**気まぐれノート**



クロアチア上陸れぽーと(3)のつもりで始めた気まぐれ更新日記。
しか〜し、更新サボりがあまりに過ぎるので、
気まぐれノートというタイトルに変更。。。

クロアチア上陸レポ(1) クロアチア上陸レポ(2)
1998年 2002年 2003〜2005年


迎春  2005年1月7日

あけましておめでとうございます。
今年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

去年は、更新ままならず、申し訳ありませんでした。
今年は、もう少し更新していければと思っております。
年末から風邪をひき、行くつもりだった年越し参りには行けず、いまいちな年越しでした。
が、頑張って、元旦に初詣に行きました。
伊勢神宮に足を踏み入れてから、お参りを終えるまでの間に、
雪が降ったり、みぞれが降ったり、か〜っとお日様が照ったり、
短い間なのに、とにかく忙しい天気でした。
あれは歓迎の徴だったのか、それとも、今年も大荒れの世の中になるぞという予告だったのか?
それはさておき、今まで、色んな神宮や、お寺、海外の教会を数え切れないほど見てきましたが、
そのたびに、伊勢神宮の素晴らしさを実感します。
大学生の頃までは特に何とも思わなかったのですが。
一度、離れて外に出てみると、その良さが改めて分かるというか、その価値が見直されるというか。
まぁ、お伊勢さま、失礼いたしましたm(_ _)m 
お許し下さいまし〜

ハッピーで良い一年でありますように☆

ise



忘れる    2004年6月2日

『忙』とか、『慌』とかを眺めてたら(←昨日のノート)、
『忘』も、心を亡くすと書くではないか。。。?と思い、
早速、漢和辞典に訊いてみることにしました。

忙=心と、音符亡バウ(ちる意⇒放ハウ)とから成り、気が散って、落ち着かない意を表す。

忘=心と、失う意と音を示す亡バウとから成り、「わすれる」意を表す。

慌=心と、音符コウ(ぼんやりしている意)とから成り、もと、ぼんやりする意を表したが、考えがまとまらぬ意から転じて、あわてる意に用いる。

なるほど。難しい説明じゃ。

elephant



忙しい    2004年6月1日

忙=心を亡くす
つまり、忙しいとは、心を亡くしている状態ということ。
個人的に、忙しいという言葉を聞いて、あまりいい気がしないのは、このせいか。。
バタバタいろんな仕事・雑事に終われているうちに、心を亡くしてしまうのか?
心をすでに亡くしているから、バタバタできちゃうのか??
その両方か???
まぁ、多分、前者なのでしょうが、
いずれにしても、何か恐ろしい言葉だ。
「今、ちょっと忙しいから〜。」なんて、
普段、何気なく言ってるけれど。。。
慌しい=心が荒れてる状態?!

rovinj


↑”アドリア海の宝石”ロヴィーニ


3月 2004年3月1日

2月の日記を飛び越して、3月になっちゃいました。
1月の厳寒、酷寒、そして2月の晩冬、残寒、余寒、そして立春も過ぎ、
いよいよ解氷、早春、初春の3月です。
まだまだ今日は、陽光柔らかな〜〜という感じではないですが。。
3日はひな祭りですね。
今日の時点で、雛人形を飾ってお祝いされてるお家はどのくらいあるのかしら。。。?
残念ながら、私は、しばらくご無沙汰です。

flower


努力 2004年1月20日

何事においても、桁外れの努力は、量的な変化だけでなく質的な変化をもたらすといいます。
お釈迦様の弟子に、いくら教えても聞いたそばから忘れてしまう人がいました。
ある日、彼は絶望して、「弟子を辞めさせてください。」と言ったところ、
お釈迦様は、「掃除だけやっていなさい。」と言って、1本の箒を渡しました。
彼は、明けても暮れてもただただひたすら掃除を続けたら、
のちに名僧と言われる人物になったという話を読んだことがあります。

桁外れの努力は質的な変化をもたらし、何か不思議な力を与えてくれたり、
幸運を引き寄せる摩訶不思議な力があるのかもしれません。
しっかし、桁外れの努力って、なかなか出来るものではないですね。。。

上に書いた話が本当なら、
努力はしてみたが、、なんて、言ってる場合ではないですね!

ペンギン


HAPPY NEW YEAR!! 2004年1月7日

年が明けたら,せめてもう少し頻繁に日記を書こう,,,なんて思っていたのが,
いつの間にやら年が明け,もうすでに7日です。
大晦日には,伊勢神宮に年越し参りしてきました。
赤福のぜんざいが美味しかったな。
佳い1年になりますように。

akafuku


冬桜 2003年12月1日

桜といえば春ですが、冬に咲く桜もあるそうです。
冬に咲く桜は、花も小ぶりで少なく木自体も小さいそうですが、
それが健気に思われ愛でられてきたとのこと。
『東京:高尾には桜の保存林があり、冬桜を見ることができる』
・・・という情報を、数分前、偶然、インターネットで目にしました。
ぜひ、その冬桜ってものを見てみたいものです。
冬桜という言葉の響きからして、何とも優雅で風情があって、いいですねぇ。
綺麗なんでしょうね。

flower


ホームページ作成者 2003年11月30日

日本に帰ってきて、いろんな友達と喋っているうちに、
このホームページの作成者が私だとは夢にも思っていない人が
結構いるらしいことが判明しました。
このホームページの作成者は、です!
私ひとりです!!
どういう根拠でそうなるのか、私がメールを送るということすら信じられない人までいます。
それだけ人間には色んな面があって、
関わり方によっては、ほんの一面、氷山の一角しか見えないことがあるということでしょうか。
だからこそ、この人はこういう人だ、とか、あの人の性格はこうだ、とか
決め付けてしまわないほうがいい気がします。
それは他人だけでなく、自分についてもそうで、
自分はこういう性格だから、それは無理だとか、
勝手に性質を決めてしまわない方がいい。
自分で行動範囲を狭めてしまうことになっちゃいます。
羨ましいような性格の人を見つけたら、
自分の中にもそういう性質が隠れていると考えて、
そういう性質を引き出す努力をしてみる。
そうすれば、そう成れるもんです。
要は、全て、気の問題、思い込みの問題。。。
って、あれ?なんでこんな話になったんだろ?!


お月様 2003年11月21日

日本に帰ってから、いつが満月か分からなくなったどころか、
月の存在を感じることがほとんどなくなってしまっています。
クロアチアにいたときは、周りに高い建物がなく、見晴らしがよかったため、
月の存在というものはとても大きく、毎日、嫌でも目にするものでした。
満月の日は、「頭が重い」だの、「頭が痛い」だの、
「眠たい」だのという言葉があちこちで聞こえ、
みんな、「今日は満月だから。。。」と頷いてました。
「眠た〜い」と言ったら、いきなり真顔で「今日は、満月だからね。。」と初めて返された時は、
え?!と一瞬、カルチャーショックのような軽い衝撃を受けましたが、
その後、5年間も生活していると、その感覚にすっかり順応している自分がいました。
寮にいたときは、満月の夜、必ず、気が狂ったかというほど遠吠えをする少年たちがいて、
相部屋生活をしていた友達と不思議がって(というより、気味悪がって)いたものでした。
毎月必ず、凄い雄叫びの声が聞こえてくる日があって、
おやっ?と思って、窓の外を見ると、まぁ〜るいお月様が見えたものでした。
今からしても、謎。。。。

Lubenice


半年以上ぶりのつぶやき 2003年11月20日

半年以上ぶりの日記。 毎日、書くというのは、それもホームページ上に書くというのは、
私には出来そうもなく、気楽に気の向いたときに書いていこうと思って、
気まぐれ更新日記というタイトルにしておいたのですが、
こうも更新をサボってしまうと、情けないやら、
毎回、更新を期待して覗いて下さっている方々(がいたとすれば)に、
申し訳ない限りです。

5月以降は、コンクールやらアカデミーの仕事やらで、慌しく、
8月は5年分の荷物の整理・処分に、頭を痛めていました。
そのうえ、今年の夏は、ヨーロッパ全体に異常な猛暑に見舞われ、
クロアチアも例外ではなく、アパートの部屋の中はサウナのようで、
そんな中での荷造りはかなり辛いものでした。
クロアチアから日本に小包を送るには、
送りたい物を段ボール箱に詰めるだけでは駄目で、
段ボールに届け先&送り主の住所等を書いた後、無地の紙で段ボール箱を包み込み、
その紙の上に、もう一度、届け先&送り主の住所等を書き、
さらにそれを紐でしっかり縛らなくては、郵便局で受け付けてもらえません。
で、郵便局では、1箱につき、3〜4枚ほど、届け先&送り主の住所等を書かされるのです。
郵便局の人も、初めはどうすればいいのか、料金を含めて、よく分からないので、
露骨に嫌な顔をし、延々と待たされることもしばしばでした。
2、3回繰り返すと、私の方が何をすべきか覚えてしまうので、
最後の方は、値段まで訊かれるようになり(!)、感謝されるようにまでなりましたが、
毎回、また嫌な顔をされるのではと、ドキドキでした。
本を送るときは、2kgずつにするのが一番割安なのですが、
まず包み紙(又は封筒)&縛る紐を含めて2kgにするのに一苦労、
それより何より、完成品(?)を郵便局に持っていくときの恐怖はかなりのものでした。
初めのうちは、少しずつ、遠慮がちに持って行きましたが、
帰国の日が近づいてくると、そんな遠慮をしている場合ではありません。
一度、勇気を出して、25個ぐらい、いっぺんに持って行ったら、
案の定、とんでもなく嫌な顔をされて、みんな揃って、ため息、ため息。。。で、
ほんとに不愉快な思いをしました。
こちらは高い送料をちゃんと払ってるのだから、
せめて気持ちよく応対してほしいものです。
全荷物、船便で、送ったのですが、
ただ、驚いたことに、どれも、10日〜2週間ほどで着きました。
ロヴランの郵便局でそのことに触れると、
「多分、税関の人たち、クロアチアから日本への船便なんて、どこにどう回していいか分からないから、
全部、飛行機に回したんじゃないかしらねぇ。
航空便なら、たまに送る人がいて、どうすればいいか知ってるでしょうから。
あなた、よかったわね。」
なんて、さらっと言ってました。
小包を受け取るときの嫌〜な顔も、こういうことがあると、何だか帳消しにしてしまえます。
が、それにしても、日本ではあり得ないことです。。。

↓私のお気に入りの場所、アドリア海の宝石と呼ばれるロヴィーニ

rovinj


(;_;) 2003年4月30日

レッスン後、ロヴランで唯一の写真屋さんへ、コピーをしに行くと、
ドアに、「Odmah se vracam!」という紙が。。
クロアチア語で、「すぐに戻ります!」という意味。
友達同士でも、カフェでも、至る所で、耳にする言葉です。
クロアチア人はこの言葉を本当によく使うのですが、
「すぐ」の定義が違うのかと疑いたくなるほど、
「すぐ」のことは、ごくごくまれです。
クロアチアに来た初めの頃は、文字通り受け取って、かなり騙された。。。というか、苛々が募りました。
この写真屋さんのおばさん、何か用事が出来たり、
隣りの美容院のおばさんとおしゃべりしたくなったりすると、
この貼り紙をペタっと貼って、店を空けてしまうのです。
今日は、隣りの美容院はお休みだし、
郵便局にでも行ってるのかな。。?(郵便局でよく会う)と思いながら、
店の前のベンチに腰掛けたその瞬間。。。。

うん??何か冷たいゾ!!!???

今日は、白のジーンズをはいていたのですが、
ちょうど座るとベンチに触れるあたりに、何と、4cm近い穴が!!!!
写真屋さんに来る前、アカデミーで、生徒のレッスンをしてたのですが、
その時から?。。。
いやいや、きっと、ずいぶん前からだったに違いない。。。

実は、ジーンズが破れたのは今回が初めてではありません。
寮にいた初めの1年は、洗濯機がなくて、ジーンズもごしごし手で洗濯し、
毎日のようにはいてたためか、
紺のあの分厚いジーンズが、ビリビリに破れました。
ジーンズを破れるまではくなんてことは、それまでなかったので、 ある意味、快感でした。
ここまではいたと思うと、気持ちのいいものです。

その後も、黒のジーンズが2枚、今日までに合計4枚破れたことになります。
しかーし、、気持ちがいいとは言っても、やっぱり外で、
突然、大きな穴に気付いた時は、本当に冷や汗ものです。
これからは出かける前に、きちんと確認せねば。。

↓大家さんが、去年の夏、お孫さんの洗礼式の日に作ったケーキの1つ。
キューピーさんは、以前の私からのお土産。

cake


更新さぼり。。 2003年4月28日

す〜〜〜っかり更新を怠ってしまい、
気が付けば、もう4月も終わりです。
日記とは呼べなくなってきました。
3月を通り過ぎてしまったから、月記にもなってない。。。
う〜〜〜む。。(−_−;)
タイトルを替えるべきかも。。
ここロヴランは、あちこちチューリップや桜や色んな花が咲き乱れて、
とってもきれいです。

↓21日の誕生日に、大家さんが作ってくれたケーキ

復活祭(20日)にくれた装飾タマゴ(イースターエッグ)とウサギ型チョコ。
復活祭の時期は、お店に入ると、ウサギやひよこ、タマゴ型のチョコレートでいっぱいです。
見てるだけでも楽しい。

イースター


<ハバナの路上マーケット>

パパイヤ


ファイナル(コンツェルト) 2003年2月18日

8時頃起床。
9:10〜9:30朝食。
9:30にバスが来て、某音楽院に行くと、
あいにく1部屋しか空いてなくて、
アレクサンデルを置いて(?)、私はコンクール会場のTeatroへ。
10時から11時まで1時間練習し、バスでホテルへ。
髪をアップにし、ドレス・靴等の準備をして、
12時半頃、バスで会場へ。
13〜14時、2階で練習。
14:40〜15:20まで舞台袖のアップライトピアノで練習。
15時開始のはずが、またも始まる気配なく、
あれっ?と思ってると、15時半頃、突然開始。
2階に移って、練習し始めると、16:10ごろ、お呼びがかかり、
16:25頃、いよいよ出番。
いつもいつもながら、死ぬほど緊張して、
最後のコーダでは、心臓バクバクで、内臓破裂しそう(というか、してそう)でした。
でもまあ、何とか無事に終了。
弾き終わると同時に、客席じゅう、総立ちで拍手してくれて、感激でした。

そういえば、1次でも、セミファイナルでも、今日のファイナルでも、そうだったのですが、
コンクール関係者(通訳の人とか)が、まるで私が緊張のあまりぶっ倒れるとでも思うのか、
舞台に上がる直前(1秒前まで!)話しかけてきて、
必死に私の緊張を解きほぐそうとしてくれてました。
You are going to play well.
 Be relaxed.
 Everything will be fine.

この3つのセンテンスが未だに耳に焼き付いてます。
(録音したMDにまで残ってます。。)

今日の演奏のビデオテープをもらえるはずだったのですが、
弾き終わって、受付・客席の方へ向かう途中、カメラマンと通訳がやって来て、
「申し訳ないけど、バッテリーが十分じゃなくて、
貴方の演奏は録画できませんでした。
貴方の前の人が長く弾き過ぎで、、、。」とのこと。
そんなぁ・・!!
わざわざ弾く前に、
ずっと1ヶ所で撮るほうがいいか、客席とか色んな角度から撮る方がいいかとか、
細かく訊きに来て、
隣りにいた人も、「彼はキューバでNo.1のカメラマンだから、心配無用よ!」
なんて大袈裟に言ってたので、ほんと、ええぇ〜〜〜!!!って感じでした。
長く弾き過ぎって、
私の前のアレクサンデルがチャイコフスキーを弾くってことは初めから分かってることだし、
どのくらいかかるかぐらい、初めに確かめておいてよぉぉ〜!
でも、どうやら1楽章だけは録画したようなので、
せめて、それだけでも、もらえるように頼みました。

私のあと、キューバのコンテスタント3人の演奏を聴くと、既にもう19:45。
3人の演奏曲目は、演奏順に、ベートーヴェンのコンツエルト4番、チャイコフスキー1番、ラフマニノフ:パガニーニ狂詩曲でした。
初めの2人は、明らかに準備不足の感じでしたが、最後のラフマニノフは準備万端って感じで、会場もめちゃくちゃ盛り上がりました。
専用バスでホテルまで送ってもらい、5人ぐらいでお喋りしながら夕食。
20:40過ぎ、会場へ戻って、結果待ち。
写真を撮ったり、ピーチクパーチクお喋りしながら待ち、
みんな、あくびを連発し始めた頃、
22時近くになって、やっと発表。
残念ながら、入賞はさせてもらえませんでしたが、
ファイナリストということで、雀の涙ほどの賞金とディプロマを頂けることになりました。
しか〜し、1位、2位、3位ともキューバ人というのには、やっぱりちょっと首をかしげたくもなりますねぇ。。
2位はロシア人のアレクサンデルとキューバ人の2人ですが。
要するに、私だけ省かれたという結果なので、ちょっと複雑な気分でした。
まあ、ファイナルまで残れて、キューバのオケと共演までできて、 十分ラッキーと思うしかないですねぇ。。。
やはりやはり、コンクールは色んな意味で難しいです。
ホテルに着いたのは、23時近く。。。
ふぅ〜〜〜。
とりあえず、緊張から解放されて、やれやれ。

 ↑ハバナの新聞。ファイナル進出を報じる記事。私の名前も。。


コンツェルト・リハ 2003年2月17日

8時前起床。
今日は、キューバ国立交響楽団とのリハーサル。 
13時からロシア人アレクサンデルのリハのはずが、
オケ・メンバーはそれぞれ勝手気ままに練習していて、
始まる気配、まるで無し。(;_;)
舞台から離れた2階で気長に待っていると、
14時過ぎに、急にチャイコフスキーのコンツェルトがかすかに聞こえてきて、
やっと始まった。。。って感じ。
ちょっぴり緊張して、1時間待ち、
次は私の番です。
ベートーヴェンのコンツェルト3番。
初め、ラフマニノフの3番でプログラムを出していたのですが、
何となく嫌な予感がして、変更しておいたのでした。
メンバーが全員揃っていないのか、来たい人だけしか来ていないのか、
かなりスカスカで、音が鳴るべきところで鳴らなかったりするので、
オケの出だしからかなり動揺。
全ページ、楽譜を頼りに弾きました。
まあ、リハなので、何があっても大丈夫なのですが、
リハで失敗したりすると、身体が無意識に覚えてしまって、
本番で、同じことをしてしまいかねないので、
そうそう気を抜けません。
指揮者とのコミュニケーションも問題なく(解釈を含み)、
何とか無事に終わりました。
あとは本番の成功を祈るのみです。。
しっかし、明日、楽譜なしで大丈夫なんだらうか。。。??


練習 2003年2月16日

10時頃、バスで、練習場所ISAへ。
バスを待って練習場所に向かうのも、ロシア人アレクサンデルと私の2人だけになりました。
10時半頃到着、アレクサンデルは、12時までしか練習しないと言い(チャイコフスキーのコンツェルトなのに!)、
私は、もっとできるだけ練習したいので、使用可能な17時まで居残ることに。
13時頃、バスが来て、私は居残るつもりが、
コンクール会場の2階が多分空いてると言うので、移動。
14時から17時過ぎまで練習。
17時半にバスのお迎え。
ホテルに着くと、入り口で、セミファイナルで惜しくも落ちてしまったアルゼンチーナのリリアにばったり会い、
ホテルからすぐの、ハバナで有名なアイスクリーム・パーラー『コッペリア』へアイスを食べに行くことに。
彼女は、ハバナ・ツアーというバスの観光ツアーで、
ハバナをぐるりと観光して帰ってきたところでした。
この『コッペリア』、観光客向けとキューバ人向けのアイスは質も量も全然違うなんて噂も聞いたけど、
舌がとろけるほど美味しかったです。キューバ人向けのアイスはもっと美味しいらしいけど、これより美味しいアイスなんてあるのかしらん?
私は、マンゴとバニラのアイス(2.8USドル)を食べました。
すごく安いと聞いてたので、あれ?って感じでしたが、
まあ、美味しかったからいいでしょう。

↑コンクール専用バスの運転手の娘さん(4歳)。可愛い!


セミファイナル2日目 2003年2月15日

朝食後、9:15にバスが来て、練習場所ISAに10時頃到着。
ファイナルに残れるかどうかさっぱり分からない状態で、
ファイナル用のコンツェルトの練習をするのは、何とも複雑な気分です。
でも、運良く受かれば、明日リハかもしれないので、
とりあえず、リピートして頭の中に全体像を蘇らせておかねばなりません。
12時ごろ、バスのお迎えが来て、ホテルへ。
「残って、練習する?」と訊かれましたが、即答で「NO.」。
今日は、私だけでなく、残って練習したがる人はゼロ。
13時過ぎからホテルで昼食。
14時にバスが来て、コンクール会場へ。
4人の演奏を聴きました。
キューバ人のテクニックが想像以上にすごくて、驚きました。
背が高く、がっしりしていて、ガリバーの巨人の国から来た人達みたいでした。
当然、手もめちゃくちゃ大きく、
同じ土俵に立つのが不平等、不公平に感じるほどです。
ただ、道具としての手は素晴らしくても、感情、音楽性が微塵も感じられない演奏をする人もいて、
ロボットが弾いているかのようで恐ろしくもありました。
19時過ぎに終わって、発表待ち。
カフェで、みんなでべらべらお喋りしながら、延々と待ちました。
21時10分頃、やっと発表。
まず落とされるだろうと思いつつも、幸運を期待する自分もいて、 どきどきの瞬間。
結果は、ロシア人のアレクサンデルと、キューバ人3人と、
そして、私! 紅1点です。
嬉しい驚き!! 
感謝感激!
コンツェルトが弾ける!
キューバ国立交響楽団と共演できる!
はるばるハバナまで来た甲斐がありました。
で、現実に戻って、怖れる点は、、、
リハと本番の日程です。
明日リハとなると、かなり危ない。
訊くと、リハはあさって、ファイナル本番は18日とのこと。
ほんとにほっとしました。
21時半頃、ホテルに着き、みんなで夕食へ直行。(ホテルの夕食は22時まで)
みんな、それぞれの思いがあって、複雑な表情、
それでもベラベラ冗談を言い合って、22時半頃、退散。
精神的に疲れた1日でしたが、
ファイナルまで残れて、気持ちの良い疲れとなりました。


セミファイナル 2003年2月14日

8時起床。
ホテルの周りをちょっとだけ歩いた後、8:40から朝食。
9:15バスが来て、10時前、練習場所ISAに到着。
12時前、お迎えバスが来て、ホテルへ連行(?)される。
もっと練習したいよぉ〜〜〜。
途中、コンテスタントの一人がカメラを買いに行き、
13時頃、ホテルに到着。
物を買うのに、とにかく時間がかかり、一昔前のロシアみたい(←話で聞いただけですが)です。
今日も昨日と同じく朝食のサンドイッチetc.をかじり、急いで着替えて、ロビーへ。
13:50頃、バスが来て、コンクール会場のアマデロ・ロルダン劇場へ。
1時間ほど待って、14:50から2階の小ホール(グランドピアノ)で練習し、
15:20頃、舞台袖の控え室(アップライトピアノ)に移動。
落ち着かず、でも再び集中して練習し始めると、「もっと小さく出来る?」なんて言いに来て、
ほとんど練習になりません。
指馴らし(鳴らし?)は諦め、楽譜を眺めて、頭の中の整理に集中することに。
16時から、いよいよ出番。
いつものことですが、心臓が逆流するほど緊張。
演奏したプログラムは、
ベートーヴェン:ソナタ26番『告別』
ブラームス:ソナタ2番
ドビュッシー:喜びの島
E.レクオーナ:ブルレスカ
       ヒタネリアス
J.ピネラ:演奏会用練習曲 ヘ長調

です。
最後のJ.ピネラという作曲家の曲は、楽譜を3ヶ月前(私は諸事情から1月にやっと手に入りましたが)に与えられる課題曲です。
あと、キューバの作曲家レクオーナの曲を2曲というのもルールでした。
反省点、嫌なところを挙げればキリがありませんが、
与えられた条件の中での自分の限界、精一杯の演奏だったと思うので、
あとは天命を待つのみです。
夕食後の21〜22時、このコンクールですっかり仲良くなった4人で、
ホテルの周りを散歩しました。
想像以上に、観光客で溢れていました。
でも、そこらじゅう、警察が巡回していて、治安が悪い印象はありません。
観光客から物を盗むと、15年間刑務所行きだそうで、
そのために治安がいいんだとか聞きました。

セミファイナルは明日も続き(今日が4人、明日が4人)、結果は明日の夜。
明日の練習、どうしようかなぁ。
あ〜、いや〜な1日になりそう。。。

↓キューバの人は写真を撮ってもらうのが大好き。
カメラを構えると、「ちょっと待った!」と、
必ずと言っていいほど、誰かが走って来ます。


練習 2003年2月13日

1次を通過してほっとするのも束の間、早速、明日は2次予選(セミファイナル)です。
しかし、今日じゃなくて、よかった、よかった。
朝8時過ぎ起床。
9時前、朝食をとり、9時半頃、バスが来て、
10時頃、練習場所のISAに到着。
朝食のバイキングから、サンドイッチとパウンドケーキをこっそり(?)頂戴しておいたので、
ランチの心配なく、練習に専念できました。
16:45頃、お迎えバスが来て、17:15頃ホテル着。
ホテルの周りを少し散歩して、休憩。
昔々のクラシカルでめちゃめちゃおしゃれな車が、そこかしこに走っていて、昔の映画の中に迷い込んだかのよう。
こんな車が未だに走ってる国って、ほかにあるんでしょうか。。?
ただ、排気ガスがすごくて、ちょっと息苦しい感じ。
ただでさえ、湿度が高くて蒸し暑いのに。。
19時過ぎから夕食。
23時就寝。
何て健康的な生活なんでしょう。


1次通過! 2003年2月12日

9:15ホテル前にバスが来て、9:30頃、出発、
10時頃、練習場所のISAに到着。
12時にまたバスが来るなんて言いながら、実際にバスが来たのは13:15頃。
1次予選は今日もまだ続いていて、結果がまだ分からないので、
何とも落ち着かず、複雑な心境でしたが、
もし受かれば、明日かあさって、1時間プログラムを弾かねばならないので、
やっぱり練習しておかねばなりません。
コンクールというのは、ばっちり弾いても落ちる時は落ちるし、
どう転んでもパスしないだろうと いうようなひどい演奏をしても、ひょっこり受かってしまったりするもので、
ひたすら幸運を祈りながら、気持ちを切り替えて、次のラウンドに備えるしかありません。
ホテルに戻れば、また今度、いつ練習場所に連れていってもらえるか分からないし、
練習は17時までしかできないことになっていたので、
ISAに残って、練習を続行することに。
17時に迎えのバスが来ることになっていて、そのつもりで練習していたら、
仕事をできるだけ早く終えたいのか、普段は絶対遅れて来るのに、
こういうときは早くやって来て、16:30には連行され、コンクール会場へ。
会場内のカフェテリアで、みんなでお喋りしながら、
結果発表待ち。
何度、体験しても、この結果を見るまでの時間というのは本当に嫌なものです。
19:30頃、やっと発表。
1次通過!
コンクールの結果は、いつも、どんな演奏をしても、その時の運次第、審査員次第と 思っているので、
今回も、落とされることを十分覚悟していました。
なので、自分の名前を呼ばれたときは、通過できなかった人の名前を呼んでるのかな?
と思ったり、一瞬、よく分からなくて、「I passed? or not?」なんてもう一度訊きに行きました。
「You passed!」と言われて、嬉しかったこと!
1次予選であれ、2次予選であれ、通過した時というのは、本当にほっっとするものです。
不思議だったのは、結果を待ってたのが外国人のみで、
その中にコンテスタントのキューバ人が 一人もいなかったということ。結果を見る必要なしということ??
私だけでなく、みんな不思議がっていました。

↑バスで、練習場所(ISA)へ


1次予選 2003年2月11日

8:15〜9時頃朝食。
部屋に戻ると、コンクール事務局のマリアという通訳の女性から電話。
ロビーに降りて来るようにとのことで、楽譜と貴重品だけ持って、すぐにロビーへ降りて行くと、
コンテスタント達が勢揃いで、今から、バスで、ISA(Instituto Cubano de la Musica、略称ISA)という場所へ、 練習に行くとのこと。
何も分かっていないのは私のみで、一体、私の番号は何番で、いつ弾くのか、尋ねると、
「おそらく、あなたは明日よ。大丈夫。心配しないで。」なんて言うので、
とりあえず、ほっとしたのも束の間、
すぐに、どこからか、「彼女はたしか5番よ。」との声。
「あら、じゃあ、今日ね。3時からよ。」なんてさらっとマリアさんに言われて、
ガ〜〜〜ンでした。心臓に悪すぎ。
とりあえず、みんなでISAに向かい、10:20頃到着。
で、11:30にホテルの昼食のためにバスが来ると言ってたのに、、、来ない。
置いていかれても困るので、廊下に出たり、入ったりしながら、
落ち着かずに練習を続けてると、
13時ごろ、突然、ブチっと電気が切れました。
で、諦めて、廊下に出てると、13時過ぎ、バスが来て、
13:30頃、ホテル着。
アルゼンチーナのリリアと一緒に、コンクール事務局に、リハの件で、電話をしに外へ。
コンクールのジェネラル・コーディネーターのホルヘ氏を探すも、不在。
ホルヘ氏は14時ごろ来るとか。
諦めて、ホテルのレストランへ昼食をとりに行きました。
時間がないので、野菜サラダを頼むと、古めのレタスとトマトのみ。う〜〜ん。
14時数分前、部屋へ戻って、服を着替えようとしたところへ、 ホルヘ氏から電話。
が、英語があまり通じないので、5分以上、ほとんど無駄電話。
バスが14:15に来ると言ってたので、
電話を切った後、大急ぎで支度してロビーへ降りたのですが、またしてもバス来ず。
14:50頃に来て、すぐ出発。
15時ちょっと前に会場に着き、通訳のマリアがリハーサルのことを訊いてくれて、
調律が終わってから、15分間、リハをさせてもらいました。
その後、15:45〜16時過ぎまで上の部屋で練習し、下に降りて、控え室のアップライトで 練習してると、
16:15ごろ、いきなり出番だと言われ、えっ???って感じ。
私の出番は16:30だと言われていて、その心構えだったので、一瞬、凍りました。
キューバには予定した時間を守る習慣は全くないようです。(;_;)
1次予選は30分のプログラム。
私のプログラムは、、、
 バッハ:平均律第2巻No.19イ長調
 ハイドン:ソナタホ短調Hob.]Y:34
 リスト:3つの演奏会用練習曲より『軽やかさ』
 ラフマニノフ:練習曲集『音の絵』Op.33―No.6 変ホ短調
 ショパン:練習曲Op.10-8
M.サウメル:La Tedezco(テデスコ)
       El Somaten(警備隊)
 I.セルヴァンテス:『キューバ舞曲集』より
         Mensaje(メッセージ)
         Te quiero tanto!(とても愛している!)
        というものでした。
キューバの作曲家サウメルとセルヴァンテスによるコントラダンス、ダンスを2曲ずつ演奏するのがルールでした。
リストとラフマニノフのエチュードは今回初めて入れたので、超緊張でしたが、
何とか、大きなアクシデントもなく、終了。
あ、でもラフマニノフで10小節ぐらい(もっと?)ジャンプしたのは、アクシデントに入るかな。。

私のあと、しばらく休憩で、17:20頃、次の人の演奏がやっと始まりました。
その後、みんな一緒にバスで、18:30頃ホテルへ。
18:50頃、実家に電話しに外へ(日本は何ともう翌朝8時50分。14時間の時差!)。
ホテルからだと、日本にかけると、1分4,85ドルと書いてあって、高すぎ!
なので、電話はもっぱら、テレホンカードを買って、外の公衆電話を使いました。
19時過ぎ夕食。
ロシア人のアレクサンデルが一人で食べていました。
私の後、アルメニア人のナナ(愛称)&もうひとりの日本人が合流。
みんなでお喋りしながら夕食。
部屋に戻り、ちょっと休憩して、髪を洗うが、ドライヤーがない。。。

↑ISA(Instituto Cubano de la Musica)の練習室


いざ出陣! 2003年2月10日

午前4:15(早すぎ!)、ドラーゴおじさんの車で、リエカへ。
5:00発のクロアチア航空会社のバスで、7時半頃、ザグレブ空港に到着。
9:15ザグレブ発⇒11:20パリ着。
パリ発ハバナ行きの便の搭乗時刻12:35(13:25発)となってるので、ゲートに行くと、13:00に変更されていました。
で、13:00に行くと、すごい人混みで、更に13:30と書き換えられていました。
13:30過ぎ、やっと搭乗、しかし、なかなか出発せず、
15:20頃、突然、動き出しました。
これがないと多分、ザグレブかパリで止められて、航空券があっても、
飛行機に乗せてもらえないなんて脅かされて、
8日(土)にぎりぎりセーフで手に入れたツーリストカード、
パスポートを提示する時に、わざと隠して見せなかったのだけど、
ザグレブでもパリでも、何も訊かれなくて、拍子抜けでした。
17:40ハバナ着の予定が、19:30頃到着。
これは現地時間なので、クロアチア時間に直すと、
19:30は、すでに翌日11日の午前1:30。
パリからハバナまでは、約10時間、ヨーロッパから日本まで飛ぶのとほとんど同じです。
ハバナに到着すると、まず入国審査。
これが、信じられないくらいのスピードで、
一向に前に進まなくて、気が遠〜くなりました。
でもまあ、1時間ぐらいで、ようやく終わったけれど、
その間、預けた荷物は一体、どうなってるんだろう。。と、心配で仕方ありませんでした。
それにしても、1時間、リュックを背負って、ず〜〜〜っと立って待つのは、かなりしんどいものでした。
続いて、預けた荷物の受け取り場所(1ヶ所しか見当たらない)へ向かいましたが、
待っても待っても、私の荷物は現れず、近くにいた係りの人に、荷物は全部ここに運ばれるのかと訊いてみると、Yes!との返事。
もうしばらく待ってみましたが、一向にやって来る気配はありません。
もう一度、違う人に、チケットを見せて尋ねてみると、
「エールフランスはここじゃない、向こうだよ。」
と言われ、え〜〜!!って感じで、急いで、指差す方向へ向かいました。
すごい混雑ぶりで、人混みの隙間から、上の方にエールフランスの文字が見えて、
ほっとしたものの、待っても待ってもやはり私の小さなスーツケースは現れません。
中に、1次予選で着る洋服や靴が入ってるので、冷や汗ものでした。
ドレスや靴は、必ず機内持ち込み手荷物として、絶対に預けないという話をどこかで読んだことがあるけれど、大いに納得、
これからは絶対に預けまいと思いました。
幸いに、21:30頃、荷物を受け取ることが出来ましたが、引き伸ばせられる仕組みの持ち手が壊れていました。
いよいよ空港を出て、ハバナ入国。
現地の旅行会社から誰か迎えに来てくれることになっていましたが、
17:40着とメールで知らせていたため、かな〜り不安。
予定時刻から、既に約4時間も過ぎてしまってる。。。。。
出口(入り口?)のドアが開くと、ものすごい人混みで、
仮に誰か来てても、これじゃ、分かんないんじゃ。。。??と思ったそのとき、
Ms.YOKO NISHIIという文字が目に飛び込んできました。
何と感激!ずっと待っててくれた!
ルイスさんという感じのよい青年で、「随分と待ったでしょう?」と訊いても、
「空港では、当然のことだから、全然、気にしないで。」と、嫌な顔ひとつせず、快く迎えてくれました。
すぐに、タクシーで、私の滞在先のホテルへと向かいました。30分ほど。
その間、飲料水のことや、両替のことや、町のことを簡単に説明してくれました。
メールでは、この日、到着した後、会場でのリハーサルについて触れられていたため、
それが気がかりで、今日、行われたはずの抽選の番号を含め、
コンクール事務局の人と連絡を取りたかったのですが、
ホテルに着いたのは、既に22時近く、
ルイスさんも、「たぶん明日の朝早く、事務局の誰かから電話があるだろう」と言うので、その日は諦めて、寝ることにしました。

↑パリのシャルル・ド・ゴール空港にて。
 ハバナ行きの便を待つ人たち。すごい混雑。


ハバナ遠征! 2003年2月

2月10日〜24日まで、コンクールで、キューバのハバナに行ってきました!
IGNACIO CERVANTES国際ピアノコンクールというコンクールです。
残念ながら入賞は逃しましたが、
1次予選、2次予選(セミファイナル)を突破して、ファイナルまで残り、
キューバ国立交響楽団と共演することができて、はるばる遠征した甲斐がありました。
ディプロマとほんのわずかながら賞金も頂きました。

徐々に、日記を埋めていくつもりです。。。

↑コンクール会場のTEATRO AMADEO ROLDAN(アマデオ・ロルダン劇場)


タンク 2003年2月5日

浴槽の上のボイラーのタンク。
このタンク分のお湯を使い果たすと、
2時間ほど待たないと、お湯は出ません。
という訳で、身体を洗うと、髪を洗うお湯はもうない。。。


アパート生活第1日目のショック 2003年2月4日

クロアチアでのアパート生活第1日目のショックは、
お風呂でした。
不清潔極まりない寮でのシャワーを1年間我慢したあと、
自分専用のシャワー、しかも浴槽があるということに、
どれほど嬉しい気がしたことでしょうか。
引越し第一日目の夜、早速、浴槽にお湯を溜め、
感激しながら入浴し、
さあ身体を洗おうとシャワーを出し始めたら・・・
冷た〜〜い!!
上を見上げると、
ちょうど浴槽の容量と同じぐらいの大きさのボイラーのタンクが。。。
ぬるくなったお湯で石鹸を洗い流して、
何とも哀しい入浴を終えたのでした。
一度、浴槽にお湯を溜めて、タンクのお湯を使い果たすと、
再び温まるまでに2時間はかかります。(;_;)
日本が一番と思えるもののひとつは、やっぱりお風呂、そして温泉ですね。


解凍 2003年2月2日

以前に人前で弾いたことのある曲を再び弾かねばならない場合。。。
以前というのが、もう2年も3年も、時には、5年ぐらい前のとき。。
その当時、じっくりさらったのであれば、その曲を思い浮かべると、
必ず、ぼんやりとではあっても、全体のイメージが湧き上がります。
よく例えて言われるのが、解凍作業というものでしょう。
ぼんやりしたイメージは残っていても、全く弾けなくなってしまってる曲を、
また再び、人前に出せるぐらいに仕上げるまでの作業は、
冷凍庫に保存しておいた食料を解凍するときの作業とよく似ているのです。
カチンカチンに凍ったお魚を、上手く解凍するには、いきなり焼いてもいけないし、
外に出して、自然解凍するのが無難で安全でしょうか。。
または、今の世の中、やっぱり、電子レンジでチン!というのが一番手っ取り早く、失敗もないでしょうか。。。?
時間にゆとりのある場合、楽譜をもう一度、じっくり眺めて、数小節ごとに、ゆっくりゆっくり弾き直し、
以前の勘を取り戻していきますが、これはまさに、自然解凍と同じ感じですね。
時間がなく、追い込まれている場合、
極限状態の集中力でもって、とにかく1,2度、楽譜をにらみながら弾き込み、
3度目には頭に叩き込むというような早業を実行することがたまにあります。
こちらは、まさしく電子レンジでチン!という感じですね。
何れにしても、解凍しただけでは、以前よりもまずく、料理し直さなくてはなりません。
カレーやシチューなど、煮込み直すと、前よりも美味しくなるものもありますが、
物によっては、解凍したものの、どうにも食べられないことだってあります。
楽曲も同じで、ちょっと弾き馴らすだけで、前よりぐっとよくなる曲もあれば、
もう一度、初めから考え直さなければ、どうにも人前に出せないという曲にぶつかることもあります。
どうやら、冷凍庫に保存OKな曲と、常に冷蔵庫に入れておいた方がいい曲とがあるようです。
ついつい、すぐ冷凍保存してしまうんですよね。。。
今も、いくつかの曲を、一生懸命、解凍&調理に励んでるところです。

↑オパティヤ


旧ホームページ復活! 2003年1月31日

昨日、新ホームページを誕生させたばっかりだというのに、
今日になって、突然、以前のホームページが見れるようになりました。
嬉しいような、虚しいような、 何とも複雑な気持ちです。
旧ホームページ(http://goo.gaiax.com/home/yoko51415)は、 今回のように、またいつ消えるとも分からないので、
せっかく作った新ホームページは、
公式ホームページとして、 フォーマルな場(?)で、使っていこうかな。。。
ちょっと検討してみます。

↑イストリア半島にある町ピチャン(地名)


新ホームページ 2003年1月30日

年明けの1月4日頃から、ホームページが開けなくて、
gooのメンテナンスのせいかなぁ〜と気長に待ってたのですが、
気が付けばもう1月30日、これ以上待てませんね。
今だに見れないとなると、どうやら消されちゃったのかしら。。
もうあきらめました。
で、実家の母の使ってるサーバー上に、作り直しました。
何だか、前より重たい(開くのに時間がかかる)気がしますね。。
以前、見てくれてた人たちが、またこの新アドレスを見つけて、
戻ってきてくれるといいですが。。。
振り出しに戻ってしまった気分です。
ご訪問して下さり、この日記まで読んでいって下さった方、
感謝感激、今後ともどうぞよろしくお願い致します。
(あれ?これじゃ、日記とは言えませんねぇ。。)


クロアチア上陸レポ(1) クロアチア上陸レポ(2)
1998年 2002年2003〜2005年