作品によって、文体を全く変化させてしまう作家がいるが、ガルシア=マルケスもその一人。この『予告された殺人の記録』は、『百年の孤独』を華麗に彩るマジック・リアリズムの文体とも、『コレラの時代の愛』で試みられた19世紀リアリズム小説風のそれとも異なり、ルポルタージュ的文体で統一されている。それもそのはず。この作品は、作家の生まれた地方で実際に起きた事件をもとにしている。
マルケスは、最初ルポルタージュとして書こうとしたのだが、事件の関係者の中には身内や知人が含まれていて、母親に発表を反対される。小説に姿を変えた『予告された殺人の記録』が発表されたのは、関係者全員が死んだ後のことであった。作家本人が最高作と認めるだけのことはあって、中編ながら読み応えのある作品となっている。特に、複数の時間軸を巧妙に配した構成と、贅肉を削りとられて引き締まったルポルタージュ風文体がひときわ印象的だ。
舞台はマグダレーナ河を遡った川沿いの小さな町。かつては海から人や荷物を輸送してくる船で賑わったが、鉄道の時代となった今、線路の敷設されていない町は寂れている。ことは、一人の男が町に流れ着いたことからはじまる。その男バヤドル・サン・ロマンは、「わたし」の従妹アンヘラ・ビカリオに結婚を申しこみ、盛大な結婚式が挙行されることになる。事件は結婚式の翌朝起こった。初夜の晩、処女でなかったことを理由に実家に戻された花嫁の双子の兄弟が、「わたし」の友人サンチャゴ・ナサールを惨殺したのだ。
しかし、何故サンチャゴ・ナサールが殺されなければならなかったのか。双子は、公然と彼を殺すことを予告し、多くの人が、その事実を知っていた。双子は、どうやら自分たちの殺人が未然に阻止されることを願っていたらしいのだ。しかし、あらゆる偶然が作用し、本来回避されるべきであった殺人事件が起きてしまう。
「わたし」は、被害者、加害者双方に近しいこともあり、二十七年間の長きにわたって、関係者に事件当日の様子を取材して回り、ことの真相を明らかにしようとする。『予告された殺人の記録』は、その奇妙な殺人事件の真相を推理する一種の「倒叙推理小説」でもある。誰が犯人かを問う「フーダニット」ではなく、何故事件が起きたのかを問う「ホワイダニット」の。
この作品は、未だ夢占いが意味を持つ旧世界的なカリブ海沿岸の僻村に、新世界からの流れ者が現れることによって、古い共同体が崩壊してゆく様を描いたものとも読める。富者と貧者、近代と過去、滅びゆく階級と勃興しようとする階級、母系制社会と男性至上主義等々の二項対立による葛藤が悲劇を生む。莫大な財産を蕩尽する結婚式というカーニバル的祝祭空間が、花嫁の返還という不毛な結果に終わったことによる漠とした不満が犠牲の羊を要求したのだろうか。男性至上主義(マチスモ)の時代錯誤的な悲喜劇をアイロニカルに描いたものとも…。解釈はいろいろだ。
ただ、そうした解釈をひとまず置いておいて、何よりもマルケスが描き出す作品世界にどっぷりと浸りたい。その日の天気すら「海からの微風がバナナ園を渡ってくる陽射しの強い朝」だったという者もあれば、「雲が低く垂れこめ、淀んだ水の臭いが鼻をつく、うっとうしい天気で」あったという者もいる。それぞれの目撃者による二十七年間に及ぶ様々な時点からの回想が入り組んだ、結婚披露宴のどんちゃん騒ぎから、殺人者が屠殺ナイフを手に被害者の影を求めて彷徨う昧爽に至る濃密な一日を。
凄惨な殺人事件を描きながらユーモアすら漂う、ラテン・アメリカ文学ならではの奇想天外な世界。厳格な母親に監視されていながら、いつの間にか処女を喪失している一筋縄ではいかない現実。恐怖でしかなかった初夜に、実家に戻されて初めて相手に愛を感じはじめ、何年後かに町で見かけてから強烈に恋い焦がれ、トランク一杯の手紙を送るという信じられない恋の顛末。『コレラの時代の愛』に通じる破天荒な恋愛譚でもある。これからガルシア=マルケスの作品を読んでみようかなと考えている読者に一押しの作品。
読みながら、いつものマキューアンらしくない語り口に不思議な懐かしさを感じていた。まるで、一昔前のイギリス女流文学でも読んでいるような気がしてくるのだ。時は1935年の夏、舞台はロンドン郊外に建つネオゴシック風の屋敷。
不在がちの夫に代わり一家を守るのは妻エミリ。それとケンブリッジ帰りのセシーリアと13歳になるブライオニーの姉妹。今日はロンドンで銀
行に勤めている兄のリーオンが友人を連れて帰省する日。ブライオニーは兄に見せようと叔母の離婚が原因で家に来ている従姉弟たちを使って自分の戯曲『アラ
ベラの試練』を上演しようとするのだったが…。
セシーリアと庭職人の子のロビーは幼馴染み。二人は互いに惹かれ合っていることにこの日まで気づかなかった。花瓶に水を汲もうとして取り合
ううち、誤って割ってしまうという行為を通して、二人はそのことに気づくが、妹がそれを盗み見ていたことから話がややこしくなる。作家を夢みる少女は、出
来事に別の意味を見出したのだ。姉を毒牙から守ろうと暗闇で従姉を襲った人影をロビーだと証言するブライオニー。
「人間を不幸にするのは邪悪さや陰謀だけではなく、錯誤や誤解が不幸を生むこともあり、そして何よりも、他人も自分と同じくリアルであると
いう単純な事実を理解しそこねるからこそ人間の不幸は生まれるのだ」というブライオニーの言葉通り、祝祭的な真夏の噴水の前での愛の情景から始まった物語
は、錯誤が誤解を生み、その連鎖が一つの家族を崩壊させ、恋人たちを引き裂くという悲劇的な結末を迎える。
五年後、兵士となったロビーはダンケルクにいた。恋人の待つ故国に帰るためドイツ軍の爆撃の中を逃げ続けるロビーの視点で描かれる第
二部は極めてリアルな戦争小説になっている。第三部はブライオニーの視点で描かれる。かつての自分の行為を後悔し、戦下のロンドンで見習い看護婦として働
くブライオニー。ゆるしを求め、姉のもとに向かうのだが、果たして贖罪は果たされるのか。
純粋な愛の物語としても、作家志望の少女が犯した罪の物語とも、或いは一人の作家が自分が作家として立つきっかけを作った事件を、一生懸け
て書き直し続けた未完の小説とも読める。果たして少女を陵辱した真の犯人は誰だったのかというミステリーとして読むことも可能だろう。作者はその手がかり
をはっきり残している。
それだけではない。小説形式に意識的なマキューアンらしく、この作品、特に第一部はヴァージニア・ウルフへのオマージュとも思える仄めかし
に満ちている。ケンブリッジで学位まで取りながらも、まともな学位授与式も女性にはないとセシーリアが不満をもらすところなど、いかにもと思わせるし、晩
餐の支度に花を探しに行くのは『ダロウェイ夫人』冒頭の引用だろう。食事の支度における使用人との確執、ロビーを襲うシェルショックもそうだ。
これまで、巧いなあとは思いながら、読後に何か苦味のようなものを感じていたマキューアンの小説だが、その正体は自分の創り出す世界に対す
る作家のアイロニカルな視線にある。確かに現代において小説の中で衒いなく「愛」を描くことはマキューアンならずとも難しいにちがいない。舞台を大戦前に
置いたことで、それが緩和され、居心地のいいものになっている。末尾に、「ロンドン、一九九九年」という一章が来る。それまでの安定した小説世界をひっく
り返してしまうような仕掛けで、このあたり、やはりアイロニカルなのだが後味は悪くない。小説の名手イアン・マキューアンの代表作と言うべき作品である。