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 2007/10/29 『アイロンと朝の詩人』 堀江敏幸 中央公論新社

正式には何と呼ぶのかは知らないが、勝手に「落ち穂拾い」と名づけたジャンルの刊行物がある。長短、硬軟を取り混ぜ、雑多な媒体に書き散らした短文、解説、随想、エッセイその他の文章を集め、よく似た主題を持つものをひとまとめにし、五つくらいに分けたものを、適当な題を付けて単行本として出版したもののことである。

小説家と呼ぶには、小説以外の文章を書くことが多い物書きには結構この手の本を出している人が多い。通俗小説を書きとばすタイプではなく、一つのスタイルを持ち、自分の書く文章にこだわる作家は、連載のかけもちなど、どだい無理な相談である。作家一本で食っていこうと思うなら、およそ見当違いな雑誌や新聞から舞いこんできた依頼原稿であっても、可能でさえあれば依頼を受けるにちがいない。

そんなわけで、目的も想定される読者も様々な文章が、まとめられることもなく、発表当時の媒体に印刷されたままで、日を送ることになる。重要な文学賞を何度も受賞している堀江氏くらいにもなれば、出版社も放っておかない。まとめて一冊に編めるくらいの原稿がたまれば、単行本として出版したくなるのも道理である。かくして「回送電車」も三巻目となった。

しかし、内容はT、Uに比べると残念ながら、集められた文章にばらつきが感じられるようだ。ある種の軽みがほしくて文章に軽重をつけるということもあろうが、それにしても現代日本語の文章を書く作家の中で、信頼を置ける何人かの一人と目される堀江敏幸にしては、軽すぎるのではないかと思う文章が散見されるのが惜しい。

そんな中で、ようやく小説家としての自覚が高まってきたのか、小説を論じた文章に、この人ならではという視線を感じる。芥川の『文芸的な、あまりに文芸的な』を論じた〈「最も純粋な小説」をめぐって〉も、その一つ。以下に引用する。

些細なことに注目するリアリズムの処理に、強固な詩的精神を加味すること。叙情、ではなくて、叙そのものが情をにじみ出させるような書き方を探ること。「最も純粋な小説」は、殺伐さと紙一重であるから、それを単に叙情的なものと見なすと、かすかに点っていた焚火の火が消えてなくなってしまうのだ。もしかすると、現在の私の仕事のいくつかは、芥川がそればかりを称揚しているわけではないと限定つきで揚げた《「話」らしい話のない小説》の「詩的精神」の実践ではなく、そのあり方に対する遠い憧憬の上に立っているのかもしれない。

堀江敏幸の小説が、《「話」らしい話のない小説》かどうかはひとまず置くとしても、氏の小説が、どのあたりを目指して書き続けられているのかがよく分かる真摯な分析ではないだろうか。

もう一つ書評について論じた文章もいい。「キーパーの指先をかすめたい」から引用する。

どのような分野であれ、自らの非力を棚に上げて他者の才能を云々するのは大胆不敵な振る舞いだし、私的な空間にとどめおくべき言葉を外に投げる以上、棚に上げた部分の脆さをつつかれても文句は言わない覚悟あってのことなのだから、問われるのは、自分の発した言葉が、最低でもありうべき「すれちがいのポイント」にきちんと届いているかどうかだろう。「すれちがい」は、「交錯」、もしくは「出会い」であり、ひとりよがりの感想を、その是非の判定は繰り延べたまま、言葉として相対化する鏡でもあるからだ。

こんな文章を読まされると、著者というキーパーの指先をかすめながら、ゴールネットを揺らす、そんな書評を一度でいいから書いてみたいものだと、及ぶべくもない非才の身も顧みず思ってみたりするのである。

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 2007/10/27 『失われた時を求めて』第二篇 マルセル・プルースト 集英社

第二篇「花咲く乙女たちのかげに」で新しく登場するのは、海岸の避暑地バルベック。プルーストがよく訪れたカブールをモデルにした架空の町である。ジルベルトと会わなくなってもしばらくはパリにあるスワン家に通っていた「私」だったが、その傷も時が癒した。祖母に伴われてやってきた海浜の町で「私」は祖母の旧友ヴィルパリジ伯爵夫人の甥ロベール・ド・サン=ルーと親交を結ぶことになる。そこに、その叔父であるシャルリュス男爵がやってくる。「私」はその男がコンブレーのスワンの屋敷でジルベルトと一緒にいた人物だったことを思い出す。

19世紀フランス社交界を舞台にした本作品には、紳士貴顕はもとより卑賤な輩を含め多くの人物が登場するが、その中でもとびきり重要な人物がシャルリュス男爵であろう。作者がモデルの一人にしたのが稀代のダンディで、サロンの寵児であったロベール・ド・モンテスキュー。ユイスマンスの『さかしま』の主人公デ・ゼッサントの稀覯書や珍奇な装飾に溢れた部屋はモンテスキュー伯爵の部屋をモデルにしたものとも言われている。

澁澤龍彦『異端の肖像』の中に「生きていたシャルリュス男爵」の一篇がある。プルーストが如何にモンテスキューに取り入ろうとしたか、そして、自分が彼の眼鏡にかなわないと知ると、一人の音楽家を彼に差し向けご機嫌をとろうとしたか。落ち目の彼に追い打ちをかけるように自作の中に彼を思わせる人物を登場させ、その悪徳を暴いたかが描かれている。

プルーストは、一人の人物を創作するために複数の人物から必要な部分を採り入れているから、モンテスキューがそのままシャルリュス男爵であるわけではない。だが、当時の社交界の人々にとっては自明の事であっただろう。大公の称号だって名乗れるのに、ただフランス最古の貴族の名というだけのシャルリュス男爵の方を選んだ際の言葉「現在ではみなが大公になってしまった。それでも何か区別できるものが必要だ。もしお忍びで旅行したくなったら、そのときは大公の称号を身につけることにしよう。」は、モンテスキュー自身が吐いた科白だった。

そのシャルリュス男爵が、はじめて「私」の前に登場したとき、「私」は彼の目つきを狂人やスパイのそれ、怯えている動物の目か大道商人の目に喩えている。後々になって明らかになることをその前にこっそりと披露しておくというのが、プルーストのやり方である。「私」に対する奇妙な態度や不審な行動は、おいおい明かされる彼の性癖の伏線である。

貴族でありながら、ニーチェやプルードンの信奉者サン=ルーは、美貌で気どらない魅力的な若者として登場する。それに比べると、一緒にいたいから外交官になるのをあきらめたほどの初恋の相手ジルベルトも、第二篇で登場する新しい恋人「花咲く乙女たち」の一人アルベルチーヌも、印象が強いとは言えない。はっきり言ってしまえば、「私」にとって彼女たちは、野辺に咲く花々のように美しく可憐な存在に過ぎない。通りすがりに見た美しい花に馬車から下りて手折りたいほど心を動かされたとしても、次の曲がり角にはまた別の美しい花が待っているのだ。

それに比べれば、母や祖母、それにジルベルトの母であるスワン夫人に寄せる感情の方がよほど強い。オデットの衣裳や挙措動作を克明に描写する「私」の筆は、恋人の母親を描くそれではない。「私」が両親に懇願して観劇を許された女優ラ・ベルマが演じるラシーヌの『フェードル』は、母親が義理の息子を恋することから起きる悲劇である。「私」の「母」に対する感情が近親相姦的なものを含んでいることの仄めかしだろう。

自分に対する絶対の愛が保証されているのが母のそれだとすれば、若い女性には自分の知らないところで、自分以外に愛する相手がいるのではないか、という疑惑がいつもつきまとう。しかも、その相手が女性ではないかという疑惑はかつて少年時代にコンブレーでヴァントゥイユ嬢の部屋を覗き見たときの光景に拠っているのかも知れない。「花咲く乙女たち」にはシャルリュス男爵が象徴する男性の同性愛(ソドム)とともに女性の同性愛(ゴモラ)の主題が、アルベルチーヌとともに浮上してくる。

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 2007/10/21 『失われた時を求めて』第一篇 マルセル・プルースト 集英社

とにかく長大な作品であるため、意を決して読む気にならないと、なかなか読み終えることができないだろうというおそれが先に立って、今まで読む決心が着かなかったのだが、いざ取りかかってみると、『失われた時を求めて』は、けっこう読みやすい小説であることに気がついた。

話者は、新興ブルジョワの嫡男として大事に育てられたためか、繊細な神経と病弱な体を持った芸術家志望の青年として設定されている。話者が生まれる前の話として書かれる「スワンの恋」を除いて、『失われた時を求めて』全編が「私」の回想視点で書かれている。少年期を描いた第一部「コンブレー」では、一つの回想が次々と別の回想を呼び起こすため、話者がいつの時代を回想しているのかが分かりづらい部分もあるが、後に登場してくる幾人もの重要な人物が、さり気なく顔を見せ、歌劇の序曲のような役割を受け持っている。

開巻冒頭の「長い間、私は夜早く床に就くのだった。」で始まる、いくつもの土地での眠れぬ夜の回想が、幼い頃、コンブレーで母親のお休みのキスを待ちわびながら、隣人スワンの訪問によって邪魔される思い出を引き寄せ、全編を通じて重要な役割を果たすスワンとその妻オデット、そして娘のジルベルトが紹介される。また、有名な紅茶に浸したプチット・マドレーヌの香りが呼び覚ますレオニ叔母や家政婦のフランソワーズ、それに祖母や父の肖像が綴られる。過去を思い出そうとするとき誰もが頼る記憶ではなく、香りのような感覚的刺激がきっかけとなって思いもかけず開示される「無意識的記憶」こそが「失われたとき」を甦らせるというのがこの長大な作品を貫く作者の主張である。

パリから遠く離れたコンブレーでは、隣人として私の叔母の家を訪れる数少ない客であったスワンだが、絵画に造詣が深く、洗練された彼はブルジョワでありながら一流貴族のサロンで人気者であった。が、高級娼婦オデットを妻に迎えることで、より格の下がったサロンしか出入りできなくなってしまう。社交界に生きる人の位置の微妙さを体現する人物がスワンである。『失われた時を求めて』は恋愛小説である。オデットに対する若きスワンの恋の顛末を描いた第二部「スワンの恋」は、「私」が後に恋することになるアルベルチーヌとの恋と相似形を描くことになる。

『失われた時を求めて』は、社交界を抜きにしては語れない。一流貴族の、またそれよりは格が落ちる貴族が主催するサロン、さらには新興階級であるブルジョワが正装抜きで集う、肩肘を張らないサロンを舞台に、それらの間にある格差が生む蔑視や嫉妬、また複数のサロンを往き来する人々の会話から透けて見える思惑などを主たる叙述の対照としている。作者の辛辣な人間観察が光る、読み物としての面白さを添えるのが社交界小説としての一面である。

『失われた時を求めて』は、芸術家小説でもある。スワンが来ると早く床に就かされる私は、スワンに関していい印象を持てなかったが、尊敬する作家ベルゴットの知人であることが分かるとその印象は逆転する。ベルゴットこそ、私が憧れている人物だからである。ベルゴットや彼を認めない父の友人ノルポワ氏、それに話者の語る文学論や芸術論がなければ、『失われた時を求めて』の魅力は半減するだろう。

「スワン家の方」というのは、コンブレーでの家族の散歩コースの名である。今ひとつが、その反対方向にあたる「ゲルマントの方」で、これは、第三編の標題となっている。スワンがユダヤ人やブルジョワを象徴するとすれば、ゲルマントは、由緒正しい上流貴族を象徴している。やがて「私」がその中に入っていく社交界の両極を意味する二つの名だが、第一編では少年期の「私」がその美しく心慰む風景を愛で、文章化したいと思う対象として存在している。ジルベルトと出会うサンザシの咲く垣根や、モネの「睡蓮」連作を思い出させる河岸の描写は比喩が比喩を呼ぶ独特の技法でプルーストの面目躍如といった観がある。

少年期の回想を中心に据えた第一編「スワン家の方へ」は、瑞々しい抒情性を湛えた自然描写、家族や客はもとより使用人にまで至る多くの人物の造型とその心理分析、さらには教会建築や絵画に対する美術批評と、多面的な魅力を見せる。大長編小説の第一編として、次の展開を期待させるに充分な仕上がりとなっている。

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