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 2007/9/9 『先生とわたし』 四方田犬彦 新潮社

一気に読了したが、途中何度か鼻の奥がつーんとなった。

人は誰でも人生のどこかで師と呼べる人と出会う。どんな師と出会うかは、弟子の資質にもよるだろうが。優れた師と出会い、その薫陶を受けながらも、やがて齟齬が生じ、思いもかけぬ別れが来る。誰にもある経験だが、その経験をどう自分のものにするかが、問題である。

由良君美という名前をご存知だろうか。70年代、幻想怪奇文学が脚光を浴び、大小を問わぬ出版社から様々な企画の選集やアンソロジーが相次いで出版されたが、その水先案内人として、仏文学の澁澤龍彦、独文学の種村季弘と並び称されたのが、英文学における由良君美だった。

愛書家、蔵書家としても夙に有名で、試みに、書架をあたってみると由良が携わっていた雑誌「牧神」の創刊号を飾る口絵写真(ベックフォードの『ヴァテック』やウォルポールの『オトラント城』)には「旧都艸堂架蔵本」という注記がある。つまり、由良君美が買い集めた洋書の一部である。

パイプを燻らせ、優雅な口調で教壇に立つ由良君美は、サイードを無名のうちから「見ててごらん。いずれこの人はスゴイことを仕出かすよ。」と、学生に話すなど、時代の先端を行く思潮に鋭敏な眼を持つ学者であった。講義の終わった後、研究室で紅茶を飲みながらゼミ生相手に、一週間の収穫を聞いては、関連する洋書を貸し与えて読ませてしまうという魅力ある師であったようだ。特に、厖大な知識量と、派閥横断的な教養の深さは他の教師陣とは一線を画していた。学生当時の目線で、気鋭の英文学者の姿を憧憬の眼差しで仰ぎ見るように描くこのあたりの描写は読んでいて愉しい。

反面、生粋の東大出身者でない由良は学内では力を持たず冷遇されていたようだ。自らの語学力を恃み、歯に衣を着せず他の英文学者の誤りを追究する由良の姿勢は仲間に疎まれてもいた。小林秀雄、吉本隆明、江藤淳の三人を方法論を欠いた印象批評家として認めず、書評家として独自の論陣を張るも、英文学界では孤立していった。いつしかアルコールの量が増え、それとともに、座談中に見せたかつての精彩が消えていくことに弟子は心配しながらもどうすることもできなかった。

由良の父は西田幾多郎の弟子でドイツ留学を果たし、カッシーラーに師事するなど、将来を嘱望されていたが、帰国後は時代の波に乗り、ナチスに傾倒したため、戦後は日の眼を見ることがなかった。その出自から師の屈折した自我を読み解いていく弟子の筆は過去の経緯を括弧に括った客観的なものだ。留学経験がなく、海外事情に疎い師は、弟子が海外に出はじめてから次第に距離を置くようになり、やがて、酒場での不幸な出会いを生む。そのとき、師は、「きみは最近、僕の悪口ばかりいい回っているそうだな。」と言い、弟子の腹を拳で殴ったのだ。

「われわれは、師とは過ちを犯しやすいものであるということを見てきた。嫉妬、虚栄、虚偽、背信がほとんど避けがたく忍び寄ってくる。」というのが、スタイナーが、『師の教え』の最後に書きつけた一文である。四方田は、スタイナーと山折の著作を手がかりに師と自分の間に起きたことを理解しようとする。それだけではない。今や、師の立場に立つ者として、かつての自分がいかに弟子の立場からしか師を見なかったかを悟る。末尾、富士の見える墓所に詣で、水代わりのカップ酒を師の墓に手向ける四方田の姿は限りなく哀切である。

四方田犬彦が、あの由良君美のゼミ生で、高山宏と並んで東大駒場時代、愛弟子の一人と目されていたことはこの本を読むまで知らなかった。『先生とわたし』は、知の巨人的な相貌を持つ師との出会いにはじまり、衝突事故のような事件の後、何年かの途絶期間を経、師の死を契機にして和解へと至る「師弟の物語」として読める。一方、由良の出自を探り、その系譜を丹念に辿るあたりは由良の評伝とも読めるが、裏返して読めば1970年代という一つの時代を東大生として過ごした著者自身の自伝にもなっている。しかも、間奏曲として由良が日本に紹介したジョ−ジ・スタイナーの『師の教え』と宗教学者山折哲雄の『教えること、裏切られること』の二冊を援用して記される「師弟論」をあえて挿入することで、本論と挿話の位置が逆転し、この一冊は「師弟論」についての卓抜な評論に転化してしまうという、四方田らしい手の込んだ作品になり果せている。

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 2007/9/2 『賜物』 ウラジーミル・ナボコフ 白水社

『賜物』は、ナボコフがロシア語で書いた最後の長編小説である。舞台になっているのは1920年代のベルリン。主人公のフョードルは、文学を志す青年である。彼の父は有名な学者であり探検家でもあったが蝶の採集旅行中に中央アジアで消息を絶った。母と姉を亡命先のパリに残し、青年は一人ベルリンで、文学修行中である。小説は、フョードルの文学的成長と一人の女性との恋愛をからませながら、やがて彼が書くことになる一編の小説を暗示して終わる。

主人公の視点で描かれる、当時のベルリン市街の情景が、ドイツ嫌いであるにもかかわらず、青年らしい瑞々しい筆致で浮かび上がり、読者はまるで現実の二十世紀初頭のベルリンの街に入りこんでしまったように感じさせられる。それでいて、いつの間にかグリューネバルトの森は青年の故郷ペテルブルグにある領地レシノの記憶に置き換えられている事に読者は気づくことになる。フョ−ドルは紅茶もマドレーヌもなしに、絶えず回想の光景の中に入りこんでしまう。

故郷喪失者として、フョードルは、いつもロシアから離れられない。それと、父が一緒にいた幼い頃の記憶が、彼の文学の通奏低音となる。第一章は、フョードルの詩を主題にしているが、その中に「失われたボール」と「見出されたボール」という詩句が登場する。プルースト的主題の暗示であろう。第二章では、遺された父に関する資料をもとに、父の愛したプーシキンを意識しながら、中央アジア探検の旅を描き出そうと試みる。天山山脈やゴビ沙獏を行く父の探検旅行には、いつしか「僕」の分身が紛れ込み、主人公の眼で描かれる中国辺境の地の光景は異国趣味的発想が横溢し、カルヴィーノがマルコ・ポーロの旅を換骨奪胎した奇譚『見えない都市』を髣髴とさせる。

ナボコフは、作家志望の青年を主人公に据えることで、ロシア文学という副主題を持ち込むことに成功している。主人公が出入りする亡命ロシア人文学サロンの仲間との対話を通じて、あるいは、フョードルの独白や作品に、プーシキンやゴーゴリと言ったロシアを代表する文学者の主題を自在に展開している(当然ドストエフスキーは罵倒されている)。そればかりではない。何と、フョードルが書いた作品として第四章まるまるを、チェルヌイシェーフスキー(ロシアの評論家、革命家)の評伝にあてているのである。読者は、これ一冊でロシア文学を総ざらいすることができるわけだ。丸谷才一が、この手法を愛で、自作に採り入れたのが『輝く日の宮』である。

運命に操られた男女がすれちがいを繰り返しながらも、最後に出会うというモチーフは、ナボコフ偏愛のものらしく『ディフェンス』にも用いられていたが、ここでも、フョードルと下宿の娘ツィーナとの出会いは、運命ならぬ作者ナボコフの手によって、何度もすれちがいを演じさせられている。読者は、最終章の二人の会話から、それまで何度も彼らが、出会うチャンスを逸してきたことを知らされ呆気にとられる。よく読んでみれば、初読の際にはまず読み過ごすであろうというさり気ない叙述の仕方でヒントを与えられていたのだ。ナボコフのほくそ笑むのが見えるようだ。

「気がつかずに通り過ぎてしまいそうな細部が、別の場所で再現反復されたり、他の細部と照応したりする」手法はここでも健在で、下宿の淡黄色の地にチューリップを描いた壁紙が、女性の服地になったり、第一章で知人の息子の自殺現場に居合わせたセッター犬を連れた建築家が、最終章で、フョードルが日光浴している同じグリューネバルトの森に律儀にも顔を見せたりしている。

その森に向かう途上、主人公の目を通して、読者は興味深い少女の姿を見ることになる。「するとそこに少女がひとり牛乳瓶を下げてフョードルの方に向かって歩いてきた。彼女はどこかツィーナに似ていた。いや、むしろ彼が多くの娘の中に感じるだけの個性的であると同時に非個性的なあの独特の魅力を、彼女も少し持っているだけのことだった。(中略)そして彼女の後ろ姿をふり返って、彼がいつも夢みている、美しい、移ろいやすい体の輪郭の線を、たちまちのうちに永遠に消え失せる美しい輪郭の線をじっと目で追っていると、癒しようのない、しかも癒しがたさにこそ魅力と贅沢さが隠れているあの欲望の衝動を瞬間感じるのだった。」

この口吻にハンバート・ハンバートの息づかいを感じるのは評者だけだろうか。主人公のフョードルは、蝶と詩作を好み、チェス・プロブレム好き、ベルリンにいたのも同時代ということで、主人公と作者を同一視しないよう、「はしがき」で作者ナボコフはわざわざ注意している。とすれば、後年、アメリカに渡ってから描かれることになる『ロリータ』の主人公、あのハンバートはヨーロッパ時代、こんなところにひっそりと隠れ住んでいたのである。

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