら解説してみせる。これが、「中」に当たる。

そして、「終わり」は、少し注文をつけながらも景気よくほめあげて終わる。このように。
「この二篇に限らず名品が多い。全集であるため玉石混淆の三十五編を収めるのはやむを得ないが、さすがに名匠の作だけあつて、不出来なものでも、普段着のスツピンの美女と町角ですれ違つたやうな印象を残す。」

さすがに上手いものである。さりげなく俗語をつかって文章の格を下げることで、読者に敷居の高さを感じさせない。それでいて、言いたいことはちゃんと伝わる。ちょっと色っぽい話題を格調高い文学の話題に結びつけるのはもっとも得意とするところで、例の「小股の切れ上がったいい女」という文句における「小」の使い方を、池上嘉彦『「日本語論」への招待』を使って解いてみせるところなぞは真骨頂。

ついでに、もうひとつ。水着を着たマリリン・モンローが『ユリシ−ズ』を手に寝そべっている有名な写真がある。高橋康也によれば、開けている所は終末のモリーの独白。「つまり二十世紀最高の女主人公と二十世紀最高の女優の出会ひなんですよ。」高橋は続けて、その場面を設定したのは、当時彼女の夫であったアーサー・ミラーしか有り得ない、と推理したという。ちなみに、話をした日は、ブルームズ・デイ(『ユリシーズ』の舞台になった6月16日)。その写真は今でも丸谷の書庫の入り口にかかっているという。

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 2008/5/3 『迷宮の将軍』 G・ガルシア=マルケス 新潮社

ボリヴィア共和国初代大統領であり、その国名の由来となったシモン・ボリーバル将軍最晩年の姿を抑制の効いた筆致で描いた1989年の作品。シモン・ボリーバルといえば、ラテン・アメリカ諸国では新大陸の解放者として伝説的に語られる英雄だが、その実像について詳しく語られることは、この国ではかつてなかった。

コロンブスのアメリカ大陸発見後、南アメリカ大陸もまた15世紀末から16世紀初頭にかけ、発見征服時代を迎える。その後スペインの植民地となったイスパノアメリカ諸国は1820年代に宗主国スペインから独立を達成する。

1783年ベネズエラの名家に生まれたシモン・ボリーバルは、早くから家庭教師につき、様々な学問を積むとともに、当時ナポレオンが席巻していたヨーロッパに渡り諸国を歴訪する。帰国したボリーバルは農園経営に携わるが、独立の機運に乗じ軍務につく。王党派の軍を相手に十五年近くを戦い、ついにベネズエラ、コロンビア、エクアドル、ペルー、ボリビアにわたる広大な地域を解放した。

彼を動かしていたのは、師のシモン・ロドリーゲス由来のロマン主義的理想である。それは、北はメキシコから南はチリ、アルゼンチンに至る全イスパノアメリカを巨大な共和国連合にしようというものであり、彼のあくなき戦いはそのためにこそ続けられた。しかし、解放までは共に戦った同志も、いざ宗主国から独立したとなるとそれぞれの権力欲やら私利私欲にからみとられ、互いに分裂抗争をくり返すことになる。

政敵との確執に疲れ、病を得た将軍は、あっさりと権力の座を明け渡し国外に出ることを決める。お付き武官を連れ、数艘の平底舟に乗りマグダレーナ河を下る失意の英雄の最後の旅を描いたのが、この作品である。

結核に蝕まれ、食事すら喉を通らない将軍は、かろうじてスープで体力を維持しているが、その体は痩せさらばえるだけでなく、身長まで縮み出す。かつては偉大であり、そびえ立つように思われた巨人の影響力が衰えてゆく様を象徴する表現だろうが、持ち前のユーモアを引っこめ、沈鬱な描写の続くこの小説の中で、唯一苦い笑いを味わえるのが、執拗に繰り返される縮みゆく身体の詳細な記述である。

親身になって世話をする部下や魔法のスープを作るため乗船した料理女、それに歴戦を共にした諸将に囲まれていながら、将軍は孤独である。唯一の後継者と思うスクレ将軍は辞職を願い出て帰郷する途中暗殺される。故国に残した愛人とは手紙のやりとりもままならない。自分には君主になる野心など微塵もないのに、信頼する部下でさえ、彼を担いでもう一度戦いたいという思いが感じられる。

共和国というのはただでさえ美しい夢である。憧れたナポレオンでさえ戴冠したではないか。将軍の夢みる全イスパノアメリカ連合共和国などというのは、気宇壮大すぎて将軍以外の誰にも理解されるはずがない。蚊の襲撃や洪水、凄まじい蒸し暑さといった自然の苛酷さも将軍を苦しめる。熱帯の寝苦しい夜を厭い、歌の巧い部下と夜が明けるまで川辺で過ごす将軍の愁いは濃い。

時系列に沿って将軍の最期までを淡々と記述しながら、その間に過去の恋愛沙汰が挿入されたり、将軍が死んだ後の部下の動向が記されたりという、評伝形式の叙述は、マルケスの作品としては地味な印象を受ける。が、それだけに「解放者」とまで謳われた一代の英雄が、行く先々で掌をかえしたような仕打ちを受けながら、それをあまんじて受けねばならない境遇が、ひとしお読者の胸を打つ。

厖大な資料を読み解き、準備を重ねた上で書かれたものらしく、イスパノアメリカの「解放者」シモン・ボリーバルの最晩年がくっきりと陰影を帯びて浮かび上がる。カエサルの著作やスエトニウスの『ローマ皇帝伝』に学んだ重厚な文体は落魄の英雄の最期を描くに相応しい。著者あとがきに加え、シモン・ボリーバルの年表、地図、詳細な訳者解説がつき、南米の諸事情に疎い者にも親切である。

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