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石畳の街

 ブダペスト

ブダペスト空港には予定通り着くことができた。ホテルは南駅近くのメルキュール・ブダという割合い大きなホテルだった。着いたのは午後六時、日が沈むまでにはまだまだ時間があった。ホテルの前は王宮のある丘で、その下は公園にでもなっているのだろうか、大きな犬が何匹も走っていた。散歩がてらにすぐ近くにある駅に行ってみることにした。

ブダペストはくすんだ街である。悪い意味で言うのではない。けばけぱしい色彩が目につかず、街全体がしっとりと沈んでいるという意味でだ。パンタグラフを架線に滑らせて走る市電の向こうに王宮の建物が見える南駅近くのカフェでビールを飲んだ。どこにでもいそうな人達が、あわてず騒がず、一杯のビールを片手に友と語らっている。もはや若くはない男が一人、たった一杯のジョッキをゆっくりゆっくり飲みながら時を費している。八時 を過ぎたのになお明るい欧州の宵である。もう少しそうしていたかったけれど、長時間の飛行機の旅で疲れた妻を一人ホテルに残しているのも気がかりだった。私も無理をせずホテルで休むことにした。

ホテルに戻り、ミニバーにあったビールで乾杯して、この日は休んだ。今回は、二日ずつ同じホテルに泊まるので、荷ほどきや荷作りが忙しくなくて、気が楽だ。必要な物だけ出して寝た。 しかし、添乗員の言った通り、時差ボケか深夜に目がさえて眠れなくなってしまった。七時間の時差を差し引くと、丁度日本の七時頃である。体はまだ日本時間のままなのだとあらためて気づかされた。

気分爽快の目醒めとは言えないものの、それほど眠くもない。朝食のために一階のレストランに降りていった。今朝の食事はコンチネンタルと聞いていたが、おそらくアメリカ人の団体だと思われる別の一団は、フルーツや八ムをたくさん食卓に並ぺていた。料金を出せば同じものがとれるということだが、パンとコーヒーで充分だった。コーヒーは、少し苦味が勝つものの、充分に満足できる味で、おかわりをした。ブダペストで、東京からのグルー プが合流することになっていたが、昨夜遅くに到着したらしい。その際の騒ぎに少し腹を立てていたのだが、どうやら何人かの荷物が着かなかったらしい。その騒ぎであったのかと、少々納得した。

 ゲレルトの丘

ハンガリーの現地ガイドは、ゾルタンという名の男の人で、日本語も堪能であった。まずはゲレルトの丘に登り、市内を見下ろす格好になった。朝一番ということで、土産物屋も店を開けていない。観光客も少ないのがよかった。ここから見る市内の景色は、ほんとうに美しい。絵葉書のような景色である。二つの街、ブダとペストの間を流れるのが、有名なドナウ川である。ブダペストは、その美しさから「ドナウの真珠」と呼ばれるが、その名に恥 じぬ美しさであった。

バスは再び丘を下り、エリーザベト橋を通り、ペストの側にある英雄広場へと向かった。英雄広場には、ハンガリーの国家的な英雄の騎馬像のモニュメントがあり、大きな広場になっていた。ただ、建国千年を記念して万博の時に作られた広場や通りは、軍隊の示威行進の都合のためか、必要以上に広いという感じがして、なじめなかった。人が心地好く過ごせる広場には、自ずからその広さに限界があるのだろう。 むしろ英雄広場からオペラ座の前を通り、くさり橋のほうにのびているアンドラーシ通りにシャンゼリゼやバルセロナの市街に似た洒脱な雰囲気が感じられる。西欧と東欧の違いのようなものを、あるいは、社会主義とブルジョアジーの差のようなものを感じてしまうのかもしれない。

そのアンドラーシ通りを通って、イシュトヴァーン大聖堂を見学した。ブダペスト最大の教会らしく、石の表面が黒ずんでいるのも作用して、堂々とした印象を受ける。床に敷きつめられた大理石が、まだ凹凸のない所から見ても建築年代の新しいのが分かる。大理石で模様を作ると、その石の硬度の違いから、軟らかい石がはやく摩耗し、表面が波状に凹凸を生じるのである。妻は素直にステンドグラスや聖母像に感動していた。

近くに土産物を扱う店があるので、少し自由時間ができた。買い物は女の人達にまかせて、教会をスケッチすることにした。絵を描いてみて思うのは、手をうごかすことではじめて見えてくるものが多いということだ。ファサードの両側の塔にしても、下部と比ぺると上部は色も新しくその意匠も随分モダンな感じを受ける。サグラダ・ファミリアを例に挙げるまでもないが、こうした教会建築は長い時間がかかるのが普通である。この聖堂にしてからが 1851年から1905年までの約半世紀を要して造られたものなのである。

 マチャーシ教会

再びドナウ川を、今度はくさり橋を渡ってブダ地区に入る。ゲレルトの丘と道をはさんで並ぷ王宮の丘に登る。丘の上には、アールパード王朝によって、13世紀に建てられたネオ・バロック様式の王宮と、同時代ながらゴシック様式による聖マチャーシ教会が建っている。くさり橋ごしに見上げるこの丘の景色は、上から見る景色に勝るとも劣らない。だいたいがこういう建築 は、下から見上げられることを期待して、丘の上に建てられるのである。あおぎ見る視角が最もふさわしいのは当然といっていい。マチャーシ教会の特徴はその屋根の色タイルの美しさであろう。ハンガリーの伝統工芸に刺繍があるが、それに通じる感覚がある。中欧という土地柄を強く感じさせる意匠である。

 漁夫の砦

19世紀に市民軍が王宮を守ったとき、漁師たちによって守られたことから名前がついたといわれる漁夫の砦は、ネオ・ロマネスク様式の白い廻廊と蝸牛状の尖塔が特徴的な建築である。

マチャーシ教会と漁夫の砦の辺りには、多くの音楽家が集まっていた。ジプシーの親子がヴァイオリンとギターでラテンを 奏でているかと思えば、チターに似た楽器で、古楽を弾く楽士もいた。ブラスバンドは行進曲を演奏し、手回し風琴の女性は壁に背をもたせながら、何やら物憂げな様子であった。

 王宮

王宮から見たドナウ川王宮は今では美術館となっていて、主にハンガリー人による絵画や彫刻を展示していた。そこでもゾルタン氏は、自民族の歴史、というのは主に戦いであるわけなのだが、その中で盛んに愛国の心情を吐露するのである。他国民による圧政という歴史を持たない日本のような国に住む者には、おそらく理解を越える心情であろう。日本人が口にする愛国心というのが、なんとなく薄っべらな独り相撲めいたものに見えてくるのが皮肉である。米軍占領下の戦後の日本に反感を抱く人がいるのは判るのだが、彼らが愛国心を説く時、その敵視する相手は、ハンガリー人のように、自分たちをおさえつけた敵国ではない。そうではなくて、同じ国民でありながら、自分たちと遠う価値観を信奉する同国人に対して敵意を抱く、いわば近親憎悪的な愛国心が叫ばれるのは、幸せなことに、他国による圧政を体験することがなかったからに違いあるまい。思えば、米軍占領下にあった沖縄で、日の丸が祖国復帰のシンボルとして盛んに掲げられたのは、間近に敵国人を見ることができた沖縄だけに起きた現象であるだろう。その沖縄にしても同じ国民でありながら、沖縄だけに過剰な基地を集中的に負担させる日本人に対して、今、 どのような愛国心が持てるのだろうか。国という近代のシステム以前の、同じ民族文化を共有するもの同士が共に抱くアイデンティティという点から見れば、ウチナンチューとヤマトンチューという区別のほうが、より自然であるかもしれない。しかし、時間は逆行できない。それを逆行させようとすれば、世界はエスノセントリズムの嵐が吹き荒れることになるだろう。純粋な民族などどこにもあるわけではない。カトリック教会の内壁にアラベスク文様を残したまま、載冠式を行うという、この国の在り方のほうによほど未来があるように思われる。

  カフェ・ジェルボ

昼食は、王宮の下にあるレストランで、ハンガリー料理のグヤーシュを食ぺた。パプリカがきいた野菜入りのスープである。この日のブダペストは、42度という暑さであったがレストランには扇風機があるばかり。暑さで喉が渇いたこともあって、ついついビールを飲み過ぎてしまった。ハンガリーでは赤ワインが有名なので、ワインも当然注文する。後から思うのだがこれが良くなかった。  

午後の自由行動は、バスで市の中心部まで送ってもらって、そこで解散した。歩行者天国になっているバーツィ通りで、おみやげを見ることにした。しかし、どの店にも冷房はなく、さっき飲んだワインの酔いがいっこうにさめず、のどは渇くし、暑いしというので、すっかりばててしまった。英雄広場にある美術館にもいこうと相談していたのだが、結局あきらめ、ヴルシュマルティ広場に面した有名なカフェ・ジェルボで一休みすることにした。

カ フェの前にヴィオラとギターを弾くデュオがいて、まだ若い女の子だったが、とてもきれいな音を出していた。ビールを飲みながら、カフェをスケッチしていると、すっかり落ち着いた。子どもたちへのおみやげも買えたし、初日でもあり、夜は夜で民族音楽を聞きながらの夕食という予定もあるので、早い目に宿にひきあげることにした。

  夜景

チャルダーシュという店での夕食は、バーリンカという食前酒から始まった。プラムなどを原料とした蒸留酒だが、非常に強い。スープが出る頃になると、民族衣装に身をかためた楽団員があらわれた。ジプシー音楽やロシア民謡を独特のかけ声や鞭の音を鳴らしながら演奏するのだが、あいにく荷物 のトラブルが解決していない人もいて、なかなか座が盛り上がらない。私や、もう一人の男の人も踊りの輪に加わるころから、どうにかにぎやかな夕となったようだ。

ホテルに帰った後、地下鉄でドナウ川の岸辺に出た。ここからライトアップされたブダ地区の夜景を楽しもうというのである。暑かった一日も、さすがに日が落ちると涼しくなり、ドナウの川風が心地よい。噂にたがわず、ブダペストの夜景は美しかった。岸辺のベンチに腰を下ろして対岸をながめていると、ドナウクルーズの一団が川をさかのぼっていった。夜風に乗って聞こえる音楽は、アンゲロプロスの映画で聞いた音楽にどこか似て哀調を帯ぴていた。人が動くたびに船の明かりがちらちら揺れて、グラスの音が聞 こえてきそうな気さえするのだった。そうして、すっかり船の明かりが見えなくなるまで、私たちは、そこに座っていた。

 ブラチスラバ

カメラを車に忘れたのに気づいたのは、しばらく歩いた後だった。バスは、とうに離れた所にある駐車場に走り去っていて、取りに帰るのはあきらめざるを得なかった。睡眠不足と、長時間のバス旅行の疲れで、注意力が落ちているらしい。時間があればと思ってバッグにしのばせてきたスケッチブックが役に立つときがきたと考えることにした。

ブラチスラバはかってはハンガリー帝国の首都だったこともある古都であ り、今は、スロヴァキア共和国の首都である。丘の上の城と旧市街が観光の中心だが、あいにくこの日は、自転車競技の大会が開かれており、丘の登りロが通行止めになっていて、城に行くことができなかった。 旧市街は、日曜 ということもあるのか、人影がなく、中世の街にタイムスリップしてしまったような錯覚を覚えた。石畳の道は、真夏の太陽の下で乾上がっていた。広場にある木の陰や建物の影を選んで歩いた。

丁度正午で、教会の鐘が鳴り出した。木陰のベンチに座ってスケッチする私を残して、妻は一人で広場のあちこちを見て歩いていた。手を振って呼ぷので行ってみると、教会の中に入っていくところだった。小さな教会だが、 街の人のための教会は、質朴な味わいがあって好ましい。妻はひどく気に入っていたようだった。久し振りに、小さいころ通っていた日曜学校を思い出したと話していた。

昼食は古いワインケラーをレストランにした「ピニャーレン」で、魚料理を食ぺた。スロヴァキアは肉料理が中心なのだが、ドナウ川沿いのブラチスラバはドナウ川産の鱒料理が有名なのだそうだ。白ワインを頼んだが、ボトルが出ない。500ミリリットルか1リットルだというので、500にした。昼 から1リットルは飲んでいられない。デザートは、またしても甘いケーキ。こちらの人は、本当にケーキが好きだ。

 ボヘミアの森

午後はひたすらプラハを目指してバスはひた走る。窓外に広がるのはボへミアの森や草原である。バスの中には、スメタナのモルダウが流れている。乗客の多くは疲れて眠っているのだろう。音楽がよく聞こえる。ブダペストの街では、マロニエやアカシヤ、プラタナスの樹々が、王宮や街中でよく目についたが、ここでは、白樺や樅、ポプラがよく目につく。森の色が濃くなっ た。なだらかな草原の上には刷毛で掃いたような雲が一つ二つ飛んでいる。ボヘミアに来ているのだなという感慨がひとしきり湧き起こる。

ボヘミアン(芸術家や文学者の中で習俗に縛られず、自由放縦に生きた人)という言葉の響きにあこがれ、ボヘミアの地を見たこともないのに、ただただ憧れていた。若い頃は、自分もまたボヘミアンたらんと思ったこともあるが、今では、自分がポヘミアンからはかなり遠い人格の持ち主であることに気づいてはいる。それでも、何か自分のどこかにボヘミアにひかれるところ があるのは否めない。音楽も風景も何もかもが自分の中に染み込んでくるようだ。

運転手が道をまちがえ、バスはパトカーに先導されてホテルに着いた。市街地からはかなり離れた郊外にある三ツ星ホテルだ。せめてもう少し近ければ、地下鉄ででも出て行けるのだが、この日も夕方の散歩はあきらめざるを得ない 。夕食はホテルのレストランで食ぺた。ヴァイキングはあまり好きではないがドミグラスソースで煮込んだ肉は、赤ワインによくあった。ホテルに着くのが遅くなると、タ昏の時間を楽しむことができない。それ が何より惜しい。日本とは違って、欧州の夏は日の沈むのが遅い。6時にホテルについてもそれから充分に黄昏を楽しむことができるのだ。古い街並みがシルエットとなり、その向こうに夕映えの空が広がるのを、街角のカフェの椅子に腰かけてゆっくりながめている。そんな時間が古い街には似合うの だが。

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