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 2007/12/27 『乱視読者の英米短篇講義』 若島 正 研究社

著者があの『ロリータ』の訳者若島氏であることからも想像できるように、多分にナボコフの『ヨーロッパ文学講義』や『ロシア文学講義』を意識したものである。そのことは、あとがきでも「身のほど知らずにも」と、謙遜まじりに触れられているが、ナボコフの『ヨーロッパ文学講義』は、素晴らしいもので、若島氏でなくても、小説について書いてみようかと思う人なら、一度はその真似をしたくなるものである。若島氏は、ほかにエーコやカルヴィーノの文学講義を挙げ、「彼らの文学講義がすばらしいのはなによりもまず、文学の大切な部分に触れているというその実感というか手ざわりが生々しいからだ」と、書いている。

エーコとカルヴィーノについてはひとまず置くとして、ナボコフの文学講義については、文学の大切な部分に触れている実感はもちろんのことだが、その大切な部分をたしかな構造の中に位置づけ、あざやかに整理して見せるその手際にこそ、新種の蝶を発見採集する昆虫学者であり、多言語に通暁する言語学者でもあるナボコフの真骨頂があるように思う。

そういう意味では、「ただの小説読み」を自称する若島氏の文学講義にナボコフのそれに共通するものを求めるのは酷である。著者自身も書いているが、「この短篇小説講義では、扱う短篇をこまかく精読し分析するという方針をあまり取らない。むしろ、個人的な印象やわずかばかりの記憶から出発して、その印象や記憶がまわりに呼び寄せてくるものを配置するという趣向になる」ということになる。どうしてそうなるのか。ひとつには、ナボコフの採り上げているのが、名だたる超大作であるのに比べ、著者が扱っているのは主に現代短篇小説であるからだ。

著者は丸谷才一の書評を引用しつつ、短編小説というのは「街角ですれ違った」人間のようなものだという。なにしろ接触時間が短いうえに多くの顔の中の一つに過ぎない。そのうちに読んだことすら忘れてしまう。「短編を読むという経験の根本にあるのはこの忘却ではないか」とまで言い切る。そんな中で、記憶に残る短篇には何かきっと訳があるにちがいない。名うての小説読みである著者の記憶に引っかかる何かをもった作品が、別の作品を呼び寄せ、さらにそこからというように連鎖反応的に引き出される作者や作品の数々を読者は楽しめばよい。

さて、その中で採り上げられている作品だが、英米小説を読み込んでいる読者ならともかく、一般の読者にどこまで知られているだろう、という疑問のわく人選と品揃えである。著者の個人的な印象に残った作品というのが規準であるから、およそ一般向きとは言えない。であるのに、読み出すとなかなか本を置くことができない。プロットの類似した作品を並べて、その似ている点と異なる点を論じて見せたり、作品が影響を受けたであろうと思われる箇所を抜き出して見せたりと、なかなか芸が細かい。

短編小説は不得手と自らいうG・グリーンの「無垢」、「ブルー・フィルム」という二作品と、レイ・ブラッドベリの最高傑作であろう短編集『十月はたそがれの国』中の掌編「湖」を比べて見せ、「少年期の純真さから照り返されて光を失う現在」というテーマにおいて、グリーンの作品が如何にすぐれているかを論じたのが「見知らぬ女性」である。

SFはアルファベット順(Aはアシモフ、Bは、ベクスターとブラッドベリ、Cならクラーク)に読め、という先輩のアドバイスから始まって、急性のブラッドベリ熱に取り憑かれた思い出を語るあたりは、評者自身の経験とも重なって肯きながら読んでいたのだが、「人間はだれしも一度はブラッドベリ熱に感染するものであり、それはふつう高校生までと決まっている)というところで、本を取り落とすところだった。

「生きられている人生の感覚」を短編小説に残せるグリーンと比べ、ブラッドベリをみずみずしいレトリックだけが頼りのファンタジー作家と決めつけられるに至って、最近『たんぽぽのお酒』の続編を読んで、いっこうに感心しなかったのを思い出した。あれは、そういうことだったのか。

ナボコフの作品は「翻訳生活者の手記」一篇が採り上げられているだけだが、全編にわたってナボコフについて触れた部分が多い。その次にはジョイス関連のくだりが目を引く。若島氏、卒論はジョイスだったらしい。ナボコフファンはもちろん、英米短篇に興味のある人なら文句なし。単なる小説好きにも楽しめる講義集である。

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 2007/12/22 『臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ』 大江健三郎 新潮社

大江の所謂「後期の仕事(レイター・ワーク)」につながる作品であるとともに、『さようなら、私の本よ!』でも言及されているナボコフの代表作『ロリータ』にインスパイアされた作品でもある。二十世紀で最も小説家らしい小説家として、ナボコフの名を挙げる大江は、ナボコフがらみの物語を作る試みについて前作だけでは物足りなかったらしい。

『ロリータ』の主人公ハンバート・ハンバートがニンフェットに惹かれるようになった原因はE・A・ポオの詩「アナベル・リイ」を思わせる少女に寄せる愛がもとであった。エリオットをはじめ、詩の引用の多い大江だから、ポオの詩から始まる作品があっても不思議ではない。しかし、今回の作品は少し毛色が変わっている。限りなく作家自身に近い小説家が語り手であるのはいつものこととしても、呼称としてKenzaburoという作家自身の名前がそのまま出てくる。そればかりではない。小説中に新潮文庫版『ロリータ』の解説が引用され、その内容が作品の中に登場するヒロインにつながっていく。つまり、創作と事実の垣根がこれまで以上に低く設定されているのだ。

「私は十七歳の時、創元選書『ポオ詩集』でこの詩を発見し(実在する、私にとってはまさにそのような少女に会うことがなかったとはいわない)、占領軍のアメリカ文化センターの図書室で原詩を写した。」と、日夏の訳詩を紹介した後で、大江は女性記者に「あなたはロマンチック・ラブの小説を一冊も書いていません」と言われたことについて触れ、「確かに「ロマンチックな小説」こそ書かなかったけれど、私が十七歳の時に出会った幻想のアナベル・リー、そして現実のアナベル・リーは自分から一瞬も去ったことがない」と、解説の末尾に記す。自作の小説ではない。他の作家の、しかも文庫本に附された解説の文章中に挿入された個人的な逸話のようなものを伏線として一篇の小説を書き上げるなど、ナボコフを向こうに回して、大江もなかなかやるわい、と思わせる。

私は散歩中、駒場時代の旧友木守に声をかけられる。木守と私は三十年前共に映画を作っていたが、事情があって挫折していた。突然の来訪はその再開を促すものであった。映画はクライスト作『ミヒャエル・コールハースの運命』を下敷きに、作家の郷里に伝わる一揆を描いたもので、サクラという国際的女優が主演する予定であった。サクラには少女時代に撮影された「アナベル・リー」をモチーフにした映画があり、私は松山の占領軍のアメリカ文化センターでその映画と、同じ少女を撮った裸の写真を見ている。その少女こそ後に映画スターとなったサクラその人であり、私の「幻想のアナベル・リー」であった。映画は、スキャンダルが原因で頓挫するのだが、サクラは断念できない。木守は真相を明らかにするが、その衝撃でサクラは病気がぶり返し入院生活を送ることになる。木守が現れたのは、彼女の恢復を示すものであった。

東京大空襲で孤児となったサクラは預けられていた屋敷で進駐軍の将校の保護を受ける身となる。ロシア系の言語学者でもあるデイヴィッドはナボコフを思わせる。しかも、彼には少女の猥褻写真を集める趣味があり、サクラと彼の関係はロリータとハンバートのそれに擬されている。クライストの『ミヒャエル・コールハースの運命』を、自身の『M/Tと森のフシギの物語』に出てくる「メイスケさん」の逸話とを関連づけ、大江ワールドの中に引き込んでしまう力業は、文学から文学を作るブッキッシュな作家大江健三郎、自家薬籠中のものである。

トラブルに巻き込まれた作家の悪戦苦闘ぶりを一種悲哀に満ちた眼差しで自虐的に見つめ、自身を滑稽視してみせることが多い大江の作品は、決して後味のいいものではない。しかし、いつもは肉体的にも脆弱で無様な姿ばかりをさらす「私」がリーチの差のある木守を殴るというマッチョな姿さえ描かれたりしているのは、レイター・ワークの所為でもあろうか。作品の色調も、妹アサと村の女性たちとの共同作業が傷ついたサクラさんの「恢復」をもたらすという終わり方で、終章を彩る森の紅葉とともに、明るいのが印象的である。

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 2007/12/15 『失われた時を求めて第七篇』 マルセル・プルースト 集英社

第七篇「見出された時」は、最終章である。これまで長々と書き継がれてきた事どもが、一気に終幕に向かってなだれ込む。時は、第一次世界大戦の真っ最中。パリの街の夜空をサーチライトが幾条もの光で飾っている。その中で「私」が覗き見るのは快楽を求めマゾヒズムの世界に躍起となってしがみつくシャルリュス氏の姿であった。下卑た連中相手の生活ぶりにもかかわらず、フランス中を巻き込んだドイツ憎しの感情からは自由で、久しぶりにあった「私」に持論を開陳する。反俗的な貴族精神の歪んだ発露でしかないようにも見えるが、ドレーフュス事件同様、批判精神をなくした世論への作家の反撥が窺えるところだ。

自己の快楽を求める内心の声に忠実であり、最後にはその姿を老リア王にも喩えられるシャルリュス氏と比べ、他の連中は節操もなく社交界の中で浮き沈みを繰り返している。今や、社交界に君臨するのはゲルマント大公の後添えに治まったヴェルデュラン夫人であり、芸術づいたゲルマント公爵夫人はますますサロンから遠のいていた。夫の公爵はオデットの屋敷に入り浸りで、かつてのスワンや「私」のように愛する女を囲い者の状態に置いている。

「見出された時」という標題は、言うまでもなく「失われた時」に対応している。紅茶に浸したプチット・マドレーヌから始まった物語は、長い間、自分の文学的才能や文学という形態自体の持つ芸術的意味について自信が持てずにいた「私」が、ゲルマント大公邸中庭の敷石に躓いた時、突然襲いかかるように訪れた圧倒的な無意志的記憶の奔流の中で、自分の書くべきことを見つけるというエピソードで終幕を迎える。

不揃いの敷石の感覚や、口を拭ったナプキンの固さといった偶然の出来事が、それまで何度も記憶を頼りに呼び戻そうとして果たせなかったヴェネツィアやバルベックを生き生きと甦らせ、圧倒的な幸福感で私を包む。この快楽こそが絶対であり、現実にその場を訪れた時のもたらす快楽の方が幸福感が乏しい。それは、私の外部にあり、真の快楽は私の内部にしかないからだ。

私にできることは、「それらのあった場所、つまりは私自身のなかで、これをより完全に知ろうとつとめること、その印象の深いところまでを明らかにしようとすること」である。しかし、「未知の記号で書かれた内心の書物を読む」ことは、一つの創造行為にほかならない。多くの作家が戦争や事件について書くという口実を作ってそれから逃げるのも、誰の助けも借りることのできない孤独な作業に絶えられなかったからである。

表現しなければならないのは、主題の外観ではなくそのもっと深いところにあるもので、個々人の主観もふだんは、突きつめて探ろうとしないからたどり着けないが、探索を続ける努力を怠らなければ、普遍的な真実に行き着く。この個から普遍へ辿る道筋はヴァントゥイユの七重奏曲のところで既に語られた理論である。つまり、「私たちは芸術作品を前にしていささかも自由ではなく、それを自分たちの思い通りに作るのではなくて、私たちよりも前に存在しているその作品は必然的でもあると同時に隠れているものでもあるから、自然の法則を見つけるように、それを発見しなければならない」というのが、「私」の見出した結論である。

そうなると、今まで無駄に費やしてきたような「失われた時」が、作品の宝庫ともなる。自分に才能がないと思っていた「私」が、見聞きし、経験してきたことは、いつか書くべき本のための、植物でいうなら胚乳のようなものであって、育つかどうかは分からないままに秘かにしかし活発に化学的な現象が息づいていた場所といえよう。発見された鍵が隠されていた秘宝を暴くように、つまらなく思われた社交界の人々についての観察や実ることのなかった恋愛経験に逆に深い意味を発見していく過程は、それまでのこの作品のリズムとはまったく異なる速度と強度を持ち、有無をいわせぬ迫力で一気に核心に突き進む。

ゲルマント家の午後の集いに集まった面々を眺める「私」の目には、彼らがまるで別人のように見える。時が彼らを老いさせたのだ。しかし、彼らの目には、その「私」もまた老いて映っているのだった。「私」は、残された時間のなかで、自分の書こうとしている本のことを考える。後に、それが『失われた時を求めて』という名で、世界中の人に愛されることになろうとは、「私」にはまだ分かるはずもなかっただろうが。

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 2007/12/9 『失われた時を求めて第六篇』 マルセル・プルースト 集英社

<第六篇のあらすじ>
家を出たアルベルチーヌがトゥーレーヌにいることを知った「私」は、ロベールを介して彼女を連れ戻そうとするが、うまくいかない。そのうちに彼女が散歩の途中で落馬して死んだことを知らされる。その死が彼女の秘密を明らかにし、「私」は嫉妬に苦しめられるが、次第にアルベルチーヌのいない生活に慣れる。そんな折、母と訪れたヴェネツィアでジルベルトとロベールの結婚を知らされる。そのロベールも今ではソドムの国の住人となり妻を顧みない。「私」は、懐かしいタンソンヴィルをたびたび訪れてはジルベルトと二人で散歩を楽しむのだった。

さしもの長い小説もそろそろ終局が近くなったことを感じさせる。ミステリなら謎解きに入る頃合。「私」をあれほど悩ませていたアルベルチーヌと女友だちの関係は、予想通りゴモラのそれであった。ただ、アンドレによれば、アルベルチーヌの「私」に対する気持ちは本物で、「私」との結婚によって過去を断ち切ろうとしていたようだ。かつてジルベルトに偽りの手紙を書くことが、いつのまにか真実になっていったように、アルベルチーヌに対する「私」の嫉妬心や自尊心からくる本心を隠した冷たい言葉が彼女を去らしめ、ついには死に至らせたことに「私」は思い至る。

「私」に、それまで見えていなかったことが次々と表面に出てきて、「私」を取り巻く貴族たちの世界や少女たちの世界の縺れ合った様相が明らかになる。アルベルチーヌはアンドレのような娘ばかりでなく、モレルとも関係があった。モレルの美貌に惹かれて寄ってくる娘たちと関係を持つためにだ。そのモレルは、あれほど世話になったシャルリュス男爵と距離を置き始め、甥であるロベールへと関心を移し、ロベールもそれに応えているらしい。

社交界の主題も大きく変化を見せる。かつて夫のスワンとは親しくしながらも高級娼婦上がりのオデットだけは自分のサロンに招こうとしなかったゲルマント公爵夫人だったが、二人の子ジルベルト(今はフォルシュヴィル伯爵令嬢)をサロンに招くことを承知する。マルサント夫人は、スワンがジルベルトに遺した持参金ほしさに息子ロベール・ド・サン=ルーをジルベルトと結婚させようとする。ここに至り、以前はあれほど離れていると思われたスワン家の方(ユダヤ人社会)とゲルマントの方(名門貴族)が結ばれるのである。

「私」はといえば、真実を知ったことで嫉妬心に苦しめられながらも、今ではアルベルチーヌの目で娘たちを見るようになり、彼女が愛したように娘たちを愛したいと考えるようになっている。アルベルチーヌのいない寂しさを紛らわすために貧しい少女に金を与え、部屋に呼んだ「私」は、警察の尋問を受けることになる。しかし、その後も自分の傍に少女を置くことに固執する。かつてジルベルトやアルベルチーヌに惹きつけられた「私」にとって欲望を感じるためには彼女たちと同じ少女であることが必要で、はからずも「私」の欲望が「少女愛」のそれであることが明らかになる。これは、後にナボコフが『ロリータ』で追求することになる主題の前触れであろう。

そのときは特になんとも思わずに読みすごしていたことが後になって重要な意味を帯びて甦ってくるという仕掛けは、この大長編がいかに構造的に作られているかということを示すものだが、ようやく訪れたヴェネツィアでカルパッチョの絵の中にアルベルチーヌが最後の散歩のときに着ていたフォルトゥニーのコートを見つけるところや、ジルベルトの文字の書き癖が、ジルベルトからの手紙を死んだアルベルチーヌからのものとまちがわせるところなど、実に手が込んでいて精読の楽しみを堪能させてくれる。

想像していたものが現実によって裏切られるというのがプルースト的主題だが、事あるごとに言及されてきたヴェネツィアだけはそれから免れていて、大小の運河や水路によって迷路のようになったこの水上都市の魅惑を「私」の筆は余すことなく伝えている。愛する母と二人きりの滞在であったことが、それを可能にしているのだろう。その証拠に母と諍いをした後のヴェネツィアは、ただの石の寄せ集めにしか見えない。愛する女も、美しい建築も「私」という主観を通してのみ、価値ある対象として目にも映れば言葉にもなるのだ。

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 2007/12/1 『失われた時を求めて第五篇』 マルセル・プルースト 集英社

「私」は、パリの家の一部屋にアルベルチーヌを住まわせ、一緒に暮らしはじめる。一見自由に芝居を見に行ったり買い物をしたりするアルベルチーヌだが、「私は」監視の目を光らせていた。ヴァントゥイユ嬢と女友達がヴェルデュラン家の夜会に出るときいた「私」は、アルベルチーヌには内緒で夜会に出かけて行く。その夜は、モレルによってヴァントゥイユの七重奏曲が初演されるというので、シャルリュス氏は、社交界の面々を引き連れ、ヴェルデュラン家を訪れていた。しかし、社交界における自分の影響力に気をよくしたシャルリュス氏は客の分際をわきまえずに振舞い<女主人>のご機嫌を損ねる。自宅に帰った「私」は、ヴァントゥイユ嬢のことからアルベルチーヌと口論し、別れ話を持ち出す。一度は和解したものの、ある朝アルベルチーヌは家を出て行く。

もともと、話があるようでないのが『失われた時を求めて』という作品だが、第五篇「囚われの女」においてもストーリーにさしたる進展はない。少数の友人を除いては誰にもその事実を告げず、結婚もしていない女を自分の屋敷に住まわせるというのは、女を囲い者にする訳だが、そうまでして女を自分の傍に置いておきたい理由が、女の過去の同性愛相手に対する嫉妬でしかない。「私」の愛は、とうにアルベルチーヌから離れている。

「私」は、アルベルチーヌに嫉妬心を抱いたときだけ所有欲が起きる。蒐集家が、愛着の薄れたコレクションを手放そうと思ったとき、そのコレクションを欲しがっている相手がいることを知り、相対的にその価値が再浮上したため、手放すのを考え直すようなものだ。アルベルチーヌはそれを知ってか知らずか、臆面もなく嘘を付き続けることで、「私」の疑惑を再生産し、関心をつなぎとめている。そうすることで結果的に豪華な衣裳や装身具から車に至るまで、貢がせることができるからだ。有閑階級の見せかけの豪奢な生活は打算に満ちた関係に裏打ちされている。

ストーリーに進展はなくとも、社交界に変化は起きている。今やバレエ・リュスの<女主人(パトロンヌ)>として押しも押されもしないヴェルデュラン夫人の夜会は芸術家たちがこぞって集う場となっており、上流貴族にとっても無視できない勢力を誇っている。しかし、当の夫人にとって音楽は客寄せの手段でしかなく、そこで交わされる会話にしてもエスプリを感じさせるものではない。権力者として、自分を軽視した男爵に腹を立てたヴェルデュラン夫人は、悪意のある中傷で、モレルとシャルリュスの仲を裂こうとする。そこにあるのは、今に変わらぬ小集団同士の醜い派閥争いであり、卑俗極まりない。

夜会といっても、気鋭の音楽家の演奏を除けば、職場の飲み会の内幕話と何ほども変わらぬ卑俗な会話を、聞いたまま右から左にたれ流し続けるか、そうでなければ、アルベルチーヌの過去についての疑惑から導きだした恋愛心理についてのあれこれを評論家の如くとうとうと述べ立てる「私」の長広舌には、ほとほと閉口する。ただ、そんな中に唐突に真正の批評家が顔を出すときがあるので、うかうかと読み飛ばすことができない。

「私」は、ヴァントゥイユの七重奏曲を聴きながら、かつてスワンとオデットのための曲として親しんだソナタとの類似を認めながらも、大きく異なる点を発見する。ボードレールの唱えた「万物照応」以来、音楽を評するのに色彩の比喩を用いるのは珍しくないが、まるで一枚の大きな画布に描かれた絵画を次から次に眺めていくように描写されるヴァントゥイユの七重奏曲についての分析は見事な架空の音楽批評たり得ている。

しかも、話はそこから芸術論に発展し、優れた芸術の果たす役割について論じられることになる。このあたりになると話者である「私」の論でありながら、作家プルースト自身の芸術観を述べたものとして読みたいという誘惑に読者は耐えられない。

独創的な芸術家が持つ唯一無二の語調(アクサン)は、作家の個性的存在の証である。芸術家は自分でも忘れてしまった未知の祖国の市民であり、彼の語調はそこでかつて聞いたものなのだ。それは、言葉によって表現できないものであり、ただ、芸術だけが、その個人的な世界の内的構造をスペクトルの色として外部に示すことができる。要約してしまえば、ありきたりの芸術論にも見紛おうが、ヴァントュイユの音楽やエルスチールの絵を引用して語られるこの芸術観は、男色家同士の漁色の話題や傲岸不遜な自画自賛、上面だけの追従の言葉ばかりが打ち寄せる汚濁の海にあって波の間に間に見え隠れする切り立った巌のように一際鮮やかに屹立して見える。


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