HOME | INFO | LIBRARY | JOURNEY | NIKE | WEEKEND | UPDATE | BBS | BROG | LINK
 JOURNEY / MID.EUROPE / BUDAPEST | PRAHA | WIEN
Home > Journey > Mid.Europe > Praha
石畳の街

 プラハ

プラハの朝はくもっていた。ホテルはエアコンもドライヤーもないという西ヨーロッパの感覚では考えられない設備だが、朝食は果物やハム類が自由にとれるようになっていて満足できるものだった。プラハのガイド、池野さんの話によれぱ、電気器具はまだまだ一般家庭に普及していないらしい。冬は寒いところなのでスチームの暖房はどの部屋にもあったが、夏の冷房までは手がとどかないのだろう。しかし、食料品の物価は驚くほど安いという。設備の足りない部分、食事でサーピスするというのなら、それもしかたあるまい。ヨーグルトと果物で体の調子はとても良い。

 聖ヴィート大聖堂

まず、プラハ城を訪れた。王宮庭園の側から城に入っていった。目の前に聖ヴィート大聖堂の塔と屋根が聾えるように立っている。プラハは「百塔の街」とも呼ばれるように、旧市街に多くの尖塔を聳えさせているが、丘の上に立つ聖ヴィート大聖堂の二つの塔はその中でもひときわ目立つ。衛兵が警護する門をくぐって城内に入る。入ってすぐの建物は、今では大統領官邸となっている。かのバーツラフ・ハヴェルが執務しているところである。さらにその奥に入ると、そこが城の外から見えていた聖ヴィート大聖 堂である。

 ゴシック様式

ゴシック様式は、高さへの意志である。どこまでも高く天空に昇っていこうとするかのように下から石を積み上げていく。それを少し先の尖ったアーチで支え、その上にまた石を組んでいく。高く聳えれば聳えるほど上の方は繊細なレース状の景観を呈する。1344年にカレル4世によって礎石が置かれたこの聖堂はすでに時の侵食を受け、その古い部分は黒ずんでいる。所々に黄金色に塗られた鉄格子や時計の文字盤が輝いている様子はグレコの描くスペイン貴族の立ち姿を思わせる。正面人口から中に入る。内陣の高いゴシック特有のヴォールト天井で、トレーサリー装飾が蜘蛛の巣状に交錯している。教会の内陣は、入口が西に、祭壇が東につくられている。朝のミサの時、太陽の光を受けてステンドグラスから美しい色とりどりの光が教会の内部に落ちるように考えられているのである。そして、入口の上部に薔薇窓が設けられ、こちらは西の陽を受けて輝くようにできている。昔の旅人は、教会に入ることで方角を知ったともいわれている。この聖堂で有名なのは、ミュシャ(チェコではムハ)のステンドグラスである。もっとも、これはステンドグラスというよりは色絵硝子といった方がよいのかもしれない。ステンドグラス特有の色硝子と色硝子を分割する黒い仕切線がないからだ。  聖イジー修道院にある「聖母被昇天」の絵は、かつて県立美術館で目にし、いたく気にいったので複製画が今も我が家の寝室にかけられている。もう一度見たかったのだが月曜日は休館日ということで、残念ながらあきらめた。

 黄金の小路

カフカの住んでいた家修道院の横を通り、「黄金の小路」に出た。16世紀にたてられた小さな家が、おとぎ話の絵のようにならんでいる。城内に勤める兵士たちの住まいとして建てられたものだが、ルドルフニ世の時代、錬金術士たちが住んでいたという風説から黄金の小路と呼ばれている。かつて、カフカも住んだことのあるこの界隈のことは、若い頃、この人の書いたものならなんでも買い集めるほどに魅入られた澁澤龍彦が、次のように書いている。

「黄金小路」と呼ばれる細長い街の一角には、あやしげな占師、術者、カバラ学者がうろうろしていたし、狭苦しいゲットウには土偶ゴーレムにまつわる怪奇なユダヤの伝説が息づいていた。
(『夢の宇宙誌』より)

今読めぱ、澁澤らしい文飾に少々微笑ましさを感じるが、当時の私は、このような文章にまさに魂を射抜かれ、未だ見ぬヨーロッパの古都や、既に失われて久しい中世の街の虜となってしまったのである。それからというもの、物語や詩を書けぱ、その舞台はきっと石畳や教会の塔のある街であり、朝夕にはアンジェラスの鐘が鳴るといった、とんでもない世界に生きていたのである。全く青年時に受ける影響というものはかくのごとく強くその人間の精神の深部に喰い入ってしまう。それはもう、今では自分の一部になってしまっていて、自分以外のものとはとても感じられないのだが、あの大学の暗い図書館の一隅で、この本に出会わなけれぱ、私は今頃この古い街を訪れたりはしていなかったはずである。それを思うと、その巡り合わせの不思議さに驚くばかりだが、図書館の何千何万とある本の中から、この一冊を選んだ私の目は一体いつどこでどのようにして作られていたものであろうか。

 カレル橋

14世紀にかけられたバロック様式の橋は、その両端にゴシック様式の塔を配し、ローマの聖アンジェロ橋に倣った彫像が橋梁の上に並ぷという壮麗なものである。彫像の台座の部分にはめ込まれた浮き彫りには殉教の物語が描かれているのだが、ちょうど橋の中ほど辺りにある聖ヤン・ネポムツキーの殉教の図には、手を触れる物に幸運をもたらすという言い伝えがある。多くの人がそれぞれの思いを秘めて触ったのだろう、レリーフの一部はそこだけ真新しい真鍮色に輝いていた。言い伝えを信じたわけでもないが、私たちもそっと手を当て、心の中を探り、一つだけ願いごとをしてみた。他愛ない話である。

橋を渡り終えると、そこはもう旧市街。バロックやルネッサンス様式の建築が立ち並び、迷路のように入り組んだ街路を構成している。ここには車は入れないが、それでなくても狭い石畳の道は行き交う人々でごった返していた。さながら建築の見本市といった観のある旧市街を歩いていると、玄関を飾る彫像や彫刻を施した扉に目を奪われる。玄関アーチを支える柱を背負うようにして立つヘラクレスの像を見て、
「なんだか、かわいそう。」
と、妻がつぷやいた。建物の高さに比ぺて道幅が狭いためか、これらの彫像は道行く人に覆い被さるようにして立っている。下から見上げた顔は確かに厳しい表情をしていた。

 天文時計

ひとしきり狭い道を歩いて、やっと広い通りに出た。広場の入り口に面した建物の前に人だかりができていた。塔らしき建物の中程に天文時計の文字盤が鈍い黄金の光を放っていた。プラハの事を書いた本ならどれでも表紙にこの写真が使われている、それが旧市庁舎塔だった。

いうまでもなく時計塔は、街の統一の象徴である。時計という機械の発明は、それまで人々を鐘によって支配してきた教会の時間から解放した。しかし、それと同時に人は画一的な時間に支配されるようになったとも言える。季節によって異なる日のうつろいや影の長さによって一日の行動を区切ってきた人々にとって、この新しい機械は馴染みの薄いものであったろう。その時代としては画期的な工夫であったと思われるからくり仕掛けの果たした役割は、人々を新しい時間の観念になじませることであったに違いない。

1490年に作られたこの時計は、毎時きっかりに文字盤の上部に開けられた小窓から十二使徒が顔を出す仕掛けになっている。時間になると、死神が左手に持った綱を引き、右手の砂時計をひっくり返す。すると、小窓が開いて十二使徒が次々と顔を出す。その下では、死神の横にいながらじっと動かずにいた「乱暴者」や、その反対側の角にいた「虚栄」や「貪欲」を表わす三体の彫像が首を振ったり手を動かしたりする。最後に二つの小窓の少し上にいた雄鶏が時を作ると、時の数だけ鐘が鳴り、すぺての動きが止まる。この間約二十秒、あっという間の出来事である。その一瞬を見逃さぬよう、時間が近付くとそれまで広場のあちこちにいた人々が少しずつ時計の下に集まってくる。息を潜めて二十秒のパフォーマンスを見つめていた人々は、鐘が鳴り終わるとまたそれぞれもといた場所に散っていく。まるで、時計が作られた当時の人々がしていた動きをなぞるかのように。

 新市街

広場のある旧市街を出て少し歩くと、そこが新市街。昼食はアドリアというレストランでとった。チェコはピルスナービールで有名な土地柄。いろんなビールがあるのだが、この土地の人に最もよく飲まれているというピルスナーウルケルという銘柄をたのんだ。余談だが、日本におけるビール作りを語るとき、この国を忘れてはならない。チェコのピルスナービールの作り方を学んで帰った技術者が作り出した日本のビールが麒麟麦酒のラガーなのである。最近、そのキリンラガーも長い間の首位の座をアサヒドライに明け渡したと聞く。日本人の味覚が味を感じさせるものよりもむしろそれを感じさせないもののほうを好むように変化してきていることが分かる事例である。無論、ピルスナーウルケルは、例えていえば日本のビールがアメリカのバドワイザーに感じられるほどに味わい深いものであった。

主菜は蒸した牛肉だったが、ここではそれに付け合わされていたクネードリキという料理を紹介しよう。チェコの人はよく食ぺるそうだが、小麦粉を筒状に巻いたものを蒸してカステラのように厚めにスライスし、主菜と同じ皿に並ぺて供する。これといった味がついているわけではないが、むちっとした食感が印象的であった。イタリアでコース料理を食ぺたとき、主菜が出る前に、ごくごくシンプルな味付けのパスタが出た。その時にも感じたのは、主食、副食といった概念を持たないヨーロッパの食事においては、これらの小麦粉を使った一品は、日本におけるご飯にあたるものではないのかということである。単一素材による淡泊な味、他の料理の味を引き立てる働きをしながら、ついでにおなかをふくらませもするといったところがご飯そっくりではないか。

昼食後、「プラハの春」で知られるヴァーツラフ広場に出かけた。ソ連軍の戦車によって蹂躙されたプラハの自由化改革も、すでに過去の話となった感が強い。通りには、若者や観光客が集まり、どこにでもある都会の喧噪があった。緩やかな坂を上った行き止まりに博物館がある。博物館に向かって左手にはアールヌーボーの様式で建てられたホテル・エヴロパ(写真)が昔のままの姿をとどめていた。

 旧市街(ティーン教会)

新市街から旧市街へ戻るとき、少し道に迷った。どこを見ても教会があり、それらすぺてが由緒あるものなので、つい混乱してしまう。おまけに天気が崩れ、雨まで降りだした。通りを歩くことができないので、旧市庁舎の塔に上った。展望歩廊からはプラハの町が一望できた。小雨に煙る街は赤い屋根が複雑に入り組み、その所々にくすんだ緑色に光る尖塔を林立させていた。それはいかにも「百塔の街」という名にふさわしい眺めであった。

雨も小止みになったので、旧市街を歩いてみた。旧市街のランドマークになっているティーン教会をはじめに見ようと思ったのだが、修復中で入れなかった。ツェレトナー通りを通って火薬塔まで出た。かつては旧市街への入り口の一つとして十一世紀からある門である。名の由来は、19世紀に火薬を保管していたことによる。

市民会館のアールヌーボーの建築を見るつもりで、あやまってまったく違う建物に入ってしまった。一階部分がカフェになっていると聞いたので、てっきりこれだと思ったのだが、カフェはホテルドパリのもので「ギャツビー」という名前だった。落ち着いたカフェで印象は大変よかった。本物の市民会館のカフェもあとで訪れたが、こちらはごった返していて、落ち着けなかった。


 黄昏のプラハ

夕陽に染まるティーン教会 旧市街の散策はいいのだが、ただ歩くばかりで疲れてしまう。旧市庁舎前のカフェで少し早めの夕食をとった。黒ビールとちょっとした料理を注文した。昼食と夕食が毎日コースなので少し食傷気味。妻は、何もいらないと言ったのだが、ウェイターが勧めるのでオムレツを頼んだ。運ばれてきた料理を見て、やはり後悔した。一皿の量がとても多いのだ。半分以上残してしまった。ただ、天文時計が七時の時を告げるのを、カフェの椅子に腰を下ろし、ゆっくり見ることができたのはよかった。夕方になって晴れてきた空は、すっかり茜色に染まり、ティーン教会の尖塔が夕焼けを受けて美しく輝いた。こういう時間を待っていたのだ。

ホテルまで送ってくれる送迎バスが来るまでの時間を買い物に使った。往きに決めておいた長男の布製のバッグと二人用のTシャツ。それに次男用に死神の操り人形。長男にはブダペストで魔女の人形を見つけておいた。それにしても、かつて、初めて来たヨーロッパでは、二人のために木彫りの天使像を買い求め、それは今でも居間の壁を飾っているのだが、時の経つのは早いもので、もはや、二人は、楽園を追放されてしまったらしい。チェコは人形劇が盛んで、操り人形を売る店がそれまで歩いた通りの店にもたくさんあった。しかし、旧市街広場の屋台の人形は、店主の自作らしく、他の店の工場製の人形にはない個性があった。

黄昏のプラハはそれまでにもまして美しく、ヴルタヴァ川を渡るとき、沈みかけた陽は対岸の建築を赤く染め、城は夕焼けの下で黒々とした尖塔を、空に向けて突き出していた。


 カレルシュテイン城



この日はプラハ近郊のカレルシュテイン城を訪れた。小一時間も走っただろうか。山というよりは丘をバスは登っていったが、どこにもそれらしいものは見えない。それもそのはず、カレル四世が宝物を保管するために作ったもので、山間の渓谷沿いに建てられているのだそうだ。バスは次第に道を下り始めた。山の麓の小さな村でバスを降り、しばらく道なりに歩くと、やがて行く手の丘の上に大きな城が見えてきた。小さな家が道の両側に軒を並ぺて土産物を商っていた。城に続く坂道は、それでなくてもかなり勾配があったが、見学の予定時間に遅れると待たされるというのでかなり急いだ。プラハで買ったシャツが汗で背中に張りついた頃、城の入り口に着いた。

城の中は思ったより広々としていた。部屋の隅の壁が谷川の上の空にせり出すように大きく穿たれ、その両側に作られた縦に細い窓に緑濃い谷間の景色が美しく切り取られていた。張り出し窓の下には石造りの長椅子が互いに向かい合う形に設えてあった。往時の人々もこの石の椅子に腰を下ろしては窓からの景色を楽しんだにちがいない。午前の光が柔らかく差し込む窓に凭れ、灰白色をした石の上に手を置いてみた。ひんやりとした石の表面がほんの少しあたたかかった。謁見の間の格天井は、一つ一つの格子の中が青く彩色され、その中央には金色の星が描かれていた。麓の村を足下に敷き、天近い丘の上の孤城に独り居て、夜な夜な王はこの星空を眺め、何を思ったのであろうか。

帰り道はゆっくり歩いた。道の左手に小さな川が流れていて、家と道の間 に小橋がいくつもかけられていた。どこかで見たような景色だと思った。どこでもない。日本の山間の風景に似ているのだ。よく見れば、窓の格子には朝顔の蔓が這い、うす紫の花までつけている。子どもたちは自転車で走り回り、猫はのっそりと道を横切っている。そういえば、これまでの街ではこうした姿に気づきさえしなかった。威圧的な風景ばかり眺めてきた目に、この閑村の光景は思いなしか心やすまるものがあった。


 チェスケー・ブジェヨブィツェ

昼食はチェスケー・ブジェヨブィツェという街で食ぺることになっていた。相変わらず道不案内な運転手は車を止める場所がわからず旧市街の周りをぐるぐると回り続けるばかりだった。しかたなく私たちは車を降り、歩いて旧市街の中に入っていった。石畳の道をはさんだ両側には明るい黄や水色の塗料を塗った壁を持つ古い家並みが続いていた。

オーストリアとチェコを結ぶ要衝の地として古くから開かれていたこの街は、バドワイザーというビールの発祥の地としても有名である。この地から新大陸に移住した移民が、彼の地でビールを作り、故郷で愛飲していた銘柄の名を流用したのが欧州とアメリカ、二つのバドワイザーができた訳であるという。こちらではブドヴァルと呼ばれるそのビールは、それぞれに独特な味を主張するこの地方のビールの中にあっては、なるほどどことなくアメリカのバドを偲ばせるあっさりとした飲み口であった。

ビヤホールと聞いて、楽しみにしていたのだが、同じ店が経営する真新しいホテルが昼食を用意して待っていた。外観はあくまでも古い建築様式を残しながら、内部は天窓を大きくとって外光を取り入れるなど、意欲的な改装をしていた。レストランは、瀟洒なクリスタル製のシャンデリアが吊るされた高い天井と真っ白に塗られた厚い壁が外気の暑さを感じさせず、過ごしよかった。食事も、オ−ドブルからデザートまで、今までのこの地方の料理になかった美しい色彩感覚を見せていた。この店の壁や、壁からアーチ状に続く天井の白さにそれらはいかにもよく映えていた。しかし、それにも増して、デザートといえば、甘いケーキを食ぺ続けてきた客たちには、ここのシャーベットの冷たさが何よりの好評を博していた。


 噴水のある広場

街の広場は、ちょうど正方形をしていて、その中心にヘラクレスかサムソンを象った彫像のある噴水があった。広場に立つと必ずそこからは教会や市庁舎が見える。街に住む人たちは、何をする時もこの広場に集まってくるのだろう。人が集まれば話の輪ができる。いや、話をするために集まってくるのだ。教会と市庁舎は人々が話し合って何かをするときに集まるには良い場所である。

話し合いが生活のに中に息づいていることは街のつくりからもわかる。広場に面した建物のファサードは一見好き勝手な色に塗られているように見えるが、よく見ると総ての色合いに白が加えられ彩度が調整されているため、決して不調和な感じは受けない。むしろ、それらが寄り集まって不思議なリズムを生み出している。一つには建てられた時代のさまざまな建築様式が混在していることから来るのかも知れない。一階部分は各建築が共有する歩廊となっていて、一部屋分奥まったところに店が設けられている。こうすることで、雨や夏の強い目差しを避けながら、人々は買い物や散歩を楽しむことができる。日差しが恋しい人たちには、広場の中にカフェが店を広げている。

どちらかと言えば私も天気の好い日は外のテーブルを利用することが多いのだが、実は外のほうが料金は割高になっている。給仕が店の奥と外とを往復する距離が長くなることがその理由らしいが、こちらの人はどんな暑さの中でも外に座ることを好む。需要が高いのが真の理由かも知れない。広場の端に立つと噴水のある中央部が少し盛り上がっているのがわかる。雨の日に水が溜まったりしないように傾斜がつけてあるのだろう。下水道の発達したこの地方ならではのことである。観光用の馬が何頭か休んでいた。車の入り込めない旧市街を残す街では、まだまだ馬が活躍していた。子どもの頃、家の前を馬車が通っていたのを思い出す。あれも観光用のものでもあったのだろうか。

< prev pagetop next >
Copyright©2004.Abraxas.All rights reserved.since 2000.9.10