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 2011/3/31 『楽園への道』 マリオ・バルガス=リョサ 河出書房新社 

章が替わるたび、二つの物語が交互に語られる。主人公の一人は画家ポール・ゴーギャン。もう一人は、その祖母にあたるフローラ・トリスタン。マルクス=エンゲルスによる『共産党宣言』が出される四年も前に『労働者の団結』という本を書き、「女たちと労働者は犠牲者であり、団結させるべきだ。団結すれば抑えがたい力となる。そしてそれは国際的な力となり、革命が起きる」と唱えた女性である。フーリエやサン・シモンの影響を受けたが、空想的社会主義者にはならなかった。フローラ・トリスタンはヨーロッパ中を歩き回り、労働組合の設立を呼びかける「スカートを履いた扇動者」となった。

フローラは、1803年フランス人女性とスペイン軍に属するペルー人大佐の子としてパリで生まれた。四歳の時、父が死に一家はあえなく没落。若くして石版工房の彩色工として働き、工房主のアンドレ・シャザルと結婚する。しかし、女性を性奴隷のように扱う結婚制度に疑問を持ち、夫や子を捨てて国外へ逃亡する。帰国後、父の実家はペルーのアレキーパでも有名な一族であることを知り、祖父の遺産相続を求め単身ペルーに渡る。結局遺産は相続できなかったが、ペルーでの見聞はフローラに『ある女賎民の遍歴』(邦題『ペルー旅行記』)を書かせ、夫と子を捨てた「堕落した女」をアジテーターに変えた。アレキーパ生まれのリョサがこの女性の人生に惹かれるのはよく分かる。まして、その孫があのゴーギャンであり、彼も幼い頃ペルーで暮らしていたとなれば、なおさらのこと。それまでにも『世界終末戦争』や『チボの狂宴』など、史実の周りに残された歴史の空白部分を想像力を駆使して描き出してきたリョサである。ここでも、奇数章にはフローラの、偶数章にはゴーギャンの人生を配し、二人の人生を対位法的に描き出すことで主題をより効果的に響かせることに成功している。

原題“El Paraiso en la otra esquina”は「次の角の楽園(天国)」という意味で、作家が小さい頃していた遊びに由来する。地面に書いた正方形の外に目隠しされた鬼がいて、正方形の中にいる子どもに「ここは楽園ですか?」と尋ねると、中にいる子たちが「いいえ、楽園は次の角ですよ」と答えるという遊びだ。作家が不可能の追求と呼ぶ遊びの、たどり着けない「楽園」とは何か。フローラにとっては、解放された女性や労働者が暮らす理想的な社会であり、ゴーギャンにとっては、文明化される以前の人間の生活する土地がそれであった。時間軸の指す方向は逆だが、どちらも現実には存在しないユートピアであるという点で、祖母と孫の求め続けた世界は一致する。

二人に共通するのは、ユートピアを希求することだけではない。性に関する嗜好、セクシャリティにおいてもこの二人には相通ずるところがあった。フローラは、夫とのセックスに快感を覚えず、むしろ厭わしいと感じる。それは、好感を抱いた男性に対しても変わらない。一方、ポールは文明的な風習に反感を抱いており、人妻であろうが少女であろうが、遠慮することなく手を出す。妻をデンマークに残しながら、タヒチでもマルキーズでも娘と言っていい年齢の女性と同棲を繰り返す。セックスに対する禁忌と放埒。一見二つは相容れないように見える。

しかし、相反するように見えながら、男と女という二元論では割り切れないセクシャリティに対してふたりの抱く感情はよく似ている。フローラは男はだめだが、同性愛的関係にある友人とは愛し合える。女一人男たちに混じって長い航海をしたり、男装して貧民街を訪れたりするフローラの中には「男性」的なものがあったのかもしれない。一方、ポールにはマオリに古くから伝わる「マフー」という両性具有的なセクシャリティへの強い共感がある。彫刻の材料を求めて島の奥地に分け入ったとき樵夫のジョテファに女として抱かれたいとポールが感じる場面がある。彼の中にある「女性」的なものの発現と見ることができる。

リョサの書くものには、いつも男らしくあらねばならないラテン・アメリカのマチスモ社会に生きる男としての葛藤を感じることがある。フローラの男性嫌悪は、それを裏返しにして見せたものだ。女性蔑視の社会で女性であることは、暴力に蹂躙されることにほかならない。男を嫌うことで、フローラは社会に対して反旗を翻して見せたわけだ。西洋文明に侵される以前のタヒチには「マフー」に代表される多様なセクシャリティがあった。ポールのマフーに寄せる執着は、文化が共同体の成員に押しつけるセクシャリティに対する反抗である。こう考えてみると、支配的なセクシャリティへの反抗とユートピアの希求とはそう異なったものでもないように思えてくる。

とはいえ、自分に正直に生きることが、どれだけ周囲との軋轢を生み、困難な状況を作り出すことか。実際、フローラの人生は不幸の連続といえる。当時のフランスでは夫から逃げた女は売春婦並みの扱いを受けた。それだけではない。娘は実の父親によって近親相姦され、フローラ自身はストーカー化した夫に銃で撃たれている。夫が収監されたことで晴れて自由の身となり、ヨーロッパ各地を労働者の団結を訴えて回れるようになったフローラだが、官憲の迫害やら周囲の無理解に苦しめられ、四十一歳の若さで亡くなっている。

パリでのブルジョア暮らしを捨て、絵を描くために非西洋的な社会を追い求めタヒチへと移り住んだポールだが、植民地の白人からは理解されず、現地人にもなりきることはできない。後に絵画史に残る傑作を次々と生み出すポールも、当時は認められず貧乏と持病に苦しめられ惨憺たる暮らしが続く。文明に汚染されつつあるタヒチを捨て、最後に渡ったマルキーズ島で亡くなるまで、彼の人生も祖母のそれに負けず劣らず過酷なものであった。

ただ、リョサの筆は度重なる不幸に見舞われる主人公を描くのに、暗い色彩ばかりを用いているわけではない。スズメバチのような引き締まった腰と美貌の持ち主でもあったフローラは次々と男たちに言い寄られるが、鼻っ柱の強い彼女は洟も引っかけない。何があっても意気軒昂として女性解放と労働者の覚醒を叫ぶその姿は実に雄々しい限りだ。政治的には保守的とされるリョサが、フローラの口を借りて社会の不公正を批判する口吻にはアナルコ・サンディカリストのドン・キホーテよろしく稚気あふれるものがある。ペルー大統領選に敗れた直後に書かれたことも影響しているのか、政治的物言いに対する戯画化が感じられるところでもある。

祖母と孫が生きた二つの異なる時代を往き来することで、若きマルクスやリスト、ドガやピサロ、それにマラルメといった綺羅星のごとき顔ぶれが多数登場し、主人公とからむといった歴史小説ならではの楽しみも用意されている。本の出版のために訪れた印刷会社でマルクスとフローラがすれちがうところなど、史実を料理する際のリョサの手際はいつもながら鮮やかなものである。話者が二人称で主人公に語りかけるスタイルに初めのうちはとまどいを覚えるかもしれないが、読み進めるうち、楽園を求め、傷つきつつも真摯に生きる二人に、いつの間にか肩入れしている自分に気づかされることだろう。

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 2011/3/21 『ジョゼフ・コーネル−箱の中のユートピア』 デボラ・ソロモン 白水社 

ジョゼフ・コーネルはアメリカ人。ニューヨーク郊外、ユートピア・パークウェイという名前だけは素敵な町の小さな木造家屋に住み、口うるさい母親と障碍を持つ弟と暮らしていた。昼間は毛織物などのセールスをし、夜になり家族が寝静まると、地下室で自分の作品を作っていた。これは、後年「コーネルの箱」の作者として知られることになるジョゼフ・コーネルの伝記である。

「コーネルの箱」をご存知だろうか。大きくても三十センチをこえない木製の小箱の中に貝殻や陶製のパイプ、コルク玉、金属製の環といったものをつめこんだものである。身近にある雑多な物を寄せ集めて展示したそれは、今では「アッサンブラージュ」という呼び名で現代美術の一ジャンルを占めている。アッサンブラージュは、彼が始めたものではないが、それを表現の中心に据えた第一人者はジョゼフ・コーネルその人といっていいだろう。

コーネルは、ニューヨークの街を歩き回り、古本屋を漁っては挿し絵入りの本や好きなオペラの楽譜、ロマンティック・バレエの記事などを集めることを趣味にしていた。当時、フランスではシュルレアリスムの運動が起き、ニューヨークにもそれは伝わってきていた。エルンストの『百頭女』のコラージュに影響を受けたコーネルは、蒐集した古本の中にある挿し絵を鋏で切り抜き、コラージュを作り始めた。それを見た画商が、コーネルに「シャドーボックス」を作ってみることを勧めた。

シャドーボックスというのは絵葉書を数枚重ねて厚みを増し、適当に切り抜いて額縁の中に張った飾り物だが、コーネルは箱の表面にガラスを張り、その中に様々なオブジェを配置するやり方を好んだ。マルセル・デュシャンの『大ガラス』の影響もあるかもしれない。とにかく、それはシュルレアリスム運動勃興期にあたり、誰も実作者がいなかったアメリカにあって、アメリカ人が試みたシュルレアリスム作品と受けとめられた。デュシャンと友情を結び、ダリに嫉妬されるなどシュルレアリストの仲間入りを果たしながらも、コーネルは彼らとは距離を置いていた。というのも、騒ぎを起こすのが大好きなシュルレアリストとコーネルとは水と油ほどもちがっていたからだ。

早くに父を亡くしたコーネルは、自分の欲望というものを抑え、家族を養うことを義務づけられた。ほとんど旅行というものをせず、女性とも交際することがなかった。ただ、女性を見ることは好きで、行きつけの食堂で有名な作家や芸術家の伝記を読みながら、ウェイトレスやレジ係の娘を眺めては片思いに耽っていた。ただ、その思いは成就することはなかった。デートに誘うことさえできなかったからだ。

コーネルは自分の作品を売りたがらなかったという。人に贈ることはよくしたが、相手との縁が切れると返却を求めたりもしている。有名になりたいとか売りたいとかいう野心とは無縁で、「天文台」と名づけた家の台所で星を見ることや、裏庭に置いた椅子に腰掛け、やってくるカケスに落花生をやることを好むような物静かな人物だったようだ。

著者は、コーネルの伝記を書くことで美術史上に彼の正確な位置づけをしたかったようだ。シュルレアリスムから抽象表現主義を経て、ポップアートに至るアメリカ現代美術史の中で、コーネルはそのどれとも関わりながら常にコーネルであり続けた。彼のアッサンブラージュは、美術品と日用品が境界を越えて出会うことで新たな次元を展開させる今日の美術界の先駆であった、という著者の見解はよく理解できる。

著者が力を入れているのは、コーネルの芸術と彼の性的嗜好の関係である。母の愛がその裏に束縛という側面を併せ持つものであることは、よく知られている。コーネルは母を愛していたが故に女性への欲望を自ら抑圧した。しかし、そのことが母との葛藤を生み、彼には母や弟から逃れて自由に羽ばたきたい、旅したいという欲求が生まれる。彼の箱によく使われるモチーフに蝶や鳥は多い。また、「ホテル」を冠した作品も数多くある。金網や横木に通した金属の環に繋がれた鎖といったモチーフも家族に縛りつけられた自分を表しているという見方もできるだろう。

ただ、あまりにもうがった読みとりというのはかえって芸術作品を薄っぺらなものにしてしまう危険性が伴う気がする。「コーネルの箱」の持つ人を惹きつける力は、それを鑑賞する人との共感から生じるものであり、そこにこそ「コーネルの箱」の魅力がある。ペニー・アーケードやニッケル・オデオン(五セント玉劇場)への執着、星座や天体運行への興味、球体や卵、グラスや瓶、細かな木枠で区切られた箱といった独特の愛玩物は、洋の東西を問わず同じ気質を持つ同士を見つけることができる。

伝記の中に、皆の前で自分のことを恥ずかしがり屋だと言った友人をコーネルはいつまでも許さなかったというエピソードが紹介されている。伝記を読むのが好きだったコーネル自身にこそ読んでほしいと著者は冒頭に記しているが、多くの女性との性的交渉のことまで事細かに論っているこの本を読んだコーネルが眉を顰めるのが目に見えるようだ。この本を読んでコーネルの箱に興味を持たれた方はチャールズ・シミック著『コーネルの箱』を併せて読まれることをお薦めする。カラー図版も多く、「コーネルの箱」の持つ魅力を味わえると思う。


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 2011/3/13 『ポータブル文学小史』 エンリーケ・ビラ=マタス 平凡社

2000年に出版された『バートルビーと仲間たち』で、わが国でも知られるようになったエンリーケ・ビラ=マタス。彼がヨーロッパで人気を得るきっかけを作ったのが、『ポータブル文学小史』である。

1924年、マルセル・デュシャンを中心にヴァルター・ベンヤミンやヴァレリー・ラルボー、スコット・フィッツジェラルド、ジョージア・オキーフといった錚々たる顔ぶれが、ローレンス・スターンの小説『トリストラム・シャンディ』に由来する秘密結社「シャンディ」を発足させる。その誕生から解散までの経緯を語るというのが、この奇妙な小説の概要である。

結社への入会条件は三つ。その一つは高度な狂気の持ち主であること、二つ目は作品が軽くてトランクに楽に収まること、最後に独身者の機械として機能すること、この三つである。ミニチュア化した自分の全作品のレプリカを詰めた『トランクの中の箱』という作品がデュシャンにある。彼は「人生をあまり重いものにしてはいけない。しなければならない仕事をたくさん抱え込んだり、妻や子供、別荘、車などといったお荷物で人生を重いものにしてはいけない」と考えていた。

さらに、典型的なシャンディとなるのに備えているのが望ましい条件として、革命の精神、極端なセクシュアリティ、壮大な意図の欠如、疲れを知らない遊牧生活、分身のイメージとの緊張に満ちた共存、黒人の世界に対する親近感、傲慢な態度をとる技術の錬磨などがあるとされている。

ストーリーらしいストーリーなどはない。ポールタティフ(ポータブル)から連想されたアフリカのニジェール川河口の町ポルタクティフで開かれた最初の会合に続いて、ウィーン、プラハ、トリエステ、セビーリャと舞台が変わるたびにトリスタン・ツァラやサルバドール・ダリ、アレイスター・クロウリーといったいわくつきの人物が代わる代わる登場して巻き起こす事件やシャンディたちの洒落のめした奇行、常軌を逸した乱痴気騒ぎといったエピソードですべてが埋めつくされている。

プラハではカフカのオドラデクやらゴーレムが登場し、ウィーンではスコット・フィッツジェラルドが「僕は本当に招待されたんだ」と、聞いたことのある科白を呟く。分かる人には分かる作家たちのエピソードがいかにもそれらしく用意されているので、一見文学好きの読者に向けた上質の知的エンターテインメントに見える。ところが、全くの作り話に見えるこの作品、デュシャン本人から結社の話を聞いた作家が、資料蒐集と聞き取りを通じて、それぞれの逸話をパッチワーク・キルトよろしく纏め上げたもので、表面はいかにも各人各様の意匠に溢れていても、その裏側は綿密な考証に裏打ちされている。「文学小史」の題名に嘘はないのだ。

2000年に発表した『バートルビーと仲間たち』では、有名無名を問わず、文学的意識が強すぎるあまり書けなくなった作家や、私生活を隠し通す作家、あるいは全く作品を残さなかった作家といったビラ=マタスいわく「否定の文学」に属する作家を集中的に採りあげている。二つの作品に共通するのは、一見すると奇矯と感じられるような作家の生き方の中に、既存の文学的世界に安住している作家にはない、自己の創作に対する真摯な態度を見ていることだろう。

もう一つ、作品の中に多数の作家たちを登場させることだ。オリジナルなものなどなく、すべてはすでに書かれてしまっているというオブセッションの現れのようにも見えるが、ボルヘスがそうであったようにこの作家もまた典型的なビブリオマニアなのだろう。博覧強記にも思える、忘れ去られた作家や知られざる作家への言及がそのことを証明している。

いまひとつは、おそらくビラ=マタス本人の性向でもある作品の蔭に自分を隠してしまいたいという欲望が仄見えていることである。ヴァルザーやフェルナンド・ペソアへの度重なる言及は、自己の文学のあるべき姿をそこに鈎かけているからだろう。それかあらぬか、作品の掉尾を飾るのは次のような文章である。

「歴史はひとつの世界であり、だからこそ人は本の中に入っていけるのだ。最後のシャンディは、自分の本は散歩できるもうひとつの空間だと考えている。そんな彼が人から見つめられたときにとる衝動的な行為とは、うつむき、片隅を見つめ、顔を伏せてメモ帳をのぞき込む、あるいはもっといいのは自分の本でポータブルな壁を作り、その後ろに隠れることなのだ。」

作品さえあれば、作家などは消滅してもいい。もし、存在が許されるとしたら、できるだけ軽量でかさばらず、持ち運びがきくような存在でありたい。人間として生きる重さや煩わしさから遠く離れて、ひたすら文学の迷路をさまよい歩く、それが望み。そんな人にうってつけの作家がエンリーケ・ビラ=マタスだ。『ポータブル文学小史』がお気に召したら、ぜひ『バートルビーと仲間たち』も、読んでみられることをお薦めする。

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