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 2007/11/18 『失われた時を求めて第四篇』 マルセル・プルースト 集英社

ゲルマント公爵夫妻の帰りを待ち受けていた「私」は、思いもかけずシャルリュス男爵とジュピアンの出会いを目撃してしまう。二人は初対面であったにもかかわらず一目で同類であることを見抜き、部屋の中に消える。その夜、ゲルマント大公家の夜会で、「私」は懐かしいスワンに会う。癌に冒されたスワンはかなり窶れていた。「私」は間遠になっていたジルベルトに手紙を書くことを約束する。しかし、オデットはその手紙を「私」の社交界に対するスノビスムの現れだと誤解する。社交界の潮流は動いており、今やスワン夫人のサロンは、ヴェルデュラン夫人のそれとともに上り調子にあり、さしものゲルマント公爵夫人の威光にも翳りが出はじめていたのである。

再びバルベックを訪れた「私」は、ホテルの部屋で靴を脱ごうとして屈んだ瞬間、かつてそれを脱がせてくれた祖母を思いだし悲嘆にくれる。「私」は、アルベルチーヌを誘い、ヴェルデュラン夫人が、カンブルメール侯爵から借りたラ・スプリエール荘を訪れる。そこには、モレルという音楽家を追っかけてシャルリュス男爵が出入りしていた。遊び相手として考えていたアルベルチーヌに別れを告げようとしたとき、彼女とヴァントュイユ嬢との関係を知り、嫉妬に襲われた「私」は、アルベルチーヌとの結婚を母に告げるのだった。

第四篇は、「ソドムとゴモラ」という標題にはっきり示されているように、男性、女性の同性愛の主題が濃厚に浮かび上がってくる。颯爽とフォーブール・サン=ジェルマンの社交界を渡り歩いていたシャルリュス男爵だったが、その性的嗜好のためには、相手が身分の卑しい男であってもいっこうに気にしない。いや、むしろそうした相手の方が彼の欲望をそそるらしい。第四篇冒頭ではゲルマント家の館で出会った元チョッキ職人のジュピアンと、かなり際どい会話を交わす。そして後半ではバルベックで見かけたモレルというヴァイオリン弾きに入れあげ、偽りの決闘騒ぎまで仕立てて男を自分の元に引き止めようと画策する。

ここに至って、シャルリュスには老残の同性愛者の悲哀の色が濃くなってくる。当時、同性愛者であることは大っぴらには表明できなかった。芸術の才能があり、人より秀でた才気がありながら、人に知られてはならない秘密を持っているために、男爵は奇矯な振る舞いを余儀なくされることがあった。その理由を種明かしすることで、話者はシャルリュス男爵についてあからさまな筆致を採ることができるようになった。

この話題を語る際に、プルーストは「覗き見」の視点を採ることが特徴的である。第一篇のモンジューヴァンにおけるヴァントュイユ嬢とその女友達との痴態を観察するときも、第四篇冒頭でジュピアンとのやりとりを見届けるときも、話者は相手に見つからぬように身を低くしたり物陰に隠れたりしてみせる。現実にプルーストは、馴染みの娼館の主人に頼んで娼館を訪れる貴族やブルジョアの様子を覗き見たことが度々あったという。自分は物陰に隠れながら、相手の愚かな様を暴露して嗤うようなところは、こうした場面に限らず、この作品には多々見られる。作者自身に同性愛的嗜好があったことは既に知られているが、作品発表当時には、あからさまにできるわけもなかった。その思いがこういう屈折した表現を採らせたものでもあろうか。

『失われた時を求めて』は、小説という形式を採用しているが、ストーリーだけを追うなら、このように長く書き続ける必要はない。小説の中に批評やエッセイと呼ぶ方が相応しい文章が延々と続くので、かくも長い小説になる訳だ。「小説の形で小説について語る」とは、よく言われることだが、小説について語るだけでなく、美術や音楽についての比評もかなりの部分を受け持っている。それ以上に論じられることが多いのは、人の記憶や、時間というもののあり方、時間と空間の関係といった哲学的とも言える問題である。こうした部分は、長々と続く不毛なサロンの会話にあきあきした読者に、新鮮な空気を吸った時のような生気を甦らせる効果を持つ。

たとえば、第四篇には当時としては珍しい自動車が登場する。絵を描きはじめたアルベルチーヌのために「私」は自動車を一台注文するのだが、それは、次のような考察を生み出す。「距離というのは空間と時間の関係に過ぎず、その関係とともに変化する。ある場所に行くのが困難なとき、私たちはそれを何里とか、何キロメートルとかいった形で表現するが、しかし困難さが減ればこうした言い方はあやまったものになってしまう。芸術もまたそのために変わるのだ。というのも、一つの村とはちがう世界にあると思われた別の村も、次元の変化した風景の中では隣の村になるからだ。」馬車から自動車への変化は、空間認識を変えてしまうものだったのだ。

変化といえば、土地の「名」から想像されるイメージの世界を旅していた「私」は、ヴェルデュラン夫人のサロンに出入りするブリショによって、その楽しみを奪い取られることになる。というのも、ブリショは地名の語源をまるで辞書を暗記したかのようにサロンに集まった客に語って聞かせるのが趣味であった。その「名」から想像していた土地のイメージが何の変哲もない言葉から来たものだと知ってしまった「私」は、汽車に乗っても前のように愉しい想像に耽ることができなくなる。「名」と「実」の主題がここにも見える。

「私」は、絵を描くアルベルチーヌをその場所に残し、自動車に乗って思う。この道が以前にステルマリア嬢のことを考えながらたどった道であることを。「これらの道は私に思い出させるのであった。自分の宿命は、ただ幻影だけを追うというところにあり、自分の追いかけている人たちの現実性は、大部分が私の想像力だけで作られたものにすぎないことを。」次から次へと、洋服を着替えるように対象を変える「私」の女性遍歴だが、それらは「束の間に消える非現実の世界にふれたいがために追い求めた幻影」でしかない。アルベルチーヌとの関係が長く続けば、それは日常の現実となり、またもやそこから逃げ出したくなるのが「私」なのだ。

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 2007/11/10 『失われた時を求めて第三篇』 マルセル・プルースト 集英社

第三篇「ゲルマントの方」の舞台はパリ。一家は祖母の健康のため、ゲルマント家の屋敷内の一角に転居する。憧れのゲルマント夫人を一目見ようと、毎日夫人の散歩コースに出かける「私」だったが、夫人には疎んじられてしまう。「私」は、正式に夫人に紹介してもらうため、サン=ルーのいるドン・シエールに向かう。しかし、頼みのサン=ルーもまた恋人に振り回されていた。パリに帰った「私」を待ち受けていたのは祖母の死だった。そんな折、パリを訪れたアルベルチーヌとよりを戻すが、心は既に彼女から離れていた。そして、ついに念願叶い、ゲルマント家の晩餐会に招かれることになる。そこで見た噂に高いゲルマント家の才気とは、どのようなものだったか。

プルーストは複数の主題を同時に展開していく。厖大な数の人物が登場し、長期に渉って展開される本作には、表立って語られるドレーフュス事件のような人種差別問題や、シャルリュス男爵に象徴される同性愛の話題以外にも、全編を通じて繰り広げられるプルースト的主題が、少しずつ小出しに繰り返し登場する。

たとえば、「名と実」の主題。「たくさんの旅を夢見ながら、ごくわずかの旅行しかしない私」にとって、事物はまず何より「名」として現れる。それは、バルベックやヴェネツィアのような「土地の名」に限らず、ゲルマント家に代表される名だたる王侯貴族のような家や人物にもあてはまる。そして、絶えず繰り返される主題とは「名」によって想像力をかき立てられ、肥大化したイメージが、「実」物の姿によって裏切られてしまうことである。

ファッフェンハイム=ミュンスターブルク=ヴァイニンゲン大公の場合を例にとれば、「私」は「大公が、たくさんの地の精(グノーム)や水の精(オンディーヌ)の住む森や川、ルターやルイ=ジェルマニックの思い出をとどめる古い城館のそびえる魔法の山などから得た収入を、五台のシャロンの自動車、パリとロンドンの邸宅、オペラ座の月曜日のボックス席と「フランセ」の「火曜日」を手に入れるために注ぎ込んだことを」知る。

伝説的な貴族の名門ゲルマント家の場合も事情は似たようなものだ。フォーブール=サンジェルマンを代表する超一流のサロンでは何が話題になり、そこに集まる人々はどのように振る舞うのか、期待に満ちてサロンを訪れた「私」の前に展開される光景は、名門意識に凝り固まり、三流のサロンに集まる人々を侮蔑しきった上流貴族の鼻持ちならないスノビズム(俗物根性)であったり、ただただ「才気(エスプリ)」あるところを披瀝するという目的のために、自分の近くにいる人々を寄ってたかって中傷したり貶めたりする身勝手な上流人士の姿である。

また、親友サン=ルーが家族親戚の大反対にもかかわらず入れあげている恋人ラシェルは、なんとかつて売春宿で見かけた「私」が「ラシェルよ主の」とあだ名を付けた娼婦であったりもする。あれほどゲルマント公爵夫人のサロンに憧れていた「私」だが、ゲルマント公爵夫人に早くも失望している。なるほど、ユゴーの詩を諳んじたり、名高い画家や音楽家の芸術についても語ることはできる。しかし、それらは既に価値が定まったものである。自らが無名の芸術を見出すような審美眼は到底期待できない。「名」によって肥大化した欲望が実体によって裏切られるという主題こそ、プルースト的主題を代表するものといっていいだろう。

さらには「失われた時」の主題がある。「私」は時に、「物」が「私」に対してその存在を開示する瞬間に立ち会うことがある。「私」の中にある芸術家的な部分はそれに反応し、待ちわびた瞬間を何とか自分のものにしようと焦るのだが、つねに人といる「私」は、いつもつかみそこなってしまう。原題にある「re temps perdu」はフランス語では「時を無駄に過ごす」という意味があるそうだが、「私」によって微に入り細を穿って描写される華やかな社交界での才気溢れる会話も貴族やその夫人たちの豪華な衣装も、そういう視点から見れば厖大な時間の蕩尽の成果といえるだろう。もっとも、「私」は、この「失われた時」を最終篇「見出された時」においてあらたに再発見することになるのだが。


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