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From Russia with lag

国立歴史博物館

 Красная площадь

道は緩やかな上り坂になっていた。坂の上には、ロシアを紹介するとき必ず登場するあの赤い葱坊主があった。その左手にはやはり赤い塔門が建っている。その間を濡れた敷石で足を滑らさないように下を向いて歩く。坂道を上り終えたところに広がる、何もないだだっ広い空間が、「赤の広場」だった。旧ソ連時代、巨大なマルクス、レーニンの肖像画を掲げた前を戦車や兵隊がどこまでも続く隊列を組んで、行進していたのが、ここだ。相継ぐテロのせいか、今では、広場は立ち入り禁止となり、鉄柵で囲われていた。

 赤の広場

赤の広場雨に濡れた敷石の上には人っ子ひとりいない。それどころか広場につき物の鳩さえいない。人のいない広場がこんなにつまらないものだとは思わなかった。15世紀頃には、露天商人が集まり、賑わいを見せていたという。雑然とした広場を整理したのは17世紀頃。それまで、ごちゃごちゃしていた広場の視界が開け、すっきりしたところから誰云うとなく「美しい広場(クラースナヤ・プローシャチ)」と呼ばれるようになった。

Красная(クラースナヤ)とは、ロシアの古語で「美しい」を指す形容詞だったが、時の変化に連れ、クラースナヤという語が「赤い」という意味を指すように変化してしまった。それで、今ではこの広場を「赤の広場」と訳すようになったのだという。社会主義政権国家に共通した旗の色からの連想でも、赤い建物に囲まれているからという理由でもなかったのだ。

葱坊主の塔を生やした聖ワシリー聖堂の横を通って広場に立つと、右手に伸びる長い建物がグム百貨店。左手がクレムリンの壁。レーニン廟はその前にあって広場の中に入り込んでいる。正面にあるお伽噺に出てくるお城のような赤い建物は国立歴史博物館。広場の面積と周りを取り囲む建築の高さに釣り合いがとれてなくて、これが広場だといわれても、そうなのか、と思うしかない。デモ行進や軍事パレードに使うには、ちょうどいい広さなのかも知れないが、居心地のいい空間とはとても言えない。お寺の本堂に泊めてもらったりすると、他には誰もいないのに端っこの方に布団を敷き直してやっと落ち着くことがある。あれと同じだ。身を隠す物の何もない広い空間というのは、生き物にとって本能的に不安な感覚を呼び覚ます。こういう場所に共感を感じる人というのは、権力者的思考を持っているのではないだろうか。柵の中に入れないのでは、広場を歩くこともできない。

 聖ワシリー聖堂

聖ワシリー聖堂ガイドブックの助けがなくても唯一見知っていたのが、聖ワシリー聖堂だった。建築を命じたのはイワン雷帝。「地震、雷、火事、親父」と、さすがに地震国では二番目になっているが、怖い物の代表である雷に比されるほど恐れられていた皇帝だ。1561年になって見事完成するのだが、そのあまりの美しさに驚いた皇帝は二度と再びこんな美しい物が作れぬよう、二人の建築家の目を刳りぬいてしまったという逸話が残っている。

厚い雲が光を遮っていて、午前中だというのに黄昏時のような仄暗さ。それに雨の紗幕が掛かるので、せっかくの奇観も今ひとつ心に迫ってこない。感動が薄いのにはもう一つ理由がある。写真でよく紹介されているのは、赤の広場の反対側、歴史博物館の方から、この聖堂を遠望したアングルである。クレムリンのスパスカヤ塔が垂直線を強調するので、林立する葱坊主頭のフォルムが引き立つのだ。間近に見ると、一つ一つの意匠はたしかによく分かるのだが、あまりに近すぎて、神秘性が薄れる。構図のちがいが再認を妨げる。なまじ覚えがあるためにかえって、こんなだったかなあという気持ちになるのだ。

聖堂のすぐ下は広場がそのまま続いているような広い空間になっている。クレムリンの壁やワシリー聖堂といっしょに写真が撮れるポイントでもある。そこに二、三組の正装をした集団が集まっている。それぞれの輪の真ん中に花嫁衣装が見える。モスクワの教会で挙式をした二人は、必ず三つの場所を訪れなければならない。まず、無名戦士の墓を訪れ、花束を捧げ、次にヴァラビョーヴィ丘で記念撮影を済ませたら、最後はここクレムリン前だ。

せっかくの花嫁衣装が雨に濡れるのがかわいそうだと思ったが、当人たちは幸せの絶頂にいるのか、意外にあっけらかんとして友人たちと談笑している。あまり笑うところを見かけないロシアの人たちだが、結婚式はやはり別。後発の集団が車で乗り込んできて、パトカーの警官に注意されている。パトカーの鳴らすクラクションの音と、野次馬の囃す音とが広場らしい喧噪をひととき巻き起こす。広場はやはり、こうでなくてはと独りごちた。

 壺焼き

レストランギリシア風のペディメントと円柱で飾られたファサードを見せる立派な邸宅が、レストランだった。外観に威圧感を覚えたが、鉄製の門扉を開けて中に入ると、内部は新しく改装されていて照明も明るく、ちゃんと暖房も効いていた。この日のモスクワの気温は15度くらいか、上着なしでは過ごせない寒さだった。

この日の献立は、壺焼き。カップ状の容器の上をパイ生地で包んで焼いた物で、「森のきのこ」などとかわいい名前をつけられて、日本でもお馴染みのあの料理だ。上のパイ生地をフォークで突き破って、そのまま中のシチュウに入れて食べる。出てきたとき、料理の中身が見えないこととその食べ方が、サプライズ効果を高めるのか人気料理の一つ。

いつもなら、飲み物はワインなのだが、雨にうたれて歩き回ったせいで、すっかりからだが冷えていた。となれば、ここはウオッカを試してみることにしよう。妻は麦酒にするというので、自分だけウオッカを注文した。壺焼きが運ばれてきた。パイ生地で包まれた姿は同じだったが、中身は少しちがった。日本では、きのこ入りクリームシチュウといった感じで供されることが多いが、ここのはビーフシチュウ。それも所謂シチュウ状をしていない。角切り肉と馬鈴薯が壺の中にごろごろしている。パイ生地がしっとりせず、いつまでもぱさぱさという点を除けば、味は申し分ない。ウオッカもせいぜい40度程度で、喉を焼く感じもなく飲みやすい。小さな硝子コップで出されるウオッカは一気に飲み干すのが流儀らしいが、無理をせず何回かに分けて飲んだ。腹の底の方が少しずつ温まってくるのがよく分かった。やはり、ロシアの風土には欠かせない飲み物である。


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