「目からウロコ」という言葉がある。内田樹を読んでいると、文字通り目からウロコが落ちる。しかも、その頻度が高い。試みに下の文章を読んでみてほしい。
「合理的な人」は結婚に向いていない。/それは、「合理的な人」が人間関係を「等価交換」のルールで律しようとするからである。/「私はこれだけ君に財貨およびサービスを提供した。その対価として、しかるべき財貨およびサービスのリターンを求める」という考え方を社会関係に当てはめる人は、残念ながら結婚生活には向いていない(そして、ビジネスにも向いていない)。/というのは、人間の社会は一人一人が「対価以上のことをしてしまう」ことによって成り立っているからである。/すべてのサラリーマンが自分の給料は不当に安いと思っているが、それは彼らが稼いだ「上前」をはねることで株主配当や設備投資が行われている以上当然のことである。/結婚も全く同じである。/「夫婦」は企業と同じく、配偶者それぞれが「夫婦」という集合体に投資することで成立する。配偶者がそこに十分な投資を行い、状況の変化に相応できるフレキシブルなビジネスモデルを組み立てるならば、「夫婦」は生き延びることができる。/反対に、自分が投資したもの(金、時間、労力、気づかい、忍耐などなど)に対して相手から「等価」のリターンを求めると、「夫婦」は潰れる。それは営業マンが彼の努力で成約した取引から得られた利益の全額を「オレの業績だ」と言って要求することを許せば、会社が潰れるのと全く同じ原理なのである。/そのことに気づいている人はまことに少ない。(一部省略)
新書版見開きで余白が出る短い文章だが、言われていることは、結婚生活に関する深い洞察に溢れているではないか。多くの人が、会社相手にははじめからあきらめても、配偶者には自分の投資に対する「等価交換」を求めてしまうのではではないだろうか。それは相手にしたって同じことだから、要求が正当なものであっても、いや、正当であるからこそ、会話は対決姿勢に終始し、やがて破綻することになる。
経験から、結婚に「等価交換」は不向きだということをうすうす実感してはいても、それがビジネスモデルを譬えにして説明されることで、実に明快に理解できることに驚く。もしかしたら、巧く騙されているだけかもしれないが、それならそれでいい。とにかく人間は生きていくための「物語」を必要とする動物だから(因みに著者は離婚を経験している)。
単行本化されていない、どこに書いたかすら覚えていないような筐底に残された雑多な文章を拾い集め、「知ること」というテーマの下に六つの章に並べ直したのは、編集者の手柄かもしれない。しかし、「落ち穂拾い」(この手の本を評者はそう呼んでいる)にしては、最近の収穫である。一つは、これらが、注文原稿であったからではないだろうか。最近の内田の本は、ブログをもとにしたものが多い。ブログは字数も何も気儘なものである。枚数が限られていることで、かえって首尾結構を意識し、簡潔にして明瞭な文章を生んだのかもしれない。
長田弘の声は低く静かに響いてくる。たとえそれが戦争についてであっても。「私の20世紀読書紀行」と副題にある通り、読書をして知り得た人や場所への旅を通して、20世紀とはどういう時代であったかを振り返る紀行文集。
自身が著名な詩人である著者の旅には、心に残る「詩人」の墓を訪ねたものが多い。20世紀は「戦争と革命の世紀」と呼ばれる。なかでも、スペイン市民戦争に関する詩人の関心は他を圧している。G・オーウェルの『カタロニア讃歌』をもとに歴戦地を訪ねる章は圧巻である。また、マヤコフスキーやエセーニン、パステルナークなど、スターリニズム化したソヴィエト・ロシアに生き、苛酷な人生を生きた詩人たちについても多くのページが割かれている。
全編を貫く主題は、ナショナリズムとパトリオティズムという似て非なる二つのイズムだ。どちらも愛国心と訳されることが多いが、二つは微妙にちがう。詩人の言葉を借りるなら、「ナショナリズムが政治の問題であるなら、パトリオティズムは日常の問題である。ナショナリズムがイデオロギーの問題なら、パトリオティズムはライフスタイルの問題である。」詩人の立場ははっきりしている。パトリオティズムは肯うが、国家がそれをナショナリズムに置き換えようとする動きには異を唱える。
しかし、何よりも詩人が大事にするのは、「わたし」という存在。義勇軍としてスペイン市民戦争に参加した三人のイギリス人が、戦場から故国に待つ人に寄せた手紙を素材に、それぞれの戦いを論じた「ある詩人の墓碑銘T・U」で、最も自分に引き寄せて語っているのは、文学者としてでなく、ひとりの「わたし」としての死を死んだ若き詩人ジョン・コーンフォードである。
ダーウィンにはじまる家系に生まれ、ケンブリッジはトリニティ学寮のフェローを父に持つ青年が、自分を取り囲むアカデミックな環境に反撥を感じ、スペインで勃発した共和国の危機を契機として参戦する。そして、結果的には後に無謀な戦いであったとされる戦いであっけなく命を落とす。
詩人は、その青年の父母、祖父母の代にまで遡り、彼の父祖たちの交友関係を描き出してゆく。B・ラッセルやT・E・ヒューム。E・M・フォースターやL・ストレイチーらブルームズベリ・グループなどのイギリス思想界や文学界を彩った人々が入れ替わり立ち替わり現れては去ってゆく。
平和主義者として戦争に反対する者がいる。あえて、戦うことに意味を見つける者がいる。また、そのどちらにも拠らず、冷笑して憚らない者がいる。それぞれにそれぞれの考えがあり、立場がある。彼らはイギリスだけではなく、世界の思想界を代表する人々である。詩人は、しかし、それらの人々とは異なり、名もない庶民の中に分け入って、ひとりの「わたし」として従軍したジョンの父やジョンその人に思いを寄せているようだ。
しかし、である。「わたし」という存在は、わたしであるようでいて、そう簡単に「わたし」ではない。詩人は、シンガポールで日本人だと分かると、マッサージハウスに連れて行こうとするタクシー運転手に辟易しながら、ここでは、「わたし」はわたしではなく「日本人」なのだということをいやでも思い知らされる。
叙情的に描かれるスペインやロシアの慎ましやかな村の風景や素朴な人々の佇まいに、この詩人ならではの優しさが感じられるが、「わたし」という存在を自明なものと信じて疑うことを知らない現代の日本人に向けて、静かにしかしねばり強く問いかける詩人の声は重い。ネット上で声高にナショナリズムが叫ばれる今日であるからこそ、手にとってみる価値のある一冊ではないだろうか。