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 2007/1/28 『紙の空から』 柴田元幸編訳 晶文社

「すべての物語は何らかの意味で旅の物語であり、どんなに現実的で日常的な情景が描かれていようと、それはいわゆる現実や日常とはどこか違った<もう一つの国>なのだし、そもそも読み手にしてみれば、物語を読むという営み自体、どんな物語であれ、一種旅に出るようなものだと言うことができるだろう。」

「訳者あとがき」からの引用だが、あらためて言われるまでもなく、私たちは書斎の中であれ、移動中の電車の中であれ、物語を読んでいるときは、現実に自分が生きている世界とは違った時間、違った場所に生きている。問題は文句なしに別世界に行ける作品と、そうすんなりとは行かしてくれない作品があって、私たちは、どうにかして、今まで見たこともないような<もう一つの国>にまちがいなく行ける切符を手にする機会はないものかとつねに本屋や図書館の棚、ウェブサイトの中をうろつき回っているということなのだ。

手がかりになるのは読み巧者が見つけてくる情報なのだが、外国文学の場合、翻訳者が水先案内人であることが多い。優れた訳者は下手な作家より、よっぽど鋭い感性を持っている。そういう翻訳者を何人か知っていれば、見知らぬ国の作家が描き出す<もう一つの国>への切符はなかば手に入ったようなものだ。柴田元幸氏は、その中でも第一人者である。

いつの頃よりか、これはと思った外国文学の訳者が多く柴田氏であることに気がついた。それからは、訳者が柴田氏であれば、作家の名前は知らなくとも、まずは読んでみることにしている。そして、ほとんど期待が裏切られたことはない。今回の作品は英語で書かれた旅にまつわる短編小説のアンソロジーである。

冒頭に置かれた「ブレシアの飛行機」はガイ・ダヴェンポートの作品。友人のマックス・ブロートとイタリアの航空ショーを見に行った事実をカフカが書いた短い文章をもとにした同名の架空の旅行記である。現実と虚構が綯い交ぜになった記述に眩暈に似た感覚を覚えるが、その裡に知らぬ間に別世界に飛ばされてしまっている自分に気がつく。

訳者お気に入りのスティーヴン・ミルハウザーの手になる「空飛ぶ絨毯」は、子どもの頃の夏休みに寄せる思い、少年の成長と引き替えにもたらされる喪失感を、独特の超現実主義的技巧でもって鮮やかに描ききった佳作。まさに紙上フライトの感あり。

50年代のシカゴの下町を描かせたらこの人の右に出る者はいないというスチュアート・ダイベックが書いたのは、「パラツキーマン」。パラツキーとは、ウェハース二枚を蜂蜜で貼り合わせたもの。屑拾いや行商人の後をつけたがる子どもは洋の東西を問わず多いらしい。異世界への通り道を見つけてしまった兄弟の不思議な体験を描いた幻想的な作品。

影の薄い町の住人が、丘の上に買った敷地に塀を建て始めた。中国人の職人を使い、その中で何をやっているのか町の人たちはいぶかしがるが、やがて当人は死ぬ。未亡人が指揮して塀を取り壊すとそこには…。アイロニーに満ちた奇妙な味わいを漂わせる、ピーター・ケアリーによる「アメリカン・ドリームズ」。

ほかに、『コーネルの箱』で知られるジョゼフ・コーネルの作品に霊感を受けて書かれたというロバート・クーヴァーの「グランドホテル夜の旅」、「グランドホテル・ペニーアーケード」。ハワード・ネメロフの「夢博物館」は自分の夢を蒐集した博物館を建てた男の話。掉尾を飾るカズオ・イシグロの「日の暮れた村」など。どれも瞬時の裡に<もう一つの国>にあなたを連れ去ってくれることまちがいなしの逸品ぞろい。できれば、夜更け、静かな部屋で独り読んでいただきたい。


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 2007/1/27 『運命論者ジャックとその主人』 ドニ・ディドロ 白水社

新訳ブームである。村上春樹訳の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』をはじめ、少し前に出版された海外の文学作品が、新しい訳者を得ることで、新しい読者を開拓しているようだ。さらには、かつての読者が旧訳と新訳を読み比べる愉しみも付け加わる。いいことずくめである。この本も新しい訳が出なければ、手に取ってみる気などおきなかった類の本だ。

『運命論者ジャックとその主人』は、18世紀フランスの哲学者で、「百科全書」の著者ディドロが、主にヨーロッパの王侯貴族の間で回覧されていた雑誌『文芸通信』に連載した小説である。目的も行き先も定かでない旅の途上で話される逸話は滑稽譚あり、艶笑譚あり、復讐譚あり。語り手もジャックとその主人に旅籠のおかみもまじり、登場する階層も民衆、貴族、聖職者と様々。とりわけて筋らしいもののないおよそ小説らしくない小説というあたりが一般的な受けとり方だろう。

ところが、である。「プラハの春」勃発によりフランス亡命中のミラン・クンデラが、依頼を受けたドストエフスキーの戯曲化を蹴り、『運命論者ジャックとその主人』を選んだあたりから風向きが変わってきた(詳しくは丸谷才一氏が毎日新聞の書評で採り上げているのでそちらをお読み下さい)。反小説というのか、メタ小説というべきか、語り手が話者の役割を超えて、やたらにしゃしゃり出ては、聴き手(読者)と対話を始める。たとえば、書き出しからして次のようにはじまる。

二人はどんなふうに出会ったのですか?みんなと同じく、ほんの偶然に。二人の名前は?それがあなたになんの関係があるんです?二人はどこから来たのですか?すぐ近くの場所から。二人はどこへ行くところだったのですか?人は自分がどこへ行くのかなんてことを知ってるものでしょうか?

一貫しているのは、ジャックの恋愛話をその主人が聞くという構図だ。しかし、ジャックはおしゃべりなくせに同じ話を続けるのは嫌という癖の持ち主。聞きたがりやの主人はなんとか話を続けさせようとするのだが、話は、脱線を繰り返すばかり。脱線といえば、ローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』が有名だが、自伝の語り手が自分の出自を物語るために誕生ではなく、精子の射精から始めるという「トリストラム」と、自分の恋愛話を聞きたがる主人に、まず膝に受けた鉄砲玉の由来から語り始めるジャックは、たしかによく似ている。

スターンの影響を受けたのはたしかだと思うが、18世紀は百科全書的な知を求める啓蒙的な空気が漂いはじめた時代。何かを知ろうと思えば、徹底的に追及しなければ止まないという姿勢は両者に共通する時代の空気のようなものではなかったか。一つの挿話から別の挿話が始まるというスタイルは『千一夜物語』でも多用される「入れ子」状の階層構造だが、ウェブ上のテキストにリンクを貼るのも似たようなものである。「百科全書」執筆中のディドロはまさにそういう状態にあったと想像される。

『運命論者ジャックとその主人』という、主人より従者を先にしたタイトルのつけ方が振るっている。話の中で、不遜な従者に腹を立て、ベッドから降りろと命じる主人に対して、ジャックは従うどころか平然として、事実上は私こそが主人で、私がいなくては何もできないあなたの方が従者なのだと言い返している。事実、勃興するブルジョア階級に向けて書かれたディドロの『百科全書』は、フランス革命を準備したとも言われている。

話の中には聖職者の身でありながら次々と女を食い物にし、奸計を用いては難を逃れ修道院長にまで登りつめるユドソンや、男に振られたのを遺恨に思い、念入りに計画を練って復讐を実行するド・ラ・ポムレー夫人のような印象深い人物も登場するが、運命論者を自称しながらそれに矛盾した言動を繰り返すジャックとその主人の対話にこそ妙味がある。過度に情緒的になることを避け、一歩引いたところで事態を知的に眺める作者の姿勢がクンデラのような小説読みを魅了するのだろう。共同作業の翻訳らしいが、必要以上にくだけない自然な現代日本語に訳されていて読みやすい。

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 2007/1/14 『邪魅の雫』 京極夏彦 講談社

なんだか、勝手がちがう。煉瓦本というのだったかな、ノヴェルズの体裁で厚さが4センチ強。厚みはいつもと同じなのに、手にした感触が軽いのだ。舞台が大磯、平塚という海に面して開かれている土地だからというわけでもないだろうが、禍々しさも足りない。ひとくちでいえば物足りない。世界が濃密に構築されていない。

一番の原因は、役者が揃っていないことだろう。榎木津や木場修といった濃いキャラクターがちらっとしか顔を見せず、狂言回しを務めるのは、木場修の後輩で青木という刑事と以前は刑事で今は榎木津の下で探偵をやっている益田。関口も登場するが、それまでの巻き込まれ形のキャラクターはすっかり影をひそめ、傍観者としてお付き合い程度の登場だ。これでは、話が面白くなろうはずがない。

事件は青酸カリに似た毒物による連続殺人だが、犯人と目星をつけた人物が次々と毒殺されていくのに、警察は何一つ効果的な対策をとることができない。青木と益田はそれぞれ京極堂を訪ねることで、事件の周縁部には達するのだが、後手後手に回る裡に6人もの人物が殺されてしまう。最後はいつものように京極堂が登場し事件は解決するのだが、京極堂の憑き物落としも心なしかあっさりしているような気がする。

凶器が毒物だけに事件の背後に帝銀事件や七三一部隊の影がちらつくが、事件の核心はそれらとはちがうところにある。キイワードは世間。人間が何人か集まればそこには世間ができあがるが、同じ人物が関係していても相手が変わったり場面が変わったりすれば、そこにはまた別の世間が作られる。それらは決して社会を構成することなく、そこだけに作られた小さな世間でしかない。しかし、人はともすれば狭小な世間を世界と勘違いし、愚かな行動を起こしてしまうものだ。

相変わらず、時空を超越したかのように「受容理論」を引用して書評について講義する中禅寺秋彦のテクスト論やベルクソン譲りの時間論、それに柳田國男張りの「世間」話についての長広舌が、ともすれば平板になりがちな刑事事件の解決に新しい光を導き入れ、京極夏彦らしい世界を垣間見せるのだが、それらは事件を解釈する際の蒙を啓く助けにはなっても、事件を解決するものではない。事件を一気に解決するには、「探偵」が必要なのだ。その探偵榎木津が、理由はあるにせよ、いつもの生彩を欠いていては、事件はいつまでたっても解決しない。京極堂が探偵の代理を務めるなど笑止である。

犯人及び関係者のモノローグを多用し、よく読めば、事実にたどり着けるような配慮はなされているが、「殺人」の動機も微妙だし、人物関係が不必要なまでに錯綜しすぎていて、読み終えた後でもすっきりしない。京極堂に言わせれば、こちらの頭が悪いからだろうが、これまでの京極作品には、こんな読後感は持たなかった。どんなに入り組んだ事件であっても、中禅寺の登場によって快刀乱麻を断つようにすっきりしたものだ。それに、これは評者個人の感想だが、読後、読んでいる者にも憑き物が落ちたような独特の清涼感があったものだが、今回の作品ではそれが感じられなかった。次回作では個性的なキャラクターが活躍することを期待したいものだ。


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 2007/1/6 『コレラの時代の愛』 G・ガルシア=マルケス 新潮社

相継いで出版された同じ作者の小説『わが悲しき娼婦たちの思い出』が、回想録風の裃を脱いだ形式で書かれていたのに比べ、よく似たエピソード(老人の性愛という主題)を扱いながら、全知視点を採用し時間、空間も格段に大きく展開した本作は本格的な長編小説になっている。もともと語り口の巧さでは定評のあるマルケスだが、『百年の孤独』以来彼を指す代名詞となった感のあるマジック・リアリズムの技法を封印し、19世紀リアリズム小説的技法でもって書かれた本作でも、嘘のような話を現実的な世界の中に投げ込んで違和感なく読ませてしまうという超絶技巧を駆使している。

一度ページを開いたが最後、終わりまで一気に読み通してしまう。そうして、また始めに戻って、今度は、ストーリーを追うことにせかされることなく、地図や年表、動植物図鑑等の資料を傍らに置き(コルトー、チボーなどの古い音源を用意できればなお良し)、もう一度じっくり味読するのに向いた贅沢な一冊になっている。これほどの作品が、1985年に出版されながら、なぜ今まで邦訳されなかったのか疑問を抱きたくなるほどの出来映え。

時は1860年代から1930年代にかけて。舞台はカリブ海に面したマグダレーナ川流域の地方都市。英雄シモン・ボリーバルの活躍により宗主国スペインからの解放を果たした南米コロンビアだが、独立後半世紀近くたち、汽船、電信などの新技術を梃子に成り上がる新興階級と没落する上流貴族との対立交代が目立ち始めている。丘の上にはヨーロッパから輸入した家具や工芸品で飾られた美麗な邸宅が建ち並ぶ一方で、海岸に面した沼沢地帯には下水が流れ込み、鼠が繁殖し、川にはコレラの死体が浮かぶという富貴と貧困、美と醜、没落と活気が対比をなし、劇的緊張を高める。

主たる登場人物は、上流出身の医学博士フベナル・ウルビーノ、その妻フェルミーナ・ダーサ、それに私生児で後に郵船会社社長にまで登りつめるフロレンティーノ・アリーサの三人である。フロレンティーノ・アリーサは少年だった頃、電報を配達したダーサ家でフェルミーナを垣間見て以来恋に落ちる。手紙攻撃が功を奏して一時は婚約にまで至るもののフェルミーナの父親の反対で会えなくなる。冷却期間を置いてみると、フェルミーナはかつての婚約者が影の薄い男にみえ婚約を解消する。父の勧めでヨーロッパ帰りの医師フベナル・ウルビーノと結婚。幸せな結婚生活は続き、子や孫を得た現在は社会福祉に貢献する町の上流人士の妻であり、一家の采配を振るう賢夫人である。

話は、フベナル・ウルビーノの急死によって引き起こされる。その死をずっと待ち望んでいたフロレンティーノ・アリーサは、葬儀の後、51年9か月と4日というもの、ずっと変わらず持ち続けてきた愛を未亡人に告げる。そのあまりの非常識に激怒した未亡人はフロレンティーノを追い払うが、彼は手紙を書き続ける。昔の熱に浮かされたような調子ではなく、これからの人生をどう生きるべきかを切々と説くその手紙に心うたれたフェルミーナは彼を受け容れる。果ては、二人してマグダレーナ川往復の船旅に出るのだった。

こう書いてしまうと、なあんだと思われるかも知れないが、19世紀リアリズム小説的技法を駆使しながらもそこはマルケス。ストーリーは一気には展開しない。様々な障碍が待ち受け、隘路に分け入り、行きつ戻りつを繰り返す。一癖も二癖もある多くの個性に溢れた魅力的な人物が登場し、物語に強烈な色を添える。フベナル・ウルビーノが初めて登場する幕開けから、スラップ・スティック調のドタバタ劇が繰り返し、荘重な場面に猥雑かつ滑稽な雰囲気を醸成する。

妄想とさえ言える愛の奇跡的な成就を描いた恋愛譚とも読めるし、70歳を過ぎても性愛から逃れられない人間の業を描いたものとも読める。しかし、60歳を迎えることを拒否して自殺する老アナーキストの死で幕を開けたドラマが、紆余曲折を経ながら、70歳をこえた男女が同衾を持続するため、コレラ患者がいることを示す偽の旗を揚げて、川を往復し続けるという破天荒な終幕に至るまで、作品を貫いているのは、ヘーゲルの言う「美しい魂」に拘ることで成熟を拒否することの虚しさであり、愚直なまでに相手との関係を求め、そのためにこそ自己を形作ることの大切さではなかろうか。読み終えた後に残る、人間という存在に感じる愛おしさこそ、本作最大の妙味である。

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