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 2007/06/18 ロレンス・ダレル

「まず若者が、葡萄の蔓のように、年長者の朽ちかけた支柱をよじ登る。年長者は若者のしなやかで柔らかな指を体に感じる。それから、若者の美しい体を支えにして、自分にふさわしい死へ伝い降りる。」(『アレクサンドリア四重奏U』より、バルタザールの言葉)

子どもが大きくなり、独り立ちをするときが来ると、自分に触れていた指が離れるのをさみしく感じる。しかし、それもわずかな間だ。やがて、若者の体を伝いながら、老人は自分の死へと降りてゆくのだろう。ギリシア語で語るに相応しいエロースに溢れた思考。

 2007/02/07 サン=ヴィクトルのフーゴー

「故郷が甘美だと思う者は、まだぜい弱な者に過ぎない。どこへ行っても故郷と同じだと思う者は、すでに力強い人である。しかし全世界が流謫の地だと思う者こそ、完全な人である。第一の人は世界に愛を固定し、第二の人は世界に愛を分散させ、第三の人は世界への愛を消し去ったのである。」

故郷にいてさえ居心地の悪さを感じている身にとっては、何の今さらという気がしないでもない。人は故郷を選んで生まれてくるのではない。たまたま生まれただけの地にどうして愛を固定させることができるものか。故郷もまた流謫の地に過ぎない。

 2007/02/04 シャトーブリアン

「山は、人が目にしていると思っているままの姿で存在しているわけではない。目にしているのは、情熱や才能や詩的霊感によって描き出された山である。」

サント・ヴィクトワール山を見る者は、セザンヌの眼の影響を免れない。それが嫌なら、自分で描いてみせるしかない。そこまでする情熱や才能のない者は、人の目を通してしか何ものも見ることはできない。人が鏡の中に見る自分は誰の眼で見ているのだろうか。

 2006/03/12 ラ・ロシュフーコー

「野心や恋愛のように激しい情熱ばかりが、他の情熱に打ち克てると思うのは誤りである。なまけ心は、どんなにだらしなくあっても、しばしば、情熱の覇者たらずにはいない。それは、人生のあらゆる企図とあらゆる行為を蚕食し、人間の情熱と美徳とを、知らずしらずのうちに破壊し、絶滅する。」

なまけ心のように誰からも尊ばれない感情が、他のどんな強い感情をも蝕み、最後には情熱の覇者となってしまうというところが皮肉である。恋愛や野心の成就のために心を砕いて、それが何になるというのか。日曜日の朝寝坊にまさる楽しみなど、人生にはない。

 2006/02/12 シェリング

「始まりとは、否定ではじめることを否定することである。」

何かをはじめようと思えば思うほど、目の前にそびえる壁は厚く高く見えるもの。「どうせ」とか「到底」とかいう言葉には、失敗したときの言い訳が予め用意されている。何かをしようと思ったら、まずは心の中にある否定的な結果への傾斜を払拭してかかることである。

 2005/02/16 ニーチェ

「人は幸福を得ようと努力するのではない。そうするのはイギリス人だけだ。」

人生の目的をどこに置くかは、人によってちがう。快楽主義や功利主義には腐臭が漂うし、審美主義にはきな臭さがにおう。平時にはイギリス流の暮らし方の凡庸な幸福追求が胃にもたれもするが、国家だの大義だのが囁かれる時代には、三時のお茶を欠かさない生活を守る流儀に勁さを発見したりもする。

 2005/1/20 E・M・フォースター

「民主主義には二度万歳をしよう。一度目は多様性を許すからであり、二度目は批判を許すからである。ただし、二度で十分。三度も喝采する必要はない。」

民主主義は、指の上にのせた硬貨を落とさないように、他人の動きに合わせていると思わぬ言葉を紡ぎ出すあの占いに似ている。一つまちがえば衆愚政治と化し、無意識の悪が噴き出すこともある。万歳できそうもない方向に動きはじめたときには、指を動かさないのが知性というもののあり方である。

 2004/04/01 ベルトルト・ブレヒト

「変りながら、それによって/自己自身であり続ける人たちを私は讃える。」

人は時の移り変わりとともに変わるものだ。それを変節と言って非難するのはおかしい。変わることができなければ、何のための毎日の思索であり行動であることか。勇気を持って過去の自分に別れを告げながら、それでいて、より自己自身が鮮明になるように変わることこそが大事なのだ。

 2004/02/09 ウィトゲンシュタイン

「わたしの言語の限界がわたしの世界の限界を意味する。」

まちがいなく、世界は言語で構成されている。わたしの理解できない言語が飛び交う世界のなかに、わたしは入ることができない。当たり前のことだ。「わたし」の言語の通じる世界の小ささを、果たしてどれだけの人が知っているだろうか。分かり合っているという誤解の生む悲劇と喜劇を。

 2003/12/26 ロラン・バルト

「くつろぎとは、ありとあらゆるヒロイズムをすすんでうしなうこと」

どんな平凡な人間の心の中にもヒロイズムというやつは巣くっていて、何か事があれば顔を出そうと待ち構えている。人の心から平安を奪い、他者への寛容さを失わせるもとだと分かっていてもヒロイズムに限らず、すすんで失うことは難しい。それだけにそれができれば得るものも大きい。

 2002/8/24 ポール・ヴァレリー

「およそ理論というもので、何らかの自伝の丹念に推敲された一断片でないものは、存在しない。」

理論というと何か凄い物のような気がするが、唱えるのが人である以上、折にふれ、自分の眼が見、耳が聞いたものを素材とするしかない。人の一生にどれほどの差があるだろう。ありふれた素材を如何に吟味し、不必要な部分を捨て、価値ある部分をすくいとったかということに尽きる。

 2002/6/30 セネカ

「文学なき生活は生ける人間の死であり埋葬である。」

多くの人が文学の影響を被りながらそれを知らないでいる。自分の行動は、神話やその頽落した形式である物語によってすでに語られていることの拙劣な模倣に過ぎない。生きるということは、模倣者でしか有り得ない自己を醒めた目で批評する意識を持ち続けるということと同義である。

 2002/4/8 ジャン・ジャック・ルソー

「ひとの自由は、欲するところを行うことにあるのではない。それは、欲しないことはけっして行わないことにあるのだ。」

年を重ねれば無暗に何かを欲するということは少なくなる。反対に、したくないことはふえる一方だ。欲することができないことは我慢できても、世の中で生きている以上したくないことをせずにいようとすれば世間を狭くする。自由に生きるということは人生の晩年に孤独を友とすることである。

 2002/1/29 世阿弥

「為すわざよりもせぬひまが大事」

普通は何かをしている時の方が重要だと思いがちだが、果たしてそうか。舞なら動きから次の動きに移る間の静止状態、茶なら自分の前に茶碗が回ってくるまでの間、何もしないでいる時間こそが実は難しいという逆説的真理。無為な時間の持つ重さに耐えられず何かをしてしまう惰弱。

 2001/11/14 カーライル

「世界の歴史はすべての人間が記し、読み、理解しようとする果てしない一冊の聖書であり、そこには、彼ら自身もまた記されている。」

「聖書」というのは英語で書けば“The BOOK”つまり「本」である。自分が白い紙の上で動く小さな黒い活字のように思えて来て何やら愉快ではないか。大きな神の手が記すのでなく、すべての人間が記すというあたりに救いがある。戦争という文字を記すのもまた我々人間なのだが。

 2001/10/14 フェルナンド・ペソア

「一流の詩人は自分が実際に感じることを言い、二流の詩人は自分が感じようと思ったことを言い、三流の詩人は自分が感じねばならぬと思い込んでいることを言う。」(『不穏の書、断章』思潮社より)

自分が実際に感じること、というところが微妙だ。感じねばならぬと思い込んでいることとの区別をどれだけの人ができていることか。さらにいうなら、感じねばならぬ、と思い込んでいる「自分」とは、いったい何か。何かによって、自分だと信じ込まされている「自分」と直面することの難しさ。

 2001/09/30 アレキサンダー・ブルック

「真実にもっとも即した批評家とは、『藝術というものについては何も知らないが、私が何が好きかは知っている』といえる人々である。」

藝術について何も知らないと言うことは易しいが、自分は何が好きかを知っていると言うのは難しい。若い頃は背伸びをして本当は好きではない物を好きになろうと努めたりもした。歳をとり自分の好みもはっきりしてきたように思うが、本当に「私」が好きなのかは今に至っても自信がない。

 2001/08/31 中国の諺

「酒を飲むのは時間の無駄、酒を飲まないのは人生の無駄。」

まったく何の因果でこんな物を飲むようになってしまったのだろうと恨めしくなる日もないではない。しかし、また、うれしいにつけ、悲しいにつけ、その思いをしみじみ味わうとき、こんなに頼りになるものもない。酒のない人生も考えられなくもないが、それは、また別の主人公の人生である。

 2001/07/13 アミエル

「風景は魂の状態にほかならない。」

毎日何気なく通り過ぎている街が、突然、なんの前触れもなしに特別な風景として目に映ることがある。アミエルは言う。「風景というものは、それ自身において何らかの意味を持っており、そのために風景が魂の一状態のシンボルになる」と。魂の状態により、見える風景も違うのだろう。

 2001/07/07 ゲーテ

「何かに同意するとき、われわれはそのために行動力を失うが、齟齬はわれわれを生産的にする。」

何かに同意しないでいて、非生産的に生きられればいいが、それは難しい。同意さえすれば行動しないでいられるが、同意しないとなると、何らかの行動を要求される。否定のために費やされる労力の大きさに圧倒され、ひとは不本意ながら同意してしまうのだ。齟齬の持つ意味を忘れて。

 2001/05/29 ボエティウス

「不幸の中で最も不幸なのは、かつては幸福だったことである。」

いくら傍目に不幸に見えようとも幸福な時を経験したことがなければ、それは当事者にとっては日常である。逆に他人の目には幸福に見えても、かつてもっと幸福な時を経験しているなら、今を極端に不幸と思うだろう。幸、不幸の感じ方は相対的なもの。問題は感じる主体の方にありそうだ。

 2001/05/07 レヴィ・ストロース

「商業的交換は、平和的に決着のつけられた潜在的戦争を表現し、戦争は不成功に終わった取引の結末である。」

有事立法だの改憲だの、きな臭い話題が後を絶たない。確かに現実問題として「戦争」の可能性は存在する。しかし、国家間の信義や商業的交換もまた現実にあるのだ。徒に危機感を煽るのでなく、平和的に決着できるよう不断の努力を払うのが国を指導する者の立場というものだろう。

 2001/04/29 パスカル

「人間の不幸というものは、みなただ一つのこと、すなわち、部屋の中に静かに休んでいられないことから起こるのだということである。」

未熟な人間だけが旅をするのだと考えていたパスカルはめったに旅をしなかったそうである。旅行記などを書いていながら、なんのつもりだという向きもあろうが、しだいに、そういう心境になりつつあるのだから仕方がない。部屋の中で静かに休んでいる、ただそれだけのことの持つ充実。

 2001/04/26 ウィルヘルム・シュテーケル

「未成熟な人間の特徴は、理想のために高貴な死を選ぼうとする点にある。これに反して成熟した人間の特徴は、理想のために卑小な生を選ぼうとする点にある。」

歳をとることがそのまま成熟することでは、どうやらないらしい。いい年をした大人が、本人にしか分からぬ理由で自ら命を絶つことも珍しくない。「理想のために」という但し書きが気になるが、いつの頃からか卑小な生を選ぼうとしている自分がいる。腐臭を漂わせていなければよいのだが。

 2001/04/19 ヴァルター・ベンヤミン

「幸福とはなんのおそれもなしに自己を眺めうるということである。」

ふだんあまり幸福論とかに関心を持たない。それは自分が不幸でないからだろうと思っていた。しかし、不幸でないことは幸福であることとはちがうらしい。なんのおそれもなしに自己を眺めうるというのは、想像のできない境地である。それを幸福と呼ぶのなら達したくない境地でもある。

 2001/04/15 ルキアノス

「執筆中の歴史家は自分の国籍を忘れるべきである」

1800年前にギリシアの作家が残してくれた忠告である。歴史に関する叙述が、自国賛美の歴史観から離れられないのは今も昔も変わらないらしい。人類が如何に成長していないかを知るためには良い言葉だろう。それにしてもいつになったら人は国家の呪縛から解放されるのだろうか。

 2001/04/11 ノヴァーリス

「人生は心の病である。」

たまたま遭遇した無意味な世界を、そのまま受け入れることができない人間たちが考え出したのが「生きる価値のある人生」という幻想である。健やかな心はこの世界を偶然の産物と見る強さを持っている。「人生」とは、それに耐えられない病んだ心が見せる華麗な夢というところだろうか。

 2001/04/05 呼び出しの長の言葉 

「そなた、子どもの頃は、魔法使いに不可能なことなどないと思っておったろうな。わしも昔はそうだった。わしらはみんなそう思っておった。だが事実はちがう。力を持ち、知識が豊かに広がっていけばいくほど、その人間のたどるべき道は狭くなり、やがては何ひとつ選べるものはなくなって、ただしなければならないことだけをするようになるものなのだ。」

アーシュラ・K・ル・グウィンの『ゲド戦記』にある言葉。四月になり、新しい顔ぶれの中で仕事が始まるといつも思い出す。しなければならないことだけをするというのは換言すれば正しいことだけをするということだ。齢を重ねれば誰もがそうできるというものではない。心に留めたい言葉である。

 2001/03/30 アルチュール・ランボー

「人生はつらいと始終くり返している連中は、しばらくでもいいからここで過ごしにやって来るべきです。哲学を学ぶためにね!」

ランボーのアフリカ書簡より。砂漠特有の緩慢な時間の流れに「超人的な忍耐」を強いられるランボーの自嘲である。めまぐるしく情報の行き交う現代社会に生きている者は、この絶え間なく移り行く時間こそ不幸から目を逸らすことを赦す恩寵であることに思い至らなければならないだろう。

 2001/03/22 老子  

「人の生まるるや柔弱なり、其の死するや堅強なり。万物草木の生ずるや柔脆なり、其の死するや枯稿す。故に堅強なるものは死の徒なり。柔弱なるものは生の徒なり。」

                                                         
後半はこんな意味である。「堅くてこわばっているのは死の仲間であり、柔らかで弱々しいのは生の仲間だ」(長田弘訳)。年をとるといろいろなものがよく見えるようになるが、逆に曖昧なものやあやふやなものを認めなくなる。新しいものはいつも柔らかさの中に胚胎しているというのに。

 2001/03/19 サン・テクジュペリ

「大切なのは、どこかを指して行くことなので、到着することではないのだ、というのも、死、以外に到着というものはあり得ないのだから。」

                                                
須賀敦子さんの『遠い朝の本たち』からの孫引き。到着先だけは知っていながら、その道程は誰も知らない旅。少しでもよい道を探そうとするのが人の常だが、思い悩むことはない。所詮どの道を辿ろうとも行き着く先は同じと決まっている。思い切って好きな方角に歩を進めることだ。

 2001/03/14 サマセット・モーム

「怠惰であるためには多くの才能、十分な教養、あるいは特殊な精神構造が必要である。」

                                                 
明日できることを今日するな、ともいう。それでは、今日は何をすればいいのか。何かができる時間がありながら、何もしないでいるには、確かに特別な理由がいる。ボードレールのいう「雲を見ている自由な時間」の享受。誰にでもできそうでいてなかなかできない贅沢な時の使い方。

 2001/03/10 パスカル

「人間は、しばしば、人間自身の悲惨から逃れようとして『気晴らし』を求めるが、それは人間の最大の『悲惨』である。」

                                                       
晴らさなければならぬのは自分の置かれた状況の暗雲であって気ではない。「気晴らし」にできるのは、ほんの一時気を紛らすだけのことである。覚めてみればもとの「悲惨」がかえって現実味を増して待っている。「気晴らし」こそ最大の「悲惨」である所以。

 2001/03/05 吉田秀和

「人間の生活ではくりかえしが大きな部分を占める。その同じことのくりかえしを退屈で非生産的なものと考え、実際そういうものにしてしまうか、逆にそこから新しい力を汲み上げるか、これが大切なわかれ道になるのだ。」

                                                    
『くりかえし聴く、くりかえし読む』から。音楽家について述べた文。繰り返しは手足がする。そこに知がはたらくことで感情が動き、芸術が生まれる。人の生もまた同じ。日々の営為を知性により統御できなければ機械的反復に堕す。人はそれを頽廃と呼ぶ。

 2001/03/04 W・B・イエーツ

「人間の知性は、完全な人生か、それとも完全な仕事かのどちらかを選ばざるを得ない。」

                                                    
若い頃の言葉か、勢いがあります。知性がどちらかを選んだとしても、意志や感情はそれを裏切るのが人間というもの。己の力量や立場を考え、不完全な人生と不完全な仕事の均衡をどうとっていくかが人生の妙味と考えるのはこちらが年をとったせいか。

 2001/02/25 サミュエル・ジョンソン

「愛国心とは悪党にとっての最後の逃げ場である。」

                                                 
今、読んでいる『イギリス国民の誕生』から。国民や国家というものを実体としてあるものと思いこむと、これらの悪党の餌食になる。ベネディクト・アンダーソンのいう「想像上の政治共同体」という考え方あたりがこの熱病の処方箋になる。


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