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 2008/6/15 『レンブラントの夜警』 ピーター・グリーナウェイ監督

ピーター・グリーナウェイの『レンブラントの夜警』を観た。映画館で映画を見るのは久しぶりである。ハリウッド系の超大作やテレビ番組の劇場版ばかりやっているシネコンには足が向かないので、ついつい映画館から足が遠のくことになる。ところが、我が町にも一つだけ、他ではやらない映画を掛ける小屋がある。ふだんはめったに行かないのだが、たまたま新聞の映画案内で見つけたのが、久方ぶりのグリーナウェイだったわけだ。

もともと画家志望だったグリーナウェイの新作はなんとレンブラント。それも『夜警』ときた。後から上に塗ったニスのせいで表面が黒ずみ『夜警』と呼ばれることになったが、発表当時は昼間の光景を書いたものだというのが近年修復された結果分かった事実。それでも、映画の中では黒っぽい画面のままで『夜警』という解釈なのがおもしろい。

野外のシーンは一部にとどまり、ほとんどはセット撮影。キャメラ位置を固定した撮影はまるで舞台を観ているような感覚である。彩度を落とした色彩、つねに鳴り続ける弦楽器。グリーナウェイお得意の裸も小太りのレンブラントのそれだし、久しぶりの映画館の暗闇に眠気に誘われてしまった。

映画のポイントになるのは『夜警』という絵画史に残る傑作に秘められた謎に迫るというもの。『ダ・ヴィンチ・コード』の向こうを張ろうというわけではない。確かにそれまでの群像を描いた肖像画とは異なるドラマティックな表現が気になる『夜警』である。制作の裏に何か隠されたわけがあっても不思議ではない。

ネタバレは避けたいので、その秘密については見てもらうこととして、映画自体は今ひとつ物足りない。美術好きの監督なら、画家が絵を描くところをもっと大事にしてほしかった。何しろ相手がレンブラントである。ポロックを演じたエド・ハリスのようなわけにはいかないのは分かる。そうはいっても、ほとんどキャンバスを見せないのは、期待を裏切ったと言われても仕方がないのでは。えんえん馬の寝転ぶシーンを見せられた黒澤の『影武者』以来のがっかりである。

絵の裏にドラマを見るのは勝手だが、絵描きのドラマというのは絵の中にこそあるのではないだろうか。「レンブラント・ライト」と呼ばれる独特の光線の秘密や、みごとな筆触の秘密をこそ暴いて見せてほしかった、というのが偽らざるところ。名作を模したポーズが複数のシーンで描かれているあたりに、ようやくニヤリとすることができたのであった。



 2008/6/15 『悪い時他9篇』 G・ガルシア=マルケス 新潮社

マルケスの中では初期に当たる長篇小説『悪い時』を中心に、その中に出てくるいくつかのエピソードを使用した短篇を併せて収録したもの。一つのエピソードを全く別種の作品に使いまわすのは、マルケスにはよくあることだが、同じ名前の登場人物がよく似たシチュエーションで描かれていても、長編と短篇では全く別の作品に仕上がっていることがよくわかる。長篇小説を書く時と短編小説を書く場合では、何がちがうのか。「ガルシア=マルケス全小説」と謳うだけのことはある。作家の創作の秘密を窺うことのできる、うがった編集である。

舞台はいつものようにカリブ海沿岸の町。ある年の十月四日火曜日から十月二十一日金曜日まで。町はかつての戦いの後、保守党の息がかかっていると思われる町長によって、外面的には秩序が保たれているように見えているが、自由党シンパの町民は、多くの同志を殺された怨みを忘れてはおらず、秘かに転覆の時を狙うといった暗闘が続いている不穏な状況下にある。

主な登場人物は中尉の肩書きを持つ町長の他に、映画の検閲を生き甲斐にするアンヘル神父、職務に忠実なヒラルド医師、女好きなアルカディオ判事、独り昂然と町長に楯突く歯科医、権力者にすり寄ることで成り上がってきた資産家ドン・サバスと、いずれ劣らぬひと癖もふた癖もある人物ばかり。

事件は一枚の中傷ビラに始まる。セサル・モンテーロが楽士パストールを撃ち殺したのだ。ビラには、楽士が妻と恋仲だったと書かれていた。しかし、それは町の公然の秘密だった。この後も張り出されるビラの内容は、町の者なら誰もが噂していることばかり。しかし、噂がビラの形で人目にさらされるようになったことで人々の間に動揺が走る。夜陰に乗じてビラを張り出す犯人は誰なのか。互いの間に疑心暗鬼が広がる。

微妙な均衡の上に成り立っていた町の日常が、中傷ビラという形で実体化した「悪意」によって狂いはじめる。特に主人公はいない。視点は次々と現れる町の名士に移動していく。人物と人物の葛藤を通じて、それまでは隠されていた人物の一面が、事態の進展に連れ、露わになってゆく。権力にしがみつく者、それにすり寄って甘い汁を吸おうとする者、権力を憎み、打倒しようと画策する者、所詮政治的な権力の前では無力な者。それぞれの確執がのっぴきならない状況を引き寄せる「悪い時」が始まったのだ。

写実的ではあるが、そこはマルケス。匂いや熱といった五感に訴える描写は写実に徹しながらも執拗に繰り返し、カリブ海沿岸の町の暑熱を、降り続く雨を読者の前に繰り広げてみせる。目の前にあるものをすべて見せないではおかないといった気迫に満ちた描写は、短篇とはちがった迫力を持つ。あえて、内面に分け入ることを避け、他者の目に映る人物を冷静に叙述することで、多層的な事実を積み重ね、真実に迫ろうとする人物描写とともに、長篇ならではの重量感を感じさせる。

『百年の孤独』以前と以後では、その文体が全く異なるマルケスだが、ヘミングウェイを思わせる即物的な描写技術が冴える「最近のある日」、作家自身が最も気に入っているという「大佐に手紙はこない」などのリアリスティックな文体は、初期マルケスを特徴づけるものである。特に短篇における、その裁ち落としたようなラストは、書かれなかった部分をかえって印象づけ、終末に深い余韻を残す。盗みに入って撃ち殺された息子の墓参りのため、日盛りの中を喪服姿で歩く母子の姿を鮮烈に描いた「火曜日の昼寝」他6篇を含む。

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 2008/6/8 『漱石−母に愛されなかった子』 三浦雅士 岩波新書

漱石の文学的主題は、捨てられるのがこわいから、相手に捨てられる前に捨ててしまうという、 心の「癖」のようなものだった。『坊っちゃん』から『明暗』にいたる、いうならば、漱石文学の交響曲にあたる主要な小説は、その主題をめぐって階段を上る ように、一つ階を上がるたびに新しい視野が開けるようにして書き続けられた。漱石自身が自らに問い続けた「今の自分はどうして出来上がったのか」という問 いは、漱石が母に愛されなかった子であるという事実に由来する、というのが三浦雅士の着眼点である。

母が子を愛しているかどうかなどという問いは成立しない。母親自身に聞いてみたところで分かるはずがないのだ。人は誰でも、自分は母に愛さ れているのかどうか、という問いを一度は自分の心に問いかけるものだ。多くの人が思春期にそうした疑念を抱きながらも、とことん問いつめることなく年とと もに忘れてしまう。漱石にはなぜそれができなかったか。

漱石は、母親が懐妊を恥じるくらいの年になってから生まれた子である。生まれてすぐに貧しい道具屋夫婦に里子に出され、四谷の夜店に並べら れたがらくたと一緒に笊に入れられていたところを可哀相に思って姉が連れ帰ったというエピソードが『硝子戸の中』にある。その後も養子に出されるが、養父 母の側の問題で大きくなってから実家に返されるという経験をしている。母親が愛してくれていたのか、という疑念を抱いても不思議はない育ちなのだ。

『坊っちゃん』の中に、お前の顔など見たくない、と母親に言われたので親戚の所に泊まりにいっていたら母親が死んでしまい、死に目に会えな かった。こんなことになるのならやめとけばよかったと後悔するくだりがある。建前上の言葉と分かっていながら相手の言葉を文字通りに受けとめて「じゃあ、 消えてやる」と行動してみせるのは、甘えであり、僻みである。

漱石の小説の主人公は、相手の女性を愛していることに気づかず、愛されてないという答えを聞くのが恐ろしいばかりに、先に自ら捨ててしま う。捨てられるのがこわいから、相手に捨てられる前に捨ててしまうという、このパターンが、どの小説にも現れることに三浦は着目する。これは、母親に愛さ れてなかったという事実を知ることがこわいために、先に母親を捨てた自身の心の無意識の反映だろうというのだ。

この骨絡みの愛憎に終生取り憑かれながら、漱石は小説を書き続けた。一作ごとに、自分の知らない自分の心を、作家ならではの想像力を通して、他者になりきることで明らかにしていったのである。自分とは畢竟他者にほかならないのだ。

今まで、漱石について書かれた評論はいくつも読んだが、これほど作家とその作品を綯い交ぜにして、まるで小説のように読ませてくれる評論は はじめてである。丸谷才一ばりの「です、ます調」と「だ、である調」を混在させた文章は、初めは異様に感じるのだが、新字新仮名でカギや改行なしに引用さ れる漱石の文章が、三浦自身の文章に自然にとけこむように工夫されているので、いつのまにか漱石の講演を聴いているような気がしてくる。

新書版で発表されることを意識してか、難解な理論もかみ砕いて誰にでも分かるように書かれているし、出てくる名前もベルグソンは別としてフ ロイト、ニーチェ、マルクスと一般的なものに限っている。漱石の作家論として読んでも画期的な評論だが、それだけでなく、自分というものがどのようにして 作られるに至るのかという哲学的とも言える考察が随所に挿入されたエッセイとして読んでも面白い。三浦雅士が初めてという読者にはうってつけの入門書であ る。

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