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 2004/8/24 『その名にちなんで』 ジュンパ・ラヒリ 新潮社

父親の人生にとって忘れることのできない重大事に因んで名づけられた「ゴーゴリ」という名を息子は嫌った。やがて成人した息子は、名門大学進学を契機に改名してしまう。住むところも名前も変えることで新しい人格を得た彼は、今まで臆病だった恋愛にも積極的になる。何人かの女性との出会いと別れがあり、やがて結婚。そして、父や母との別れが。ベンガル系アメリカ人家族の目を通して描かれるせつないまでの人生の機微。『停電の夜に』で、全世界の読者をうならせた短編の名手、ジュンパ・ラヒリが満を持しておくる長編第一作。

惹句めいて書けばこんなところになるだろうか。実際、これは読んでもらうしかない。小説を読む愉しさというのは、大仰なストーリー展開の中にあるわけではないからだ。小説の中では特にこれといった事件は起きない。登場人物も際立った個性を付与されてもいない。しいていえば、主人公の名前が著名な文学者から採られていることくらいである。

しかし、題名からも分かる通り、人の名前が果たす役割は大きい。名前には、事務的な役割の外に先祖から続く一家の物語や父母の願いが封じ込められている。人は名前を通じて、国家や民族とも繋がる。名前とはアイデンティティを確立するための重要な要件なのだ。それだけに、ベンガル人と何の関係もないロシア文学由来の、それも名ではない姓のほうを背負わされた主人公が、それを苦にする理由はよく分かる。彼は名前を忌避するが、知らぬ間に名前を付けた両親の在米ベンガル人的な人生を、ひいては自分と父母との紐帯をも忌避していたのである。

彼は名前を捨てたとたん、どこにもある通俗的な、女好きのする青年に変化してゆく。いやそれだけでない。WASPではなく、アフリカ系アメリカ人でもヒスパニックでもない、セムハム語族系特有の整った容貌を持った名門大学出身の将来有望な若者として生まれ変わる。以前の名前とともに自分の出自を捨て、それまでに無意識に選びとってきたアメリカ生まれの二世の青年といういわば上澄みだけの人格でできあがった架空の人間として。

ヒッピー文化を経験したリベラルな文化人を両親に持つマクシーンとの恋愛を通じて、彼は自分のアイデンティティをすっかり喪失しかける。ゴーゴリ改めニキルとなった彼の目を通して描かれるアメリカ人一家の姿は、優雅で知的、しかもアメリカ人らしい開放性に満ちて輝いている。それは、自分にないもののすべてであり、それだけに憧憬の的となって彼の目に映る。

結局、偶然の事件が彼を自分の家族のもとに連れ戻す。放蕩息子の帰還のように、彼は母親のすすめる縁談を受け入れ、やがて自らもその美しい娘モウシュミを愛するようになるのだが、幼なじみのモウシュミの目に映るニキルはもとのベンガル系二世のゴーゴリでしかない。皮肉にも彼は自らも夢みた根なし草的生活の誘惑に裏切られることになる。

名前は自分ではつけられない。それだけに名前と自分とのギャップに悩み、人の名と比べて自分の名を気にした経験を持つ人は多いのではないだろうか。もともと自分とは自分で考えているほど自分ではない。案外名前の方が本来の自分に近しい存在なのかもしれない。自分とは何か、自分と親とのつながりは切ろうと思えば切れるものなのか、という根元的とも言える問いを、小説という形で送り届けてくれた作者に感謝したい。

冬のニューヨークの寒さ、ニューハンプシャーの夏の宵の心地よさ。食物、衣服、音楽など、日々の暮らしをともにする小さな事物に寄せる細やかな視線が、精妙なニュアンスを湛え70年代アメリカの姿を小説の背景として浮かび上がらせる。読む愉しさを堪能させてくれる小説の名手、ジュンパ・ラヒリは健在である。

 2004/8/9 『パターン・レコグニション』 ウィリアム・ギブスン 角川書店

ケイス・ポラードは、フリーランスのクールハンター。持って生まれた超能力、「売り込み市場の記号論に対する、病的で、ときには激烈な反作用」をももたらすアレルギー反応を使って、マーケティング世界で売れそうな商品を探し出すのが仕事だ。ロゴデザインの可否も一瞬にして体内レーダーで感知する、歩くご託宣。グローバルマーケット界のデルフォイの巫女だ。

しかし、鋭敏な感覚には、過剰なロゴの氾濫は拷問にも似た反応を引き起こす。ケイスの衣服CPU(ケイス・ポラード・ユニットの頭文字)からは、ジーンズのタグはもちろん、リベットに至るまで、一切のロゴは取り除かれている。色は、黒かグレイ、特別な印象を抱かせないものに限られている。それに、バズ・リクソン製のMA-1フライトジャケットというのが、定番のスタイル。

毎日のエクササイズとF・F・F(フェティッシュ・フッテージ・フォーラム)の掲示板で仲間と話すのが唯一の気晴らし。フッテージとは、ネットにランダムに流される断片的な映像だが、その質の高さと謎めいた提示の仕方からカルト的な人気を集めている。仕事でロンドン滞在中のケイスは、クライアントの実業家ビゲンドから、そのフッテージの作者を探せという依頼を受ける。ヒッチコックの言うマクガフィンだ。

半強制的に作者探しを引き受けさせられたケイスは、F・F・Fの仲間パーカ・ボーイのくれた情報を信じて東京へ飛ぶ。断片の一つに透かし状の記号が見つかったというのだ。コンピュータに詳しい中国系アメリカ人、旧型コンピュータの蒐集家、産業スパイ、ロシアの黒幕と、お膳立ては揃った。ロンドンを主な舞台に、東京、ロシアを駆けめぐる暗号解読ゲームが始まる。

あとがきによれば、作者は、この小説を書く前に三つの決まりを作ったという。1、近未来というこれまでの背景を現在に変える。2、多視点描写を止め、一人の視点から語る。3、主人公に関する物語では場面の省略をしない。その結果、どういう効果が現れたか。追跡者と妨害、思わぬ手助け、最後の謎が解け、絡まり合った結び目がほどかれた結果現れた意外な事実、その後の緩叙楽章と、そこに現れるのは、古典的とも言える謎解きサスペンスである。スピード感のある記述はハードボイルド小説を思い出させる。

頻出するファッション・ブランドその他の固有名詞は、主人公の仕事やキャラクター設定からくるのだろうが、マニアックさはただごとではない。ハローキティはまだしも、たれぱんだ、こげぱんまで出てくるのだ。ミッキーマウスやミシュランマンには過激なアレルギーを見せるケイスが、これらゆるめのキャラクターには平気なのが愛嬌である。登場する自動車やコンピュータ(ギブスンはマック派らしい)等、一つ一つのアイテムの選定は、かなり吟味されている。こだわり派にはそれだけでうれしい。ボンド映画、その他からの引用も楽しい。

ケイスは、常に飛行機で飛び回っているため、慢性のジェットラグに冒されている。実務家のビゲンドは、前頭葉の収縮が原因だというが、ケイスは魂が体より遅れることからくるのだと語る。作品の背景に9.11の出来事が採り上げられている。執筆途中に事件が起きたことで、作家は大幅な書き直しを余儀なくされたという。SF作家は、未来社会を描くことで現在を批評している。ところが、事実が想像に先行してしまったのだ。作品の完成は、予定より大幅に遅れた。魂が追いつくのを待っていたのだろう。

ケイスは、ヘルムート・ニュートンが撮影したジェーン・バーキンと比べられたことがあるそうだ。作家のイメージがどの辺にあるのか分かるが、小説から伝わってくる像は少しちがう。腕力もあり、護身術も使える。リーヴァイスのブラックジーンズに、MA-1を羽織ったアンチ・ジェンダー・ヒーローの登場である。ヒロインではなく、ここはやはりヒーローと呼ぶべきだろう。特にサイバー・パンクを知らない人にお勧めしたい。後味の好いエンタテインメントに仕上がっている。

 2004/8/5 『フリアとシナリオライター』 マリオ・バルガス=リョサ 国書刊行会

マリオは18才。リマの大学法学部に籍を置く三年生だ。親族一同の期待の星だが、本人の夢はパリの屋根裏部屋に住んで小説を書くこと。ラジオ・パナメリカーナで報道部長のアルバイトをしながら暇を盗んでは短編の構想を練る毎日。そんなある日、離婚した叔母のフリアがボリビアから帰国する。子ども扱いが不満のマリオだったが、ダンス以来、すっかりその気に。両親や親戚の反対も火に油を注ぐ始末。遂には友人のハビエルや従妹のナンシーを巻き込んでの駆け落ち騒動。

未成年の甥と叔母との結婚、しかも相手は離婚したばかり。カトリックの国でなくとも充分にスキャンダラスだ。純情青年マリオの恋は成就するのか、果たしてその結末や如何、というのが、本編の主筋。それに、レミントンのタイプライターから、二本の指で一日何本もの連続ラジオドラマのシナリオを叩き出す天才シナリオライター、ペドロ・カマーチョが巻き起こす騒動がからむ。時は1950年代。テレビは未だ登場せず、大衆の娯楽はラジオが一身に引き受けていた。

作家志望の青年と、通俗的とはいえ国民的人気を誇るラジオドラマの脚本家。二人が、作り出す物語世界の差に注目したい。「クールにして知的、凝縮され、皮肉たっぷりの、つまりその頃はじめて知ったボルヘスの短編のよう」な小説を書こうとするマリオに対し、「私が好むのは、イエスかノー、男らしい男と女らしい女、昼か夜。わが作品には、必ず、貴族か賤民、売春婦か聖母が登場する。中流からは霊感が得られない」というペドロ・カマーチョが書くものは、ひと言で言えば、メロドラマだ。修業時代の作家の葛藤が二人の姿に投影されていると見ていいだろう。

この本、半端じゃなく面白いのだが、仕掛けがある。20章に及ぶ小説の奇数章は、マリオとフリアとシナリオライターが活躍するリアリズム小説。最終章を除く偶数の章に描かれるのが、奇想天外な物語。鼠に幼い妹を喰い殺されて以来、鼠殺しに生涯を賭ける会社社長、奇形に生まれながらも才能に恵まれた音楽家が幼なじみの修道女に寄せる純愛、少女をはねて以来、車に乗れなくなったセールスマンが、セラピーを受けて立ち直るものの、子どもを憎悪するようになってしまう話等々。

偶数章の物語は、リマの富裕層が暮らす地区や貧民街を舞台に、聖と俗、美と醜、愛と死など、極端な振幅を持った二項対立の世界を持ち、どれもこれも、読者の好奇心をぐいぐい引っ張ってゆく力業の作劇術が特徴的だ。ところが、一つの章が終わると、次は、また別の物語が現れてくる。続きが読みたいと思わせておいて、その期待を宙づりにするあざとい構成は、どうやら、ペドロ・カマーチョが描いているラジオ劇場の世界らしい。

サッカー場での大虐殺やら、大地震やら物語が終盤に近づくと偶数章はパニックやホロコーストが続出するカタストロフ的色彩が濃厚となる。マリオが駆け落ちでリマを離れている間に、登場人物の名前が入れ替わったり、死者が生き返ったり、ペドロのラジオ劇場はひどい混乱に陥っていた。もともと変わったところのあった脚本家だが、仕事のし過ぎで精神に変調がきたしたらしい。

重厚な歴史長編作家として知られるマリオ・バルガス=リョサだが、劇的な構成で大衆を引きつけるメロドラマの世界は、作家にとって一度は描いてみたい世界でもあった。実生活でも叔母との結婚経験を持つリョサは、自身をパロディ化した自叙伝的な作品に、物語的興味を満載した複数のメロドラマをコラージュし、一風変わった味付けのポスト・モダニズム小説をでっち上げた。

青春時代への郷愁と哀惜に満ちたリマの変貌が描かれる最終章を得て、読者の抱いた劇的緊張はゆっくり解きほぐされ、静謐なカタルシスへと誘われる。回想を綴り終わった今、作家は念願のパリに暮らし、バカンスと取材を兼ね、年に一度ペルーに帰る。懐かしい友は、でっぷり肥った実業家となり、リマの街角はすっかり変わってしまっている。憧れのまなざしで見つめたペドロ・カマーチョのその後を語る末尾には、青春小説らしい静かな余韻が漂う。功成り名遂げた作家のシュトルム・ウント・ドランク(疾風怒濤)の時代を描いて秀逸。お勧めの一作である。

 2004/8/3 『影の外に出る』片岡義男 NHK出版

『スローなブギにしてくれ』で、僕らの前に片岡義男が登場したときのあざやかさを忘れない。真似ようたって、真似のできないアメリカナイズされた感覚がそこにあった。その後の活躍は、いうまでもない。写真を多用した独特の本づくりのセンスも、シャープな切れ味を見せて、片岡義男というブランドは、かっちりとできあがっていたように思う。印象はといえば、クール、そのひとことにつきるだろう。

『日本語の外へ』からだったろうか、おや、少しちがうぞ、という印象を持ちはじめたのは、分厚いその本は、長編評論集と銘打たれ、第一部はアメリカ、第二部は、日本語について論じられている。湾岸戦争を契機に見続けてきたアメリカという国について書かれた第一部も、そうだが、母国語で考えるということについて、ここまで怜悧に考察した日本語論は初めてだった。片岡義男は、正真正銘のクールだった。

日本について、日本とアメリカの関係について、片岡はその後もウォッチングを続けていた。2003年10月20日から、2004年4月7日まで断続的に書かれた、これはその観察記録である。日本の政府を代表する首長がイラク戦争に向けて、どういう発言をし、どういう態度をとり続けてきたか。その間の日本経済の動向をからめながら、対イラク戦に向けての日本の動きを新聞二紙の情報をもとに分析したものだ。

他のイラク戦争関連の書物と本書を分けるのは、始めに結論ありきでないという点である。無論、結論はある。しかし、あくまでそれは考察の結果現れたもので、客観的な分析結果のように、ある。さらには、日本の多くの評論家と称する人たちが書くものにある、他の権威に乗っかった物言いがまったく見られないということだ。結果的にそれは、分析を明晰なものにするが、人によっては、単純すぎる、あるいは割り切りすぎるという感じを受けるかもしれない。

イラクに自衛隊を派遣するかどうか、その規模、その時期について、アメリカの期待を感じながら、どう対処するかという課題に対して、日本政府が示した不明瞭で、定見のないそれでいて結論だけは決まっている、何とも無様な対応ぶりがどうして起きたのか。結論から言えば、そこに「国家がない」からだ、というのが片岡の認識である。

国家がないというのは、どういうことか。太平洋戦争でアメリカに敗れて以来、軍備については対米依存で満足に考えようとしてこなかった。それでは、戦前の国家観に代わる新しい国家というものを真剣に考え、創造してきたかといえば、してこなかった。日本人が国家に代わるものとして作り上げ、押しいただいたのは「会社」だった。

国家がないから、憲法前文を引いて、全く誤った結論を導き出す首長というものが現れる。国家がないから、政府が、国を誤った方向に引っ張っていかないためにその縛りとして存在する憲法に、国民の義務を謳うべきだという意見に疑問を抱かない国民というものが半数近くも存在する。一国の転換点とも言える時期に、政府首脳が公式に発表した「言葉」から、考察した挙げ句が「国家がない」という結論だった。

あなたはこの結論にあきれるだろうか。それとも、何をばかな、日本という国家はたしかにあるじゃないか、というだろうか。小泉首相の発言を聞くたびに空疎な感情が胸に湧くようになって久しい。それまでなら、考えられなかったような粗雑な失態が、政治家だけでなく、官僚や企業にまで次から次に出来し、この連鎖は止められないのではないかという不安が頭の中から去らない。何かがおかしい、と感じているが、その何かが分からなかった。「国家がない」というのは、その一つの解答にならないだろうか。

あとがきに片岡はこう書く。「現状はすでに充分すぎるほどに惨憺たるものであり、これからさらにひどくなっていくはずだ。しかしそのことに悲観はしても、不安を持ってはいけないようだ。現状に不安を覚え、前方に対しておびえると、何か確かなものを求める気持ちが強くなるのではないか。確かなものを過去の中に求めると、過去から学ぶのではなく、そこへただ戻るだけとなる。そして、そこにあるのは、けっして確かなものではなく、確かだったはずのものでしかない。」そのとおりだと思う。

 2004/8/1 『百年佳約』 村田喜代子 講談社

「冬のソナタ」が日本では、異様な盛り上がりを見せているが、当の韓国では、なぜ日本でそれほど、あのドラマが受けるのか、理解できないというのが、本当のところらしい。主役の男優にしても、韓国では、人気ランキングの五位にも入らない。もっといい男優がいるのに、というのが韓国の関係者の反応だという。

近くて遠い国、というのか、海峡をまたいですぐそこに位置するのに、日韓両国には、ドラマや俳優だけでなく、風俗習慣から、ものの考え方、食べ物の好みに至るまで、似ているところより、ちがうことの方が多いようだ。「韓流」という言葉が流行るほど、今、日本は韓国ブームである。違いはあっても、互いを受け入れられるようになれば本物である。ただ、そのためには互いの国のことをもっと知った方がいい。

舞台は九州肥前の窯元。文禄の役で故国を離れ、日本に連れてこられた渡来人達も、一世の多くは死に、二世、三世の時代に入っている。「百婆」と呼ばれた朴貞玉も、今は墓の中。ところが、朝鮮では、死者は神になる。日本と違い華やかな死装束を着た百婆は饅頭墓の上から息子十蔵の来るのを待っている。親が死ぬと三年間は喪に服し、最初の百日間は粥しか口にすることを許されないのが、朝鮮の習慣。粥腹で、毎日墓参りをしなければならないのである。儒教道徳の強いところは、今と変わらない。

百婆は怒っている。十蔵は、母親が死んだのをいいことに娘を日本人の嫁にやろうとしているからだ。十蔵にも言い分がある。同族婚を禁忌とする風習の中では、やがて渡来人の家系は先細りになる。新しい血を入れて、もっとこの国に根を張るのだ、と。あわよくばそれをきっかけに龍窯のますますの発展をと願う十蔵の思いとは裏腹に、妻や子は、また別の思いがある。いつの世も、子は親の思うようにはならない。結婚は、親が決めるという故国のしきたりに、日本で生まれた子は素直に従えない。

朝鮮では、独身のまま死んだ男や女は、悪鬼になると信じられていた。顔に天然痘の痕が残る娘は年頃になってももらい手がない。悪鬼になるよりは死者との結婚をと勧められ、娘は悩む。結婚を前に死んだ男女は、死んでも死にきれない。死者となっても結婚をしたいと切に願う。一族の幸せを願って百婆の活躍が始まる。木と婚姻の契りを結ぶ木婚や死者との冥婚等、耳慣れない奇妙な風習が、次から次へと出てくる。

しかし、それだけなら、他国の迷妄を笑う話になるだけだ。話者を渡来人にしたことで、彼らから見た日本人の奇妙さもまた、あぶり出される。夜這いをはじめとする性に対する節度のなさ、裸体を平気でさらし、素足でべたべたと歩くこと、粗食で、食べる楽しみを知らぬことなど、数え上げればきりがない。異なる習慣を持った二つの民族が、一つところで生活をしてゆく中で、摩擦を繰り返しながらも互いに融和していく過程が、「百年佳約」(結婚)を中心に食事や遊び等、彩りもあざやかに描き出される。

村田喜代子を知ったのは、『人が見たら蛙になれ』という古物商を扱った新聞小説だった。実はそれまで、新聞連載小説を最後までまともに読んだことがない。加賀乙彦の『湿原』、中上健次の『軽蔑』以来の快挙だった。『百年佳約』も新聞連載小説である。同性婚という奇習を描いた『雲南の妻』もそうだったが、人物描写の巧みさと、見知らぬ世界を覗き見たいという読者の欲望を手玉にとる老練さは、今回も健在である。小説を読む愉しさを味わいたい人にお勧めしたい。
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