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From Russia with lag

セルギエフ・パッサート

 Сергиев Посад

今は死語になりつつあるが、かつて「歌声喫茶」なるものがあった。主にロシア民謡をアコーディオンその他の簡単な伴奏のもとに歌うことのできる喫茶店で、「ともしび」などが有名だった。リアルタイムで経験したわけではない。映画その他で、ルパシカを着た若者たちがバラライカを奏で、ロシア民謡を合唱する場面を見ただけだ。学生時代、京都の四条河原町にはまだ「炎」という名前の歌声喫茶が営業を続けていたが、円山の野音でロック・コンサートが開かれている時代だ。歌声喫茶に通う客は少なかっただろう。

哀愁を帯びた旋律が日本人の持つセンチメントに同調したのか、それとも、左翼のプロパガンダでもあったのだろうか、戦後の一時期、「青い山脈」のような歌を別にすれば、肩寄せ合って歌える曲の少ない歌謡曲に飽き足らない思いを抱く人々に、みんなで歌うことのできるロシア民謡が果たした役割は大きかった。革命を成し遂げたロシアに対する憧れを、歌に託していた蒼白きインテリゲンチャも少なくなかったろう。

その頃聴いた曲の中に「モスクワ郊外の夕べ」という曲があった。野道の夕暮れ、思いを寄せる人に気持ちを告げることのできない内気な青年の心を歌ったものだ。作詞、作曲者がいるのだから厳密に言えば民謡ではないだろうが、一連の曲として扱われていたように思う。戦後の日本は朝鮮戦争を契機にアメリカ追従の道を採り、社会主義や共産主義の夢を見ていた左翼青年にとっては、鬱屈した日々が続くことになる。ロシア民謡の持つ感傷的な曲想は、彼らの傷ついた心を時に鼓舞し、時に癒したのではなかろうか。

 カローメンスコエ

カローメンスコエそのモスクワ郊外、クレムリンの南に広がるのがカローメンスコエ。モスクワ川に沿ったなだらかな丘陵地一帯が自然保護公園になっていて、14世紀から17世紀にかけての木造や石造の建築が残されている。中でも、1532年に建てられたヴォズネセニエ教会は、ドーム形状の屋根を持つビザンティン様式の聖堂からロシアの民族的な様式を採り入れた天幕式の屋根形状への移行を示す記念碑的な建築として知られている。

残念ながら、この日も雲が厚く、着いた頃には林檎の果樹の繁る公園内には静かに雨が降っていた。白木の板瓦を鱗状に敷きつめた、船のような形の屋根を持つ木造の入り口を抜けると、群青の屋根に星を描いたクーポルを持つ白い教会が樹々の向こうに見えた。折しも日曜日ということもあるのか、早くから信者の人々が集い、ミサが営まれていた。黒い僧服を着た司祭が振り香炉を捧げ持ち、回廊を歩いてゆく。オルガンのない歌だけのミサは素朴だが、その分純粋な感動が伝わる。参列者は次々と内陣に進んで行き、ミサは続いている。邪魔をしないように外に出た。

宮殿より質素な建築を好んだと伝えられるピヨトール大帝が住んでいた小屋も、復元されてアルハンゲリスクからここに移築されていた。1702年の建築というが、外観は今のログハウスと変わらない。ログハウスそのものが伝統的な工法を伝えているということだが、宮殿の建築様式が古びて見えるのに比べると、ずいぶんモダンな印象を受ける。

お目当てのヴォズネセニエ教会は修復中で、緑のネットに被われて尖塔の上部が全く見られなかった。ただ、下ってゆく丘の途中に立つ白い石造の聖堂は、空を背景に屹立して、晴れていたなら見事な眺めだろうと想像された。小雨は降っていたが、モスクワ川を臨む崖からは、対岸にモスクワ市街のパノラマが広がり、初日に見ることのできなかった眺望を楽しむことができた。

 セルギエフ・パッサート

モスクワを離れ、北東方面ヴォルガ川に出会うあたりに中世の面影を残す古い都市が点在している。都市をつなぐと、ほぼ円を描くことから「黄金の環」と呼ばれているが、セルギエフ・パッサートはその円環の中で最もモスクワに近い位置にある。

市街地から北に延びるミール通りを走っていくと、放物線を描いて空に飛んでゆくロケットを象ったモニュメントが左手に見えた。かつて、アメリカと宇宙開発を競い合ったソ連時代の記念品を展示する宇宙飛行士記念博物館である。「地球は青かった」という有名な言葉を残したユーリ・ガガーリンの宇宙服が展示されているという。

高架道路から見えるのは、高い建物ばかりだ。その中でも、最も高いのは、世界第二位、ヨーロッパなら第一位の高さを誇るオスタンキノ・テレビ塔。地上337メートルの回転展望レストランは、観光客の人気を集めていたが、2000年に火災に遭い、現在は修復中で観光はできないらしい。

モスクワの街は、クレムリンを中心にして、三本の環状道路と放射状に広がる街道が交わって蜘蛛の巣状に広がっている。ヤロスラヴリ街道はモスクワから北北東に延びる街道だ。いちばん外側を取り巻く大環状道路を過ぎると、さしもの車線数も一本、また一本と減って行き、片側二車線になると、道路の脇には大きな白樺林が続くようになる。

ようやく晴れ間が見えてきた。白樺林が途切れると、どこまでも続く地平線の上を、白い雲が次から次へと後ろの方へ飛んでゆく。途切れることのない茫漠たる平原、鬱蒼たる森林と、いかにもロシアらしい風景に旅心が誘われる。キリル文字にもやっと慣れて、道路標識の上にセルギエフ・パッサートの文字を認めるようになった。街が近づくに連れ、道沿いに古びた農家が見えてくる。屋根につけられた破風飾りが白く罅割れ、時の流れを物語っている。民話や絵本の挿絵そのままの農家には、見慣れた日本の民家にも通じる、街の建築にはない温かみがある。

 トロイツェ・セルギエフ大修道院

修道院入り口丘の上にこんもりと繁った茂みがある。その上から陽に映えて金色に輝くクーポルが、美しさを競うかのように青空をバックに並び立っていた。坂道を上り詰めたら街の中心地に立っていた。何もない平原の中を一時間以上走り続けた後では、こんな小さな市でも、繁華に見える。

信号のある大通りを渡ると、そこがもう修道院だった。修道院前の広い空き地には、市が立ち、町の人が買い物に来ていた。16世紀に築かれた白い城壁の前に修道院の礎を築いた聖セルギウスの彫像があった。

ロドネジュのセルギウスは、一介の修道僧に過ぎなかった。やがて、その徳を慕って多くの僧が庵のあるこの地に集まってきたのが修道院のはじまりである。当時、ロシアはモンゴルの侵略に苦しんでいた。侵略に抗するためばらばらだったロシア諸侯をまとめたのがセルギウスだった。その祝福を受けたドミトリー・ドンスコイがモンゴル軍に初勝利を収め、その後も奇跡が起きるなどしたことから聖人に列せられた。

入り口のアーケード状の天井にはケルビムのフレスコ画が描かれていた。修復直後なのか、折からの陽差しに照らされた床の反射で白い漆喰が目に痛いほどだ。入場券売り場でカメラ券を買うと、プレゼントと言ってカセットテープを手渡された。修道僧達による聖歌集だった。100ルーブルのカメラ券ではかえってすまない気にさせられるうれしいプレゼントだ。

現在、ここにはモスクワ宗教大学と神学校が併設されている。黒いマントに荒縄の帯を締めた僧服の若者が足早に通り過ぎる。『カラマーゾフの兄弟』の末っ子アリョーシャもまた若い僧だった。思想的には二男のイヴァンに魅かれていたが、友だちにするならアリョーシャだと、勝手に思い決めていた。大学時代に読んでそれっきりだが、ドストエフスキーの作品は、いまだに古びない。幼児を虐殺する兵の存在を許す神など認めないと言い切るイヴァンの言葉の前には神学も色褪せて見えたものだ。もし、神が存在するものなら、無辜の子どもたちを犠牲にして恥じない世界をどう説明するのか、聞いてみたい。

最初に見学したのは修道僧達が食事を摂る食堂。今は使われていないが、シャンデリアといい、内陣の装飾といい、豪華なものだ。修道院というと、虚飾を嫌ったフランチェスコ会を想像してしまうこちらがいけないのだろう。写真を撮ろうとしてまた注意されてしまった。写真撮影は許可されているが、僧堂内で人物を被写体にしてはいけないらしい。教義に関わることなのだろう。

 ウスペンスキー大聖堂

ウスペンスキー大聖堂変形の五角形をした修道院内の中央に建っているのがウスペンスキー大聖堂。クレムリンにも同じ名前の大聖堂があったが、それを模したものだ。そう言われてみれば窓の大きさやアーチの形に少し変化はあるもののよく似ている。もっとも、クレムリンの大聖堂は当時モスクワのライヴァルだった古都ウラジーミルの大聖堂を模したものだったと言うから何処も同じ、である。ただ、ドームの色がちがうだけで、こうも印象がちがうものだろうか。白壁に青い玉葱型のクーポルを戴いた聖堂は、その前にある小さなドゥホスカヤ教会と組み合わされて、お菓子の城かお伽噺の絵本の世界である。

ドーム型天井の上に切られた細長い窓から日が差し込み、堂内の床に明るい光を投げかけていた。晴れた日の聖堂は、逆光のせいで天井近くに翳りが生じ、17世紀に描かれたフレスコ画も陰影が濃い。大聖堂と呼ばれてはいるが、ヨーロッパのカテドラルを見慣れた目から見ると、大きさは知れている。ただ、その程よい大きさが威圧感のない親密な空気を漂わせていて、椅子のない聖堂内にいつまでも立っていたい気持ちを抱かせる。

 トロイツキー聖堂

トロイツキー聖堂そこに腰かけると、それぞれの聖堂が見渡せる、広場とも言えないほどの小さな空間にベンチが一つ置かれている。目の前に大聖堂、左手に鐘楼、そしてそのほぼ真ん中に、飾り屋根のついた大きな水盤が見える。奇蹟の水と呼ばれ、持ち帰るために空き瓶まで用意されている。ベンチの右手、少し緩やかな坂を下ったところにあるのがトロイツキー聖堂。聖セルギエフの墓所の上に建てられ、その遺体を入れた棺が今も安置されている。

厳かなミサ曲が、堂内に響いていた。修道僧だけでなく、堂内にいる老若男女の声が低く高く、明るい午後の光漂う御堂内に流れていた。有名なアンドレイ・ルブリョフのイコンが見られると聞いて入ったのだったが、あまりにも敬虔な会衆の雰囲気に呑まれて、ただでさえ感激屋の妻は涙さえ浮かべている。あちらこちらと立ち歩く勇気もなく、暫くは立ちつくしていた。

修道院の外に出ると、城壁の張り出した部分に何羽もの鳩が羽をやすめていた。大柄で髭もじゃの修道士が、手に袋を提げて出てきた。芝生の縁にしゃがむと、袋から出した豆か何かをぱらぱらとあたりに撒いた。それまで城壁にいた鳩が一斉に羽ばたいて餌を啄むために降りてきた。黒い僧服の丸まった背の上にとまる鳩もいて、いかにも長閑な修道院の昼下がりだった。

小さな町のことで、昼食をとる店といってもそう多くはないらしい。レストランの入り口にここで食事をした有名人の写真が飾ってあった。ゴルバチョフ前大統領などに混じって、失言癖が原因で失脚した某国首相経験者の写真もあった。さすが、「神の国」発言で名を知られた人だけのことはある。ゴルフだけでなく、こういう場所にも関心があったのかと少々見直した。昼食後、手洗いに立った妻がなかなか帰ってこない。待ちくたびれた頃、荷物を提げて現れた。お土産を物色していたらしい。マトリョーシカのマグネットを、親しい友だち用に買ったのだとか。出がけに、レストランの前に立つ木彫りの大きな熊とも記念写真を撮ることを忘れないしっかり者の妻であった。

モスクワに帰る道は、ひどい混みようだった。片側五車線の道が渋滞で立ち往生する様はいっそ見事としか言いようのない光景である。おまけにあっちでもこっちでも交通事故。パトカーの警官もさぞ忙しいことだろう。それと、古い車が多いのか、オーバーヒートやエンストで、ボンネットを開けて道路脇に停まっている車も何台も見かけた。渋滞の原因は分かっている。土日の休日をダーチャで過ごした家族がモスクワにあるアパートに帰るのだ。ふだんなら、もう少し時間が経ってから混み出すのだが、雨が降ったこともあって、帰り支度を急いだのだろう。それにしても、毎週末この渋滞に耐えて、郊外と市内を往復するのは辛かろう。やはり、ダーチャで過ごす週末は単なる休暇ではなさそうだ。


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