クロアチア上陸れぽーと(2)




寮の窓からの景色



 

翌朝、強い朝日の光で目が覚めました。眩しいほどの強い光で、すぐに窓の外を眺めましたが、その景色は信じられないぐらい美しく、いまだに脳裏に焼き付いています。今まで見たことも想像したこともない景色、とてつもなく遠いところに来てしまったという感じ、ここで今ひょっこり死んでもここには誰一人として私のことを悲しむような人はいない。。。いろんな気持ちが入り混じって、今でもあのときの景色を思い浮かべると、条件反射的に目頭が熱くなります。

 机の上には昨夜の食料が置いてあります。食べられないといってそのまま返すわけにもいかない、全部、紙袋と紙ナプキンに包み、空っぽにして(ごめんなさい!!)、お皿とお盆を1階の食堂らしきところに返しに行きました。

 次は、お金の両替です。クロアチアに来て一夜明けたものの、クロアチアのお金はまだ全く持っていなかったのです。寮を出て、野生の勘だけを頼りに、街の中心地を目指して歩き始めました。途中、歩いていた地元のおばあちゃんに「バンク」と訊くと親切に「あっちよ」と指差して教えてくれました。後ろを振り返り振り返り、寮を見失わないように注意しながら歩いていくと、次第に人が増え、中心街らしくなってきました。すると、目の前に銀行らしい建物が見え、そこで、持っていたドイツマルクをクロアチアの通貨クーナに両替しました。(日本円でも問題なくクーナに両替できるなんてことは、ずっと後になって知りました。。)

 クーナを手に入れてひと安心、次は肝心のアカデミーに向かいました。とは言っても、向かっているのか遠ざかっているのか神のみぞ知る状態。またまた野生の勘を働かせ、歩き始めました。途中で、またしても、地元のおばあちゃんに住所を見せると、「連いてらっしゃい」という感じで、一緒に歩き始めました。「イタリア語?ドイツ語?」なんて聞かれましたが、あいにくどちらも駄目。何人かに道を尋ねるうち、ここのおばあちゃんたちは、イタリア語、ドイツ語を話せるらしいということが分かりました。(後に、1918年から1943年まで、この辺一体は、イタリア領だったということを知人から聞きました。)何を言っているのか分からないのに、このおばあちゃんもまた延々と話し続けていました。どうもクロアチア人というのは根っからの話し好きで、とても人なつっこいようです。公園のような場所を通り抜け、インターネット上で見た写真と同じ建物の前に辿り着きました。「ここよ」と言って正門の呼び鈴まで鳴らして下さいました。

(paint:Yoko Nishii)

おばあちゃんの鳴らしてくれた呼び鈴で、アカデミーから人が出てきて、中に入れてもらい、事務所に行きました。日本からファックスで迎えの件などについてやりとりをしていて、どんな人だろうなと想像を膨らませていたダリオさんに会い、何だかクロアチアに来て初めて知り合いに会ったようで、ほっとしました。

 アカデミーの中を一通り案内して下さった後、現在ポゴレリッチの先生だというマリーナ・アンボカージェ先生を紹介して下さいました。早速レッスン室に連れて行かれ、何か弾かなくてはいけない状況になり、全くその日に先生にお会いすることになるとも弾くことになるとも思ってもみなかったので、一瞬どうしよう。。。という感じでしたが、仕方なくシューベルトのロ長調のソナタを弾きました。「何かカンタービレのものも」と言われ、ちょっと困って、ショパンのエチュードを1曲弾きました。先生は演奏中、ずっと動き回っていて、私の肩に触れたり、歌ってみたり。。。演奏後は、気に入ってくださったらしく、にこにこして、「まず今年のプログラムを決めましょう」とのことで、話し合いました。

 先生とのご対面の後、センター(クロアチアでは、どの町でも、中心街のことをセンターと呼びます。)に行き、お腹がすいたので、ピッツェリアに入り、シーフードリゾットを注文しました。が、お腹がすいていたはずなのに、疲れのせいか、一口食べた途端、何だか急に気分が悪くなり、申し訳ないことに、たっぷり大盛りのリゾットをそのまま残して外に出ました。

 寮に戻り、6時半過ぎ、食堂へ行きました。夕食はフライドポテトとソーセージ。日本人の感覚からすると、スナックという感じです。夕食後、もう一人の日本人で、声楽科(ソプラノ)の**さんにお会いすることが出来ました。数週間後、彼女との1年間の相部屋生活が始まることになるのです。。。

(paint:Yoko Nishii)

 

クロアチア上陸レポ(1) クロアチア上陸レポ(2)
1998年 2002年2003〜2005年