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 2007/8/23 『ディフェンス』 ウラジーミル・ナボコフ 河出書房新社

ルージンは人との関わりがうまくとれない少年だった。心配した両親は彼を学校に入れようとする。一度は逃げたルージンだが簡単に見つかってしまう。案の定、学校ではのろまで愚図なやつとして級友のいじめに遭う。この逃亡そして不本意な帰還という図式は以後何度も繰り返されることになる。

ルージンが唯一興味を示したのがチェスだった。瞬く間に腕を上げ、子どもながら大会に出て勝利すると、学校をやめ、各地を転戦する競技生活に入る。成人し今やグランド・マスターとなったルージンだが、チェス漬けの毎日に神経を冒されていた。療養を兼ねて訪れたベルリン郊外の保養地で彼は後のルージン夫人と出会う。

優しいフィアンセを得て小康を得たのも束の間、宿敵トゥラチとの闘いの最中またしても神経を病む。医者の勧めでチェスと縁を切った生活をはじめるが、ルージンにとって生きる意味を実感できるのはチェスだけだった。妻が彼の周りから遠ざけておこうとする苦労を嘲笑うかのように、新聞の中から、客の会話からチェスが顔を除かせる。彼は自分の人生がチェスのゲームであり、何者かの一連の手筋によって操られているという妄想を抱くようになる。

子どもの頃から今に至るまで、何度も繰り返される狡知に長けた一連の手筋から逃れようとして、ルージンは起死回生の防御策(ディフェンス)を必死で探るのだが、攪乱戦術として頼った思いつきの一手が裏目に出て、のっぴきならない羽目に追い込まれてしまう。

「われわれが感じとるのは、人生の皮肉であり、アイロニーである。ルージンにとって唯一の幸福をもたらすはずのチェスが、彼を狂気にそして破滅にと追いやる原因になる。ルージン夫人が痛切な優しさでルージンを救おうとしても、その努力は報われない。そうしたすべては、気がつかないうちに人生という巨大なチェス盤の上の駒になり、そこで苦闘するために起こる悲劇なのだ。『ディフェンス』に出てくる登場人物たちは、ごく一部の例外を除いて、みな悲しい人間ばかりなのである。」(訳者解説より)

「気がつかずに通り過ぎてしまいそうな細部が、別の場所で再現反復されたり、他の細部と照応したりする」という、ナボコフ読者ならおなじみの精妙な構成は、ロシア時代に書かれたこの作品でもすでに確立されている。また、まるで映画の移動式キャメラで撮影したような遠近感に満ちた室内の描写や、ベルリンやペテルブルグ近郊の秋から冬にかけての自然の移ろいを描く筆致にはナボコフならではの文章の美しさを堪能できる。

一種の天才的芸術家の破滅型人生を描いた芸術家小説とも読めるが、主人公の人物造型は類型的なものではない。チェスの才能をとってしまえば、今の日本ならオタクと呼ばれてしまいそうな憎めないキャラクターの持ち主として不思議な魅力を与えられている。また、ルージン夫人の魅力については、次の引用で事足りよう。

「彼女のどこがいちばん魅力的なのか、掘り下げた者はまだ誰もいない。それは、魂の本能に絶対誤りがない子供時代にかつて彼女を魅惑し悩ませたことがあるものだけを人生のなかでつかまえ、おもしろいものや感動的なものを求め、見捨てられた不幸な生き物に対して耐えがたいほどの優しい哀れみをつねに感じ――とる魂の神秘的な能力だった。」

チェス・プロブレムというのは、詰将棋に似た一人でできるパズルのようなものだそうだが、そのチェス・プロブレムと詩を組み合わせた作品集を刊行するほどの愛好家であったナボコフが、チェスのグランド・マスターを主人公にした作品を、自らもチェス・プロブレム愛好家である訳者が満を持して翻訳したという極めつけの一作。チェス愛好家でなくとも、ナボコフの魅力に触れることのできる愛すべき作品である。

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 2007/8/21 『ユリシーズ』案内 北村富治 宝島社

副題に「丸谷才一・誤訳の研究」とある。最初にことわっておくが、著者は何も丸谷才一のあら探しをしようと思ってこの本を著したのではない。著者は英文学者でもなく、プロの翻訳家でもない。文学には素人の銀行員である。ただただ、ジョイスが好きで『ユリシーズ』を読もうと思い立ち、何年もの間、暗誦ができるくらい原書を読み、度々ダブリンにも赴き、地道に研究を重ねた結果、丸谷訳には誤りが多いということに気づいたのである。

今ひとつ押さえておくべき点がある。本書が出版されたのが、1994年。丸谷他二人の訳者による集英社版『ユリシーズ』が出版されたのが、1996年である。つまり、ここで著者が俎上に挙げているのは、同じ顔ぶれの訳者たちが1964年に出版した河出書房新社版、つまり旧訳の『ユリシーズ』である。なあんだ、と思われるかも知れない。そんな古い訳の問題点を拾い上げてみたって何の意味があるのか、とも。しかし、評者には非常に面白かった。

集英社版の『ユリシーズ』は、ギフォード、ソーントンをはじめとするジョイス研究家の解釈をぎっしりと脚注に詰め込み、これ一冊あれば大丈夫という意気込みの見える、いわば日本語訳『ユリシーズ』の「定本」を目指したものである。ただでさえ難解という定評のあるジョイスの『ユリシーズ』を原語で読める数少ない読者以外、一般の日本人がジョイスにふれようと思ったら、まず手にとるだろうと思われる現在のところ最も信頼できる完訳日本語版『ユリシーズ』が、丸谷他訳の集英社版であることに異論はないだろう。

著者の指摘によれば、誤訳だらけであったその丸谷訳(三人の共訳であるが便宜上代表者は丸谷氏であるので)が、30年もそのまま放置されていたのに、この本が出てわずか二年後に新訳が出たことがまずは面白い。著者によれば、丸谷氏は、旧版後書きで、「お気づきの点について読者諸賢のご教示を賜ることができればこの上ない幸いである。」と結びながら、疑問点について質問した著者の手紙には「梨のつぶて」だったそうだ。そういう意味で、この本は、丸谷氏に対する著者のいわば公開質問状だった。

柳瀬尚紀氏の『フィネガンズ・ウェイク』の翻訳が、時ならぬジョイスブームを巻き起こし、出版社を刺激したことは充分考えられるが、名指しで誤訳を指摘された「公開質問状」に対する返事が、集英社版の刊行という形になったとも考えられる。それでは、返答はどうなっているだろうか。著者は原文、丸谷訳、その疑問点、著者による試訳という形で稿を進めている。評者は150にも及ぶ疑問点の一つ一つを、新訳と照らし合わせてみた。

その結果、著者による指摘はわずかなものを除いて、ほぼ全面的に新訳に反映されている。直接指摘どおりに訳し直しているものも少なくない。脚注で採り上げているものも含めれば、かなりの数が著者の指摘があたっていたといえる。それでは、変わらなかった点はどうなのだろうか。著者のまちがいなのだろうか。評者もずぶの素人であるから、辞書を片手にジョイスの原文にあたってみた。

結論から言えば、いくつかの点で著者の解釈の方が妥当と思える部分が多々残っているように思う。一つだけ例を挙げれば、第5挿話に出てくる二人の娼婦の歌。
≪あら、メアリのズロースのピンがない。
どうしていいかわからない、
それがずりおちるのを留めるには
それがずりおちるのを留めるには≫
リフレインの部分、To keep it up は、第11挿話のブルームの内的独白にも再び登場する。このように、場所を変え、時間をずらしながら、何度も同じ事柄や歌、言葉が全編に響き交わすのがジョイスの文体の特徴である。一つの訳語がいつもどの場所でもうまくあてはまるとは限らない。

娼婦の歌は、第11挿話では、ブルームが妻に隠れて文通しているマーサに返事を書いているところで出てくる。子どもが死んでから妻としっくりいっていないブルームはマーサ相手に想像上の浮気をしている。問題は“it”が何を指すかだ。普通ならズロースだろうが、drawersは文法上複数だから、これを受けるならthemになる。To keep it up は 著者の言うように、“it”をpin(penisの暗喩)と解釈し「それが下がらないように、勃こり立つように」と訳さないと、意味が通らない。

ただ、全体的に見れば、著者の問題提起は『ユリシ−ズ』を日本語で読むということについて多大な貢献をしたというべきだろう。丸谷氏から著者に何らかの挨拶があったかどうかは知る由もないが、読者にとって、より正確な翻訳がもたらされたという結果に著者は満足されているのではないか。

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 2007/8/15 『ジェイムス・ジョイスの謎を解く』 柳瀬尚紀 岩波新書

『ユリシーズ』には、謎が多いと書いた。これまでに多くの人が、それぞれの意見を様々な本に書いている。集英社版の三巻本には、詳細な脚注が付いていて、ページを越えてはみ出しているくらいだ。真面目な読者は、それらに全部つきあおうとして、途中で棒を折ってしまう。実は、自分がそうだった。注が多いということは、注を読まないと理解できない訳され方をしているということでもある。しかし、たかが小説にあの脚注の量は常識を超えている。『ユリシーズ』という小説、たしかに大作だが、本文だけなら、そんなに大長編というわけでもない。まずは、本文だけでも読んでみることをお薦めする。

その点、柳瀬尚紀が訳している河出書房新社版は、注一切なしという思いっきりのいい編集方針で、キレのいい訳文とともにお薦めなのだが、翻訳書というのは、日本語の文章として読めなければならない、というのが訳者の方針だから、注を付けないとなると、ジョイスの言葉遊びを、逐一日本語に移しかえるという離れ業に挑戦しなければならない。そのせいもあって、全18挿話のうち、1から6挿話と12挿話だけが出されたところで止まっているのが惜しい。

でも、なぜ7からから11挿話を飛ばして12挿話なのか。それには、訳がある。第12挿話〈キュクロープス〉は、無名の〈俺〉という話者が、ジョウ・ハインズと連れだって、バーニー・キアナンという酒場に現れ、酒の相手を待ち受けていた悪名高い「市民」と呼ばれる男と酒を飲んで噂話に興じるという話である。それのどこが問題なのか。実は、柳瀬氏、この挿話の話者〈俺〉は犬だという説を世界に向けて発信しているのだ。

『ユリシーズ』において、話者の視点は一般的には〈外在視点〉を用いていて、ブルーム、あるいはディーダラスの内的独白を「意識の流れ」の手法で描くとき以外、特定の人物の内側から外にいる人物を見て描く〈内在視点〉という方法を採らない。たまに二人以外の人物の内側から描く場合は、人物の名を明かしている。それなのに、この挿話に限っては、話者は〈俺〉というだけで、名を名乗らない。しかも、おかしいことに、ジョウも、「市民」も、俺に名前で呼びかけない。いや、名前だけではない。はじめから最後まで完全に〈俺〉の言葉は無視されているように読める。この男はいったい誰なんだろう、という疑問が読者の心に浮かぶようにわざと書かれているとしか思えないのだ。

登場してくるところからして変だ。
「ダブリン市警のトロイ爺公とアーバー坂の角んとこでちょいと立ち話をしていたら畜生ッ煙突掃除屋めが通りすがりに危うく俺の目ん玉へ道具を突っ込みそうにしやがった。振り向きざま一吠え浴びせてやろうとしたらなんとストウニー坂をひょこひょこやってくるのは、ジョウ・ハインズよ。
――おお、ジョウ、と俺が云う。元気かよう?見たかあの煙突掃除屋が俺の目ん玉をブラシで危うくえぐるとこだったぜ。
――煤とは縁起がいいやな、とジョウが云う。いま話してた老いぼれ睾丸は誰だ?」

いくらなんでも、人通りのある往来で、通行人の目にブラシを当てそうになって煤までつけてそのままという法はない。しかも、ジョウは、同情するどころか「縁起がいい(アイルランドの言い伝えらしい)」と受けて、話を変えている。煙突掃除屋にも無視され、ジョウにも同情されない〈俺〉って何?という疑問が湧いてこないだろうか。

最初から最後まで徹底してこの調子である。では、なぜ〈犬〉なのか。「一吠え浴びせてやろう」というところに注目するのは当然だろう。しかも、この酒場には、ギャリー・オウエンという名の犬がいて、〈俺〉に吠えかかる。その他、いくつもの証拠を挙げて、柳瀬尚紀は、〈俺〉=〈犬〉説を説くのだが、どうやら、この説は、まだまだ支持者が少ないらしい。評者は、かなり信憑性のある説だと思うのだが。

というのも、『オデュッセイア』と云えば、犬がつき物。オデュッセウス(ユリシーズ)が、乞食の変装をして故郷のイタカに帰ってきたとき、誰も気づかぬなか老犬アルゴスだけが、主人と気づいて寄ってくる、余命幾ばくもない老犬のその姿を見てさすがのユリシーズの目にも涙が浮かんだというという有名な話をロジェ・グルニエが書いている(『ユリシーズの涙』)。そればかりでない。ジョイスは動物好きなのか、『ユリシーズ』全編にやたら動物が登場する。なかでも犬は出番が多い。犬と人の心の通い合いで有名な『オデュッセイア』の挿話をひっくり返して、人間がいっこうに犬語を解しない挿話を書くことは充分考えられるのではないだろうか。

柳瀬氏の証拠探しはまだまだ続くが、後は実際に本を読んでもらいたい。実は、柳瀬氏〈俺〉の正体まで突きとめている。しかし、そこまではさすがに評者もついていけないのだが。『ユリシーズ』の一挿話について語るだけで一冊の本が書けてしまう。しかも、その中身がべらぼうに面白い。ここは是非、読んでもらうしかない。

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 2007/8/13 『ユリシーズ』 ジェイムス・ジョイス 集英社

もしも、ジョイスが『ユリシーズ』を書かなかったら、ナボコフの『ロリータ』も、ダレルの『アレクサンドリア四重奏』も、この世に存在しなかっただろう。ヴァージニア・ウルフだって、その下品さにはうんざりさせられながらも、ひそかにライヴァル意識を燃やしながら『オーランドー』を書いたにちがいない。この途方もない小説には、読む者をして、これを読んだ後、以前と同じ平静な気持ちで小説に対峙することを不可能にさせる魔力がある。

『ユリシーズ』は、言うまでもなくホメロスの『オデュッセイア』を下敷きにしている。トロイヤ戦争から帰国の途次、英雄ユリシーズは、神を怒らせたため、魔物や怪物に帰還を邪魔される。夫の帰りを待つ貞淑な妻ペネロペイアは、ユリシーズの後を襲おうと押しかける求婚者たちに悩まされていた。苦境を見かねて父を捜しに出たテレマコスは、ようやく父を探し当て、二人は故郷イタケに帰って求婚者たちを追い払うという物語だ。

主要な登場人物三人のうち、ユダヤ系アイルランド人の広告取りレオポルド・ブルームがユリシーズ、その妻でスペイン系の歌手モリーがペネロペイアに、そして、教師兼著述業の青年スティーヴン・ディーダラスが息子テレマコスに擬せられている。

舞台はアイルランドの首都ダブリン。時は1904年6月16日木曜日の朝から翌日の午前4時頃まで。つまり、この作品はとある夏の一日、ダブリンの町中を彷徨するブルームとディーダラスに、ユリシーズの長い航海をなぞらえているわけだ。しかも、矮小化はそれにとどまらず、家で夫の帰りを待つはずの妻は、どうやら浮気をしているようで、ブルームはそれを知っていながら見逃している様子。つまり、枠組みは借りながらも、英雄は猥本好きで争いごとを好まない小市民的人物に、貞淑な妻の見本は夫のいぬ間に間男をくわえ込む好色な女に変更されている。

ジョイスは「たとえダブリンが消滅するようなことがあっても、それは『ユリシーズ』に含まれ ている証拠から容易に復元できる」と言ったそうだが、そう豪語したくなる気持ちも分かるほど、街路から飲み屋、肉屋の一軒一軒まで、実に細かに描き出されている。ナボコフでなくても、地図を脇に置いて登場人物の歩く道を鉛筆でたどりながら読みたくなる。しかも誰と誰がどこかで出会うのは何時か、という空間と時間の結節点を細密に記述していく。ナボコフが「同時生起」と呼ぶこの手法は、まるで映画を見ているような気にさせられる。

主要な登場人物も、別の章ではまるで点景人物の一人のように素っ気なく描写される。それとは逆に、盲目の調律師や、茶色の外套(マッキントッシュ)を着た男のように、人物と人物とを結びつけるためにだけ登場しているような人物もいる。特に度々登場するマッキントッシュと誤って呼ばれる謎の人物はいったい何者なのか、ナボコフは解決したと自慢しているが、それが正解かどうかは誰にも分からない。この例一つをとってみてもそうだが、チラシ一枚とってみても、度々言及され、その航海の跡をたどれるように書かれている。

さらに文体の問題がある。ナボコフに倣って大きく三つに分けると、
1.本来のジョイスの文体―直截、明晰、論理的。
2.いわゆる意識の流れ―未完結で、素速く、切れ切れの語法。
3.文体模倣―非小説形式(音楽、芝居、教義問答集)、文学的文体と作家のパスティーシュ。
これらが、時には入り混じり、あるいは一章ごとに姿を変え、次々と変化する目まぐるしさには、「異化作用」を狙ってのことだとは思うものの、正直ついていくのに閉口する。

地口、洒落、なぞなぞ、流行り歌からアリアまで、ありとあらゆる言葉遊びを投入し、さんざっぱらふざけ散らす。酔っぱらいの喧嘩、放屁、手淫とブルームズベリー・グループならずとも目を背けたくなる乱暴狼藉かつ下品で卑猥なシーン、とモダニズム文学が採り上げなかったような叙述の様々なレベルを採用し、有名な句読点抜きのモリーの独白で終わる、この小説。読み終わっての感想は、不思議に心に残るものがある。

これまでの小説にはなかったリアルな人間がいる。「意識の流れ」の手法を過剰なまでに使うことで、切れ切れな思考の間にエロティックな妄想に耽ったり、つまらぬことに気をやってみたりと、ブルームほどではないにせよ、我々人間がそういつも立派なことばかり考えたりしたりしているわけでもないことが嫌でも分かる仕組みになっている。その、しようもない人間が、一方で動物や、弱い立場にいる人々に心を寄せ、争いごとが嫌いなくせに、ユダヤ人差別には一言言ってやらねば治まらないところも持っていることが、じんわりと伝わってくる。

一度や二度読んだだけでは、もったいない。第十二挿話「キュクロプス」の「おれ」という視点人物は誰なのか。柳瀬尚紀に拠れば「犬」の視点から書かれているのだということになるが、果たして本当にそうなのか。いくつもの謎を解くために、数多ある注釈本を探し、別の訳者による翻訳で読んでみたり、と楽しみの尽きない書物である。


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