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石畳の街
ウィーン楽友協会

 ウィーン

本来なら北から入るぺきところをバスは西から入るコースをとったため、ウィーン到着が予定より大幅に遅れた。おまけに市街地は一方通行が多く、夕食のためのヴァイスル(小料理屋〉の近くまで来ていながら、なかなかたどり着くことができなかった。ようやく着いた頃には日はとっぷりと暮れ、おまけに暗くなってから降りだした雨は雷雨に変わり、散々な都入りになってしまった。この日の夕食は名物のウィンナーシュニッツェルだったが想像 していた通りミラノ風カツレツそのものだった。ウィーンの宿もエアコンとドライヤーはなかったが、それなりに小綺麗で居心地は悪くなかった。こちらのホテルではおなじみの縦横どちらにも開くというすぐれものの窓を少し開けると涼しい風が入ってきて、ベッドに横になって涼んでいる間にいつのまにか眠ってしまっていた。

朝、今にも降りだしそうな空模様に、妻はあらかじめ考えていた服をやめ、 上着を持った。初めての街は天気の変わり方がつかみにくい。ホテルからバスで市街地に向かった。昨タウィーンの街に入ってきたときも思ったのだが、威風堂々とした建築の立ち並ぶこの街は大都会である。こ れまでの街は王宮や城、それに広場といった点と点をつなぐようにして街ができていた。ウィーンは街の中心を広い王宮が占め、かつては城壁であった部分をリンクと呼ばれる環状道路が巡っている。その周囲に主立った建築が その偉容を誇るかのように立ち並んでいる。マーラーが指揮棒を振った国立歌劇場(写真)を始めとして、その多くが十九世紀の建築であり、これまで訪れた街と比ぺたとき、何よりもその大きさに圧倒される。なるほど舞踏会の似合いそうな街だというのが第一印象である。

 シェ−ンブルン宮殿

シェーンブルン宮殿ブルボン王朝の象徴とも言えるヴェルサイユ宮殿を意識してハプスブルグ家が造らせたシェーンブルン宮殿は皇太后が好んだと言われるマリア・テレ ジァイエローに塗られている。石造りの街並が醸し出す無骨な印象とは明らかに違うロココ調の明るさが皇太后の人柄を坊佛とさせ小気味よいものがあった。『会議は踊る』の舞台として有名な「鏡の間」にしても、その他の調度にしてもヴェルサイユ以上に精緻かつ華麗であった。さすがに郊外の土地を思う存分に使ったヴェルサイユ宮殿のそれと比ぺると、庭園はその規模において少し見劣りがするものの、欝蒼とした森の中に設けられた木立ちの隧道などにラテンとはちがうゲルマンの気質を見る思いがした。この日の昼食は日本食ということで、ケルントナー通りの「天満屋」という店に入った。店員のほとんどが日本人で、店の作りも純和風の店がこんなところにあるのにも驚いたが、松花堂風の弁当は白身魚のフライに違和感を感じたもののそれ以外は日本で食ぺるものと遜色なく、贅沢なものを食ぺてしまったという思いが残った。

 ユーゲントシュティール

カールスプラッツ駅ケルントナー通りから程近いカールスプラッツ駅近くに、クリムトのベートーベンフリーズで有名な分離派会館がある。音楽の都という形容が必ずかぶせられるウィーンだが、ここは世紀末芸術の都でもある。ウィーン分離派はマーラーとも関係が深い。ベートーペンフリーズに描かれている騎士のモデルがマーラーその人だと言われているほどだ。美術史的な価値はさておき、クリムト、シーレなどに代表されるウィーン世紀末美術は、ラファエロ前派とともに私が偏愛する絵画の流派の一つである。そういうわけで、ウィーンでは美術館巡りをしようと予め決めていた。

 分離派会館

分離派会館 分離派会館は本来の白い壁が最近は真赤に塗られてしまっていたのを、もとの白に塗り替える途中で工事用のネットに覆われていた。さすがにウィーンっ子が「金色のキャベツ」と呼んでいる屋根の上のモニュメントだけは金色のままだったが、世界的に有名な建築の色を勝手に塗り替えてしまい、しかもそれをまた塗り直すというのが信じられない。先程のカールスプラッツ駅もこの建築もオットー・ワグナーによるユーゲントシュティール(アールヌーボー)様式の建築である。どっしりとした威圧感のある建築が目立つウィーンにあっては、これらの建築はかなり違和感がある。分離派の目指したものが当時の人々に受け入れられなかったのは分からないでもない。

工事中の散らかった会館の地下、さして広くもない部屋の白い壁の上部を取り巻くようにそれはあった。金箔を惜しげもなく使い、うねる曲線を多用するクリムトの絵は、好き嫌いのはっきり分かれるタイプの絵だろう。性を前面に押し出し、なおかつ退嬰的に描き出すその作風は世紀末という時代の雰囲気を色濃く写し出している。

 街を歩く

ウィーンにはたくさんの美術館があるが、その中でも美術史美術館はヨーロッパの名画が多く展示されていることで有名である。例えば、ブリューゲルの「冬景色」、フェルメールの「画家のアトリエ」、それにアルキンボルドの「王の肖像」。どれをとっても誰もが一度は画集等で目にしたことのある名画だ。更に午前中に訪れたベルヴェレーデ宮にはクリムトのコレクションがあり、彼の有名な「接吻」や「ユーディット」が常時展示されている。これを見ないで帰るという手はない。

幸いなことに旅行者用に地下鉄の一日乗車券が発売されている。自動販売機で手軽に買え、トラムも乗り換え自由で一日中乗り放題という。日本円にして六百円くらいだろうか。便利なシステムだと思った。ヨーロッパに来て感じるのは市民が公共交通機関で移動することを前提として交通システムが考えられているということだ。トラムや地下鉄に低料金で、しかも待たずに乗れるなら誰も町中まで自家用車を乗り入れようとは思うまい。当然不便は我慢しなければならない。停留所から目的地までは歩かねばならないだろう。そのかわり、街には車を止めるためのスペースに代わって、人が憩えるカフェや木陰が増えることになる。どちらが人にとって心地よいのか考えるまでもなく明らかだ ろう。居心地の良い街にはそれなりの理由というものがあるのだ。

 美術史美術館

ウィーン美術史美術館マリア・テレジアの像のある広場をはさんで自然史博物館と美術史美術館 が建っていた。美術館の中に一歩足を踏み入れて、その華麗さに息をのんだ。 大理石の柱や天井の騙し絵、フロアにおかれた彫像、そのどれをとっても美術館自体が美術品になっている。  ルネッサンスの絵画にも心魅かれる作品が多いのだが、ゆっくり見ている と一日掛かりになってしまう。それでもラファエッロの「聖母子」の前は素通りできない。この絵にはそれだけの魅力がある。 何の変哲もない庶民の日常を描くことがかえってその頃としては考えられ ないことだったのだろう。ブリューゲルの絵には聖人でも英雄でもない民衆 の暮らしが活き活きと描かれている。遠近法の巧みな使用が、この絵が単なる風俗画でないことを物語っている。技法が主題を支えているのだ。  残念だったのはフェルメールの絵が修復中のために見られなかったことで ある。フェルメールを目にするのは本当に難しい。作品数が限られていて、 しかもそれがオランダに集中しているからである。今世紀最後と言われた少し前の展覧会には世界中から人々がオランダに駆けつけたという。それほど 見ることの難しい絵なのだ。(後日談になるが、二年後大阪で開かれた「フェルメールとその時代展」で、フェルメールを見ることができた。)

 ベルヴェデーレ宮殿

王の夏の離宮は市の中心から少し離れた小高い丘にあった。「ベルヴェデー レ」という名は「眺めの良い」という意味を表す。なだらかな傾斜地を利用 し、上宮と下宮を擁するこの宮殿の、上宮の前に立って下宮を見下ろすと、 幾何学的な苅込みと芝生の間に往き通う小路の向こうに教会の塔やその他の 市街地の建築が一望でき、その名の意味を誰もが納得する。

ベルヴェデーレ上宮は、今では美術館になっており、クリムトやシーレ、 ココシュカといった画家の絵がその一室を占めている。空調設備があり、完全に外光を遮断してあった美術史美術館とは違い、窓を開け放した開放的な広い部屋の壁いっばいに画集で何度も見た絵があった。さりげなく架けられ た絵を間近に見ていると、画家の筆使いや息遺いまで伝わってくるようだ。
画集では気づかなかったのだが、クリムトの筆触は意外に印象派風である。微妙な色彩の混色が細い筆による縦長のタッチで 点描風になされていた。隣の一室に展示されているルノアールやゴッホと比 ぺると、色の幅は広くなく、日本画に学んだのか平面的な印象が強い。一時期と比ぺると、様式的に完成されたクリムトより、自己の存在自体に苦悩しているようなシーレの絵に魅かれるようになってきている自分に改めて気づ かされた。

 聖シュテハン寺院

市の中心部に戻り、聖シュテハン寺院を訪れた。荘厳なゴシック様式の大 寺院だが、屋根はやはり色タイルによる幾何学的な文様が描かれていた。反対側に回ると同じ色タイルながらハプスブルグ家の紋章である双頭の鷲が大 きく翼を掲げていた。法皇と王、二つの権力が仲良く一つの屋根を染め分けているわけである。  午後の光が薔薇窓を通して堂内に降りてきていた。一つの礼拝堂から人が出て来た。入れ代わりに鉄の扉を押さえながら中に入った。飾り気のない礼拝堂にはイエスの等身大の木彫りの十字架像が壁の上部に架けられ、その下に蝋燭の灯が揺れていた。胸の前で手を合わせて祈る妻の向こうから淡い色 硝子越しに薄明りが差して、祈る人の形が影絵のように浮かび上がった。

 市庁舎前広場

近くのカフェで一休みした後、夏の野外コンサートで知られる市庁舎前の広場に出かけた。市庁舎の玄関に大きなスクリーンが張られ、その前にはたくさんの木の椅子が並べられていたが、上演までにはまだまだ時間があり、腰掛けている人は少なかった。

会場にはエスニックな屋台がたくさん出てい て、観客の多くはそちらのほうに集まり、気ままな食事をしている最中だった。それぞれの国を代表する軽食が並ぷ中には、日本のやきそばの屋台もあっ た。食ぺ物の横にはやはりその国自慢の飲みものを売る店が出て、行列を作 る店もあった。ここで食ぺてしまおうかとも思ったのだが、今一つ食指が動 かなかったのは、人いきれと香辛料の混ざりあった匂いの外に疲れもあったのだろう。

通りを隔てた静かな一角に小さなカフェを見つけた私たちはそこで軽い夕 食をとった。常連らしい客が一組いる他には客の姿はなく気の良さそうな小母さんが愛想よく注文を聞いてくれた。英語のメニューがあるというのでそれを持ってきてもらった。いつも困ってしまうのは、メニューにはしやれた名前がついていて、その下にイタリックで、その科理に使われている材科が書いてあるのだが、なんとかの鍛冶屋風などという見たことも聞いたことも ない名前の料理では材料は分かっても調理法の見当がつかないのだ。

日本のように写真入りのメニューがあるわけもないので、いざ注文した料理が出てくると想像していたのと少しちがうといったことがままある。よく知っている料理を注文すればいいわけだが、そういつもいつもシュニッツェルぱかり食ぺるわけにはいかない。食ぺたいものがイタリックで並んでいるのを見て 勝手に想像するのである。 この日の料理は、妻の注文したのは日本でいうメンチカツといったところで、これは予想通り。私の方は書かれていた材料 をみんな卵でとじたようになっていた。確かにスクランブルドエッグと書いてあったが、てっきり添えてあるものと思い込んでいた。もっとも味の方はなかなかで、これはこれで美味しかった。ただ、またしても量が多くて食ぺ切れなかったのは少し悪いことをした。チップを渡すと本当にうれしそうに 礼を言ってくれたので少しほっとした。

地下鉄を乗り継いでホテルに帰った。地下鉄駅には線ごとに色別になった 駅名が次の駅まで表示してあり、とてもよく分かった。地下鉄にも乗りなれた頃、街を離れなければならなくなるのはいつものことだが残念でならない。 ドナウ川を渡る電車の窓から映画「第三の男」で有名なプラター公園の観覧車が見えた。チターの音は聞こえなかった。橋を渡る電車の音だけがいつまでも続いていた。

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