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 2009/5/24 『さよなら、愛しい人』 R・チャンドラー 村上春樹訳 早川書房 

村上春樹が新しく訳した『さよなら、愛しい人』を読んだ。丁寧な訳しぶりで、旧訳の清水俊二訳で味わったのとは少しちがった印象を受けた。まるで古いハリウッド映画をデジタルリマスター、ディレクターズカット版で見たような印象だ。画面のディテールが細部までくっきりと浮かび上がり、人物の形象もひときわ鮮やかになった。

たとえば、第4章。殺人の起きた<フロリアンズ>の斜向かいにある黒人専用ホテルの場面。受付のデスクで居眠りしているフロント係の締めているのが旧訳ではネクタイなのに、新訳ではアスコット・タイになっている。なんだ、それだけのことかなどと言わないでほしい。知っての通りアスコット・タイはシャツの襟の内側にふんわりと締めるものだ。新訳では「大きなたるんだ顎は、そのアスコット・タイの上に穏やかに垂れかかっていた。」と訳されているが、旧訳だと「しまりのない大きな顎が、なかばネクタイに隠れ」になっている。どんなネクタイだったら、太った男の大きな顎を隠すことができるというのだろう。

スピード感のあるシャープな訳という印象が強かった旧訳に、ほころびが見つかったのは新訳が出たおかげだろう。「あれっ」と思ったことはほかにもいくつかある。その一つがホテルの名前だ。旧訳は「ホテル・サンズ・スーシ」、新訳は<ホテル・サンスーシ>。おいおい、と突っ込みの一つも入れたくなるではないか。“ Sans-Souci”は、フランス語で憂いがないという意。そこから「無憂宮」とも呼ばれる有名な宮殿の名前である。ホテルの名とすればちょっと洒落たネーミングというわけだ。「ホテル・サンズ・スーシ」では、カリフォルニア・ロールでも喰わせそうに聞こえる。清水俊二氏は無憂宮を御存知なかったのだろうか。

気になったので、旧訳と新訳を照らし合わせながら読むという、いかにも暇人のやりそうなことをやってみた。原書があれば、もっとよく分かるところだろうが、あいにく手許にない。そのうち届くだろうが、原書がきたらぜひとも確かめたいことがある。フロント係は、グラスに酒を注ぎなおしたか、どうかということである。

「彼はボトルを開け、小さなグラスを二つデスクの上に置き、グラスの縁のところまで酒を静かに注いだ。ひとつを手にとり、注意深く匂いを嗅ぎ、小指を上げてごくりとのどの奧に送り込んだ。」この部分は、新、旧訳ともちがいはない。問題は次だ。村上訳には書かれていない一杯が清水訳には登場する。

飲み終わった男は、酒の品質の良さを讃えた後、清水訳では次の行動をとる。「彼はグラスに改めて酒を注いだ。」なぜ、逐語訳とも思えるほど丁寧に訳された新訳に存在しない一文が、無駄と思える部分をばっさばっさと切り捨て、適度なテンポを保つことを大事にしたと思える清水訳に紛れ込んだのか。そのわけは、少し後で分かる。

彼の口を軽くさせるため、マーロウはもう一杯酒を勧める。男はそれを断り、瓶に固く栓をして探偵に返しながらこう言う。「二杯で充分だよ、ブラザー。日が落ちる前としてはな。(新訳)」すぐ後で登場する、あればあるだけ飲んでしまうフロリアン夫人の人間性との対比が光る、好い文句だ。

マーロウの手に瓶が返るまでに黒人が二杯飲まないと、このセリフが成立しない。清水はそう思ったのだろう。確かに村上訳では黒人は一杯しか口にしていない。チャンドラーは、低い階層にいる人間にも威厳のある人物はいるし、大金持ちでもどうしようもない人間がいるという対比を好んで書きたがる作家だ。このフロント係、二人で飲むために用意したグラスの酒を二つとも飲んでしまう不作法な男には描かれていない。

ボトルから注いだ二杯の酒。一杯はマーロウの分だが、いわば自分のおごりだ。酒は二杯分もらった勘定になる。酒で買収されて情報を与えたわけではない。マーロウの扱いが気に入ったからしゃべったまでのこと、という黒人の矜持を表現する、いかにもチャンドラーらしい持って回った表現である。

おそらく村上春樹はそう解釈して、あえて旧訳のような説明をしなかったのだろう。原文では、どうなっているのか興味の湧くところだが、1パイント瓶は、第5章のフロリアン夫人の家でもう一度登場する。その際に「黒人のフロント係と私が先刻飲んだぶんはしれたものだった(新訳)」と、さり気なく説明されているので、マーロウが先刻の一杯分を飲んだことが分かる仕掛けになっている。第4章でマーロウが飲むところを描いておけば、清水氏も困惑せずにすんだものを。罪作りなことをしたものだ。

こんなことが楽しめるのも新訳が出たおかげである。あとがきによれば、村上春樹はもう一冊新訳を予定しているらしい。今度は原書も用意してから読もうと決めた。待ち遠しいことである。

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 2009/5/23 『バタイユ』 酒井 健 青土社 

人間というのは、頭だけでできているわけではない。いろいろな用途に用いる身体の各部位は無論のこと、自分では制御することの難しい感情までもふくめて、 総体として人間というものがある。ところが、人間や人間の世界について語ろうとすると、往々にして理性的な存在としての人間や世界が論じられるということ が起きる。その結果、現にある世界とは似ても似つかない世界がありうべき世界として語られたりすることになる。臭いものには蓋をして、すまして語り終える ことをよしとしない、ある種の人間にとって、それはたまらなく苛立たしい態度に映るようだ。ニーチェがそうであったし、ここで採りあげられているバタイユ もそうだ。

どうして、そのような隠蔽工作が行われるのだろうか。近現代の世界は好むと好まざるにかかわらず西欧キリスト教文化圏の支配下 にある。「はじめに言葉ありき」という、世界は言葉によってとらえることができるというロゴス中心主義が世界観の根源にあるのだ。言葉は昼の世界のもので あり、アポロン的な明晰さを好む。もともと複雑で不定形のものを明確な輪郭線で切り取り、すっきりした形にしてみせるが、その一方で猥雑なエネルギーに満 ち、常に形を変えて蠢くディオニッソス的なものをとり逃してしまう。キリスト教が、神や天使といった明の世界のアンチテーゼとして悪魔や地獄という暗部を 生みだしてしまうのは、本来それらは一つのものとしてあったからだ。

ニーチェやバタイユは、それを「生」ととらえた。人間の「生」とは、 覚醒した昼の世界ばかりでなく、不合理な夢が支配する夜の世界を含み、祭儀や供犠における陶酔や熱狂を通して他とつながろうとする。西欧近代社会は、理性 や調和を重んじるあまり、その物差しにあてはまらないものを不当に抑圧し続けて発展してきた。その挙げ句が、二度にわたる大量死を引き起こす世界大戦であ る。バタイユが、その思想を形成していったのは、そんな時代であった。

日本では、その作品から受ける印象から「異常な性的表現を好む特殊 な作家」という印象を持たれがちなバタイユだが、著者によれば、デカルトに始まる「人間は理性を十全に働かせれば自然の主人かつ所有者になれる」という近 代の生命観に疑義を呈する、ごく少数の思想家や芸術家の系譜に位置するという。著者には、人間は大きな自然の生命の流れの一つであるという認識がある。現 代の世界や日本の、自然と切り離され、互いの生も個人の非連続的な群れと化した在り方に対する批判は本書でも顕著である。

著者の目から見 たバタイユは、分断された「生」のつながりを希求する模索者である。本書は五つの章で構成されている。第一章「夜」は、バタイユにとって「夜」がどういう 意味を持っているのかを考察する。セリーヌやフロイトを手がかりに第一次世界大戦を論じつつ、キリスト教社会における「夜」という言葉の文化史を探る試 み。第二章「グノーシス」は、キリスト教では異端扱いをされるグノーシス派の沈み彫り宝石をもとにした論文「低い唯物論とグノーシス」による、同時代の唯 物論批判。物質を生きた物質と見るバタイユ独特のグノーシス理解が冴える。第三章「非−知」は、ニーチェやベルクソンを引きながらバタイユの最重要概念 「内的体験」を論じている。第四章「死」では、吉本隆明の講演、入澤康夫の詩を採りあげ日本人の死生観とバタイユの接点を探る。第五章「中世」は、バタイ ユがいかに中世に執心していたかを、友人の言葉や彼が暗誦していたロマンス語の詩を題材に論じている。ジャンヌ・ダルクやジル・ド・レの生きた中世。「生 の連続体」という意識がバタイユと中世人とを結びつける。

それぞれの章は独立した文章として読むことができる。個人的には、写真図版も多い第二章「グノーシス」と、第五章「中世」が興味深かった。バタイユはともかく、中世やグノーシス派に興味を持つ者には一読の価値がある文章だと思う。

時 代を遡行し、地域や分野を横断、越境してまで生のつながりを求めながら、一つの派というものに括られることから起きる停滞を厭い、ブルトンをはじめ、同時 代の芸術家や思想家と決別せずにはいられなかったバタイユ。常に自分の追い求めるものについて妥協を許さないバタイユの姿勢に、「連帯を求めて孤立を恐れ ず」という懐かしい言葉を思い出した。今の世界のあり方に疑問を抱く人にこそ読んでもらいたいと思う。


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 2009/5/6 『抄訳フィネガンズ・ウェイク』 J・ジョイス 宮田恭子編訳 集英社 

しばらく会っても話してもいない人が夢に出てきて、不思議だと感じたことがないだろうか。そんな時、よくよく考えてみると、昼の間にまったく別の意味で同じ音の言葉を口にしていたのを思い出すことがある。夢の中では、言葉は意味を離れ、音だけが独り歩きしている。この現実と切り離された言語の世界をラカンは「象徴界」と呼んでいる。人は夢を通して「象徴界」に入っているわけだ。

常に横滑りして、一つとして同じところにとどまらず、とらえどころのない「夢」の世界。夢を見ているのは確かに自分のはずなのに、夢の中では自分さえ自分ではなくなり、確かな現実感は失われてしまっている。この失われた世界をラカンは「現実界」と呼ぶが、「現実界」は、自我によって歪められ、抑圧されている。そこで、夢や言い間違い、冗談や身体的失調として、無意識の方へ帰ってくるという。「無意識は言語によって構造化されている」とラカンは言う。ならば、その逆に構造化された言語によって「夢」の世界を描くことができるのではないか。

朝のマーテロ塔から寝床の中のモリーの長い独白に至る一日を描いた『ユリシーズ』が「昼の物語」だとしたら、『フィネガンズ・ウェイク』は「夜の物語」、言い換えれば「夢の物語」である。たしかに『ユリシーズ』でも、文体模倣を初めとする様々な言語実験が駆使されてはいたが、まだ物語らしい骨格は備えていた。それにひきかえ『フィネガンズ・ウェイク』は、英語の中に数十種の言語を織り交ぜ、地口や二語を混合して作った混成語を多用した語り口調が採用されている。それだけでも判りづらいのに、登場人物の呼び名はおろか属性さえ常に移り変わる。まさに夢の中である。

ベケットは、『フィネガンズ・ウェイク』におけるジョイスの文章について、「何か<について>書いたものではなく、<何かそれ自体>なのだ」(<>内の原文は斜体)と書いているそうだが、さすがにうまいことをいうものだ。セザンヌの描いた林檎の絵を見て「これは林檎を描いた絵だ」というほどばかなことはあるまい。だが、文学に関していえば、何について書かれたものかが問題にされることが多いのも事実。「何」を描くかではなく、「どう」描くかがジョイスにとっての問題だった。

何を描くにせよ主題はすでに神話や聖書をはじめ、文学、芸術からラジオやミシンに至るまで意識に上った何もかもを無意識に送り込む自分というシステムの中に無尽蔵にある。それをまるごととらえようとするなら、広大な無意識の世界を旅するよりほかはない。『フィネガンズ・ウェイク』は、その野望の実現のためになされた壮挙である。とはいえ、たとえ夢であっても、フィネガンの見たものは何か知りたく思うのが人間である。

すでに完訳はあるものの、柳瀬尚紀訳『フィネガンズ・ウェイク』を読むのは、夜の移動遊園地で狂ったように回り続ける回転木馬に乗せられたようなもので、めくるめく感動は味わえるものの、よほど体力に自信がないと長時間乗り続けているのは不可能である。全体を四部に分け、それをさらに章立てし、各章の約半分を脚注、解説付きで抄訳した宮田訳は、一般読者の体力に合わせてくれているところがうれしい。一つの語が複数の意味を持たされ、増幅し続けるイメージを、それなりに意味が通じるように訳すのは骨の折れる作業であったろう。表意文字である漢字を駆使し、ルビで音を表し、脚注で他の意味や連想される歴史的事実、人物を解説するという方法は入門書とするに相応しい。

物語とも小説とも言えない断片の寄せ集めのような『フィネガンズ・ウェイク』だが、一応ダブリン郊外でパブを営むハンフリー・チムデン・イアウィッカー(HCE)と、その妻、双子の男の子と妹の家族の物語という体裁をとっている。HCEには、かつてフェニックス公園で性的犯罪を犯した過去があり、それが周囲に責められているという罪の意識につながる。双子のシェムとショーンは、互いに反発しつつ妹イシーに近親相姦的愛情を抱いている。HCEの罪の意識は原罪に、双子は『ユリシーズ』のスティーヴンとマリガンをはじめ、カインとアベル、ナポレオンとウェリントン、アイルランドとイングランドのように様々な対立を表し、妹との恋愛感情はトリスタンとイゾルデ、アベラールとエロイーズなど罪意識の絡む様々な愛の物語に響き合う。

「フィネガンズ・ウェイク」という題名は、フィネガンという煉瓦職人が梯子から落ちて死に、その通夜でウィスキーをかけられて甦るという同名のバラッドによるが、アイルランドの伝説の英雄フィン・マックール(フィン・アゲイン)ともかけられている。HCEはダブリンの町を覆うように横たわって眠るフィン・マックールに擬せられ、妻であるアナはその傍を流れ、生命を象徴するリフィ川に擬せられている。横たわるフィンの見る夢として始まった物語は逸脱を繰り返しながらも、神の時代、英雄の時代、人間の時代とそれらが反復・循環(リコルソ)する移行期に分けられるというヴィーコの歴史観をなぞるように進んでゆく。

『ユリシーズ』の終わりがあの有名な句読点なしのモリーの長い独白であったのと呼応するように、『フィネガンズ・ウェイク』の終わりはHCEの妻、アナ・リヴィア・プルーラベル(ALP)の夫に宛てた手紙とそれに続くモノローグで終わる。ライト・モチーフとしてジョルダーノ・ブルーノの思想である二元論を超えた対立と合一の理念を響かせるこの作品を象徴するように、罪や対立の横溢する物語の末尾はそれらをすべて赦す夜明けを待つ希望の声で結ばれる。頭字が小文字のriverrunで始まった物語は末尾のtheで終わる。頭が尻尾を呑みこむウロボロスの蛇のような円環構造は、これが終わりではなく繰り返しであること、つまり循環・反復する人間の歴史を表している。

と、まあ、このようなことが分かったのは、とりあえず抄訳にせよ読み通すことができたからで、この抄訳が『フィネガンズ・ウェイク』に躓いていた読者にとっての福音であることは論をまたない。キリスト教文化圏でもなければ、ダブリンに住んでいるわけでもない日本人が『フィネガンズ・ウェイク』を読み通すには、適切な注釈書は不可欠だろう。訳者による全訳が待たれる所以である。柳瀬訳を読み通すことができずに悔しい思いをしていた同好の士にお勧めしたい。


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 2009/5/4 『ジョイスと中世文化』 宮田恭子 みすず書房

一冊の本が呼び水となって、新たな読書の水脈を掘り当てることがある。この本がまさにそれである。副題に「フィネガンズ・ウェイク」をめぐる旅、とある。ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』といえば、そのあまりに実験的な作風から、一部には失敗作と評価する向きもある問題作である。柳瀬尚紀氏による個人全訳は、画期的な訳業と評価される一方で、その凝りに凝った翻訳は、読者を容易に寄せつけない。恥ずかしながら評者も途中で投げ出した口である。

その難物『フィネガンズ・ウェイク』をかみくだいて解説してくれる類の本だろうと見当をつけて読みはじめたのだったが、どうも様子がちがう。どうやら、ここでいう「旅」は、比喩でもなんでもなく、本当の旅のことらしい。著者が自ら撮影したゴシック建築や教会のアーチに施された浮彫彫刻などの図版を引きながら、『フィネガンズ・ウェイク』に登場する「アダムとイブ教会」が、聖フランチェスコに始まるフランシスコ会の教会であることから、アッシジに飛んでジオットを語り、さらにパドヴァに赴いては聖アントニウスに触れるといった具合。

さながら中世美術の解説書の観を呈する。とはいえ、それなら本書にも度々登場するエミール・マールの『ゴシックの図像学』のような本がすでにある。それなのに、なぜ今この本が書かれねばならなかったかといえば、ひとえにジョイスの中世文化に寄せる関心が『フィネガンズ・ウェイク』執筆と深いところで結びついているからにほかならない。ジョイスがパリに住んでいた頃、友人にこう語っている。

「古典時代の建物は過度に単純で神秘性に欠けるといつも思う。ぼくの考えるところ、今日の思想で最も興味深いことの一つは中世への回帰です。…アイルランドに関していちばん面白いところは、われわれは中世人で、ダブリンはいまだに中世の都市だということです。…ものを書くときは、古典様式の固定したムードとは反対に、ムードと現在の衝動に動かされるままに、果てしなく変化する外面を創造しなければならない。「進行中の作品」はそれです。大事なのは何を書くかではなく、いかに書くかということ。…避けるべきは、硬直した構造と情緒的な制約を持つ古典です。中世的なものには古典的なものよりも情緒的な豊穣さがあります。」

「進行中の作品」とは『フィネガンズ・ウェイク』の仮の名。これによると、ジョイスがいかに中世的なものを自分の「進行中の作品」に重ね合わせていたかがよく分かる。著者は、この言葉を手がかりに、実地検分に赴いたというわけである。ただ、実際に書かれた内容はといえば、ジョイスとの関連よりも中世美術の図像学的解説の部分がふくらんでしまったという観は免れない。

ただ、そうした解説の間に挿まれる形で、著者の訳による『フィネガンズ・ウェイク』の文章が引用されるのだが、これが実によく分かるのだ。もともと多言語的地口によって綴られている『フィネガンズ・ウェイク』である。一つの訳語に定めてしまっては作者の意図に反するというお叱りもあろうが、そこは解説の中で詳しく説明されている。

期待して手にとった柳瀬訳で挫折してしまった者にとっては、曲がりなりにも『フィネガンズ・ウェイク』の世界に入ることができたという喜びをなんと言い表したらいいだろう。『ジョイスと中世文化』は、唯に『フィネガンズ・ウェイク』と中世文化についての関係を解説してくれる本というだけでなく、『フィネガンズ・ウェイク』を読めずにいた読者に『フィネガンズ・ウェイク』への橋渡しをしてくれる手引き書でもある。

実は、すでに著者による『抄訳フィネガンズ・ウェイク』という本が他社から出版されている。早速取り寄せたところ、本文に引用された部分同様、読みやすい訳文となっている。丸谷他訳『ユリシーズ』と同じ体裁で、脚注、解説が附されている。抄訳といいながら、いわゆる翻案ではなく冒頭と終末部分は完全に翻訳し、途中を割愛する部分訳であるのもありがたい。割愛されている部分については、柳瀬訳や原書にあたって確かめることもできる。これを機会に柳瀬訳に再挑戦してみようかという気にもなる。

『フィネガンズ・ウェイク』に門前払いをくわされた人に格好の入門書としてお薦めする。また、中世文化やゴシック芸術に興味のある人なら、ジョイスの愛読者でなくとも充分に楽しむことができることを申し添えておく。

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