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 2008/9/21 『青銅の悲劇−瀕死の王』 笠井潔 講談社

久し振りの笠井潔の新作は、772ページの超重量級。期待しつつ読んだのだったが、正直なところ、ちょっと期待はずれか。扉に「わたしは日本に帰ってきた、矢吹駆を殺すために―N・Mの日記から」とあるので、てっきりあの「現象学的本質の直観」で犯人を推理する矢吹駆が活躍するシリーズの新作と思ったのだが。

探偵役は『天啓の宴』の主人公、宗像冬樹。後半には矢吹もののワトソン役ナディアも登場するが、肝心の矢吹は、宗像の思い出話の中に登場するだけで、そこが物足りない。もっとも、今回の作品を宗像ものと考えれば、矢吹が登場しないことに文句を言っても仕方がない。

気になるのはそれだけではない。「現象学的本質の直観」による推理を、ナディア自身の口を借りて、現象学の援用などではなく、矢吹の天才的 な直観によるもの、という解釈がなされるなど、これまでの自身の手法を半ば否定して見せるかのような見解には、首を傾げたくなる。以前から矢吹の「現象学 的本質の直観」という推理の呼称に対して、批判があったことは知っているが、笠井自身がそれを認めたということだろうか。

今回の新作が目指しているのは、むしろエラリイ・クイーン風の本格探偵小説で、それとなく「読者への挑戦状」が置かれていたり、QED(証明終わり)という、エラリイが事件を解決したときに口走る口癖を披露して見せたりと、かなりエラリイを意識している気配が濃厚なのだ。

それでいて、推測と推論は違う、といってポオ以来の名だたる名探偵の推理を単なる推測でしかないといってのけ、今回の解決もまた、推測に よって犯人にはったりをかけ、自白を引き出したもので、数学的な厳密な推論から導き出されたものではないと、ナディアに言わせていることからも分かるよう に、エラリイ・クイーンが夢見たような論理的な解決が本当に得られるはずもないということを示唆してみせる。笠井潔は、本格探偵小説を書くことで、かえっ て「本格」を否定するという仕儀に至った。『青銅の悲劇』は、本格探偵小説を装った「反(アンチ)本格探偵小説」なのである。

時代背景を昭和天皇が崩御する年の冬に設定することで、笠井が固執する全共闘運動との絡みも、回顧的でなく描けることになり、出始めたばか りのワード・プロセッサなどの小道具もうまく使われているようだ。ただ、この作品を楽しむためには、エラリイ・クイーンの作品、就中『Yの悲劇』を読んで いないと、せっかくの仕掛けが楽しめないことになる。往年の推理小説愛好家にとっては必読書だが、今でも読まれているのだろうか。そういう意味では、読者 を選ぶかもしれない。

毒薬を酒に入れることができたのは、家族の中の誰なのかという問題を解くことが、作中最も大きな謎で、たしかに数学的な問題にはなっている のだが、正直数学パズル好きな読者でないと、つきあいきれない。探偵小説には論理的な解決を楽しむパズルの側面があることは賛成するのだが、どれだけの割 合をそれに向けるかというあたりが難しい。

笠井潔には、数学的な論理より、もっとちがった部分を求めている読者は多いのではないだろうか。その意味で、民俗学的な考証を生かした縄文人文化論や天津神と国津神の対立を天皇制を絡めて論じた宗教論議のペダンティックな風味のほうがより楽しめた。

笠井が今後エラリイ・クイーンばりの本格を書こうと考えているのかどうかは分からないが、一人の読者としては、全共闘運動にこだわり、現象 学や哲学にこだわる部分を残しておいてほしいと思う。どうやら、新作は、矢吹駆シリーズと、宗像ものをつなぐ役割を担わされているようだ。扉に予告されて いるように、矢吹駆は日本に帰ってきているらしい。次回作での矢吹の活躍が待たれる所以である。


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 2008/9/20 『ギフト』 アーシュラ・K・ル=グウィン 河出書房新社

詩や小説を読むことを好み、本を愛する人であれば、自分にも物語を語る才能、詩を詠むことのできる力があれば、と思ったことがあるだろう。中には天から与えられるように、その力を授かった人もあるだろうが、多くの人は長ずるに及んで、我が身にその才のないことを嘆息とともに受け容れざるを得ない。

主人公オレックが生まれた高地には、低地の者には魔法としか思えないギフトと呼ばれる力がある。部族によって異なるが、オレックの部族カスプロマントの伝えるギフトは「もどし」のギフトと言い、物事を作られる前の姿にもどしてしまうものだ。対象を左手で指し、一言呟けば、馬でも牛でも骨と肉が分化する前の混沌の状態にもどされてしまう恐ろしい力である。

人は、自分にどんな才能があるのかを予め知らされてはいない。望む力を発揮できる人はほんの一握りの人だろう。力を求めながら、自分にそれのないことを受け容れさせるために、どれだけの時間がかかることか。誤って自分の愛する者を傷つけてしまわぬように、自らの目を封印し、暗闇の中で生きる主人公の葛藤が、この物語を暗い色調で覆っていることは否めない。相変わらずというか、またしてもというか、ル=グウィンの描く世界は、若い読者をそう簡単に楽しませるようには描かれない。

主人公を導いてくれる幼馴染みの少女グライはすでにギフトを授かっている。動物の心を読み、彼らの言葉で話しかけることができる「呼びかけ」のギフトは、馬の調教などに使える、いわば前向きのギフト。対するに、カスプロマントや敵対するドラムマントのギフトは、壊したり、殺したりする後ろ向きのギフトである。グライは、ギフトはもともとどちら向きにも使えるものであったが、戦いに明け暮れる裡に、高地の人々の間で、後ろ向きにしか使われなくなったのではないかという考えをオレックに語る。ここに現代の世界に対する批判を読むことは容易い。

暗闇の中でオレックは、母が語ってくれた物語を思い出す。文字を知らない高地人とはちがって低地から嫁いだ母は、本を読み、物語を語ることの好きな女性だった。本で読んだことを思い出しながら語る母の物語には抜け落ちたところがあった。オレックはそれを補うだけでなく、新しく紡ぎ出す才能が自分にあることを知り、母の遺してくれた本を読むために自ら目隠しを外すのだった。それは、制御できない力を持つカスプロマントの跡取りであることをやめることであり、父の願いに背くことでもある。

世界を混沌の状態に「もどす」ことのできる力を、もし前向きに使うことを学ぶなら、混沌状態にある世界に光を当て、秩序立てることもできるにちがいない。オレックの「ギフト=賜物」とは、そういう力だったのではないか。領主としての責任感から自分の領地を守ることにだけギフトを用いる父(男)の世界から、前向きのギフトを持つグライ(妹)の力を借りることで、本来自分の中に潜んでいた自分の周りの人々を幸せにする母(女)の世界を発見するというのが、『ギフト』の構造である。

ユング的な世界観が色濃かった『ゲド戦記』とはうって変わって、男の成長には、母という一人の女をめぐって、息子が父親を殺す過程が避けられないというフロイト的な主題が物語を背後で支えている。今ひとつ、世界は善悪二つの敵対するもので構成されているというキリスト教的な世界観ではなく、本来善と悪は一つのものだという異教的な世界観がある。悪が生じるのは、戦いを好む男社会が、相手を傷つけるものとしてのみ、持てる力を振るうからだというこの作家らしい主張も健在である。

後書きによれば、はじめはこれ一作だけのつもりで書かれたという。『ギフト』は、オレックが、物語を語ったり、詩を朗唱したりする仕事に就くきっかけを作ってくれた低地からの逃亡者の思い出からはじまり、オレックとグライが高地を離れる峠道の場面で終わっている。より開かれた地での二人の活躍を見たいと思ったのは、読者だけではなかったようだ。成長したオレックとグライの活躍は第二作『ヴォイス』で読むことができる。

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 2008/9/14 『ヴォイス』 アーシュラ・K・ル=グウィン 河出書房新社

待ちに待ったル=グウィンの新作。それも、あの『ゲド戦記』の跡を襲うハイ・ファンタジーである。先に『ギフト』を読み、すぐ続きが読みたくなった。『ゲド戦記』とは、一味も二味もちがうが、紛れもなくル=グウィンの刻印が捺された、長く読まれ、語り続けられるだろうファンタジー文学の傑作の誕生である。

ゲドの物語が、アースシーという架空の多島海を舞台にしていたように、今回もル=グウィンは、入り組んだ海岸線を持つ詳細な地図を用意してくれている。それによると、今回の物語は、東方に広がる砂漠と山脈や丘陵で区切られた、海に面した都市国家群が舞台になっている。多分に西欧を思わせる配置だが、人種や宗教はそれをなぞらない。物語の舞台になる土地には、その土地固有の信仰や容貌が与えられている。そうすることによって、金髪碧眼で白い肌を持つ男女が主人公になるのが当然のような西欧中心主義を回避しているからだ。

そればかりではない。作家自身が『ゲド戦記』の中に発見した男性中心主義もまた慎重に回避されている。ただ、ゲドの時のように傷ましい回心めいた色ではなく、より成熟し余裕に満ちた書きぶりで。主人公メナーの声を借りて、物語の中に日々の食事の事が語られていない不満を言うあたりや、面子にこだわって本音で話し合えない男たちの愚かしさに女二人が苦笑を共有するあたりに、恢復したル=グウィンの穏やかな微笑みを見る思いがする。

そう。一口に言って、この物語の色調は仄かな明るみに充たされている。ゲドの戦いが光と影の世界を往還するものであったとすれば、メナーの物語は、隠された闇の奧臥から清澄な光の中に噴き上げる水のように祝祭的な光景に象徴されている。

交易によって栄えた商業都市アンサルは、大きな図書館や大学を持つ文化都市として周辺の都市国家の間でも知られていたが、急激に力をつけてきた砂漠の民であるオルド人によって攻撃を受けた結果、今では、図書館は壊され、厖大な書物は破棄され、民衆はオルド人の支配下にあった。オルド人が奉じる一神教の火の神アッスが本や文字を魔物扱いするため、アンサルの町では本は交易を司る「道の長」の住むガルヴァ館に秘かに隠されていた。

主人公はメナーという少女。母はガルヴァの血筋を引き、道の長の下で館を切り盛りしていたが、オルド人に暴行されメナーを生む。母の死後、少女は館の仕事を手伝いながら道の長の教育を受けて育つ。オルド人に復讐を誓うメナーだったが、高地から来た「語り人」オレックと、その妻グライに出会うことで、敵であるオルドの王ガンド・イオラスの威厳に気づく。

オルド人の支配から脱するためのアンサルの反逆の烽火が上がると同時にイオラスの息子の裏切りが発覚し、物語は佳境を迎える。一神教と多神教、パロールとエクリチュール、一極支配と多極化、と対立する命題を輻輳させて物語は終焉を迎える。

9.11以来の世界の寓意とも取られかねないアレゴリカルな作品世界だが、これを寓話として読むのは愚の骨頂だろう。架空世界でありながら、隅々まで意匠を考え抜かれた街路や建築、食物は勿論のこと作中で吟じられる物語や詩を存分に愉しむよう作者は心をくだいている。その中から一つだけ挙げるなら、グライが護身用に連れ歩くシタールという名のハーフ・ライオン。動物を描かせたらル=グウィンは巧い。特に猫は好きらしくよく作品に登場するが、まるで大きな猫のような仕種をしてみせるこの小型の獅子が何とも愛らしい。

『ヴォイス』は「西のはての年代記」シリーズの第二巻だが、三部作の各巻がそれぞれ別の町、別の主人公の物語として設定されているので、この巻から読んでも、特に問題はない。言い忘れたが「語り人」のオレックは、第一巻『ギフト』の主人公の成長した姿。オレックの物語を語る力やグライの持つ動物と言葉が交わせる能力が賜物(ギフト)と呼ばれるものである。このギフトと呼ばれる力こそ年代記を統べるモチーフなのだが、それでは、メナーのギフトとは何か。ヒントは題名にあるとだけ言っておこう。

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 2008/9/13 『白い指先の小説』 片岡義男 毎日新聞社

書き下ろしの短編小説集である。シンプルでストイック、この作家らしい清潔感にあふれた作品ばかりだ。全部で四篇。どれも主人公はひとり暮らしの女性である。それぞれ美しさにちがいはあるが、飛びっきりの美女ばかり。その美しさの差異を描き分けることを作家は楽しんでいるように見える。

驚くほど背景に溶け込んで目立たないのに、てきぱきとものごとを進めていく「実用的な美女」高原裕美子。寄らば切るぞという正統的美人の矢島美紀子。写真のモデルとしても通用する戦闘的美少女風の神崎梨々子。すっきりとスリムで、雰囲気は知的に華のある美貌の持ち主、北原美枝子、というように。

四つの短篇は、読みようによっては一つの長篇小説のようでもある。主人公の女性は、ひとり暮らしの作家、或いは作家志望。苦しんで書くタイプではなく、書くべきことが次々と溢れ出して来るという感じで、アイデアは大学ノートに書きためられている。

主人公を一人の女性と考えるなら、相手の男性もまた同じと考えるのは理の必然だろう。男は、学校やクラブで主人公と一緒に活動したことのある同窓生。今は、フリーランスの写真家である。誠実で、ストレートな物言いが特徴的。主人公にずっと好意を抱いていたが、当時は美しく隙のない相手に言い出せなかった。

偶然の出会いに、どちらも相手を意識しはじめる。男の写真の仕事に付き合いながら、主人公は短篇のアイデアを煮詰めてゆく。短編小説が、どのようにして作られていくのか。もしかしたら片岡の場合はこうなのだろうか、とつい想像してしまうほど具体的に書かれている。

アイデアはA4ノートの片側ページに余白を持って書き留められる。別のノートには、描写文や会話文が、様々なシチュエーションで書かれている。下書きはワードプロセッサで書くが、清書はブルーのインクの万年筆と決めている。

第一話から、第四話に向かって、話の中に登場してくる小説が少しずつ形をなしてゆく。第一話「本を買いに行った」で処女作を書こうとしていた主人公は、第 二話「白い指先の小説」では、文学賞に応募し、その結果を待っている。第三話「冷えた皿のアンディーヴ」では、すでに短編集を一冊出版し、二冊目を出そう としているところ。男と街を歩きながら、頭の中でそれが小説に変わっていくプロセスを描いている。第四話「投手の姉、捕手の妻」では、主人公は、高校のグ ラウンドでキャッチボールをするバッテリーをジオラマにした作品から、二人の人生を想像し、短編小説を作り上げていく。短篇の中に別の短篇を入れ子細工の ように仕込むという洒落た細工になっている。

小説を書くという孤独な作業を選びとったため、適齢期を過ぎてもひとり暮らしを続けていた美しい女性が、その美しさのため写真の被写体となることを通じて、写真家と結ばれるという一つのプロットから創り出された四姉妹のような小説である。きりっとして男性に媚びないスリムな美女に惹かれる人にはお薦めの短編集。テラスに出した小テーブルに、冷やした白ワイン。それと、何はなくとも白い皿を用意して読むと尚更に味わいが増すこと請け合い。

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