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 2009/7/27 『彼女のいる背表紙』 堀江敏幸 マガジンハウス

時に本を読むことに疚しさを覚えることがある。何もあぶない本というわけではない。自分が読者に相応しいとは到底思えない本を手にしたときである。あとがきに次のような記述がある。

本書は二〇〇五年四月から二〇〇七年四月にかけて、「クロワッサン」に連載した一連の文章をまとめたものである。この雑誌の中心的読者であるらしい四十代の女性を念頭に置きながら、おなじく四十代に入った男の心に残っている≪女性たち≫の思い出を語る。

とうにその年代を過ぎてしまった男としては、いささか手にとるのをためらわせるところがある。とはいえ、著者は今の日本で、その文章を読む気にさせてくれる数少ない書き手の一人である。読まずにすますには惜しい。しばし葛藤のすえ、手にとった。

ブッキッシュな著者らしく、心に残る女性といっても実在の人物ではない。書物のなかで知り合った女性のこと。若い頃から読んできた作品に登場する主人公や作家その人を、できるかぎり初読当時の本(版型、仮名遣い、翻訳等々)にあたって、その扉を叩き、再訪を試みた探訪記である。

今でこそ小説家の肩書きに何の不思議もない堀江だが、デビュー当時は、そのエッセイとも小説ともつかぬ一種独特な作品世界、ある意味中途半端とさえ形容できそうな微妙な立ち位置を好んでとっているように見えた。

板に二本の釘を打ち、それに余裕のある長さの輪状にした紐をかけ、輪の内側に鉛筆を入れ、たるまぬように気をつけて鉛筆を動かすと板の上に楕円が書ける。この作家には初めから、一つの中心を持つ円ではなくて、二つの中心を持った楕円の精神を喜ぶところがある。

どうやら作家その人の思い出が語られているものと安心して読み慣れた文体に身をまかせていると、いつしか話の中心は物語の中の女性に移っていて、作家の鋭い視線が彼女の心理の襞を追っていることに気づく。リブレスクなエッセイとも随筆風の書評ともいずれにも決めかねる二つの中心を持つ楕円の描く軌跡のような、この作家ならではの世界に知らぬ間に誘われている自分を発見することになる。

採りあげた作品はおよそ五十篇。女性作家が中心ということもあって、掉尾を飾る『更級日記』のように名の知れた古典を別にすれば、海外のそれも知る人ぞ知るといった作家の作品が多い。それらに共通するのは、どんな境遇に置かれても不遇をかこつわけでもなく、かといって従容とそれに従うわけでもない、くっきりとした輪郭と、決して派手ではないが、独特の光彩を身に纏った一人の女性の肖像が目に浮かんでくることである。

それともう一つ、かつて初めて彼女たちと出会ったときには気づかなかった事を年経て相見えることで再発見した作家の驚きの眼差しである。「彼女たちを苦しめている環境は、同時に生かしている環境でもある。支えてくれる人々はすぐ隣にいるわけではなく、一見、無関係なところに立っていて、表向きは支援者に見えない場合もあるという世の中の仕組みを、私は知らずにいたのだった。」『少女パレアナ』で知られるエレナ・ポーター著『スウ姉さん』からの引用を孫引きする。

全世界いたる所に、無数に散らばっている「スウ姉さんたち」に、この作品をささげます。/しんぼうづよく、不平をいわずに、「わずらわしい毎日の雑用」を果たしながら、はるか遠いかなたに自分たちをさしまねいている「生きがいのある生活」をながめているのが、それらのスウ姉さんたちです。(中略)私が知ると知らぬにかかわらず世のすべての「スウ姉さんたち」に祝福あれと、私は心からいのります。

さまざまな女性の人生との邂逅を綴ったエッセイとも、卓抜な読書案内とも読める本であるが、上に引いた文章からも、この本が、意のままにならぬ人生を、それでも自棄になって放り出すことなく、懸命に生きている女性たちに向けておくられた静かなエールであることが伝わってくる。

そう思うと、他人宛に書かれた親書を覗き見たような、はじめに感じた疚しさが、またぞろぶり返しそうになるのだが、いい歳をした男でも、もう一度読み返したくなる本や、一度会ってみたいと思わせる主人公が少なくなかった。言い訳めくが最後に一言申し添えておく。たとえば次のようなものがそうだ。

ヴァージニア・ウルフ『ある犬の伝記』
E・L・カニグズバーグ『ジョコンダ夫人の肖像』
チェーザレ・パヴェーゼ『美しい夏』
ナタリア・ギンズブルグ『ある家族の会話』
ヴァレリー・ラルボー『幼なごころ』


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 2009/7/12 『蒼穹のアトラスU』 フランソワ・プラス BL出版

副題に「アルファベット二十六国誌」とあるようにアルファベット26文字で始まる26の土地の探検旅行記に体裁をとった物語集である。三巻構成で、2000年出版の『蒼穹のアトラスT−アマゾーヌ郷からインディゴ双ツ島まで』に続く、「ジェード帝国からクィヌクータ人食い噴火島まで」を扱っている。

絵本の体裁をとってはいるが、文章の長さや語彙の難しさから見て、到底子ども向きとは思えない。子ども心をまだ失っていない大人向きの絵本と考えた方がいいだろう。もちろん、これを読んで楽しむことのできる子どもがいたっていっこうにかまわない。評者にしたところが、子ども時代にこんな絵本が手許にあればさぞ満ち足りた時間を過ごせたことだろうと思う。

解説によれば、フランスで「書斎の冒険者」と呼ばれているプラスは元来出不精。パリ郊外の森にほど近い屋敷の書斎に閉じ籠もって、古い地理の本や、歴史書、マルコ・ポーロやコロンブス、ダーウィンの航海記、『宝島』や『白鯨』などを読みふけっては、居ながらにして見知らぬ土地へ長い旅に出かけるという。そして、空想の中でさかのぼった急流や奥深い森、山上の都市のイメージを絵に描くのだそうだ。テクストはその絵から紡ぎ出される。プラスの本領は、架空ではあるが、あくまでもリアルな探検記のスタイルを踏襲している点にある。そういう意味では、イタロ・カルヴィーノの『マルコ・ポーロの見えない都市』に近いと言えば理解していただけるだろうか。

物語だけでも充分、架空世界の探検記として成立しているのだが、この本の魅力はその挿し絵にあるといっても過言ではない。横長の版型を生かしたワイドな見開き頁を彩る、水彩を施した細密なペン画による異界の風景画が何といっても素晴らしい。たとえば切り立った断崖絶壁を這うように上る探検隊の姿を描いた一枚。圧倒的な偉容を誇る山稜に比してそこを行く人間の何とちっぽけなこと。この酷薄とも思える突き放したタッチが印象に残る。

古い地球儀や地図には、まだ探検隊が踏査していない土地を空白で残し、「テラ・インコグニタ(未知なる領域)」と記しただけのものがある。中には怪魚や珍獣の絵を配したものもある。コロンブスが西へ西へと航海したのもその頃だ。ところが、今や世界中のどこを探しても人間が足を踏み入れていない所を見つけるのは不可能だ。地球上の至る所を調査、探検しつくした挙げ句が、何のことはない。資源の乱獲、病原菌の拡大、果ては地球規模の海洋汚染であり自然破壊ではないか。

ある種のファンタジーに属するのだろうが、トールキンのような世界を期待すると裏切られた思いを抱くかもしれない。トールキンに代表される近代ファンタジーには作品に先立つ作者の世界観が色濃く反映し、作品世界は善と悪、光と闇のような二元論的な対立によって構築されている。それらを投影された登場人物は相対立し闘うことによって作品世界はダイナミックに動くことになる。

プラスのそれは、あくまでも探検記録や航海記録を装っている。26の物語に登場する人物は様々だが、その中心となるのは、彼らの旅の行程やその調査した記録に残る文物や風俗、世界観であり、彼ら自身ではない。画家でもある作者自らが描く絵の中の主人公の姿が、決して大きく描かれることがないようにテクストの中でも彼らは謙虚に異世界を見て歩く。様々な苦難にも遭遇するが、彼らはあくまでも彼らの見たことを記録する眼や手として存在している。

そこにあるのは、われわれの想像を絶する世界ではあるが、人々はその土地その世界に合わせた、いわば身の丈にあった暮らしをしている。文明化された世界から来た主人公の眼には、はじめはそれが滑稽にも醜くも映るのだが、長期間にわたる調査旅行を経験するうちに、ある者はその世界に魅了され、故国に帰ることを忘れてしまうほどになる。また、ある者は終始その世界を受け容れられず、征服を試みた挙げ句が逆に打ち負かされ、その世界の一部に呑みこまれてしまう。

各章の終わりには、まるで「ポスト・コロニアリズム」批判を嘲笑うかのように、その物語に登場する珍奇な風俗、衣裳、道具、見たこともない動物や植物がテクストでは描ききれなかったイメージの総ざらいをするかのように図鑑風に並べられている。羽根飾りや入れ墨で飾り立てられた異界の人物たちは神秘的で威厳に満ち、そのいでたちは華麗としか言いようがない。

構造主義人類学が起こって以来、われわれの社会は単一の時系列から解放され、所謂未開社会は決して遅れた社会などではなく、世界に同時に存在する多様な社会の一つになった。プラスがファンタジーの形を借りて描いてみせるのは、世界の多様な在り方そのものである。そこには、われわれ文明化された社会がとうの昔に喪ってしまった驚異に満ちた世界(センス・オブ・ワンダー)の圧倒的な顕現がある。

夏休みも近い。少年時代に戻って空想の冒険旅行に出かけるという趣向はどうだろうか。子ども向けのゲーム仕立てのファンタジーに食傷気味の人にお薦めする、大人の鑑賞にたえる上質の絵本であり、目くるめく異世界探検譚である。

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 2009/7/5 『詩が生まれるとき』 新川和江 みすず書房

詩は詞華集(アンソロジー)で読め、と教えてくれたのは誰だったろうか。たしかに、どれほどすぐれた詩人の詩であっても、詩集一冊をまるごと楽しむというのは難しい。アンソロジーならば、名詩ばかりを選んで編んでいるのだから、めったにはずれることはない。

著者は戦後を代表する女性詩人。その人が自分のそれまで書いてきた詩の中から幾編かを選び、しかも詩に響き合うかのようにエッセイを付した、これはとっておきの詩とエッセイの私家集である。

選び抜かれた詩が佳いのは当然だが、詩につられてエッセイが書かれたというものばかりではない。このことを書いてみたいと思う気持ちが先にあって、それに呼応するように、詩人の筐底深くに眠っていた詩たちが、ゆらゆらと立ちのぼってきたかと思わせる詩もまじる。その詩とエッセイのからみ具合が絶妙である。

数誌に掲載されたものを選んで編集したものであるから、想定される読者層を意識し、自ずからトーンが異なるのは仕方がない。中には、自作詩の分析、解説に近いものを含むが、これはこれで、めったに窺い知ることのできない詩人の創作過程を知ることができるというたのしみがある。

個人的な好みからいえば、「みすず」に掲載したものを集めた最初の十篇がいい。「心が抱えた漠とした欠如。それを埋めてくれる何ものかの到来を、待ちつづけている」という、誰もが感じたことがあるだろう心の有り様を主題にした「ミンダの店」に始まる詩とエッセイのコラボレーションは、まことに完成度が高い。

いろいろ果実はならべたが
店いっぱいにならべたが
ミンダはふっと思ってしまう
<なにかが足りない>

そうだ たしかになにかが足りない

たちどころに
レモンが腐る パイナップルが腐る バナナが腐る
金銭登録機(レヂ)が腐る 風が腐る 広場の大時計が腐る(後略)

詩人はミンダをアンソニー・パーキンスを思い浮かべて書いたつもりだが、読む人によって、若い女の子であったり、老婆だったりすることを話題にしながら、「百歳にはまだ間があるが私ももはや<老婆>である。先日のTVの映画でゆくりなくも観たパーキンスが、まぎれもなく<老人>になっていて、これには愕然とした。」とオチをつける。

書名が『詩が生まれるとき』というのだから当然かもしれないが、選ばれた多くの詩と同じように、この詩も詩人とその売り物である詩を描いたものである。いうまでもなく、果実は詩の隠喩。いろいろ言葉をならべてみても、なにかが足りないと思うミンダは詩人その人である。欠如を感じさせるのは、それこそが詩をして詩たらしめる要石(キイ・ストーン)のようなものだ。仕入れ口に立って、それの訪れを待つミンダの姿は、詩人の業を感じさせるが、詩自体はどこか異国の下町を感じさせる洒落た雰囲気を纏っている。

「詩はひかりのように、ひびきのように一瞬のうちに感受するものである」と詩人は言う。たしかにそうではあるけれど、平易な言葉をえらび、誰にも分かるように書いておられる詩人の詩でさえ、解説を読むと、なるほどそうであったかとあらためて思うことしきり。詩の読み巧者でない行きずりの読者には「一瞬のうちに感受」することは難しい。

であればこそ、詩人がいかに心を砕いて一編の詩を構成しているのかが、われわれ一般読者にも分かる、このような本はありがたい。それも小難しい講釈でなく、そこはかとないユーモアをたたえ、詩人の身辺に起こるエピソードをまじえたエッセイ仕立てというのがうれしい。手許に置いて、気が向いたときふと開いた頁を読むといった気ままな愉しみに相応しい、瀟洒なそれでいてたしかな手ごたえのある一冊。



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