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 2008/2/11 『土曜日』 イアン・マキューアン 新潮社

社会的な地位も財産もあり、家族に恵まれた働き盛りの男が過ごす、とある休日の一日を細大漏らさず繊細で怜悧な筆で描ききった極めて現代的なリアリズム小説である。一昔前に脳外科医が主人公の外国製TV番組があった。『スーパーマン』とか、『ローン・レンジャー』といったマッチョな英雄に替わり、凄腕の脳外科医がヒーロー視される時代が来たのだ、ともちろん当時はまだ子どもだったから、そんなふうに分析はしなかったけれど、見馴れないものを見るような気持ちで、それでも毎週楽しみにしていたものだった。

イアン・マキューアンが『土曜日』の主人公に据えたのも手術の巧さに定評のある脳神経外科医。三階からシャンデリアが吊り下がるジョージア様式の邸宅に住み、愛車は音もなく走るベンツSクラス。法廷弁護士である妻との間に二人の子を持ち、姉はオクスフォード出の新進詩人、弟はジャック・ブルースに師事するブルース・ギタリストだ。あまりの設定に「幸福な男の一日を描いて何になるんだ」という批評が出たそうだ。連続TV活劇ではない。リアリズム小説である。恵まれすぎた人物を主人公にするのはどうかというその気持ちは分からないでもない。

傍目から見れば羨ましいような男だが、その一日の中には、たしかに快適ではあるが、同盟国であるアメリカとの関係でテロの影に怯えざるを得ないロンドンという街の置かれた現在の状況(この小説の現在時は9.11の事件後約一年半と推定される)がある。施設暮らしの認知症の母親の問題、岳父であるオクスフォードの学匠詩人と若くして栄誉ある賞を取った娘との確執、ストリートに溢れた麻薬中毒の若者がちらつかせるトラブルの予兆と、大はイラク戦争から、小は今夜のささやかな晩餐の買い物まで、頭を悩ませる問題はつきない。

故知らぬ多幸感から夜明け前に目覚めたヘンリーは、偶然開いた窓の向こうに翼の付け根にオレンジ色の炎を纏った飛行機が空を横切るのを見つける。しかし、ヒースローは管轄外で自分は手術明けの非番。まだ起きていた息子と見た4時のニュースでは何も報道されていない。再びベッドに戻ったヘンリーは、土曜日というのに仕事に出ていく妻と名残を惜しむようにセックスし、麻酔医の友人との恒例のスカッシュに向かう。

BMWと接触事故を起こすのはその途上だ。相手の風貌から暴行を予測した主人公は、リーダーらしい若者が見せる微細な徴候に相手がハンチントン病であるのを察知する。預言者めいた指摘に相手が躊躇したすきに難を逃れたのだが、その影響かスカッシュでは冷静さが保てず苦戦する。このあたり、相手の見せる微かな肉体的な徴候から、疾患を読み取り、病歴から現在置かれている状況まで推測する能力の凄さはほとんどポオのデュパンかドイルのホームズ並みで、優れた脳外科医が皆こんなだったら犯罪は激減するだろう。また、スカッシュの試合の描写ときたら、一球一球の打ち込まれる場所から落ちてくる位置まで予測と結果、次の予測へと克明に記録していく記述といい、病的なモノマニアックさである。

詩人の娘に世界文学のレッスンを受けながら、『アンナ・カレーニナ』と『ボヴァリー夫人』から何の感銘も受けず、当時の風俗に詳しくなったことくらいしか評価の対象にしない主人公は、世俗的なリアリストを自称している。戦争には反対だが、サダム・フセインの専制政治を排するためには武力行使もやむを得ないという立場を貫き、歴史的な反戦デモを横目にスカッシュの試合にベンツを走らせる男である。

世界の置かれた現実をひとまず肯定し、問題点は外科手術的に摘出すればよいという考え方は、現代社会の中でそれなりの地位を占め、権力を行使できる人間には相応しい。あまり小説には向かないタイプの人間だが、こういう生き方を支持する向きもあろう。しかし、真っ向から反対する立場の人間もいる。娘の意見がそれで、アメリカのイラク戦争に反対する。二人の口論は当時の世論を代表する二派の代弁である。プルーストの『失われた時を求めて』におけるドレフュス事件のように、マキューアンの『土曜日』も、何年か後に当時の論争を窺う恰好の資料になるだろう。

二人の新旧詩人の確執を収め和解の場となるべき晩餐に招かれざる客が闖入するところがクライマックスになる。ネタバレになるので詳しく書けないが、ナイフを持った相手に立ち向かおうとする外科医が、自分やギタリストである息子の負傷を判断材料にいれないのが不思議といえば不思議である。どちらも腕とは言わない神経の一本が切れても復帰の難しい商売なのだ。

マシュー・アーノルドの詩が窮状を救うところや最後の手術の場面など見せ場も多く、たった一日の出来事の中にイギリス中産階級の暮らしぶりやロンドンという都市の持つ魅力と危うさ、医療現場の見せるスポーツや音楽演奏にも似た緊張と弛緩、挑戦とそれをやり遂げた後の達成感など、よくもこんなに突っ込めるなと思うほど素材をぶち込みながら、見事なまでに調理してしまう作家の腕の良さには拍手するが、リサーチの結果か執拗なまでに頻出する医学用語に見られる衒学者ぶりには、感心しつつ呆れてしまった。このモノマニアックさは、視点人物のリアリストぶりを強調する意味合いがあるのだろうと思いながらもひょっとしたら作家自身の持ち味なのかとも訝った。いずれにせよ、退屈しないことは保証する。

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 2008/2/3 『時空蒼茫』 高橋英夫 講談社

東京生まれ、東京育ちというのは羨ましいな、というのが読みはじめてすぐに思ったことだ。高橋英夫の生まれた田端は田端文士村として知られるところ。芥川や室生犀星、朔太郎も少しの間住んだことがある。東京に生まれ育ったからこそ、幼児の記憶を頼りに、坂や崖の多い東京の町を散策しながら、それらの町を舞台にした数多くの文学作品について触れることができる。江戸時代まで遡ればなおさらだ。

そうした記憶に残る場所(トポス)を求めて蹣跚と町を歩き、今に残る名所・古蹟を(発見/再発見)しては、書きとめていったのが荷風散人の『日和下駄』である。高橋は荷風の顰みに倣い、自身の記憶に残る田端近辺の土地を「夕陽のトポス」と名づけ、あらためて訪ね歩いてみることから、この長編評論をはじめている。

それは著者の(記憶/忘却)の跡をたどることでもある。(記憶/忘却)のあわいから立ち上ってくる感覚や思念を拠り所にしながら、まるでしりとり遊びのように想像の翼を広げ、時には余談に走り、かと思うと思いもかけない飛躍を試み、まるで宝探しのように別の作家、異なるジャンルへと飛び移る。

田端界隈の夕陽のトポスから始まった連想は、夕陽、赤へと移ることで、荷風から『夕暮れまで』の作家吉行淳之介へ。『砂の上の植物群』から作家が題名をその絵からとったクレーへ。赤とんぼ、原っぱから子どもの時に遊んだ三角屋敷へと進んだ連想は鶴屋南北『四谷怪談』「深川三角屋敷の場」に至る。

とりとめのない連想ゲームのようでいて決してそうでないことは、その繋がり方の妙味にある。著者は、駆け出しの批評家の頃、河上徹太郎の『有愁日記』に出会い、愛読する。「連載評論だったが、主題や対象は一回ごとに論証、連想、迂回、飛躍などによって入れ替わったり、ずれたりした」と、あとがきでふり返っている。融通無碍といえる連想や飛躍の妙こそ、高橋が河上から学びとったものだろう。

しかし、芸術的な連想から引用された文章や絵画、音楽から著者自身の幼少時の記憶が時空をこえて甦り、彼岸と此岸、過去と現在を結び合わせる手法。たとえば、房総の海での夏休みの記憶を縁に、堀辰雄の『麦藁帽子』、森類の『鴎外の子供たち』から当時の堀辰雄や鴎外一家の房総の夏の暮らしを眼前に浮かび上がらせるその呼吸は、著者独自のもの。末子の類の目に映る鴎外の姿や内房の海の何と生き生きとしていることか。

『有愁日記』のようなものが書きたいと思って書いたのが、前作の『藝文遊記』。『時空蒼茫』は、それよりさらに「一歩か二歩踏みこんだ文学言語の試み」であると高橋は述べている。一般に評論の骨法は「実証や論証。カードの置き換えと組立と推理」によって形づくられているという。それら評論的とされる方法以外の「題材や夢、想像や回想、余談や逆戻りといった操作を盛りこみ、すべてを混ぜ合わせ、融かしこみながら」「何の実用の役にも立たないもの」を目指して書かれたのがこの本である。

それは、もはや評論というジャンルを超え「文学言語の試み」としか言えないものに昇華していると言っていいだろう。それにしても、同じ学校の三つ上で、その頃田端の隣町にあたる駒込に住んでいた澁澤龍彦のエッセイから、同じ三角屋敷という遊び場で遊んでいたことを知り、ひょっとしたらどこかですれ違っていたかもしれないと書けるのは、しつこいようだが地方に生まれ育った者には何とも羨ましい話である。

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