Home > Library > Review > 76
2009/4/26 『やんごとなき読者』 アラン・ベネット 白水社
ここに来てG・P・ウッドハウスのジーヴス物が相次いでシリーズ化されるなど、イギリスユーモア小説の売れ行きが好調だが、これもそのイギリスユーモア小説の系譜に連なる「傑作」。イギリスではベストセラーと聞くが、それもそのはず、主人公がなんと女王陛下なのだ。
ひょんなことから読書の魅力に取り憑かれた女王は、それまでは義務ではあってもそれなりに興味を感じながら務めてきた公務にさっぱり熱が入らない。服装や装身具にも以前ほど気を使わなくなり、週のうちに同じ物を二度着たりする。これまでなかった事態に周囲の者から、耄碌したか、アルツハイマーではないかと疑われる始末。
どこへ行くにも本のお供がなくてはかなわず、車の中でもページの間に鼻先を突っ込んでばかり。本のことで頭がいっぱいだから、それまで無難にこなしてきた臣民との会話にも「今、何を読んでいますか?」などと口走ってしまう。本などめったに読まない人々はとまどいを覚え、側近はうろたえる。本の話ばかり持ち出す女王と、それについていけず、次第に女王の読書への反感を募らせる首相や個人秘書とのやりとりを風刺的に描くことで、本を読むという行為がいかに非英国的であるかということをあぶり出してみせる。
知的であること、かならずしも価値ではないというのがイギリス人気質。本を読むより、戸外でスポーツや狩りに興じるのが王室をはじめイギリス上流階級の伝統らしい。そういえば、ダイアナ妃の死に際して、バッキンガム宮殿に半旗を掲げなかったことに起因する王室バッシングの騒ぎを描いた映画『クィーン』の中で、ヘレン・ミレン演ずるエリザベス女王や夫君の公爵、皇太子は、騒ぎの真っ最中バルモラル城外の山中で鹿狩りをしていたものだ。
その一方で、これは大真面目な「読書の勧め」の本でもある。それまで興味を持っていなかった一人の人間が、水先案内人に導かれながら次第に本の大海に乗り出していく、その心のときめきと興奮がみずみずしく描き出されている。はじめは自分のよく知っている世界を描いた本から入り、読む力がつくにつれ、自分の知らない世界へと進んでいく。バーネットからプルーストに至る書名や作家名の変遷が女王の変化、成長を物語る仕掛けだ。
秘書は「本は他人を排除する」からよくないと諫めるが、女王は本を読むようになってからのほうが、今までは気にもとめなかった周囲の人の感情が分かるようになり、人に優しくなっていると自分で思う。それと同時に「自分には声がない」ことにも思い至る。ダイアナ妃の死後、感情を公にするように求められることが増えた女王はこの頃書きはじめた読書ノートにこう綴る。「シェイクスピアはいつも理解できるわけではないが、コーディーリアの『私には心のうちを口に出すことができません』という心情はすぐにもうなずける。彼女の苦境は私のものでもある」と。
最後には周囲の声を聞き入れ、もとの生活に戻る女王であったが、一度自分には声がないことを知ってしまった人間は、その声を求めずにはいられない。冒頭のフランス大統領を迎える大晩餐会に呼応するように、終幕に設けられた女王八十歳の誕生日を祝うお茶会において、首相をはじめ枢密顧問官を前にしての女王のスピーチには、もし女王をして自分の声を発することができるものならば、かくあらんかという結末が用意されている。
読書がいかに人間を作り、育てるかという読書の持つプラス面と、ややもすれば本に熱中するあまり実人生と没交渉になり、周囲から浮いてしまうという本好きのマイナス面を併せて描いてみせるあたりが、いかにも大人の国イギリスの小説らしい。ハリー・ポッターを読んだという話を持ち出された女王が「そう、私はあれは雨の日のためにとってあるのよ。」とそっけなく言い捨てたり、イアン・マキューアンの本が、読書に夢中で遊んでもらえなくなった愛犬のコーギー達の腹いせでぐちゃぐちゃに噛みしだかれたり、と英文学好きならにんまりさせられるような逸話もたっぷり用意されている。
2009/4/17 『機械という名の詩神』 ヒュー・ケナー 上智大学出版
現代はポスト・モダニズムの時代と言われている。ところで、モダニズムというのはいったいどういうことを指していうのだろうか。高橋源一郎によると、「これはジョン・バースの定義ということになるのかもしれませんが、小説の技法的革新や実験を信じることがモダニズム。それが極限にまで至ったものがハイモダニズムです」ということになる。モダニズムの代表として挙げられているのが、ジョイスやベケット。それ以降の作家がやったことの中には大きな革新はないというのがバースの考えで、高橋もそれに同意する。つまり、革新的な技法や実験が極北にまで行き着いて最早誰もこれ以上の進歩を信じることができなくなってしまったのがポスト・モダンの時代ということになる。
『機械という名の詩神』は、モダニズム文学を代表するエリオットやパウンドそれにジョイスやベケットの文学が、同時代のテクノロジーといった社会や文化の現象にいかに大きな影響を受けているかを論じたものである。これまで「意識の流れや」や「内的独白」といったモダニズム文学の手法は作家個人の内部から生みだされたものとして扱われてきた。それをテクノロジーの進化という外部と結びつけたのはケナーの着眼である。それ以前の時代とは比較にならないほど飛躍的な革新を遂げて登場してきた地下鉄や電話といった新進テクノロジーは人間をそれまでとはまるで異なった世界へと引き入れた。ライノタイプ鋳植機、タイプライターといった機械の登場は作家をして活字による印刷という表現を意識させずには置かなかった。
一例を挙げると、ジョイスの『ユリシーズ』は、ある一日の出来事を描いたものだが、一日という時間のうちにあれだけの人々が登場する厖大な量の物語が生産されるためには、当時、世界でも最新式のトラム・システムがダブリン市にはすでにあったという事実を抜きにして語るわけにはいかない。スティーヴン・ディーダラスとレオポルド・ブルームが出会ったり、すれちがったりすることができたのは、彼らがトラムを利用することができたからである。
ケナーは、この本をかつての新聞原稿のタイプミスから書きはじめている。ライノタイプ鋳植機によって新聞活字が組まれていた時代、"etaoin
shrdlu" という謎の言葉が紙面の一部を飾ることがあった。当時の植字工はミスをすると、後に捨てるべき一行分を適当な文字で埋めていた。それが植字工や校正者の不注意で廃棄されないと上記の謎の文字が新聞に出ることになる。これら十二の文字は英語で最も頻繁に使われる文字で、理不尽にも左手小指が担当することになっていた。最も頻繁に使用される文字は最も高速の処理を必要とするわけで、溶解した鉛が鋳型を作るために母型の移動が最も速くできるよう、EやTはキーボードの左側に配置されているからである。
じつは"eatondph"という文字列が『ユリシーズ』第16挿話の注にある。これはよくある新聞の打ちそこないの一行"etaoin"を思い出そうとしたジョイスが誤って書き記したもので、ジョイスの数少ない書き損ないの一例だそうである。というのも、ジョイスはわざと書き誤った綴りを文中に忍ばせておくという手をよく使うので、植字工や校正者によって勝手に「訂正」されてしまうことがよくあるからだ。それをまた、後の研究者が指摘し、新しい版でわざと「まちがえた綴り」に直すのである。印刷業という新しいテクノロジーに興味を抱いていたジョイスのこだわりを示す一例である。
モダニズム文学は時代のテクノロジーの産物である機械が創り出したものであるというのがケナーの見解である。「機械」というメタファーがものものしければテクノロジーと言いかえてもいい。文学という個人の内部から発すると考えられていた技芸が、時代のテクノロジーという外部によって左右されているという視点は当時としては画期的な主張であったろう。ダブリンの町という空間とそこを往き来する人物たちの交錯を厳密な時間設定で描ききった『ユリシーズ』を読めば、世界という外部と文学テクストという内部の間に成り立つアナロジーが理解できるにちがいない。
コンピュータによる植字が新聞を作っている今でも、キーボード上の文字配列は"qwerty"というタイプライター時代のものを踏襲している。タイプバーのもつれをふせぐため、タイプを打つスピードを落とそうという配列だから、バーの存在しない今となっては不必要なものだが、必要もないのに新しいシステムを覚えようなどと誰も考えない。それと同じように、ポスト・モダンの時代に入っても、『ユリシーズ』も、そこに描かれたダブリンの町も残っている。モダニズム文学を超えるものが現れるまで、われわれはじっくりと、この「世界」を味わうことができる。ケナーのこの本は、そのためのすぐれたガイドブックである。訳文は端正で読みやすい。一読をお薦めする。
|