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 2005/1/31 『我もまた渚を枕』 川本三郎 晶文社

東京近郊の町を求めて泊り歩いたひとり旅のエッセイ。
行き先はといえば、船橋、鶴見、大宮などの、特にこれといったところのない、言っては悪いがあまり旅には似つかわしくなさそうなふつうの町が多い。永井荷風や林芙美子の本を書いた人だからか、陋巷趣味というのかあまり人が行きたがらないようなところをわざわざ探し歩いている。

新奇な物を探しているわけではない。小さな駅舎を降りたところにある駅前食堂や昔からある地元の人の行きつけの居酒屋。飲み物はビールかホッピー(実はこれがどういう飲み物かよく知らなかった。この本で採り上げられている首都圏限定の酒類らしい)。肴は刺身でもポテトサラダでもかまわないが、品書きは豊富な方が嬉しい。店の構えは、小体な店と決めている。カウンターが中心で、テーブルがあっても一つか二つ。コの字のカウンターというのもお気に入り。そういう店はひとりの客を大事にするから。

よさそうな店を見つけても、ふりの客が入りにくそうな店はさける。たとえそれが再度の訪問であっても、常連を気取ったり、取材で訪れたような素振りは見せない。話し好きの店主は歓迎だが、聞いた話はその場限りのこととしてあっさりふれるだけ。ルポルタージュをしているわけではない。あくまでも行きずりの旅人でありたい。

それにしても、東京から電車で一時間くらいで行ける町ばかりだ。昼のうちに町に着き、遊郭の跡やら、ドヤ街を歩いて何が楽しいのかと思うのだが、ご当人、平成の荷風を気どっているのか、とんと平気である。化粧っ気のない昼下がりの悪所には夜の街にはない独特の風情があるのかもしれない。寂れた町も多いが、昔ながらの魚屋や八百屋、下駄屋が並ぶ商店街も残っている。そういう場所を好んで歩く。

どうやら1944年生まれの作家の原風景がその辺にあるらしい。廃墟のような遺構を除けば名所旧跡にはまず行かない。こだわりがあるのは、文学作品や作家ゆかりの土地、映画のロケ地くらいか。それにしても、それが目的というほど入れ込みはしない。町に入ってゆくきっかけのようなものだ。めあてはあくまでも町歩き。

昔ながらの商店街をぞめいたり、古本屋で掘り出し物を探したりしながら、楽しみにしている夜のビールを飲む居酒屋を物色しておく。ときには、開いたばかりの銭湯にも出かける。風呂上がりのビールを飲みながら、土地の人たちと世間話。昔の銀幕の女優の話などで盛り上がった後は、素泊まりのビジネスホテルに投宿。バッグに忍ばせてきた本や、古本屋の均一台で見つけたミステリなど読みながら床に就く。

雨の日もまた佳し。白秋が姦通罪に問われた後、ひっそりと暮らしていた三崎を訪ね、城ヶ島で利休鼠の雨に降られる。雨に降られて冷えた体は銭湯で温める。だてにいつも銭湯グッズを持ち歩いているわけではない。行く先々で見つけるのは猫と文学碑。猫好きなのだ。捨て猫を地域の人が地域猫として飼っているのを見て、猫が元気でいる町はいい町だと呟いたりする。文学碑の多い町もお気に入りだ。文化が大事にされているから。芥川の『蜜柑』に、少女が見送りに来た弟たちに汽車の窓から蜜柑を投げる場面がある。見当をつけて行ってみると、何とそこにちゃんと『蜜柑』の碑があるのだ。

下調べもしてあるのだろうが、知識の押し売りがないので、読んでいて気持ちがいい。映画好き、本好きの旅人という一線を越えない。どこに行っても、誰と会っても、自分のペースを守り、土地の人に深入りしすぎず、かといってつれなくもしない、君子の交わりは水の如しというが、絶妙の感覚が、読後さらりとした余韻を残す。
ああ、こんな旅がしてみたいと思うのは私だけではないと思うが、どうだろうか。

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 2005/1/30 『ジョコンダ夫人の肖像』 E・L・カニグズバーグ 岩波書店

一枚の絵に秘められた謎が、数百年もたった後になって現代の作家に物語を書かせる気を起こさせるのだから、『モナリザ』という絵もたいしたものだ。その微笑みについて、モデルの女性について、書かれた文献の数を挙げれば枚挙に暇がない。その上さらに一編を加えるのは屋上屋を架す試みともいえよう。しかし、小品ながらここには、レオナルドの芸術の特徴、そして、天才科学者であり優れた芸術家であったレオナルドという人間についての鋭い分析がある。また、人の美しさというものについての滋味あふれる解釈がある。

もう、何年も前になるが、NHKがイタリア国営放送制作の『レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯』という番組を放送したことがあった。『黄金の七人』で教授役で知られるフィリップ・ルロワがレオナルドを演じていたが、衣裳や大道具に金のかかった丁寧な作りで、愉しみに見ていたものだ。その中にレオナルドの身の回りの世話をするサライという少年が登場する。この作品で狂言回しを務めるのがそのサライである。

手癖の悪い嘘つきの少年の何が気に入ったのか、レオナルドはサライをいつも自分の傍に置いた。ベアトリチェの口を借りて作家はこう語る。レオナルドにはサライの「粗野なところと、無責任さが、必要なの」だと。すべて偉大な芸術には荒々しい要素が必要だが、自意識の過剰なレオナルドにはそれができない。「重要なお客から、重要な主題で、重要な仕事を授けられたりすると、せっかくの素質が金縛りになっちゃうの。自分を出すことより、作品を完璧にしようと必至になっちゃうの」だそうだ。サライはレオナルドが自意識の鎧を脱いで話せる唯一の相手だった。

少年時代にヴェロッキオの工房に徒弟奉公に出されたレオナルドは正式に学んだことがない。才能に恵まれてはいても、ミラノやマントヴァの諸侯の中では、自尊心の高い分だけ佶屈な思いをしていたことだろう。レオナルドの皮膚は薄いのだ。針で突かれるとすぐにぺしゃんこになってしまう。完璧な作品を求めるのはその裏返しに過ぎない。家柄に恵まれながら才気煥発な姉の陰で目立つことなく育ったベアトリチェにはかえってそれがよく理解できた。

当時レオナルドが仕えていたミラノ大公ロドヴィコ・イル・モロは美貌と才気の聞こえ高いイザベラ・デステを妻に欲しがったが、イザベラはマントヴァ公との婚約が決まった後だった。彼がその代わりに得たのは二女のベアトリチェ。姉とはちがい色黒の器量のよくない娘だった。しかし、そのこげ茶色の包み紙の下には「虹のすべての色の細やかな濃淡を見分ける目と、リュートのすべての四分音を聞き分ける耳が」あった。

サライもレオナルドも、正直で快活な性質を持ち、人を愉しくさせる会話のできるベアトリチェが好きになった。レオナルドが足繁く通い詰めるので、人々はそれまで無視していたベアトリチェの部屋を訪れるようになった。誰もがそこでは愉快な時を過ごせたのだ。こらえ性がなく、見栄っ張りではあったが、ミラノ大公は美しい物を見抜く目を持っていた。妻の持つ美質にもやがて気づいた。ベアトリチェは22歳の若さで産褥で死んだが、ミラノ大公は死者を悼み、頭を剃り、立って食事をとったそうだ。

白貂を抱いたチェチリア・ガレラーニの肖像は昨年日本にも紹介されたが、イル・モロも愛した美女を描いたのはレオナルドだった。イザベラは何度も自分の肖像を描くことを求めるが、レオナルドは描こうとはしなかった。マントヴァ公妃の依頼を蹴りながら名もない商人の妻であるジョコンダ夫人の肖像をレオナルドはなぜ描いたのか。終章、夫に連れられて工房を訪れたリザ夫人を見たサライの言葉を引こう。

「この人は自分が美しくないことを知っていて、それをわきまえながら生きて行くことを知っている人だ。自分自身を受け入れて、そのために、人知れず深く、美しくなった人だ。その人の前に立つと、頭の中にだけあるその人だけの物指しで測られているような気のする、そんな目を持った人だ。人に喜びもあたえられれば、苦しみもあたえられる女性。耐えることができる女性。幾層もの積み重ねを持った女性だ。」

サライがそこに見たのはなつかしいベアトリチェが生きていたら、なったであろう人だった。原題は「The Second Mrs.Giaconda」。自分の容貌が気になりはじめる若い人はもちろんだが、自分の顔に責任を持たねばならなくなった世代にも読んでほしい一編。


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 2005/1/29 『誇り高き王妃』 E・L・カニグズバーグ 岩波書店

12世紀フランスとイギリスを舞台にした歴史物語。主人公は両国の王であるルイ7世とヘンリー2世の二人に嫁いだアキテーヌのエレアノール。12世紀ルネサンスの華とも、娼婦の王妃とも呼ばれる女性だ。稀代の美女であったが贅沢好きで奔放、男勝り。五台の荷馬車に衣裳を積んで十字軍遠征に出かけたという。あの時代、荒くれ男に混じってコンスタンティノープルまで出かける王妃は他にいない。時代の枠に収まらない女性であった。悪評もまた評価のうちである。

才気煥発にして機知横溢、芸術を愛し、しかも美しいエレアノールは父の死により若くしてアキテーヌの領主となり、フランスの王子ルイに嫁ぐ。ルイは敬虔な信者であった。城内の僧院同様の暮らしに飽き足らない王妃は気晴らしに十字軍遠征を思い立つ。しかし、勝手な行動が敗戦を呼び、二人の仲は険悪となる。エレアノールは二人がいとこ同士であるという理由で離婚を申し立て、僅か半年後にイギリス王ヘンリーのもとに嫁ぐ。

美丈夫のヘンリー2世は、エレアノールとはまさにお似合いの二人であった。統治能力に優れた王妃は、豪華な祝宴や行列を演出して民衆を惹きつけ、詩人に伝説のアーサー王の物語を創作させることで、騎士道精神を涵養し、地味な商人の国であるイングランドに宮廷風の文化を根づかせることに成功する。この二人の間に生まれたのが、長男のヘンリー、次男で後に獅子心王と呼ばれることになるリチャード、ジェフリー、それに失地王と呼ばれたジョンである。

王に愛人ができたことやトマス・ベケットの起用に対する見解の相違から二人の中は冷え、王妃は息子たちとともに王に謀反を試みる。その結果が十五年にわたる幽閉生活であった。男たちの対立は国を疲弊させ、やがて、プランタジネット朝は潰える。婚姻による同盟関係とその破棄による戦乱が繰り返される激動の時代を、国と国とのかけひきの道具として扱われた女性の視点で内側から描いた歴史物語である。

語り手が自分の目にした出来事を語るのが物語本来の姿。この作品はその様式を忠実に伝えている。本人の他にそれぞれの時代のエレアノールをよく知るシュジェール大修道院長、マティルダ皇后、最高軍事顧問ウィリアムの三人を語り手に加え、幕間には天国で語らう王妃と三人の合いの手を挿んだ巧みな演劇的構成は、エリザベス朝演劇をグローブ座で見ているようで、歴史を生き生きした人間のドラマに変え、聴衆を飽きさせない。

12世紀。吟遊詩人が旅で見聞きした物珍しい話を歌い上げ、着飾った騎士たちが鎧兜に身を固め、馬上槍試合を繰り広げる。詩人は恋の詩を書き、楽人は竪琴を掻き鳴らす。贅を極めた衣裳で身を飾った美女たちと誉れの武勲を競う騎士たちとの華麗な恋愛遊戯が幕を開けるアーサー王と円卓の騎士の世界。しかし、現実は王子が馬に乗ったまま食事の席に駆けつけ、馬上で物を食べるような狼藉ぶりが許されていた。

詩や音楽を武器にそれらを改め、騎士道精神を現実の世界に行き渡らせたのが誰あろうエレアノールであった。女性が部屋に入ってきたら男性が立ち上がるのも、女性のために男性がドアを開けるのもここから始まったのだ。カニグズバーグの筆は、王妃を少し魅力的に見せ過ぎる嫌いがないでもないが、歴史の陰に埋もれていた女性を生き生きと現代に甦らせた功績は大きい。児童文学の範疇を超えて読まれていい佳作である。


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 2005/1/23 『小林敬生―木口木版画1977−2004―』 滋賀県立近代美術館

木版画といえば、浮世絵が有名だが、よく見ると地の部分に板目模様が浮かび上がっていることがある。これは、木の幹に垂直に鋸を入れて挽いた板に彫るからで、木口木版というのは、幹を輪切りにするように水平に挽いた面(つまり木口)を版木に使う。黄楊や椿のような堅い木材を使用し、ビュランと呼ばれる彫刻刀を使って彫る。硬い版木に極細の刀で彫りつけるので、銅版画のように細密な描写が可能なことから「掌にはいる紙の宝石」と言われる。凸版である木口木版は、彫った線が白くなるところが銅版画とのちがいだ。

図録の解説によると「木口木版は、18世紀末にイギリス人の彫版師トマス・ビュイックが創始した技法で、19世紀に絵入り新聞や書物の挿絵の印刷技術として全盛を極めた。木口木版が発明される以前は、挿絵の印刷には銅版画が用いられてきたが、銅版画は凹版なので、凸版である活字と同時に刷ることができない。ところが、木口木版は、活字と一緒に印刷工程に組み込むことができるため、重宝がられたのである。しかし19世紀末に写真製版の技術が発達し、印刷が機械化されていくにつれて、職人芸に支えられた木口木版は衰退していくことになる。」

消えつつある職人芸というものは何にせよ心惹かれるものだが、限られた大きさの中に稠密な世界を封じ込めることに自らの存在理由を鈎かける木口木版の世界には以前から関心を抱いていた。一つは、その技術の高さ故に。今ひとつはその不自由さ故に。木口であることから版木の大きさは限られる。材質が堅い木というのは年輪の木目が詰まっている訳で、必然的に大木にはならない。しかも、彫りまちがえれば修正がきかない。わざわざ不自由な条件を己に課して表現を志すというストイックな精神に惹かれるのだ。

日本ではほぼ忘れられていた木口木版画を、単なる複製技術ではなく芸術表現の手段にしたのは、日和崎尊夫だが、木口木版作家には日和崎によってこの世界に目覚めたという作家が少なくない。小林敬生もまたその一人である。今回の展示は、初期の頃から現在まで30年に渉る営みを展観しようというもので、主要な作品は網羅されている。制作年代順に並べられた会場を進んでゆけば、作家の軌跡が手に取るように分かる仕組みである。

あえて色を捨象した版画の世界。それだけに限られた画面に物のかたちを浮き上がらせるために傾注される作家のエネルギーには凄まじいものがある。小林の場合、初期の連作『遺された部屋』あたりから、その傾向は始まっている。木の輪郭を生かした丸い断面の中にびっしりと彫り込まれた様々なモチーフは、触感溢れる微小な生物が多い。それら、鱗粉を光らせた蛾、産毛に覆われた雛、蝸牛、飛蝗、といった小さな生物が、細い触手を伸ばす磯巾着状の生物、または毛細血管のように増殖する髭根の間から顔をのぞかせたり飛び回ったりする、暗黒世界のミクロコスモス。

版画家の部屋には蒐集した様々な標本が蔵されていて、深夜の制作に疲れた作家の耳にはそれらの動物の語る声が聞こえてくるという。増殖する根毛や林立する廃墟の塔の間にできた空白に版画家はそれらの生き物を彫り込んでやるのだという。後期になると、飛翔する鳥の種類も増え、猫や兎のような小動物に混じり、類人猿や人間も姿を見せるようになるが、決して進化した動物が中心になることはない。すべては等価であるようだ。ミネルヴァの梟の賢そうな両の眼が画面を注視する観覧者に向けられているのに気づけば、作品に込められた作家の主題も自ずから見えてこようというもの。

小林の木口木版の特徴は、幾つもの版を合わせて一つの版を作る技法や雁皮の表裏両面に刷った版画を上下左右に並べて台紙に貼った「鏡貼り」という技法を抜きにして語ることはできない。木口版画の画面の小ささという枠を破る画期的な試みと言えるだろう。そうして貼り合わされた大きな画面が中心となる後期の作品では、都庁舎のツインタワーや、コンビナート状の工場施設の上に熱帯雨林や原生林の密林が広がり、怪魚や大鴉、蝙蝠が飛び交う、どこかヒエロニムス・ボスの絵を連想させる終末とも原初とも見えるカオス状の地球が描かれることになる。

人間による地球環境の破壊からその再生へ、という祈りが込められたような大画面の版画はたしかに迫力がある。これでもか、これでもかという「鏡貼り」で反転増殖する世界には、よく見るとただの反転でなく、互いに入り組んだり、抜け出たりというまちがい探しにも似た遊び心も含まれ、単純作業では不可能な大作となっている。

それでも見終わって心に残るのは、初期の連作にあった昆虫や魚が空中と水中ともつかぬ不思議な空間に浮遊しているひっそりとした気配が漂う静謐な空間の方である。時間の彼方に置き忘れられたような黒色の勝った画面の中で、微細な生物が、この一点にだけピンで留められたように静止する図柄にこそ、木口木版の生命が宿っているような気がした。


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 2005/1/14 『他者と死者』 内田 樹 海鳥社

出版される本の数こそ多いものの、今の日本で読んでみたいと思わせる物書きはそう多くはない。その中で内田樹にはいつも惹きつけられる。それほど関心のないこと(今回はレヴィナスとラカン)について書かれていても、内田が書くならきっと面白いだろうと思わせられる。それは、内田の思考法が明晰で、説得力に富む話法を持っているからだ。

内田はレヴィナスの「自称弟子」である。当然レヴィナスについての言及も多い。その弟子にしてからが、レヴィナスの書くものはよく分からない、と言う。そのよく分からないものを、難解を持って極まるラカンを引用例証することで読み解いていこうというのが今回の内田の目論見である。一つでは分からなくても分からないものが二つ並べば見えてくるものもある、と言われれば、そんなものかと思わされる。内田の術中にはまったも同然だ。

文明の先進国と思われていたヨーロッパで大虐殺が起きた。ホロコースト以後の西欧知識人は世界の在り方について我々が自明だと思い込んでいる思考法そのものを疑ってかかることから始めなければ、何も語ることができないところに追い込まれていた。レヴィナスもラカンもわざと「分かりにくく書くこと」を通して、単に「理解される」ことを拒否している。彼らが難解な語法で語るのは、自分の足をどこに置き、誰の目で世界や自分を見、誰の言葉で世界を語るのかについて、読者に再検討を迫っているのだ。

私が死んだ後でも「世界」は存在している。それは、人間は先験的に共同体の構成員として存在しているからである。フッサールが先験的相互主観性と言い、ハイデガーが「共存性」と名づけ、レヴィナスによれば「同一性」と呼ばれるのは皆一つの存在の様態を意味している。そして、その「世界」の中にはホロコーストの犠牲者も含まれている。つまり、死者は死者として「世界」に存在している。それが存在論の語法というものである。

9.11以後の世界を見れば明らかなように、「死者たち」は生き残った人々によって「死者として生きること」を余儀なくされている。「死者の遺言執行人」として、アフガニスタンやイラクを爆撃するアメリカをはじめとする諸国も、そのアメリカや他の同盟国に対してテロという行為で報復するイラクをはじめアラブ、イスラム諸国の人々も、同じ大義を掲げているのだ。レヴィナスがしようとしているのは、存在論の語法を打ち切り、「死者をして死なしめる」ことである。

レヴィナスはユダヤ人である。家族は殺されたがフランス軍籍を持つ自分は免れた。そこに私が生き残るために彼らを死に追いやったという自責の念が生じる。私は「死者」の身代わりとして在るのだ。普通、人は死すべき存在であることを忘れて生きている。しかし、皮肉なことに人間が善く生きたいと願うのは死を意識したときだ。レヴィナスは「死者」を「同一性」の中に繰り込むのではなく、「他者」として弔うことで、その身代わりとして「善性」への動機づけを見出したのだ。

今、レヴィナスがあらためて注目を集めているという。世界は「存在論の語法」で語ることを止めず、死者はたびたび召還され、終わりのない暴力の連鎖を生み続ける根拠にされてしまっている。こんな時代だからこそレヴィナスのひそかな声に耳を傾けたくなるのかもしれない。レヴィナスの言葉はラカンのそれと同じく、理解しやすいものではない。「彼らの書物を読む経験は、むしろ私たちを一時的に混沌のうちに導く。しかしその自失や幻惑を経験させることこそが、それらの書物の真に教育的な力なのである」と内田は書いている。

内田の書くものに難点があるとすれば、そこだ。ハイデガーやフッサール、フロイト、ブランショ、カミュと錚々たる顔ぶれを巧みに引用し、自家薬籠中のものである映画の比喩も駆使して書かれたテクストを読むことによって、読者は、なんだかとてもよく分かったような気がしてしまうのである。手応えのある「愉しさ」を感じさせる書物である。

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 2005/1/10 『語りの背景』 加藤典洋 晶文社

本作りには、どうも編集者という存在はかかせないものらしい。いわゆる書き下ろし、というまるまる一本の作品をはじめから最後まで収めた長編小説の場合であっても、作家によっては、執筆過程で何度も編集者の意見を仰いでいたりする。ましてや、この本のように方々に書き散らした解説や月報に載せた文章、あるいは畑違いの方面に首をつっこんで書いた小品などを、それなりに体裁の整った単行本にするには、よき編集者の手を借りなければならないだろう。

自分でもあとがきで、「強面」と思われているらしい、と書いているが、『敗戦後論』は、文芸批評の枠を超えて論議を呼んだ。加藤がその際提起した問題は、それほど突飛なものでもなかったが、戦後を生きてきた作家や文化人の逆鱗に触れたようで、四方八方から批判されたようだ。意見の出し方がナイーブで、むしろ攻撃しやすさを感じさせる部分がこの人にはある。あまり深く突きつめて考えるのではなく、思いつきといっては悪いが、閃きのように感じたものを口に出してしまうような、軽さが感じられる。

そういう自分を加藤自身は「尻切れ」と自嘲しているが、実は日常的に私たちが話していることのほとんどが、最後まで徹底しない、首尾一貫しない論というものではないだろうか。本というものをいつも完成され、それだけで自立したものと考える必要はない。書き散らし、語りかけたまま放り出したようなものには、首尾一貫した論文のようなものにはない、冬の雑木林のような明るさがある。かえってそこに、今という時間を生きている人間が顔を出していたりもする。そういうものばかり読まされても困惑するのだが、たまにそういう物を読むのはそれはそれでまた愉しい。

いろいろなところに書いた短めの文章を丸投げされた編集者は、内容別に分類して五つに分けている。ヘミングウェイ、大岡昇平、そして漱石を扱った少し硬めの作家論。吉本ばななや阿部和重という若い作家や今の時代について書かれた批評。文芸時評。志賀直哉、中原中也、吉本隆明、鶴見俊輔といった私淑してきた作家や思想家についての文章。それに日々の生活にかかわる猫や人、住まいについてのエッセイ、である。

なかでは、「近代日本のリベラリズム―夏目漱石の個人主義」が読み応えがあった。漱石の講演が面白いのはかつて読んで知っていたが、加藤はそれを引用しながら、漱石を「それ以後のリベラルな主義とは違い、ヨーロッパの近代から移入されたという性格を持たない」リベラルな個人主義の出発地点と位置づけている。そして、それが可能となった原因をロンドン留学時の経験に求め「自分の風俗主観から切断され、まったく異質の世界に投げ出された、その『根無し草』性のただなかでつかまれたもの」だという。漱石の講演自体の面白さと、その裏にあった壮絶な格闘の対比が鮮やかな印象を持って迫ってくる。

日本の近現代文学にある程度関心がない人には向いていない。加藤典洋という文芸評論家のファンがどれくらいいるのか知らないが、そう多くもないだろう。そういう意味ではあまり幅広く読まれる本ではない。ただ、一人の評論家が自分を作りあげるのに誰からどんな影響を受けたかを、素直に語っている姿勢に好感を持った。フェルナンド・ペソアや長田弘の詩が好きというところには個人的に共感も感じた。生硬なところの残る文章は、あまり感心しない。もう少し肩の力を抜いて書けないものか、と注文をつけておこう。

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 2005/1/8 『自分と自分以外』 片岡義男 NHKブックス

著書にこんな無雑作な題名をつける作家はあまりいないのではないか。『自分と自分以外』、まるで子どもが考えそうな区分である。芸がないのもはなはだしい、とおこってみても仕方がない。あとがきに「文章による芸を見せるという考え方が僕にはない」と、書いてしまう人なのだ。ストレートに書かれた自分と自分以外のことが、半々くらいの分量になったエッセイ集である。

しかし、やっぱりこの区分ではどうにもならなかったらしく、結果的に子供の頃のこと、仕事をするようになってからのこと、いまの日本についてのことの三つに分かれている。もっとも、この分け方にしたところで、十分に子どもじみているが。最近の片岡は今の日本についての言及が多く、その他の論者にない独自の視点については『影の外に出る』ですでに触れている。

そうした著者独特のものの見方がどこから生まれてきたのかということを知るヒントになるのが、子どもの頃のことを書いた部分である。「子供のままの自分」という文章がある。そこで、彼は自分が、「学校に行きたくない子供」だったと告白している。「小学校一年生として登校した最初の日、ああ、これは僕の好きなところではない、と幼い僕は確信することが出来た」というのが、今の「僕」の記憶であることは差し引いて考えるとしても、小学校、中学校合わせて二百日しか登校していないなら、学校に行かない子供だったと言う資格はある。

学校に行かないためには理由がいる。「僕」は、畑仕事や漁、鶏小屋の世話という家の仕事に時間を費やすことで、学校に行かずにすませたのだ。敗戦直後の混乱期で、東京を離れて祖父の家で暮らしていたから許されたということもあるだろうが、学校に通うことで生じる「無駄な努力やストレス」を最小限にとどめるために働くという決断は並の子どものできることではない。

日本という国の核心を一言で言うなら「人々の生きかたのすべてをを国家が規定してきたこと」だと、片岡は言ってはばからない。学校をいい成績で出て、いい会社に入るという路線を誰もが疑わずに、やみくもに勉強したり、働いたりしてきた結果が今の日本である。それが正しかったかどうか、結果は言うまでもない。

学校に行きたくない子が大きくなれば、会社に勤めたくないと考えても不思議はない。文章を書いて暮らしている今の自分の中に、学校に行かずに鶏小屋の掃除をしている子どもの頃の自分が、そのまま生きていると作家は言う。彼の箪笥の中はシャツとジーンズばかりだ。ファッションではない。それは「作業着」だからだ。片岡義男の「自分」は、そういうふうにして作りあげてきた筋金入りの代物なのである。

会社やそれによって成り立つ国家と一直線に結ばれている日本の学校というシステムを「スレスレ」の線で切り抜け、自分だけを頼りに「自分」の特殊性を磨き上げ、増幅させることで道を開いてきたと作家がいうとき、この「なにものでもない人」の目に見えている日本の姿が他の評者のそれとちがう理由がよく分かった。


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 2005/1/6 『1688年―バロックの世界史像』 ジョン・ウィルズ 原書房

多くの歴史上の人物が登場する。ニュートン、ルイ14世、ピヨトール大帝、井原西鶴、ライプニッツ、康煕帝、それにオレンジ公ウィリアム。これらの有名人にまじって、無名の人々も大勢登場する。それらの人々は直接関係する場合もあるが、そうでない場合の方が多い。しかし、皆ある一点で結ばれている。その一点とは…。

1688年。受験生なら名誉革命の起きた年と答えるだろう。参考書にはそう書かれている。普通、歴史とは時間軸によって構成されている。国家の単位で書かれることが多いから、1688年といえば、イギリス、あるいはオランダについては記述の対象とされるが、それ以外の国や人々が、どこでどんなことを考え、何をしていたのかは知ることができない。

考えてみると、これは不思議なことだ。1688年当時、地球の反対側の出来事を知ろうと思えば、一年はかかったと考えられる。しかし、それでも同時代に人々が世界中にいた事実は変わらない。東インド会社の船は世界の海を航行していた。世界はばらばらに存在していた訳ではない。
今までも、西洋の歴史の本を読んでいる時に、日本の歴史とは比べることはあった。しかし、世界史上の人物や出来事と結びつけながら読むことができなかった。事件は点であり、それを地球儀の経線のように北極点から南極点までを時間で区切った一本の線で表したものでしかなかった。経線と経線は結ばれることがなく互いに無関係に記されていたわけである。

この本の面白さは、その線を横に結んだところ、つまり経線と経線を横に結ぶ線(緯線)を引いたところにある。各国、各都市を結ぶ緯線をどこに設定するのか、それがいちばん問題だったろう。著者が見つけた一点が1688年だった。「バロック」とは、もともと歪んだ真珠を意味する言葉である。均整のとれた状態を美しいと見る古典的な美学に変化が起こり、複雑で動的なリズムを持ったものを美しいと感じる見方が登場した。その時代の美的様式を表す用語として使われるようになったものだ。

この時代がどのようにバロックであったかは、ここに書かれた人々の物語を読んでもらうしかない。こんな歴史書を待っていた、という思いを持つ人が多いのではないだろうか。ピヨトール大帝や太陽王ルイについては、それまで何かで読んだことがあるかもしれないが、当時『文芸共和国便り』という小冊子が急速に発展した郵便制度の普及によって世界各地に読者を持っていたことを知る人は少なかろう。

ロッテルダムに住むピエール・ベールがその編集長兼主筆であった。「読書と思索から生まれた成果を、自分と同じく地味な出自で、地方の環境に身を置く人びとにも広めること」を天職と考えたベールのような人々が、世界中にいた。自分の知り得た知識を広めるために私財をなげうって、自著を一人で出版しようとしていたのである。

この時代、世界は生まれ変わろうとしていた。アフラ・ベーンが『オルノーコ、高貴な奴隷』を出版したのも1688年であった。男性支配からの女性解放を訴えたこの作家のことを、後にヴァージニア・ウルフは書いている。「すべての女性はともにアフラ・ベーンの墓に花を降り注がなければならない。女性に心の内を語る権利をもたらしてくれたのはまさに彼女なのだから」

通信網がこれほど発達し、世界中が蜘蛛の巣状に結ばれているというのに、何故現代世界はこうまで暗く感じられるのだろう。1688年という時代にも読書をし、ノートをとり、自分の考えを人に伝えようとしていた人がいることを知り、勇気づけられた。今の時代や世界の在り方に元気をなくしてしまっている人に特にお薦めしたい。


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 2005/1/5 『灰色の魂』 フィリップ・クローデル みすず書房

時は1917年12月の最初の月曜日、所はフランスの一寒村。居酒屋の看板娘で、その美しさから「昼顔」と呼ばれていた十歳の少女が殺された。現場は村人が「城(シャトー)」と呼ぶ宏大な屋敷近くの岸辺。首を絞められた後で川に投げ込まれたらしい。「城」の当主は近くの市の検察官を務めるピエール=アンジュ・デスティナ。早くに妻を亡くして広い屋敷に僅かな使用人と暮らしている。感情を表に出さず、人付き合いもよくはないが村人には一目置かれていた。

独仏国境近くにある村には、長引く戦争で傷ついた傷病兵が大量に流れ込んでいる。少女殺害の犯人として逮捕されたのは二人の脱走兵だった。一人は自殺し、もう一人は拷問の末に自白。これで解決と考えられたが、実は事件当日「昼顔」と親しげに話をしているデスティナを見た人物がいた。

こう書いてくると、いかにも推理小説めいて聞こえるかも知れない。事実、物語は少女殺害の真犯人をめぐる謎を追う形で展開し、中盤に差し掛かったあたりで、語り手である「私」は刑事であったことが分かってくる。しかし、話者の語りに引き込まれるように読み進めながら感じるのは、謎解き小説を読んでいる時とはまるで異なった感興である。その印象を一言で言えば、いかにも重苦しく暗い。

ついこの間書かれたばかりのはずなのに、まるで19世紀の小説を読んでいるような気がしてくる。それではそれが嫌か、と聞かれるとそれはちがう。近頃ではあまり流行らないらしいが、人生というものの持つ重さや、人と人の出会いの不思議さ、人間の数奇な運命などという一昔前の主題群が、対比を駆使した典型的な人物造型、卓抜な譬喩、陰影を帯びた人生観を感じさせる警句、そして何よりも「民衆的な、時には卑俗とも言える文体と、詩的かつ叙情的な文体の混淆」に支えられて重厚な輝きを帯びて迫ってくるのだ。

小説は、事件の関係者であった元刑事の回想録とも手記ともいえる体裁で展開される。しかし、年老いた男の回想は記憶の小路を彷徨うように往々にして横道に逸れ、時間を遡行し、行きつ戻りつを繰り返し、なかなか謎の解決にはたどり着かない。しかも、男は事件の最中に最愛の妻を死なせるという悔恨を背負ってもいる。人生の終わりに近づいた人間がこれだけは語っておかなければ従容として死の床につくことができない、その謎とは何か。事件に関係する二人の男やもめと、検察官の敷地内の館に住まうことになる美しい女教師の関係はどうなるのか。女教師のモロッコ革の手帖に書かれていた秘密とは。近頃、こんなに読む愉しみを堪能させてくれる小説を読んだことがない。一気に読まされてしまった。

「ろくでなしだろうが、聖人だろうが、そんなのは見たことがないよ。真っ黒だとか、真っ白なものなんてありゃしない、この世にはびこるのは灰色さ。人間も、その魂も同じことさ…」。「泣ける」という触れ込みの本や映画が流行る昨今だが、自分の魂の色も知らずして、手放しで泣いていられるほど、この世界も人間も単純ではない。全編をおおう戦争の影、愛する者を喪失した人間の魂の悲哀を描いて近頃稀に見る力作。人の営みの愛しさが読後にしみじみとした余韻を残す。

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 2005/1/3 『美学とジェンダー』 エリザベス・A・ボールズ ありな書房

フランケンシュタインの怪物は女性だった。そう言うと驚かれるかも知れない。あれはどう見ても男性だった、何しろ花嫁が後に造られようとしたのだから、などとむきになられては困る。もちろん、女性だというのは象徴的な意味合いにおいてである。

ジェンダーという言葉を有名にしたのは、同名のイヴァン・イリイチの著作だった。しかし、イリイチの問題提起は世に容れられたとは言えない。男性や女性という概念が生物学的に所与のものとして存在するのではなく、歴史的、社会的に作りあげられたものであるという「ジェンダー論」の基本的な視点は諒解されたものの、現代の産業資本主義に対して批判的なイリイチが、対向概念としてヨーロッパ中世に由来する相互補完的な非対称性を保持する男性と女性の社会的分業が成立する社会を持ちだしたことによって、保守陣営もフェミニズム陣営も共に敵に回してしまったからである。

イリイチによってノスタルジックに称揚される「ヴァナキュラーなジェンダー」という概念は、男性でもなければ女性でもない中性的な労働者という役割を期待する産業資本主義にとってはとうてい受容しがたい観念であったし、それはまた、第二の性として抑圧され差別されてきた女性の復権を求めるフェミニズムの立場から見ても男女の非対称性(例えば女性用の鎌は男性に比べて小さかった)故に認められるものではなかった。

しかし、ジェンダーによる差を認めないはずの現代社会は、現実的には依然として男性中心社会であり、女性は従属的な位置に甘んじて不遇をかこっている。それ故にジェンダーという言葉は、社会の中で歴史的に女性が男性中心の社会によって、どのようにして女性というジェンダーに縛り付けられてきたかを明らかにする立場から用いられることが多い。本書の筆者ボールズも基本的にはその文脈で使用している。

筆者は、それまであまり日を当てられることのなかった18世紀英国の中産階級に属する女性による旅行記を素材にとり、「ピクチャレスク」という風景の見方を表す美学上の概念を手がかりに、従属的な性であった女性が、書く主体の側に回った時、どんな事態が起きたのかを克明に辿ってゆく。そして、そうした女性たちによって書かれたテクストが織りなした作品として、アン・ラドクリフの『ユードルフォ城の謎』、メアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』を提出する。ジェンダー的視点で読み解かれるゴシック小説論というのは新鮮な試みではないだろうか。

エドマンド・バークによって代表されるピクチャレスク美学は上流階層の男性によって作られたものである。当時、女性は「見られる側」の位置にあり、書く主体たり得なかった。その女性が風景を語るためには男性的言説に頼らざるを得ない。カントに始まる美学上の約束では風景を前にしたとき、対象に対して距離を置き「無関心な主体」と化すことが要請される。ところが、彼女たちは、過酷な労働に従事している女性や子どもといった同じ「見られる側」の声を代弁するという行為をあえて冒すことにより、それまでの美学的言説に亀裂を生じさせることになった。

御存じのようにシェリーの小説の中の怪物は、フランケンシュタインによって創り出されながら、彼の一家から追われることになる。自らが創り出した〈生きもの〉を排除することで彼ら西洋文化の幸福な小宇宙は平穏を保つことができる。いわば「彼らの生き方の快適さや美は、自分たちの文明がそのアウトサイダーに対しておこなう暴力によって養われている」のだ。ここまでくれば〈生きもの〉が、女性や植民地の人々のように「オリエンタリズムからピクチャレス美学にいたるまで屈辱的な表象の慣習によって主体性や声を否定されてきたタイプの人々を独立した主体性や声を持ったものとして表象」したものであったことがはっきりする。

初期の女性旅行家たちは、風景中の人物にも感情があることを明らかにした。シェリーはそれを拡充し、グロテスクな存在に感情や品位を与えることで、美学とは「社会の一定のメンバーを〈文明人とする〉ために、残りのメンバーの価値を低める必要があるような社会的分断をする言説だということを暴露」しようとしたのだ、というのが筆者の分析である。実に美とは暴力であった。

旅に出ると、誰でも旅行記のようなものを書いてみたい誘惑に駆られる。そして、書こうと思えば誰にでもそれなりのものが書けるのは、これまで美学的言説が培ってきた文化的蓄積が我々の社会には澱のようにたまっているからだ。しかし、何を美しいと見るかということについてはこのような論も成立する。迂闊に旅行記など書くものではないな、という畏れを覚えたことであった。

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