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 2006/12/24 『わが悲しき娼婦たちの思い出』 G・ガルシア=マルケス 新潮社

まず状況設定が面白い。九十歳の老人が十四歳の少女に恋をする。それも相手は眠ったままという、普通だったら考えられない途方もない状況を、何でもないありふれた日常を語るように淡々と綴っていくその様にマジック・リアリズムの神髄を見る思いがする。

次に、下手をしたら野卑になりかねない老人の私娼窟通いの日々を、ラテン・アメリカらしい明るさに満ちた祝祭的な雰囲気の中に置くことで、陰惨さのかけらもないおおらかで幸福感に溢れた仕上がりになっていること。読後感が爽やかで、読者を元気にさせてくれる。

それに、主人公の人物造型が実に魅力的だ。容貌は冴えないが、馬並みの一物を持ち、若い頃から娼婦のもとに通い詰め、五百人を超える女と相手をしたというカサノバ級の猛者でありながら、音楽と古典文学に造型が深く、外国語に堪能でその特技を生かして長い間新聞記者として、文化欄のコラムを担当するという表向きの顔も持っている。長年に渉って、物を書いてきたことにより老コラムニストは、周囲の敬愛を受けている。

この「博士」が、九十歳の誕生日を迎えようとする前日の朝、突然神の啓示のように「満九十歳の誕生日に、うら若い処女を狂ったように愛して、自分の誕生祝いにしよう」という思いつきを得たのが、ことのはじまりである。古馴染みで政界にも顔の利く私娼窟の女主人を介して、十四歳の処女を紹介してもらうのだが、薬を飲んで眠っている少女の健康的で美しいからだと裏腹な身なりの貧しさに感情を揺さぶられ、何もせずに眠るのだった。

その日を境に、老人は自分の部屋にいても少女が傍らにいるような気がしてならない。九十歳にして初恋を経験したのだ。臆病な性格で恋愛には不向きだと自らを律し、表向きはモラリストを演じ、性欲は金で解決してきた男が、九十歳を前にしてやっと、自分の真の姿を発見し、それと和解するという幸福なストーリー展開。

言うまでもなく川端康成の『眠れる美女』から設定を借りて書かれた作品だが、じめじめした日の当たらない島国から雨季と乾季の劇的に転換する新大陸に移植された植物が大輪の花を咲かせたように、まったく別の物語になっている点が見事。

魅力的な登場人物には、事欠かないが、私娼窟を営むローサ・カバルカスは、戦友にも似た立場で老人の再生劇を傍らで見守る。また、古いなじみの娼婦で、老人の性技だけでなく人間的な魅力をよく知るカシルダ・アルメンダは、少女に会えぬことで悩む老人を慰める。二人の港での語らいは、しみじみとした余韻を残す。

若い頃からいる家政婦のダミアーナは老人に処女を奪われて以来、ずっと老人を慕い続けてきた。「もし結婚していたらいい夫婦になっていただろうな」という老人に「今さらそう言われても」と応えるのだが、しばらくしてから、家中いたるところに真っ赤なバラの鉢植えが置かれ、枕許のカードには「ひゃくさいまで長生きされますように」の言葉が。

胎児の恰好をして眠る少女は九十歳にして青年のように甦る老人の「死と再生」の隠喩だろう。少女デルガディーナが、眠りながら老人の愛撫やキスに応え、瞬く間に女として成長し美しくなっていくあたりの描写は『百年の孤独』を思い出させる魔術的な文章詐術で、南米コロンビアのうだるような熱さや、嵐のようなスコールを描く筆とともに文章に酔わされる思いが深い。何度でも読み返したくなる一冊である。

 2006/12/3 『文学全集を立ちあげる』 丸谷才一 鹿島茂 三浦雅士 文藝春秋

文学全集が売れないという。そりゃそうだろう。百科事典も同じで、1セット置くだけで書棚が半分ふさがってしまう。しかし、あれは便利だった。評者の一人鹿島茂も言っているが、家に本のない者にとっては、片端から読んでいくことで、文学の世界を鳥瞰できる仕掛けになっていた。

また、丸谷才一がいみじくも喝破した通り、文学全集はキャノンとしての役割をもつ。キャノンとは、規範の意を示すギリシャ語で、キリスト教では外典に対する聖典を意味するが、文学的には偉大な作品として価値を認められている作品群を指す。つまり、巻数が限られる全集の中に誰のどの作品を入れるかは大事な問題で、結果として選りすぐったキャノンの集まったものが世界文学全集なのである。

ところが、近頃の新人作家は、昔の作品をほとんど読んでいない。その結果、書けることを書いてしまうともう書くことがなくなってしまうという。小説の骨法を学ぶためにも文学全集は必要だということになる。ところで、それまでの文学全集の構成は倫理的、求道的な姿勢が目立つこともあり、現代ではそこが敬遠されやすい。

そこで、今までの全集が採り上げなかった周縁の文学、少年少女小説やSF、推理小説なども積極的に入れた新しい架空の文学全集を作ろうというのが、この企画である。いずれ劣らぬ博学多才の三人が、それぞれの蘊蓄を傾けての文学談義だからこれが面白くないはずがない。そこに、今考えられる最上の文学全集を選ぶという目的が加わるのだから、放談に終わらぬ真剣さが伝わってくる。英文学好きの丸谷、仏文の鹿島、独文の三浦と互いの主張を譲らず、ネゴシエーションの様相を呈する。どんな全集ができあがることやら。

結果的には世界133卷と日本84卷の文学全集の見立て一覧がそれぞれの編の末尾に附されているので、それを見てもらえば一目瞭然だが、まず、読んで面白いと思える作品が重視されている。ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』が落ちて、サド『悪徳の栄え』やレアージュ『O嬢の物語』の入った世界文学全集というのは本邦初ではないか。『ファニー・ヒル』も入っているが、そういった類のものばかりではない。

『トリストラム・シャンディ』のスターンや、ウォルター・スコット、ヴァージニア・ウルフ、ジェーン・オースティンにも一巻与えられているし、ウォルポールやベックフォードといったゴシック・ロマンスにも一巻が与えられているなど、ヘッセが落ちているのは、個人的には不満だが、目配りはよく利いている。もちろん、ナボコフは一人で一巻である。

ハメット、チャンドラーで一巻、ヴェルヌ、ルブラン、シムノンで一巻、チェスタトン、ハイスミス、アルレーで一巻、ブラッドベリ、ヴォネガット、ディック、バラードで一巻という周縁の文学編にはSF好きや推理小説ファンの満足した顔が浮かぶようだ。歌謡集には、ボブ・ディランやジョン・レノンの詩篇も入る予定。なお、詩については基本的に対訳付きのパラレル・テキストという編集方針がうれしい。

日本文学全集については触れる紙数がなくなってしまったが、こちらも大胆さにおいては世界文学全集に負けてはいない。ただ、どちらかを選べというなら、この世界文学全集は外せない。ぜひ書斎に置いて、端から読破したいと思わせる内容である。一覧だけでも立ち読みしてみる値打ちがあると思う。三人の丁々発止のやりとりが読みたいと思われる向きには、図書館で借りるという手もある。読書リストとして、最適の一冊。手許に置かれても損はしないと思うが如何。


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