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 2008/1/29 『伊丹十三の映画』 「考える人」編集部編 新潮社

伊丹十三は、名前がまだ一三だった頃からの憧れの人である。当時、愛読していたのは新潮社から出ていた大江健三郎全集だったが、日々を生きていくための指南書は伊丹の『ヨーロッパ退屈日記』だった。巻頭に置かれた、何でもできるくせに、それらはみな人から教わったことばかりで、自分自身は空っぽの容器でしかないという自己規定に、自分とは何かということを考えはじめていた高校生はいっぺんにいかれてしまった。

何をさせても決まっていて、『北京の五十五 日』で、ハリウッドの映画人に混じって日本の軍人を演じていたが、外国映画に出て来る日本人の中ではいちばんノーブルであった。ピーター・オトゥールと共演した映画『ロード・ジ ム』の出演料でロータス・ヨーロッパを買うなんていう芸当は、当時日本で人気のあったちんぴら役者には逆立ちしたって できなかったろう。

伊丹十三が、映画監督の伊丹万作の息子で、その妹を妻にした松山時代の学友大江とは義理の兄弟にあたることを知ったのは、ずいぶん後のことにな る。エッセイストや雑誌編集者としてその才能を披瀝しながら、映画界では癖のあるバイプレイヤーという存在でお茶を濁していた感のある伊丹がメガホンを とった『お葬式』にはまいった。小津にしろドライヤーにしろ、先行する名監督の映画を下敷きにしながら、初監督作品で、すでに自分のスタイルというものを表現しうる才能はただただ眩しいかぎりだった。

『マルサの女2』あたりから、マンネリ化を感じて映画館に足を運ばなくなった。観客が喜ぶ映画を撮ることを自らに課していたようだったが、『お葬 式』や『タンポポ』のような、他の監督には撮れそうもない映画をこそ見つづけていたかった。『静かな生活』をのぞけば、伊丹の初期の映画三作しか出演しなかった山崎努が、それ以降の作品に出なかった理由として、伊丹の完全主義者的な演出と 偶然を喜ぶ自分の演技のちがいを挙げているが、それだけではなかったのではないか。

山崎も言っているが、伊丹がほんとうに撮りたいと思っている素材は他にもあったように思われるのに、ヤクザや警察ばかりが出て来る映画を撮り続けたのは、 日本映画の観客がそういう素材を好んでいたからではないのか。芸術映画に色目を使わず、エンターテインメントに徹する姿勢は潔いが、伊丹自体の本質とは齟 齬があったように思う。

監督としての伊丹は現場では大声を出すこともなく、現場はいつも和やかな雰囲気であったという。しかし、それだけスタッフや俳優に気を遣う監督が撮影中は役者やスタッフと一緒に食事を摂らなかったと、何人もが話している。ロケ弁の不味さ もあったろうが、普段使いに古伊万里の蕎麦猪口で酒を嗜む伊丹には、毎日プラスティックの容器に入った弁当を食べることは我慢できなかったのではないか。ひとりだけ別の物を食べることも自分に許せず、食事を抜くしかなかったのでは。

庶民でない人間が庶民の 要求に応えるために無理をし続けたあげくが、あの死だったと思うとやりきれない。岸田秀が、フロイト派の精神分析学者らしく、伊丹映画を父との関係で分析しているのが興味深 かった。その死に暴力団が何らかの関係がなかったかという指摘をしているのも岸田ひとりだった。自殺現場にゴム草履で出かけていくなどということは、スタ イリストの伊丹にあるはずがない。私は今でも謀殺説を捨てきれないでいる。

一緒に撮影現場で過ごした人のインタビューで構成されているこの本からは、監督伊丹十三がいかに日本映画界では稀有の存在であったかということがひしひし と伝わってくる。それと、これほどまで周囲の人々に愛されていたのか、ということも。表紙の愛猫を抱いた伊丹のモノクロの写真がいい。

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 2008/1/26 『愛その他の悪霊について』 G・ガルシア=マルケス 新潮社

一般的には尊重され、時には神聖なものとまで思われている「愛」だけれど、マルケスに係ると、その他の訳の分からないものと一括りにして「悪霊」扱いされてしまうらしい。もっとも、この小説に関する限り、愛さえなければ、こんな悲惨な結末にはならなかったと言えるのだが。

小説の主題は「狂犬病」だ。時は18世紀半ば、本国では文中にも出てくるヴォルテールの活躍 する啓蒙時代であるが、植民地では絶対的権力を持つ教会による異端審問が大手を振って歩いていた。狂犬病患者の異常な振舞いを悪霊の所為と決めつけ、拷問 にも似た悪魔払いのせいで命を落とす者が後を絶たなかった。

侯爵令嬢マリアは両親に疎んじられ、屋敷のアフリカ人奴隷たちに混じって育つ。十二歳の誕生会を前にした日、買い物に出かけた市場で狂犬に 足を咬まれてしまう。かすり傷程度と思われたが、ある日発病する。侯爵に呼ばれた医師のアブレヌンシオは狂犬病に打つ手はないと告げる。まじないも民間療 法も効き目はなく、娘の衰弱はいや増すばかり。

教区の司教は噂に心を痛め、侯爵を説得し娘を修道院に預けさせた。悪魔払いを命じられたのは若き神学者デラウラ。修道院に出向いた彼は一目 で恋に墜ちる。少女が狂犬病でないのを見抜いた男は少女を救い出そうと、アブレヌンシオの家を訪れる。彼がそこに見つけたのはペトラルカの蔵書室を上回る 本の山だった。互いの裡によき話し相手を見出した二人だったが、異端の疑いのかかる自由思想家と協議した罪でデラウラは司教館から放逐される。古い地下道 を使って夜毎逢瀬を交わすデラウラとマリア。しかし、ついに発見され、二人は引き離される。

話の主筋を追えばこうなるが、『百年の孤独』で、その手法をマジック・リアリズムと賞賛されたマルケスである。さすがにケレン味は失せたも のの、その旺盛な筆力は衰えるどころか、ますます重厚さを増し、カリブ海に面した暑熱の町の夢幻的な事件と人々を原色の絵の具に浸した太い筆でたっぷりと 描きあげる。

まず何より人々の相貌、輪郭がくっきりと浮かび上がる。体を何重にも巻く長い赤毛を三つ編みにしたマリアは、十二歳ながら平気で嘘をつき、 頑ななまでに自分の意志を曲げない。奴隷たちの間にいるときの奔放な彼女とドレスを着たときの優雅なマリアの対比は目に鮮やかだ。侯爵の女たちもそれぞれ に強者揃いだが、特にマリアの生みの母ベルナルダは、男狂いの果てに身を持ち崩し、カカオ粒と蜂蜜酒に耽溺し裸で部屋を歩き回り放屁やら排便やらのし放題 という女怪である。政略結婚に踊らされたこの女の人生だけでも一つの小説になるところだが、作者はその浮沈をあっさりと一筆で描いてみせる。

意志と感情の激しい女たちに比べると、男たちは憂愁が濃い。万巻の書を読み、優れた知性を誇るアブレヌンシオもデラウラも少女一人を助けら れない。頼みの綱かと思われた貧しい者たちの聖者アキーノ師も、後一歩のところまで来ていながら潰える。ダメ男ぶりを遺憾なく発揮していながら妙に気にな るのが、侯爵家の嫡男に生まれながら意気地も能力もないマリアの父。ハンモックで寝ているところをベルナルダに犯されてマリアが生まれたというのだから情 けない。屋敷中を奴隷の好きなようにされ、寝首をかかれるのを恐れて戦々恐々としているが、マリアが狂犬病に罹ってからというもの、娘への愛に目覚め人が 変わったようになるところが一抹の救いか。しかし、結局それが破滅への道の始まりであるあたり、「愛」が悪霊であることの証だろうか。

「幻覚のような黄昏、悪霊のごとき鳥たち、マングローブの林の微妙な腐敗臭」の充満する植民地時代ラテンアメリカの空気をたっぷり堪能でき るガルシア=マルケスの小説世界。司教館の図書室、鍵が掛かった禁書の並ぶ棚、結末を封印された一冊の書物、と本好きにはたまらない意匠も用意されてい る。小説好きなら手にとったが最後、読み切らずにはいられない一冊である。


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 2008/1/19 『人生を<半分>降りる』 中島義道 ちくま文庫

十年ほど前に出版された本の文庫化である。採り上げられている時事ネタがアテネでなくアトランタ・オリンピックだったり、テニスプレイヤーがサンプラスだったりと、少し古くなるのはやむをえない。しかし、それ以外は賞味期限に問題はない。なにしろ副題が「哲学的生き方のすすめ」である。引用文の多くは、先哲の言葉。セネカやニーチェの言葉はいつ読んでも新しい。

限られた人生だから、50歳を過ぎたら世間の義理を欠くことになっても、残りの時間を自分のために使え、というのが、著者の言いたいことである。もっとも、多くの日本人が、その言に耳を貸さないだろうことは百も承知。年賀状をやめたり、会合やパーティーを欠席、人の家を訪問したりされたりすることもやめてしまうと、この国では、ふつうではやっていけなくなる。いちいち、それについて理由を説明するのが面倒になってきた著者が、本を書くことで一気に解決してしまおうと考えたふしがある。

こんな本を買ってまで読もうと思う人間は、半分は著者と似た傾向を持っている人種と思っても間違いない。評者自身、とっくの昔に年賀状をやめてしまったし、家に仕事を持ち帰ることはなく、時間外労働もほとんどしない。趣味の上での付き合いは続けているが、仕事がらみや義理で、人に会うことはまずない。まったくもって、著者の言う「半隠遁」生活を実践している訳である。

人からどう思われるかなどということが気になったらやってられない生き方なので、こういう生活をしていると「不幸になる」といわれても、実感がわかないが、いやならやめているだろうから格別に不幸だとは感じていないのだろう。それより、切る訳にもいかないしがらみから、嫌々つきあわされる世間的な体裁を取り繕うための種々の雑事のために取られる時間が腹立たしい。

著者は、哲学者である。巷にいる哲学者のほとんどは、著者にいわせれば哲学研究者であって、哲学者ではないことになる。なぜそうなるのか。彼らの多くが、哲学を飯の種にはしても、哲学的に生きていないからである。ニーチェを研究していながら、研究論文を書いたり、学界での地位の向上にやきもきしてみたり、誰それの出版記念パーティーで、おざなりの挨拶をしたりする学者が大半を占めているのが実情であってみれば、それを取り上げて目くじら立てる著者の方が変なことは、著者がいちばんよく知っている。

日本で大人として生きるには、周りをよく見て、周囲の動きに合わせて波風を立てないことが肝要。そういう空気の中で、パーティーで心にもないことを聞いたり話したりするのが嫌い。食事は極端に偏食という人間がうまくやっていくのは生大抵なことではない。つまり、著者は「子供」なのである。そして、子供のまま歳をとるべきだと考えているのだ。名高い哲学者の中には、どう考えても「子供」でしかない人が多い。哲学研究者には大人が多いが、哲学者になろうと思うなら子供でいなくてはならない。

著者の説明によれば、世界に普遍的なものがあると思うのが「実在論者」で、「普遍はただ名だけだ」と主張し、「個物のみが実在する」というのが「唯名論者」だという。世界がどうなろうとも自分のことにしか関心がないことを明言してはばからない著者は唯名論者である。こう簡単に説明して分かったような気になることを、著者はかなり嫌っているので、詳しいことは本を読んでもらうしかないが、突きつめて考えてみたとき、世界や人類の滅亡より、「自分が死ぬ」ことの方が大事件だと思える人だけが、著者の言うことを理解できるだろう。

自分の死が最も重大事だと考えれば、その死が刻々と近づいているときに、つまらぬ雑事などにかまけていることなどできるはずがない。しかし、現実に社会に生きている以上、完全な隠遁はまず不可能である。「半隠遁」とは、そんな中でも、なんとか仕事を続けながら、切実な問題について考える時間を得るための折衷的な方法である。

反語的な表現方法をとりながら、世間的に価値があると認められている生き方や、誰からも文句のつけようがないと思われるような生き方をしている人に対する居心地の悪さを語り、奇妙にすっきりした読後感を残す。引用される名言、金言に触れるだけでも得をした気分になれるが、学者仲間に対する悪口雑言の限りには、あきれながらも溜飲の下がる思いをする人も多いだろう。興味のある奇特な人にだけしかお薦めできない毒のある一冊である。


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 2008/1/14 『ラナーク』 アラスター・グレイ 国書刊行会

二段組みで700ページ。厚さ5センチにも及ぶ、まさしく紙でできた煉瓦のような本。で、中身の方はというと、これが一口では言い表すことが難しい代物。作者は「叙事詩」と呼んでいるが、一般的な呼び方に従うなら、紛れもなく「小説」である。ただ、少々変わったところがある。副題に「四巻からなる伝記」とある通り、四巻仕立ての物語は、なんと第三巻から始まる。第一巻、第二巻と続いた後、第四巻へと移行する。プロローグが第一巻の前に入るのは分かるとして、第四巻の途中にエピローグが挿入されるという型破りな構成になっているのには訳がある。

実は、この物語は二つの小説から成り立っている。一つはラナークという青年がアンサンクという陰鬱な町で巻き込まれる夢幻的かつ政治的寓意に満ちたSF調冒険活劇で、第三、四巻がそれにあたる。もう一つは、グラスゴー生まれのダンカン・ソーという青年の誕生から、その死までをリアリズム的手法で描いたビルドゥングスロマン的な芸術家小説で、第一、二巻がそれにあたる。

記憶をなくした青年が、自分探しをする過程で、自分の過去を語る話者の語りに耳を傾けるという構成で、ラナークの物語の中に、ソーの物語が入れ子状に象眼されている。作者は、出版に際して何度も二つの小説として出版するべきだという説得をうけたという。処女作にしてこの長さはリスクが大き過ぎるというのが理由だった、と本人は述べているが、二つの小説の語り口や、読者に与える印象のちがいから見て出版社の助言は妥当なものだったと言えるだろう。

評者自身、はじめは小説世界の中になかなか入り込めなかった。腕が竜のようになったり、掌に口ができて喋り出すという設定が、近未来SFなのか、ファンタジー小説なのか、ジャンルとして、どの辺を意図しているのかが理解できず、読み続けるべきかどうか迷った。それが第一巻に入ると俄然面白くなったのは、やっと馴染みの世界に入ってきたぞという安堵感が生じたからだ。小説好きな読者といっても、小説ならなんでもこいという人ばかりではない。一通り読み終えた後なら、なるほどこの小説が、そうしたジャンル越えを狙ったメタ小説であり、ポスト・モダン的な小説だということは理解できるものの、はじめは面食らうだろう。

ダンカン・ソーの物語は、芸術家志望の青年の友情、恋愛、家族との関わりを描く人格形成小説としてそれなりに読める。強い自意識、鋭敏な感覚、頑固な性格や、喘息、突発性湿疹の疾病などは画家でもある作家その人の属性と受けとめていい。芸術的気質を持った読者なら主人公に感情移入して読むことだろう。旧約の世界を教会の壁面に描き出す場面などは、文章で描かれた絵画を集めた本が編まれたら間違いなくその中に収められる出来である。ただ、これだけを小説としたら、多感で純粋ではあるが、愛については不器用な青年の野望と挫折を描いた、ヘッセもどきの浪漫主義的作品として読み過ごされてしまったにちがいない。

「人間とは自分で自分を焼いては食べるパイみたいなもので、パイの味の秘訣は切り分けにある」という格言めいた科白が繰り返し登場する。互いに相争わないではいられない権力闘争の歴史を厭い、家族愛や地道な生活に親近感を覚える作者の世界観もまたナイーブなもので、この混沌とした時代、前面にそれを押し出されたら鼻白む読者も多かろう。

カフカ的な不条理な設定で始まり、ダンテやブレイクを思わせる地獄巡りを経て、ハックスリーやジョージ・オーウェルばりの近未来に至る寓意的小説世界を額縁としてもってきて、相容れない二つの小説を無理矢理一つの世界に統合することで、はじめて自己言及的な批評性を持たせることができたのではないか。

第四巻の途中に突然作者を登場させたり、引用部分に自らが「盗作」と謳う詳細な註解をつけたりする設定も、ナイーブに過ぎる半自伝的小説を韜晦させる目的と考えられなくもないが、全編を通じ、先行する文学作品からの引用、言及からも明らかなように、文学から文学を創る作家の一人と位置づけた方が、より作者の意にかなうだろう。アントニー・バージェス曰く「スコットランドが生んだウォルター・スコット以来の偉大な小説家」アラスター・グレイのデビュー長編である。

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 2008/1/12 『あるかなしかの町』 エマニュエル・ボーヴ 白水社

瀟洒な本である。新書より少し大きめのサイズで葡萄茶色のクロース装。白いカバーは撒水車が 掃除をし終わったばかりの朝のパリを撮った写真で飾られている。七つの章の扉にも同じロベール・ドアノー撮影によるパリ郊外の写真が配され、余白をたっぷ り取った組版、全頁二色刷という近頃まれな贅沢な造りになっている。

『あるかなしかの町』というのは日本語版のために訳者がつけた題名で、原題は「ベコン=レ=ブリュイエール」。パリ郊外にある町の名前であ る。作者のエマニュエル・ボーヴは、両大戦間のフランスで活躍した作家。その独特の観察眼とユーモアのある文章から「貧乏人のプルースト」と呼ばれていた が、最近になるまで忘れ去られていた。

小説ではない。詩的散文によるエッセー集で、ボーヴを一躍有名にした『ぼくのともだち』や『ともだちのいもうと』といった小説とは少し味わ いの異なる文章が集められている。これがフランス流のエスプリというものか、ユーモアの中にも仄かな苦味がまじった筆致で淡々と描き出されるのは、ベコン =レ=ブリュイエールという郊外の町とそこに住む人々の姿である。

パリのサン=ラザール駅から列車で十分という距離に位置するベコンは、まだ市内の交通手段が発達していなかった当時のパリにあって、交通の 便のよくない市街地より通勤に便利な新興郊外地として売り出し中の町。ただし、生粋のパリジャンから見れば、「パリジャンと言っても、ベコン=レ=ブリュ イエールのパリジャン」というお定まりのジョークに使われるような町でもあった。

パリ「郊外」は、今でこそ堀江敏幸の作品にも登場するなど、一つの文学的イメージを持っているが、この本が「フランスの肖像」叢書の一冊として出たとき、ちょっとしたスキャンダルが起きたほど、文学的対象としてまったく無名であった。

ベコンは、「あるかなしかの町」である。パリに通うために何本もの列車が通り、サン=ラザール駅からの終電は劇を見終わってから食事をする くらいの余裕があるというのに、駅長もいなければ貨物の取扱いもない。ベコン=レ=ブリュイエール(ブリュイエールのベコン)と言うが、ヒースやエリカと 同じ花を指すブリュイエールの花もない。町の通りをどれだけ行っても広場に行き当たることがない。たまたま広い空き地に出ると、そこは町が拡張するときの ために準備されている建築予定地であったりする。

この、〜でない、〜がない、という文末表現の頻出は脚韻のように文章に一つのリズムを作って見せる。そこに醸し出されるのは、何々でないベ コンの町という、いわく言い難いベコンの町の在りようである。否定形を多用することでしか描き出されない、これといった魅力のない、物語や映画の中には出 てきそうもない慎ましやかで、それでいて田舎の人のように木訥とも言えない人々の住む、中途半端な町の佇まいが、諧謔味をおびた卓抜な譬喩とともにプルー ストにも比肩される精妙な観察眼に裏打ちされた描写力で叙される。そのあまりにも真実味のある叙述に、何度「これは、ぼくの町のことだ。」と、呟いたこと か。

ボーヴは、私的な事情があって一年足らずベコンの町に住んだことがあるという。旅人というには長過ぎるが、住人というには短すぎる、その滞 在が絶妙の距離感を生じさせ、この滋味のある詩的散文を生んだのであろう。いつも手許に置いて、短い一章を玩味するように愛読するに相応しい書物である。 描かれているのは大戦間のフランスの郊外都市であるが、現代日本のどこにでもある「あるかなしかの町」に住む大人の読者にこそお勧めしたい。

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 2008/1/6 『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』 内山 節 講談社

おもしろい題名である。読者の好奇心に訴えかけてくるものがある。そういえば最近は聞かなくなったな、とあらためて思った。一昔前までは、そういう話はそこここで聞かされたものだ。まだ、キツネの出そうな野原や峠道が当たり前のように残っていた。

小さい頃、墓地に続く竹藪の中を通り、小川に出る坂道があった。釣りや水遊びには、そこを抜けるのが近道だったから、よく通ったものだが、日暮れになるとびくびくもので走り抜けたものだ。死んだ祖父が、そのあたりでキツネに化かされたことがあった、と祖母によく聞かされていたからだ。朝になって気がつくまで同じところをぐるぐると回っていたというから、饅頭のつもりで馬糞を食わされたり、肥溜めを温泉とまちがえて浸かっていたりするよりは、ましな化かされ方ではある。祖父がいくつの時の話かは聞き忘れたが、どうやら当時の日本人は、まだキツネにだまされていたことはたしかなようだ。

いつの頃からか、キツネやタヌキに化かされたという話を聞かなくなった。著者によれば、日本人の間からキツネにだまされたという話が消えていったのは1965年頃からだそうだ。釣り好きの著者は、旅先に竿を持っていっては、沢や渓流でイワナやヤマメを釣り、夜は農家に泊めてもらって炉端で話を聞くのが楽しみだったという。そうして集めたデータをもとにして出してきたのが1965年という線である。

では、なぜその頃から日本人はキツネにだまされなくなったのか。1965年といえば「高度経済成長期」と重なる。どう考えても無理な戦争に突き進んでいった戦前の社会に対する反省に立って、「合理的な社会の形成、進学率や情報のあり方の変化、都市の隆盛と村の衰弱」といったさまざまなことがこの時代に起こり、キツネにだまされたという物語を生みだしながら暮らしていた社会が徐々に崩れていったのだろう、というのが著者の結論である。

なんだ、そんなことか、と言ってはいけない。それくらいのことなら私にも言えるというのは「コロンブスの卵」というものである。著者の言いたいことは、日本人がキツネにだまされなくなった理由を探るというところにはないからだ。新書の体裁はとっているが、著者の企画によれば、この本は「歴史哲学序説」という副題のもとに書かれているというから、甘く見てはいけない。

明治時代、日本にやって来たお雇い外国人は同じ山で日本人がキツネにだまされた時も、だまされたりはしなかったという。著者はそこで、「見える歴史」と「見えない歴史」という考え方を提出する。ふつうの歴史学は、書かれた物をもとに客観的な史実と思われる資料に従って通史を作っていく。国民国家にはそうしてできた歴史というものがある。しかし、それはヨーロッパ的な知性に基づいた、いわば「知性」の歴史でしかない。それに対して、著者は知性に拠らない「身体性の歴史」や「生命性の歴史」といった「見えない歴史」というものがあるのではないかという。

農耕や狩猟の技術は、言葉ではなく体を通じて伝えられていく。書いた物には残らないがこれも歴史である。また、日本人はさまざまな自然の中に「神」を見ることができると言われる。山神や田の神を祀る儀式や村里に残る通過儀礼その他のさまざまな儀式を通じて、里に生まれ育ち、やがて黄泉の国に帰り、祖先神として祀られるという「生命性の歴史」もまた、かつての村落社会には根強く存在し続けていた。そうした「見えない歴史」を振り捨て、経済活動を前面に押し出し、社会はつねに前進することで良くなっていくという歴史観に路線変更していったのが、高度経済成長期であった。

私たち日本人は、かつてあれほど豊かに持っていた「見えない歴史」を見失うと共にキツネにだまされる力も失ってしまったのだというのが、著者の解答である。ヘーゲルやマルクスの歴史観に、ショーペンハウエルやベルクソンの歴史観を対峙しつつ、自分の住む群馬県の山村での体験談をまじえながら、素人にも分かりやすく書かれた「歴史哲学序説」である。評者は、これを読みながらプルーストの『失われた時を求めて』を思い出していた。石につまづいたときに甦る記憶こそ、ふだんは見失われているが、私たち一人ひとりの中に蔵されている厖大な「身体性の歴史」そのものではないか。新書らしく易しい記述ながら、考えさせられることの多い一冊である。


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 2008/1/3 『ロリータ、ロリータ、ロリータ』 若島 正 作品社

新訳『ロリータ』の訳者が、『ロリータ』について書き下ろした書物と聞いて、アッペルの書いた注釈本のような本を期待すると裏切られる。たしかに、『ロリータ』について書かれた論考を集めたものだが、「これが、ロリータだ」といった、いわば『ロリータ』解読の定本を目指した体のものではないからだ。これまで折にふれて書かれた『ロリータ』についての文章をもとに自分の考えをまとめたもので、整理はされているものの体系だったものではない。

著者はまず、ナボコフがチェス・プロブレム作者であったことにふれ、チェスとチェス・プロブレムのちがいを説きながら、一般の文学作品とナボコフのそれの差異について次のように述べる。一般の文学作品はチェスに似ていて、「指される一手の意味や価値が、見る者の主観によって変化する」。ところが、プロブレムというパズルの場合、主観性の介入は起こらず、誰が解いても同じ答えが出てくる。ナボコフの小説は文学の中でいちばんプロブレムに近いものだという。

「ナボコフ=パズル小説作者」論とも言うべき、著者のこのナボコフ理解を受け容れられる読者だけが、この本の読者たり得る資格を持っている。評者は、文学の読み方の一つとして、そのような理解の仕方があることを認めるのに吝かではないが、自身プロブレム作者でもある著者のようには、とても読むことはできない。しかし、ことナボコフに限って言えば彼の小説を読む面白さのかなりの部分がそこにあることは理解できる。

著者は、「プロブレムを解くように論理の筋道をたどることでしか小説を読めないし、曖昧な美ではなく、論理が鮮やかに結晶したような作品を最も美しいと感じる」ので、作者の構想がつかめたときがいちばんうれしいという。その著者にして、『ロリータ』における駒の配置の意味はつかめたものの、その配置が意味する作者の構想はまだ読み切れていないと言う。この本は著者の読み筋を示す中間報告のようなものであるらしい。

さて、その読み筋だが、新潮文庫版でわずか5ページ分にあたる文章を精読することで、ナボコフを読む実例を示している。二つの映画版を参考にしながら、脚本と原作では何がつけ加えられ、何が省略されているかを追うことで、作者ナボコフの意図したことを探ってみせる。なぜ、小説では壁に掛けられた絵がゴッホ作「アルルの女」とあるのに自身が書いた脚本では、その絵の記述がないのかという、言語レベルと映像レベルの想像力の喚起するものの差異を論じたあたりは知的なミステリでも読むようで、論理と想像力の結びつきが愉しい。

最も考えさせられたのは、ハンバートの改心が本物かどうかという問いである。たしかに、谷間から少女たちの声が聞こえてくる場面でのハンバートの心情には、ニンフェットではない現実のロリータへの愛がうかがわれ、評者のようなナイーブな読者は感動を禁じ得ないところだが、著者はそれに疑義を呈する。果たして、ハンバートは本当に改心しているのだろうか、と。その一つの根拠として、話法の問題を採り上げる。直接話法の記述を間接話法に変換することから生じる滑稽味を例にとり、ハンバートの回想録の信憑性を括弧の中に入れるのだ。

真に反省している人間が、自分の過去を語る文体を喜劇的なタッチで飾ろうとするだろうか、という疑問はたしかにあり得る。作中のハンバートには登場人物としてのハンバートと回想記の作者としての二つの位相があり、先に採り上げた場面を含め、その場面のレベルでは感動しても、読みすすむ中で文章を記述しているハンバートという話者のレベルに立つと、回想録に一切の作為がないとは言えなくなるからだ。

『ロリータ』はジョン・レイ・ジュニア博士の序文にはじまり、第一部、第二部とハンバートの回想が綴られる。多くの読者は最後まで読んで、もう一度序文に戻るだろうが、二度目に読むときは、同じ場所ではなく一段高い位置に立っている。著者はその構造を円環的でなく螺旋的と表現する。すなわち、読めば読むほどより高い読みが発見できる。『ロリータ』という小説の持つ魅力はそこにあるのではないか。緻密な読みであるが、これですべて語り尽くされた訳ではない。なにせ、たった5ページ足らずである。読者には著者に倣って自分の読み筋を見つけていく楽しみが残されている。『ロリータ』読みなら、外せない一冊である。


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