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From Russia with lag

エカテリーナ宮殿天井画

 Царское Село

ホテルはサンクト・ペテルブルグの市街地から少し南にあった。市街地にある騎馬像とはちがった現代的なモニュメントがホテルの真正面に立っていて、1941-1945という数字が彫られている。勝利広場と言うからには、第二次世界大戦の勝利を記念してのものだろう。ナチス・ドイツとの戦いには素直に勝利が共感できるのだが、日ソ不可侵条約を一方的に破棄して対日参戦した歴史を思い出すと、ホテルを出るたびに目を止めては複雑な気持ちになる。

通りの反対側には24時間営業のスーパーマーケットがあり、日用品や食料等、豊富な品数を揃えていて、長期滞在者には便利な店だ。バレエから帰った後、ちょっとのぞいてみた。日本のスーパーとシステムはいっしょで、ほしい物を籠の中に放り込んで最後にレジで勘定をする。量り売りの物は、レジに秤があって、そこで計量してもらうのが合理的だ。ハム類や薫製に美味しそうな物があったのだが、食料の持ち込みは何かと難しいので、ひかえた。お菓子と、その晩の寝酒用に現地の缶麦酒を購入した。日本より少し安いかというくらいだ。味は悪くないが炭酸があまり効いてないので、気の抜けた感じがする。

 ツァールスコエ・セロ

そのホテルから車で一時間ほど南に走ったところに、旧ソ連時代にはプーシキン市と呼ばれた小さな村がある。今は、昔のツァールスコエ・セロ(皇帝の村)という名前に戻っている。帝政ロシア時代の面影を今に残す静かな村だというが、それだけで観光地にはならない。

1756年、エカテリーナ女帝の命により建設が進められていたロシア・バロック様式の華麗な宮殿が完成した。ナチス・ドイツは1944年にこの村から撤退するが、宮殿も町も破壊され、貴重な文化財の多くは略奪されたという。しかし、その後修復され、現在はかつての美しさをとりもどしている。ちょうど昨年が、サンクト・ペテルブルグ建都三百年にあたり、修復は急ピッチで進められたようだ。現在も修復中のところは残るが、ほぼ再現されたと言っていいだろう。

整備された幹線道路から分かれ道に入る分岐点に、プーシキンの像が建っていた。彼はこの地にはじめて開設された学習院の第一期卒業生で、多くの詩をこの村で作った。いくら政体が変わっても、村の名前はそのままでよかったのではないか。いささか義憤に駆られて、皇帝が何をしてくれたか、と思ったりしたのだが、考えてみれば観光客がやってくるのは宮殿のおかげである。詩人では、人は呼べない。皇帝の村という名には御利益があるのだった。

 エカテリーナ宮殿

エカテリーナ宮殿空はもうすっかり秋の気配だった。よく繁った街路樹の下を通り、鉄柵の前に立った。振り仰ぐと、宮殿の上空いっぱいにちぎれ雲が広がっていた。間近で見る宮殿は長さの割には高さがなく、水色に塗られた外観のせいもあるのか、エカテリーナ女帝の宮殿らしい威圧感を感じなかった。

朝一番に来たのだが、入り口の石段にはヴァイオリンを手にした楽士がいて、何か弾いていた。人相風体が割と立派で、アルバイトにしては堂々としているので、楽器ケースの中に小銭が入れにくい。ここでも、また床を守るためにオーバーシューズを履かされた。ここまでするなら、いっそ日本のように下足番でも置いて、靴を脱がせる方が理に適っている。

白い大理石の階段を上がると、大広間に出る。縦長の窓から入る朝の光が修復されて間もない寄木の床を舐めるように伸びている。天井画はトロンプルイユ(騙し絵)の技法を巧みに使い、見る者の動きに連れて四隅に描かれた支柱が迫り上がって見えてくる。部屋の壁には天井画と同じ金の装飾が用いられ、一体感を強めている。

中央の大広間の両端にある開口部からは小部屋が連続して両翼まで続いている。各部屋の奥行きは大広間の半分で、通路は窓側にある二つきりだ。宮殿といっても、ずいぶん使い勝手の悪い間取りだと思う。よく似た広さで、形も同じだから、部屋ごとの個性を出すには、壁の色や材質、調度品その他の美術様式のちがいくらいしかない。バロック、ロココ様式が中心だが、中国風や、ギリシア風の装飾を凝らした部屋もある。また、壁紙の色を変えたり、材質を変えたりすることも多かったようだ。

琥珀を貼りめぐらせた「琥珀の間」が特に有名だったが、ナチス・ドイツによって略奪され、今に至るもその行き先は杳として知れない。幸い残っていた写真その他の資料によって、往時と変わらぬ琥珀の部屋が再現され、この度ようやく公開の運びとなった。なるほど、小さな模様もすべて、色や模様の異なった琥珀を貼り混ぜて作り出している。その労苦はしのばれるものの、壁自体にこれほどインパクトがあると、部屋の中に長くいると落ち着かなくなってくる。毎日の生活に使うのではなく、来客などに見せて楽しむ部屋だったのだろう。

 庭園

エカテリーナ宮殿庭園裏に出ると、広大な敷地一面が庭園になっていた。建物に近い部分はフランス式庭園が階段状に続いている。なだらかな斜面を下っていくと、その先はイギリス風の自然景観を生かした庭が、見渡すかぎりどこまでも広がっているのだった。大きな池の周りを遊歩道が廻っている。静かな水面には対岸の瀟洒な別荘風の建築が影を映し、時折水鳥が音もなく滑ってゆく。少し行ったところに渡し場があった。船で対岸に渡れるようになっている。道はそのあたりから上りになり、緩やかな斜面の途中に泉が湧いていた。遊歩道は、どこまでも続いている。散歩にはもってこいだが、そろそろ戻ることにしよう。斜面を登り切ったところに石造りのテラスが見えた。そこまで上がると、手摺りや彫像、樫の巨木がどこまでも広がる水平線を区切り、ちょうど一幅の名画を見るような構図になっている。自然のように見せかけながら、ピクチャレスクな景観を意識して造園したことがよく分かる。

 土産物店

庭園から出たところに、屋台の土産物売りが何軒か店を出していた。通り雨が来て、商品を濡らさないよう大わらわでシートを掛けているところだった。マトリョーシカ人形や、絵葉書といったありきたりの土産物の中に、白木の色も新しい木彫りの熊の玩具があった。羽子板状の木の板に糸で吊した錘を回転させると、羽子板の上にいる熊がホットケーキを返すのだ。これによく似た玩具は前にも買ったことがある。ブダペストで見たのは、団扇状の板の上で数羽の鳥が交互に餌を啄む仕組みだった。その時も一目見て気に入ったのだった。鋸で木を挽く熊もあったが、台所仕事をする熊がいちばんかわいくて、これに決めた。

それまで、なかなかほしいものが見つからなくて、今回は自分の土産はなさそう、とあきらめかけていたところだった。よくしたもので、何かが見つかると、続いて見つかることがある。この時もそうだった。その店の二軒先に、古本屋が店を開いていた。普通の古本ではない。掌に載るくらいの豆本ばかりを扱っている。何か、ここに関わりのあるものをと探していると、妻が挿絵入りの本を見つけた。無論ロシア語である。妻は挿絵を指さしながら、店番の老人に「プーシキン?」と訊ねた。老人は、うなずきながら、右手で後ろの方を指さし「プーシキン」と繰り返した。その時は、分からなかったが、キリル文字のアルファベットを判読すると、表紙に学習院と、記念館という単語がある。どうやらあれは、プーシキン記念館の方を示していたのだと後で分かった。

雨が上がった通りには栗鼠が走り、樫の木の葉が風で揺れるたび、ぱらぱらと水滴が落ちてきた。道路脇には白樺の並木がどこまでも続いている。その向こうは日をいっぱい浴びた丘が緩やかに弧を描いて遠くの森まで続いている。車の中にはロシア民謡が流れている。懐かしい旋律ばかりだ。鼻の奥の方がつうんとなった。

 チェスマ教会

チェスマ教会市街地に帰る途中、クリスマスのオーナメントか、ケーキの飾りかと思ってしまいそうなかわいいピンクの教会を見つけた。テーマパークではない。歴としたロシア正教の教会である。この日も、頭にスカーフを巻いた女性が何人もお祈りを捧げていた。無宗教の人間がものめずらしそうに入ってゆく場所ではないような気がして、早々に立ち去ったのだが。それにしても、雪に映えるからかどうかは知らないが、教会をピンクに塗るという発想が今ひとつよく分からない。

昼食はシャシリク、羊肉の串焼きである。コーカサス地方の料理だというので野趣溢れる味を期待していたのだが、皿の上には一本乗っているだけ。トルコで食べたケバブでもたしか三本くらいは乗っていた。そういうものなのだろうが、ボトルのワインを飲みきるには少し物足りない気がした。しかし、この日のレストランには、美味しいと評判のグルジア産のワインがあった。ほどよい渋みとしっかりしたボディは、料理に負けていなかった。できれば、串焼きがもう一本あってもよかった。

 カザン聖堂

カザン聖堂ネフスキー大通りには多くの人々が行き交っていた。トラムやトロリーバスの架線が大通りの上に蜘蛛の巣のように張りめぐらされている光景は、古い都会らしくていいものだ。学生時代に住んでいた頃の京都もそうだった。雨の日の夕暮れなど、架線に蒼白い火花が飛ぶのを見て、朔太郎がイメージした「青猫」はこれかと独り合点したものだった。

カザン聖堂は、買い物客や観光客で賑わうネフスキー大通りに面して建っていた。ちょうど両腕で抱きかかえるような形に半円形回廊を広げている。回廊のコリント様式の柱は全部で94本。1801年から10年がかりで建てられたものだ。大通りに面しているところから、聖堂前の広場は19世紀末から革命までの間、学生たちの集会場として使われていた。今ではすっかり、市民の憩いの広場と化していて、大通りの散策に疲れた人たちが思い思いの場所に腰を下ろし、おしゃべりを楽しんでいた。

 モスクワ駅

モスクワ駅サンクト・ペテルブルグとも、今日でお別れ。午後四時発モスクワ行き特急列車の出るのは、モスクワ駅。エドマンド・ウィルソンの『フィンランド駅へ』を読んだときにはじめて知ったのだが、フィンランド行きの列車が出る始発駅がフィンランド駅なのだ。だから、モスクワ駅はサンクト・ペテルブルグにある。逆に、ここから出る列車が着くモスクワの駅の名はレニングラード駅なのだ。ややこしいように思うかも知れないが、その街に住んでいる人にはきわめて便利な駅名表示の仕方だろう。もっとも、すべての駅がそういう方法でつけられているわけではないらしい。モスクワやレニングラードのような大都市だから許されるのであって、地方の都市名ではかえって混乱する。他の駅は普通の駅名で呼ばれているという。モスクワ駅の外観は、なかなかのものだった。空港とちがって歴史が感じられる。パリ北駅やローマのテルミナ駅がそうだが、映画の中に紛れ込んだようなドラマチックな雰囲気が鉄道駅にはある。そう思いながら、暗い通路を抜けてホームに出ると、日本の鉄道の駅とあまり変わらない。三角の大屋根の下に何本もの線路が滑り込んでくる終着駅を勝手に想像していたこちらが悪いのだが、拍子抜けしてしまった。

 汽車旅行

モスクワ行き特急列車何がいちばんちがうかというと、ホームの高さだ。昔風の駅は、ホームが線路と同じ高さにある。だから、列車に乗るときステップに脚をかけ、自分の体を引き上げなければならない。いかにも列車に乗るという気分の高揚感がある。これが同じ高さだと、見送りに来てくれた人との位置関係が逆転する。席に腰かけると、ホームに立つ人を見上げる格好になる。これでは別離の哀感が漂ってこない。送る人が見上げ、去る者が下を向いてこそ絵になるのだ。

汽車旅行もいいが、荷物が面倒だ。ホームまではポーターが運んでくれたが、車内には自分で入れねばならなかった。ホームと車両の床がフラットになっているのは、こういうときはありがたいと思った。ロマンの追求は大変である。大荷物を入れたのはいいが、寝台列車ではない。海外旅行用の大型トランクをいくつも置くスペースはとっていない。小さなトランクは網棚に上げたが、落ちてこないかとひやひやした。

特急の二等車である。席は指定席。進行方向と逆に向いている座席をひっくり返そうと、あれこれやってみるのだが、どこをどう押せば回転するのか、ちっとも動かない。ほかの席でも試みているようだが、成功者がいない。まわりのロシア人はとよく見れば、後ろ向きのまま平然と座っているではないか。どうやら、ロシアの汽車は、座席が通路を挿んで逆方向を向いて固定されているらしい。たしかにこれなら、近鉄京都駅で見かけるように係員がいちいち座席を倒す手間が省ける。五時間後ろ向き、というのはどうかと思ったが、対面式の座席だったら一車両につき半数の人は後ろ向きである。計算上は変わらない。納得してしまった。

隣の席には、盆(はないか)帰りでもするのか、大きな荷物を持った若いカップルが乗り込んだ。座ったかと思うと男の方が麦酒瓶の栓を開けた。二人ともラッパ飲みである。しばらくすると、車内に生臭い匂いが漂ってきた。斜めに対面しているわけだから、いやでも隣のすることが目に着く。バッグから出してきた魚の乾物だか薫製だか知らないが、妙に骨張った大振りの魚だ。飴色になったやつを指で毟りとっては女の方に手渡している。臭いの正体見つけたり。さき烏賊の代わりらしい。くちゃくちゃ噛んでいる。

なんだかこちらも腹が減ってきた。お弁当に持ち込んだ夕食用のバスケットを開いてみることにした。丸形パンにハムとレタスを挟んだ物と、パンがもう一個。それに、塩胡椒して焼いた豚肉が一枚。以前、ドーヴァー海峡をホバークラフトで横断したことがあるが、あの時食べた中華のテイクアウトに次ぐアバウトな弁当だ。あの時は強烈な大蒜臭が、船内に立ちこめ、長身で鼻の高いアングロサクソン系中年女性の非難の目に怯えながらあわてて食べたものだったが、今回は臭いは隣から出ている。安心して食べはじめた。よくしたもので、車内販売なのか個人の商売かよく分からないけれど、飲み物を売りに来た。お隣さんといっしょの麦酒を二本買った。お釣りがないと言いながら、覚えておくからという意味の手真似をして向こうへ行ってしまった。たいした金額ではないので、気にせず飲み始めた。腹が減っていたせいもあるが、飛行機に比べると、汽車で食べる物は美味い。口飲みの麦酒が今ひとつだったが、パンの腹を割いて豚肉を挿んだサンドイッチはなかなかいけた。お釣りはちゃんと後で持ってきてくれた。

 ダーチャ

ダーチャ行けども行けども草原と白樺林が続く。小麦畑や牧場というのではない。ほとんど原野に近い草地が延々と続いている。そんな中にときおり集落が見えてくる。町でもなければ村でもない。囲いで仕切られた中に小屋と言ってもいい粗末な家と、その前に猫の額ほどの畑と果樹。それが、ごちゃごちゃとかたまってひとかたまりの集落を形成している。教会や学校らしい公共の建物がなく、どの家も似たような広さで画一的に仕切られているので、村でないことが分かる。

ダーチャ(別荘)だった。丸太小屋造りをはじめた頃、何かで読んだ。ロシアの人は、ウィークデイは町で働き、週末になると、車で郊外にある自分の別荘に出かけると。その時は、なんて優雅なライフスタイルだろうと思った。普通の労働者が、みんな郊外に別荘を持っているなんて、日本では考えられない。

しかし、こちらに来ると、日本で考えていたのとは少し様子がちがった。ほとんど何にも使われていない広い土地が周りに広がっているのに、ダーチャがあるところは一塊りで、隣との間は垣根しかない。土地は国から借りているからだ。土地はいまだに自分の物ではない。家は、ほとんど自力で建てている。まあ、それは分かる。週末を過ごす小屋程度なら自分で建てることは可能だ。費用もあまりかからない。そして、空いた土地に家庭菜園を作り果樹を植える。自給自足というやつだ。果樹からは果物やジャムが、そして畑では馬鈴薯その他の野菜がとれる。ロシアの人はナナカマドのジャムが好きだという。どんな味なのかちょっと食べてみたいと思った。つまり、週末のダーチャ暮らしは遊びというより、農作業なのだった。日曜日の午後、モスクワに通じる幹線道路はいつも渋滞する。片側六車線でもだ。週末を郊外のダーチャで過ごした人々が一斉にモスクワのアパートに帰るから。

最近では、煉瓦作りやコンクリート製のほんとの別荘と呼べるようなダーチャを持つ人も増えてきているという。そういうダーチャは、隣との間を広くとって、郊外にある分譲住宅地のようにも見える。こちらでは、そういう人たちのことをニューロシアと呼ぶのだそうだ。多くは銀行や石油会社に勤めるエリートサラリーマンで、モスクワやサンクト・ペテルブルグの高級アパートに住めるのはそんな人に限られている。乗る車から、家具までその人たち専用のような店までできている。社会の階層化はかなり激化しているようだ。

レニングラード駅モスクワのレニングラード駅に着いたのは午後十時。さすがに日は暮れていた。おまけに雨が降り出し、モスクワの夜景は窓越しに滲んでいた。そんな中、夜空にライトアップされた一際高い建物が目に留まった。往年の『キング・コング』にでも出てきそうな摩天楼はモスクワ7大高層建築の一つ、レニングラーツカヤホテルだった。スターリン・クラシック様式と呼ばれる意匠を身に纏った高層ビルは古めかしさと威厳とを併せ持ち、そこだけ時間が凍り付いたように孤独に聳え立っていた。それはまた、「ヨーロッパに開かれた窓」と呼ばれたサンクト・ペテルブルグとはちがい、新興国アメリカのライヴァルとして現代世界を牽引し続けてきた旧ソ連の首都モスクワの気概をまざまざと見るようでもあった。


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