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 2008/12/29 『雷神帖』 池澤夏樹 みすず書房

一口に作家といってもいろいろで、文章を書くことや読むことに意識的な人とそうでない人がいるようだ。たった一人で世界文学全集を編集してしまう池澤夏樹などは、文句なく前者のほうに入るだろう。『雷神帖』は、先に出ている『風神帖』と対になったエッセイ集。『風神帖』は、空海の『風信帖』のもじりだろう。風神と来れば雷神だろうという遊び心にも、この作家の言葉や文化に寄せる思いが読みとれる。

そういう作家らしく、エッセイ集といっても本にまつわる話が多い。コンピュータやインターネットの普及が本という媒体にどんな影響をもたらすかという話題は、ひと頃よく持ち出されたものだが、現在では本はやはり本という形で存続していくだろうという一応の了解を得ているようだ。「一人の人間が相当の時間と知的努力を投入してまとめた、長大で奥行きのある重層的なテクストは、やはりきちんと製本してないと困る」というのが作家の意見。長篇小説のことを考えれば納得できるだろう。

池澤夏樹は福永武彦の子である。福永武彦といえば、ボードレールの翻訳者であり、芸術に造詣の深い詩人・小説家としてある世代には懐かしい名前だ。池澤は若い頃、父が限定版の凝った装幀の本を出すことに「プロレタリアート」として反発を感じていたという。レクラム文庫のような本こそが本ではないかという息子の文句に父は苦笑するばかりだったというが、パリで暮らすうちに近くにルリユールの工房を見つけた池澤は、ついには自分も特装本を拵えることになる。互いによく似た資質を持った父と子のそれ故に避けがたく起きる反発から和解へと至るその顛末を記した一文がいい。

書評家でもある作家は、書評も一種のエッセイだという。日本の書評は四百字詰原稿用紙にして五枚程度のものが多いから、長めのものを書くと書評にはならない。好きな作家や作品にまつわる文章がエッセイ集に多くなるのはそのせいか。名作といわれる『ユリシーズ』が実は「ものすごく読みにくい小説」であることを論じる「人間に関することすべて」や、社会主義への哀惜の念に満ちた「『フィンランド駅へ』を読んだころ」などでは、短い書評では味わうことのできない作家論、作品論をたっぷり愉しむことができる。

「昔、ぼくはなぜ作家が小説を書けるのか不思議でならなかった。頭の中にある不定形のもやもやとした曖昧な、そしてそのままでこそ魅力のあるものを紙の上に定着させてしまう不安に作家はどう耐えるのか(略)それがどうしても分からなかった。/曲がりなりにも書けるようになったのは、その時々世に問う作品はすべて仮のものであり、一つ一つで言い足りなかったり、言いまちがえたり筆に乗りきれなくて捨てたりしたものへの無限の未練をそのまま次の先への力にするということだった。書きつづけることが何よりも大事なのだ。」(「フォークナーの時間と語り」)

何度でも同じ逸話を繰り返して書くフォークナーを論じたこの文章の中で、作家は「作家」についての定義をおこなっている。曰く「小説を書いた者が作家なのではなく、書いている者が作家なのである」と。なるほどと、あらためて思い知らされた。作家にとって書いている間は、語り部が物を語っている行為に相当する。物語を書くということは、文字通り物を語ること、作家にとっては書くという行為の中にしかないのである。

他に、他言語を通して文学活動ができるこの作家ならではの海外を拠点にした活動から見えてきた日本や世界についての刺激的な論考を含む、読み応えのあるエッセイ集である。

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 2008/12/22 『未見坂』 堀江敏幸 新潮社

堀江敏幸の書くものには、フランス帰りの学究肌の作家らしいちょっとした小道具がどこかにさり気なく用意されていて、作品のアクセントとなるようなところがあった。その作風に変化が見られるようになったのは『雪沼とその周辺』あたりからだったろうか。『雪沼とその周辺』は、都会にはない落ち着ける居場所を得て慎ましやかに生きる人々を主人公に据え、静謐な世界を作り上げることに成功していた。ただ、その舞台が、どことなくバタ臭く感じられるところに、それまでの堀江敏幸らしさが色濃く残っていたものだ。

今回の『未見坂』の背景となっているのは、山林が切り開かれて宅地に変わりつつある、現代の日本ならどこにでも転がっていそうなありふれた地方都市である。それにまず意表をつかれる。設定が妙にリアルなのだ。冒頭に置かれた「滑走路へ」には、「四人乗りのセスナ一七二型スカイホーク」や、少年のアルミの水筒に対するこだわりにこの作家らしさを感じとれはするものの、二篇目の「苦い手」に登場するのは電子レンジ。その後に出てくるのは、「なつめ球」だの、走れなくなったボンネットバスだの、ぱっとしないものばかりで、なんだか堀江敏幸ではないような、落ち着かない感じをはじめのうちは感じたのだった。

音楽に倣って繰り返し登場するものを仮に主題と呼ぶなら、主題は母子家庭か。九篇の短篇はそれぞれが主題とその変奏である。冒頭の一篇を除いて母親は不在。厄介ごとを抱えた母親は夏休みの間、息子を親元に預ける。物わかりのよい息子は、黙って休暇を田舎の親戚の家で過ごす。少年を見てくれるのは老母であったり、おじさんであったりいろいろだが、本来自分の居場所ではない場所にいなければならないという設定は共通している。

往年のフランス映画であれば、夏休みを田舎で過ごす少年は黄金色の日光の下、小麦色に日焼けした金髪の少女に推ない恋をしたりするのだろうが、現代日本の田舎にあるのは土地の利権にからんだ口さがない噂話や老人の怪我や病気といったさえない話ばかり。しかし、そんなありきたりの話を素材にしながらも、思いがけず田舎暮らしを余儀なくされた人々の日々の暮らしをユーモアのある語り口ですくい取り、時にはミステリアスな切り口で、田舎町の日常に潜む闇を垣間見せる作家の腕の冴えは相変わらず確かなものだ。

母子家庭という主題は、父の不在を象徴している。登場する父親像はどれもみじめで醜悪ですらある。母親も生きるのに必死で子を守る役割を果たせない。家族は解体され、帰るべき故郷は開発の波で荒れようとしている。高齢化社会や福祉、環境問題も視野に入れながら作家が描くのは、確たる論理に従って進むべき道を示す「父」を欠いた現代の日本社会の縮図である。しかし、作家は社会を告発してすませるわけにはいかない。どんな世界であってもそこに人間が生きている以上、人それぞれの生き方というものがある。人が世界をどう感じ、どう生きていくかを描くことが仕事なのだ。

自分の思い通りに人生を切り開いてきたと豪語する人は別として、多くの人は何かしら自分の意志ではない力によって今の居場所にいる。それを嘆くでもなく、かといって運命だと諦めるのでもない。その中で他者との出会いを静かに受けとめ、日々をしっかりと生きること。人が生きることの中にある切ないようでいて凛とした気組みのようなものが伝わってくる。何度でも読み返したくなる、地味ではあるが滋味豊かな短編集である。

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 2008/12/15 『空襲と文学』 W・G・ゼーバルト 白水社

W・G・ゼーバルトは数々の賞をとった『アウステルリッツ』で一躍有名になったドイツの作家だ。
ゼーバルトは、先の大戦中に英軍が行った無差別絨毯爆撃に対して、戦後ドイツの作家が何故か沈黙を守っていることについてチューリヒ大学で講義を行った。ゼーバルトの異議申し立てに対 し、当の作家たちから批判が起きたことはいうまでもない。『空襲 と文学』は、「空襲と文学論争」と呼ばれるその論争についての作家の言い分をはじめ、戦後ドイツ作家のあり 方を問うた「アルフレート・アンデルシュ」論他二編の作家論を収めた評論集である。

「イギリス空軍の大勢が一九四〇年に是認し、四二年二月を以て莫大な 人的資源と戦時物資を動員して実施された無差別絨毯爆撃が、戦略的ないし道義的にそもそも妥当であったのかどうか、あるいはいかなる意味において妥当で あったのかという点については、四五年以降の歳月、私の知るかぎりではドイツにおいて一度も公的な議論の場に乗せられたことはない。詮ずるところ、その もっとも大きな原因は、何百万人を収容所で殺害しあるいは苛酷な使役の果てに死に至らしめたような国の民が、戦勝国にむかって、ドイツの都市破壊を命じた 軍事的・政治的な理屈を説明せよとは言えなかったためであろう。」

この後、ゼーバルトは、他の理由も挙げているのだが、長くなるので引用はここらでやめておく。事 態は日本でも似たようなものだ。東京大空襲をはじめ、日本各地を襲った無差別爆撃について、日本が公的に議論した事実はあったのだろうか。原爆の跡地に 立つ碑にさえ「あやまちは二度とくり返しません」という意味の言葉が記されているくらいだから、日本人もまたドイツ国民と同じく「明らかな狂気の沙汰に対して ぶつけようのない憎悪を胸にためていたにしろ、空襲の罹災者のうち少なからぬ者が、空襲の猛火をしかるべき罰、逆らえぬ天罰であるとすら感じていた」ので はなかろうか。

破れた国の側の戦争犯罪が厳しく処断されるのは分かる。しかし、戦争が終わった後、勝った国の側の戦時下の行動について、その是非を問うことはできなかったのか、という問いかけはただにドイツ人だけの思いではないだろう。政治外交レベルでは難しいかもしれないが、文学の世界でなら問題提起もあり得たのでは、という思いはたしかに残る。

先の戦争について、現役自衛官の論文が問題になったが、その陰謀史観は論外であるにせよ、共感する者も多いと漏れ聞 く。公式見解から見れば大きく外れた被害妄想的な歴史観が罷り通るのは、国民のすべてが納得できるような冷静かつ客観的な分析をないがしろにしてきたせいである。そうした態度が今回のような問 題を引き起こしたのではないか。

ゼーバルトの異議申し立ては、戦後ドイツの知識人の欺瞞的な態度に対して向けられたものであるが、日本においても 戦後処理のどさくさに紛れて、過去をうやむやにして今に至った人々が政財界は勿論のこと知識人の間にも少なくない。庶民ならなおさらのこと。臭いものには蓋をしてすましているが、 蓋の下には腐敗したガスが充満して今にも爆発しそうになっている。国際的な不況、失業者の増大と点火要因はそろっている。若い世代には、「自虐史観」のレッテルに耐えられず急進的なナショナリズムに傾斜する者も増えている。払わずにすませてきたつけを払う時が来ているのではないだろうか。


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