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 From Russia with lag

ピヨトール大帝「夏の宮殿」

 ペトロドヴァレェツ

ジェットラグのせいか、次から次へと追われるように夢を見ていた。何度も寝返りを打ち、寝つかれない気分のままに目を覚ますと、空はもうぼんやりと明るくなっていた。たとえ眠れなくても、飛行機の中で座り続けていた窮屈さを思えば、横になっているだけで気分が楽になる。ベッドの上で伸びをして、シーツを整えると、もう一度目を閉じた。

ロビーの奧にあるレストランはドイツのビヤホールをそのまま持ち込んだかのようで、広いホールの真ん中には金色に輝く蒸留機がでんと据えられている。ビュッフェ形式で、好きな物をとるのは、どこでも同じだが、ちゃんとザワークラウトがあり、ソーセージの種類も多いのは格好ばかりでなくドイツにこだわっているようだ。ロシア料理の前にドイツ風の朝食を堪能する。

 郊外へ

サンクト・ペテルブルグの市街地を抜け、フィンランド湾に沿って西に進むと、ペトロドヴァレェツという小さな町に出る。かつてはペテルホフといい、皇帝の所領地だったが、1714年、ピヨトール大帝がここに宮殿の建設を命じたことから、後にペトロドヴァレェツ(ピヨトールの宮殿)という名で呼ばれるようになった。

運河の街サンクト・ペテルブルグの中心地はフィンランド湾の東に位置している。ホテルのあるのは、中心地を南に下ったあたりだ。窓の外の風景と地図を見比べながら、バスが西の方に進んでいるのを確認する。周りには、少し前に建てられたアパート群が立ち並んでいる。日本の郊外団地を思い出してもらえば、それに近い。道路沿いのバスやトラムの停留所近くには、西瓜のスタンドが目立つ。なんでも西瓜を食べると、夏負けをしないという言い伝えがあるらしく、檻ほどもある籠の中にぎっしり積まれた西瓜を見ていると、下の方から腐ってきているのでは、といらぬ心配をしてしまう。

何度か分かれ道に出て、しだいに道幅が狭くなると、あたりの光景はそれまでとすっかりかわっていることに気づく。樫の木や白樺の木が大きく枝を広げ、木陰には丈高い夏草が可憐な花を咲かせている。その向こうはなだらかな曲線を描いた丘陵地が広がっていた。街なかを少し離れただけで、日本なら高原の避暑地でなければ見られない瀟洒な風景が現れたことに少々驚いた。ああ、ロシアに来たんだ、という実感がこのときはじめて強く湧いてきた。

 ピヨトール大帝「夏の宮殿」

それまでの高原めいた風景が背後にしりぞき、よく手入れされた芝生の中に小さな礼拝堂や貴族の屋敷らしきものが見えてきた。どうやらペトロドヴァレェツの町に着いたらしい。まるまるとふとった雀が数羽、餌をさがして下りてきた。のこりの雀は、鋳鉄でできた高い柵の上に留まって、こちらの様子をうかがっている。あまり人を警戒しない。鉄柵の切れたところに白と黒のペンキで斜めの縞模様に塗られた門衛の詰め所が見えた。

門をくぐって中に入ると、林檎の木や菩提樹の植わった庭園の中を道が通っている。植え込みがとぎれ視線が開けたと思うと、目の前に明るいクリームイエローの大きな建築が見えた。大宮殿だ。屋根といい、壁といい、夏の宮殿というに相応しく軽やかな印象が新鮮だ。芝生の端を飾るトピアリーも毬藻のようでかわいい。アラン・レネの『去年マリエンバートで』を思い出す。テラスがないが、こちら側は上の公園。反対側にまわったところに大階段が設けられ、下の公園を見下ろすテラスになっている。

上の庭園にもいくつも池や噴水があるのだが、10時にならないと水は出ないのだそうだ。入場させておきながらぬけぬけとそう言うあたりが、大国ロシアの余裕なのか、それとも社会主義国家だった時代のサービスの悪さの名残りなのか、よく分からない。一時間や二時間で見て回れる規模ではない。気にするこちらがおかしいのかもしれない。

大宮殿は博物館になっていて、内部の見学が可能だ。実はヴェルサイユ宮殿を見てからというもの、この手の宮殿には食傷気味である。どこもかしこもこれでもかというほど金色の装飾で埋めつくされ、それを豪華なシャンデリアが輝かせている。それでもまだ足らぬと見えて、無数の鏡が光を反射させ、部屋の遠近感を倍加させる。しかし、昼間の光の中では、理性の働きか権力の誇示ばかりが感じられて、素直に感動できない。

夜だったらなあ、と思うのだ。無数の蝋燭の炎が揺らめき、黄金でできた花樹や蔓草、またその陰に隠れて悪戯な微笑みをもらすクピドやニンフの貌に宿った小さな光と陰が、あるともない風にちらちらと移ろいゆく様は、さぞ美しかろうと想像するのだが。三百メートルもあるという屋敷の中、手にした枝付燭台の灯りに浮かび上がる自分の姿を鏡に映しながら、夜な夜な徘徊できるなら、マルテの気持ちも分かろうものを。寄木細工を張りめぐらした床の美しい大広間では、室内楽のコンサートが開かれることもあるという。夜だったらいいのにな、と思った。

世界中に蔓延した中国趣味はここも冒していて、阿蘭陀渡りのウィローパターンのタイルで全面を被われた暖炉や、大振りの花瓶、紫檀の家具で埋めつくされた「中国のキャビン」をはじめ、イタリアの画家ロータリが描いた370枚に及ぶ肖像画で壁一面を隙間なく埋めた「二層窓の広間」などが中では印象に残った。

宮殿はさほどでもないが、総面積1000ヘクタールに及ぶという庭園の方はちょっと興味がある。特に海岸に面した崖状の土地を活かして段差のあるテラスを設け、水が流れ落ちる階段を両側に配した大滝は見物である。滝から落ちる水を溜めた大プールの中央にある彫像からは大噴水がテラスの上まで噴き上げ、涼しい風を宮殿の中に招き寄せている。

サムソンとライオンを象った彫像が創られるまで、ここは舟溜まりだった。宮殿を訪れる外国の王侯貴族達は、フィンランド湾から宮殿の真下まで船を乗り入れたのだ。今も水は真っ直ぐ海まで続いている。水路に架けられた橋からは幾筋もの小径が樫や菩提樹の巨木の林の中を蜘蛛の巣のように行き交い、小道と小道が交わったところには、様々な仕掛けを凝らした噴水や小宮殿が歩き疲れた客を待ち受けているという仕組み。湿地帯を埋め立てて造った平地には、所々に小川や水たまりができ、乾いた夏の空気を潤してくれるようだ。林の木を透かして水平線が見える。空に浮かぶ雲にははや秋の色が見える。ベンチに腰を下ろしてしまったら、もう立ちたくなくなるだろう。後ろ髪を引かれる思いで、「下の公園」に別れを告げた。


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