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 2009/2/28 『静寂のノヴァスコシア』 ハワード・ノーマン 早川書房

カナダ南東部から大西洋に突き出た半島、ノヴァスコシア。この荒涼とした地に関心を抱くようになったのは、寡作だが独特の作品世界を持つ作家アリステア・マクラウドの小説を読んでからのことだ。ノヴァスコシア州の最東端ケープブレトン島を主な舞台とした作品群は、強固な意志を秘めた主人公たちもさることながら、厳しくも美しい土地の魅力を存分に引き出していた。

そんな時、知人からこの本のことを教えてもらったのだ。著者のハワード・ノーマンは小説家で、ネイティブ・アメリカンの民間伝承収集家、熱心なバード・ウォッチャーでもあることは、本書の構成からも窺うことができる。

本書は四つの章で構成されている。第1章「わたしの有名な夕べ」は、読書好きの若い女性の奇異な生涯を、彼女が姉に綴った手紙をもとにして描き出している。原書の表題作である、この話に最も強い印象を受けた。ノヴァスコシアに住むマーレイ・クワイアは結婚し子どもも二人いたが、姉にもらった小説に夢中だった。その作者ジョゼフ・コンラッドがニュー・ヨークで朗読会を開くことを知ると、反対する夫を振り切り、独り大都会に旅立つのだった。しかし、その行為は彼女の人生を大きく変えてしまう。

ノヴァスコシアの住人ならではと思える不屈なまでの強固な意志とその実行力が結果として引き寄せる悲劇的な人生。一度こうだと思うと、そうとしか生きられない人間の業のようなものを、小説ではなく書簡という形式を使って読者の眼前に浮かび上がらせることに成功している。この作家、並々ならぬストーリー・テラーの才能の持ち主らしい。

第2章「愛、死、そして海―前触れと予言」は、先住民ミックマック族の民間伝承を収録しているのだが、その収集の際に出会った美しい女性との出会いと別離、時を経ての再会という、メロドラマ風の味つけが工夫されていて、これも楽しませてくれる。

評価が割れるのは「野鳥観察者のノート」と題された第3章だろう。野鳥観察愛好家なら文句なしに相好を崩すだろうが、門外漢には少し敷居が高いかも知れない。第4章はノヴァスコシアの詩人エリザベス・ビショップの研究者で自身も詩人であるサンドラ・バリーの肖像を彼女との会話から掬い取ろうとした人物スケッチ風の作品。

本書にも少しだけ登場するアリステア・マクラウドは、著者と一緒に出演したラジオ番組で「故郷をどう定義するか」と聞かれ、こう答えている。「ああ、わたしにはほかに何の最期も思いつかない。ぜひ、ケープブレトンに埋葬されたいね。それが故郷に戻ることになるだろう。つまり、ある意味では、それが”故郷”の定義となるね」と。

著者の故郷はヴァーモントで、死んだらそこに埋葬されたいと思っているが、ノヴァスコシアという土地には特別の感情を抱いているという。「それは心に突然の暗黒を、そして最も深い静寂をもたらす。感情は上下する。そのすべてに疲弊と興奮があり、愛情と混乱があり、強迫観念と驚異がある」と。機会があればぜひ、ノヴァスコシアを訪れてみたい。読者をしてそう思わせる魅力に溢れた紀行文である。

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 2009/2/22 『ハドリアヌス帝の回想』 マルグリット・ユルスナール 白水社

映画『グラディエイター』で、リチャード・ハリスが演じていたのがローマの五賢帝時代最後の皇帝で、ストア派の哲学者として知られ、哲人皇帝と呼ばれたマルクス・アウレリウスその人である。ハドリアヌス帝は彼の祖父にあたる。といっても、ギリシア風の美徳を愛したハドリアヌスに妻はいても子はいなかった。五賢帝の時代にローマが繁栄を続けられたのは、すぐれた人物を養子として後継者に据えるという養子相続制をとっていたせいだが、それというのも彼らの多くが同性愛者で必然的に実子が生まれなかったからだ。歴史の皮肉というものである。

巻末に附されたユルスナールの覚え書きによれば『ハドリアヌス帝の回想』は、若いうちに想を得ながら、書きかけては破棄し、なかなか完成させることのできなかった作品らしい。重厚でいながら奔放、時に饒舌に走るかと思えば、沈鬱かつ荘重にも響く文体はユルスナールの才能を持ってしても、ある程度の歳を重ねないと難しかったということだろうか。

文章もさることながら、回想記の形式を採用して一皇帝の半生の出来事を想起する合間に、愛と性、生老病死、食事や狩り、動物についてのモラリスト風の見解、競争相手の心理の洞察やら当時の哲学者や文人たちの哲学や文学についての論究等が開陳されるという論文ともエセーとも、なかなか一口に小説と言ってしまってよいものかどうか迷うような作品なのである。

「わたし」という一人称視点で書き進むうちに、ユルスナールは自身がハドリアヌスに成りかわり、ローマ帝国が最大の版図を持ち得た時代を生きてみようと思ったのではないだろうか。ヒスパニア(現在のスペイン)出身のハドリアヌスは地中海を囲む各地を遍く旅している。北はブリタニア(英国)、東はメソポタミア、南はエジプトまで、頑健な肉体と軍人らしい質素な食事のおかげで、長年月の視察旅行も苦にならなかったらしい。

先帝トラヤヌスの覇権主義のせいで、帝国領と境を接する各地で戦闘状態が続いていた。ハドリアヌスはそれらの相手と和平を結び、兵を引いた。長城を築いて防備を専らとし、属領地に権限を委譲し、法整備を進めた。宗教について寛容であろうとしたが、他の宗教と同じ位置に立とうとしないユダヤ教には手を焼きイエルサレムを破壊した。ユダヤ人のディアスポラはここに始まる。

死が間近に迫った老人が、養子アントニヌスの跡継ぎに指名した後のマルクス・アウレリウスに寄せた帝王学のための回想録という設定である。皇帝になるべき人物相手だから嘘も隠しもないという建前で書かれているところがミソである。その死後悲しみのあまり一つの街まで建設したという美青年アンティノウスをはじめ多くの同性愛の相手についても赤裸々に語られている。また、近くに侍る人物の好き嫌いなど辛辣なまでに評されていたりもする。こういうところは果たしてハドリアヌスなのかユルスナール自身なのか俄に判じ難い。

ハドリアヌスの一人称視点で描かれているので、皇位を得るために競争相手を暗殺したという噂や、後継者に指名したのが同じく寵を受けたルキウスであったことなど、いかにもハドリアヌスに都合のいい解釈がなされているのは仕方がない。ユルスナールの書架にはハドリアヌスのヴィラに並んでいたであろう本は全巻並んでいたというから、限りなく正確であろうとする作者の意図は尊重するとしても、この作品におけるハドリアヌスはあくまでもユルスナールの創作した人格と承知して読むべきだろう。

新しい帝国の時代とも呼ばれる現代において、世界帝国を自分の手に治めている人物の人心掌握術、戦争観、他文化、他宗教への寛容など、その器量について学ぶべきところが多い。まさか、今の時代を先読みして書かれたはずもないが、いつ読んでも得るところの多い本というのはあるものだ。現代の古典と呼ぶに相応しい風格ある歴史小説である。最後になるが、多田智満子の名訳がなければ、この格調高い回想録を日本語で読むことはかなわなかった。あらためて訳業を感謝したいと思う。

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 2009/2/14 『北は山、南は湖、西は道、東は川』 クラスナホルカイ・ラースロー

作者はハンガリー人。ハンガリーの文学界では著名人で映画の脚本も書いているらしい。ちなみにハンガリー人の名前は日本人と同じで、姓・名の順に表記されるそうだ。それだからどうというわけもないけど親しみを覚えてしまう。

で、この小説だが、ハンガリー人がハンガリー語で書いているのに舞台は京都。登場人物も日本人である。そんな小説は今どきめずらしくもないと言われるかも知れない。どっこい、これは、少しちがう。ストーリーらしきものは確かにある。が、まるでそれがサイド・ストーリーのように読んでいて感じられる。

のっけから奇異に感じられるのは、冒頭に「2」とふられた章からはじまるからだ。ページは1とあるから落丁ではないと分かる仕組みになっている。「列車は線路の上ではなく一本の鋭い刃の上を走っていた。」という書き出しで、読者は現代の京都の町に誘導される。

福稲というから東福寺界隈と思しきあたりで京阪電車をおりた話者の眼には死んだように静まりかえった京都の町が映っているらしい。蓮実重彦の書く文章のようにきわめて息の長い文章が延々と綴られるに連れてまるでカメラを通して見つめているように、微細な風景が話者の心象風景を綯い交ぜるようにからめて語られてゆく。

一章自体は短いのだが、寺の境内の様子についてびっしり書き込まれた情景描写が終わると、新しい章が現れ、初めて主人公の名が明かされる。それが、源氏の孫君である。そうなのだ。この不思議な小説の主人公とはあの光源氏の孫なのである。

『名庭百選』という本に紹介されていた庭を探しに、供も連れず京阪電車に乗ってやってきたのだが、町は祭か災厄でもあったのか人っ子ひとりいず、案内人もないままに寺に入りこんでしまったところである。

叙述の体裁は断章形式で、時系列は操作されている。時折、誰もいない京阪電車の駅舎の情景を描いた章が挿入されるあたりは、まさにカットバック処理された映画を見ているような気分にさせられる。

寺を造るために、北は山、南は湖、西は道、東は川に囲まれた地を見つけるところからはじまり、吉野の山に生えた一本のヒノキを探すという、日本の寺の造営法から伽藍配置、一本のヒノキが宮大工の長年の経験によって山門のどの位置に使われるかといった蘊蓄がこれでもかというほど偏執狂的に記述される。

やがてそれは、主人公が探しながら見ることのかなわなかった秘密の庭の描写へと移るのだが、中国から風に乗って運ばれたヒノキの花粉が、運良く生きのびて、この寺のこの場所にまで来ることができたのかを例の蛞蝓が這い回った後に生じる燐光を帯びた航跡のような文体で延々描写される。

その合間合間に、孫君捜索の命を受けた背広にネクタイ姿の供の者たちが自販機のビールで酩酊するといったスラップスティックの場面を点綴しつつ、瀕死の犬やら、板壁に目玉の部分を釘で打ち付けられた十三匹の金魚だのというみょうに禍々しいオブジェを介し、持病の発作を癒すため一杯の水を探し求める主人公の探索行を物語るという、一筋縄ではいかない小説なのだ。

物語の展開があまりに奇想天外で状況が飲み込めないことから、読者はきわめて宙ぶらりんの状態で読むことを余儀なくさせられる。しかし、それでも謎にひかれるように読み進めていくと読むという作業自体は、次第に快楽の度合いを深めていくのであって、上質の読書体験が読者には約束されていると言えるだろう。

一つ落ち着かないのは、この独特の語彙とうねくるような文体がどこまで著者自身のもので、どこからが翻訳者の努力によるのだろうという点である。センテンスの長さは原著に合わせているのだろうが、寺社の建築、作庭に関する用語等は翻訳者の手柄だろうか。二度の半年ほどの京都滞在で自家薬籠中の物としたのなら、著者の見識を賞賛するしかないが。

最後の章のひとつ前で、場面はもとの京阪電車の駅舎に戻り、既視感に満ちた光景が描写され、物語は円環を閉じるように見えるのだが、列車の方向は初めとは反対の北を指し、京都の町でいましも起きようとする災厄を予言する禍々しい言葉が終わりの始まりを告げる。

こういう世界が好きな人にはたまらない作家だと思う。

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 2009/2/14『読んでいない本について堂々と語る方法』 P・バイヤール 筑摩書房

いかにも人を喰った、そこいらに掃いて捨てるほどあるハウツー本のようなタイトルに惹かれて手にとる人がいたら、中身を読んで閉口するにちがいない。たしかに本を読まないで語ることを推賞しているにちがいない中身なのだが、最初に引用されているのがムージルの『特性のない男』。その次はヴァレリーである。

本を読まないで、人前で堂々と語ることができたら、というような虫のいいことを考える人間が、ヴァレリーやムージルが「本を読むこと」について語ることを読まされるのだから、これはよくできたジョークではないか。作者の悪い冗談に引っかかった気で読んでいくと、どうやらこれは冗談めかしてはいるが、案外本気で本を読まないことを推賞しているのではないかと思えてくるからタチが悪い。

だってそうではないか。作者は自分は大学教授だがジョイスなんか読んだことないし、これからも読むつもりはないといいながら、平気で生徒の前でジョイスについて語ることができるということを、これでもか、これでもかという調子で実例を挙げて論証しようとする。

しかもだ。三部構成で各部四章仕立ての各章ごとに一人もしくは一作品を引用しているのだが、最初の二人の後に来るのが『薔薇の名前』のウンベルト・エーコときている。グレアム・グリーンの『第三の男』やハロルド・ライミスの『恋はデジャヴ』のように映画で見ている作品も入っている。引用される作品が面白くてしかもその解説がまた読ませるものだから、読者はついつい先へ先へと導かれる仕掛け。本など読まない方がいい、と言いながら最後まで本を読ませる実にパラドキシカル(逆説的)な読書をめぐる考察になっている。

第一部は「読んでいない」というのはどういうことをいうのかが考察される。一度でも読んだ本は、たとえその大半を忘れていても読んだことになるのか。あるいは、途中まで読んだり、流し読みをした本は、読んだ本の中に入れてもいいのか。考えてみれば、ふつう、本を読んだというのは一応通読したことを意味するわけだが、モンテーニュも書いているように読んだはしから忘れていくこともたしかである。

『特性のない男』の登場人物である図書館司書は館内の本の表紙と目次だけを読み、中身は読まないと断言する。本の渦に巻き込まれないためだ。ヴァレリーは、プルーストを読まずに人の話でプルーストについて語り正鵠を射ている。つまり、本というのは、その中身を全部知らなくても、分かる。それを教養と言いかえてもいい。教養とは、個別の物にくわしくなくとも全体の見晴らしを持つことが肝要なのだ。『薔薇の名前』の中で、バスカヴィルのウィリアムは未読のアリストテレスの『詩学』第二部の中身をホルへ神父に語っているではないか。全体の布置がつかめれば、内容はおよそ知れるものである。

バイヤールは「共有図書館」という概念を提示する。ヴァレリーは、「読んでいない本」をそこに置いているから、読まずともそれについて語ることができたのだ。また、われわれが話題にしている本は現実の本ではない。それは「遮蔽幕としての書物」、捏造された記憶としての書物である。読んだ本が増えれば増えるほど忘れた本やその中身も増えるわけだ。つまり「読書は、なにかを得ることであるよりむしろ失うことである。」そう考えれば、読んだ読まないをさまで気にすることはない。

第一部の「読んでいない」という状況の考察に続いて第二部では、どんな状況下で読んでいない本についてコメントをするか、第三部では、そうした場合の対処法を伝授している。読んでいない本についてコメントを述べるのが『第三の男』でハリー・ライムを探しにウィーンに来て有名な作家とまちがえられて講演をする羽目になる西部劇作家の例である。本を読んでいなくとも、これについてなら語れる人は多かろう。上手いものである。

引用のうまさ以外にも楽しめる仕掛けは十分に用意されている。その一つが「捏造された記憶」である。作者の調子のよい語りに乗って、うかうかと読んでいくとまちがった結末を読まされてしまうことになる(後でちゃんと種明かしをしている)。また、本書に登場する本のそれぞれについて、作者がどう読んだのか、「流し読み」だとか「人から聞いた」だけだとかを示す<流><聞>のような記号や、作者の評価、◎、○、×、××などの略号がある。

幾分かねじれた感もあるユーモアのある語り口ながら、本格的な読書論であり、読書にまつわる既成概念批判の書でもある。各章に採りあげられた作品や作家についての作者の解読は一読の価値あり。近頃、外国で読まれているのかどうか、いろいろと噂に高い夏目漱石の『吾輩は猫である』も縦横無尽に論じられている。どうやら、まだフランスでは日本文学は亡んではいないことを知って一安心した。

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 2009/2/11 『日時計の影』 中井久夫 みすず書房

著者は、神戸市在住。阪神淡路大震災を罹災した人々の心のケアに携わったことでも知られる著名な精神科医で、ギリシア語、フランス語で書かれた詩の翻訳家としても知られている。しかし、一般的には、端正で明澄な日本語のエッセイの書き手として知る人の方が多いのではないだろうか。事実、エッセイ集が出版されるたびに待っていましたというように書評に採りあげられる事実から見ても、氏のエッセイを心待ちにしている読者は少なくないにちがいない。

エッ セイの中身だが、まずは専門の精神科医として豊富な臨床体験を通じて得られた知見を、われわれ素人にも分かるやさしい言葉で語ったものをいちばんにあげたい。「統合失調症」という、ふだんはあまり関係がないと思われる病を得た患者が、この人の声音で語られるのを聴いていると、まるで日々接している身近な人々を前にしているような気がしてくるから不思議である。

それは、患者に相対したときにこの人の見せる医師としての姿勢から来るように思われてならない。精神科の臨床医として患者の治療にあたっているときも、患者の人間としての尊厳を最大限に尊重しようとして接している。

た とえば、氏は患者さんの話を聞くとき、好きなものとか、ひいきのチームとかの話題をよくとりあげるそうだ。病理話よりもそういうことから患者の人柄が見えてくるという。「病気を中心に据えた治療というのは、患者の側にとってみたら、病気で自分の人柄が代表されているということであり」、自己評価が下がる。「人柄に即してわれわれは治療していくわけであって、症状を剥ぎ取るのがわれわれの治療ではない」。「人はその最高かそれに近いところで評価されるべきで、最低で評価されたら身もフタもない」。「「タイガースファン」だけでもそのほうがまだずっとよいのです」という。自分が病んだら、こういう人に診てもらいたいと心底思う。

上に引用した部分の前には、有名な精神科医サリヴァンのケースワークの言葉が引かれている。こういうことを自分はいつも考えているが、それはなにも自分の発見ではない。すでに、他の人々がやっている、ということを、どんな時にも煩瑣にならない程度に触れるのが、この人の文章の特徴である。だから、多くの医師その他の名前が文章中に登場する。その中には、文学者も数多く出てくる。この本の中にも、ジョイスやプルースト、リルケやカロッサがごく自然に呼び出されている。本好きの読者を愉しませてくれるところかもしれない。

もちろん、専門外のことについて書かれたものも多い。時事的な問題にもふれる。エッセイストとしての氏は、医師として患者の前に立つ穏やかな人格とはうって変わって、けっこう熱い。ジャーナリズムを批判した次のような文章を読んで溜飲を下げた読者は多いだろう。

「ジャー ナリズムも庶民の医療に尽くす「赤ひげ」をあるべき医師の姿と讃えるのを止めてもらいたい。あれを読み聞かされるたびに、戦時中、孤島硫黄島兵士の孤立無援の奮闘を激励するラジオ放送を思い出して不愉快になる。あれは政治の欠如を個人の犠牲で補えということである。」

「赤ひげ」を別の誰か に、医師を他の職業に入れ替えれば、公益に尽くす多くの職業に通じるだろう。大震災の際、被災地で緊急医療に従事した医師の中にその後、重篤な病を得て亡くなった方が何人もいることをこの本を読んではじめて知った。それを医者の不養生のように評されて悔しい想いをした人がいることも。

少年時の切手収集や学生時代の登山のことなど、楽しい逸話にも事欠かない。読後、頭や心の中にあったもやもやしたものがどこかに消えたようなすっきりした感じが残る。

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 2009/2/1 『文学地図』 加藤典洋 朝日新聞出版

大江健三郎と村上春樹。ある意味で現代の日本文学を代表する名前である。この二人が、「ノルウェイの森」と「懐かしい年への手紙」が出た1987年を分水嶺として、はっきり離反していく。大江を認める者は、村上を批判し、村上を支持する者は、大江を切り捨てるといったふうに。加藤は、「大江か村上か」ではなく、「大江と村上」という論点を提供する。この二人には意外に共通点があるからだ。

大江がある国際シンポジウムで、村上批判をおこなったことがある。それが当時、批評の世界で勢力を振るっていた柄谷行人や蓮実重彦に影響を与え、村上バッシングとも言える状況を作った。それ以降、村上は現代日本の文学的状況に発言を控えるようになっただけではなく日本から距離を置くようになった。加藤の要約によれば、大江の村上批判は次のようなものである。

村上の文学は、社会、個人生活の環境に対して「いっさい能動的な姿勢をとらぬという覚悟からなりたってい」る、その一方で「風俗的な環境」からの影響は「受け身で受けいれ」る、そのうえで「自分の内的な夢想の世界を破綻なくつむぎだす」。その彼は戦後文学とは「全く対照的な受動的な姿勢に立つ作家」で、その姿勢を通じて「富める消費生活の都市環境」で「愉快にスマートに生きてゆく」若い人間の「いくばくかの澄んだ悲哀の感情」を提示し、若い読者からの強い支持を得ている。

村上に対する嫉妬めいた感情をにじませながらも、なるほどこうも言えるかという悪意すら感じられる大江の批評は、しかし、加藤によれば的を外している。村上の「デタッチメント(=関わりの拒否)の生き方」は、時代状況を考え合わせるならそれ自身「能動的な姿勢」であったのだと。加藤はおそらく大江も読んだであろう村上の「パン屋再襲撃」に込められた現代若者の「アパシー」批判・揶揄を引きながら、この作品が京浜安保共闘グループによる銃砲店襲撃事件をモデルにしていることを指摘する、その手さばきが鮮やかだ。

次に大江自身の初期の仕事にある「受動的な姿勢」を指摘しながら、あえて、受動的な姿勢をとることで、ストレートな「能動的な姿勢」の浅さを撃つ手法を評価してみせる。そうしたうえで、なぜ村上の中にある同質の身振りを読み取ることができなかったかと問いかける。

さらに、村上の「ニューヨーク炭坑の悲劇」をそのタイトルのもとになったビージーズの同名曲の歌詞を原詩と訳詞を詳細に引用し、この作品が新左翼党派間の内ゲバによる死者への逆説的なコミットメントであったことを明らかにしていく。ビージーズのこの曲がヴェトナム戦争に駆り出された若者に対する想いを歌ったものであったことをはじめて知った。ニューヨークに炭坑なんかあったのかという漠然とした疑問は抱きつつ、深く知ろうともしなかった自分の愚かさを今さらながら思い知らされる。

デタッチメントからコミットメントへというのは、オウム真理教事件や阪神淡路大震災以降の村上の仕事の変化を表す際に用いられるコピーだが、大江の「レイター・ワーク(老年の仕事)」に見えるコミットメントの姿勢とも併せて、二人の重なりに目を向けることで、87年以降の評価の地勢図に書き換えが起きるのでは、という加藤の挑発に誰かが答えてくれるだろうか。

さらに、もう一本の「関係の原的負荷―二〇〇八、「親殺し」の文学」という評論も力が入っている。村上の「海辺のカフカ」と沢木耕太郎の「血の味」に共通する父殺しの意味を「関係の原的負荷」の露頭という視点から解析するもので、現実の社会に起きている問題と文学の間にある相関性が岸田秀のフロイト心理学を援用しつつ語られる。

『敗戦後論』で、論争を巻き起こした加藤だが、果たしてこの作品に対する反応はあるのだろうか。文壇の反応が期待される、スリリングな展開に満ちた意欲的な文学評論集である。

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